第21話 私たちのエチュード

「アリス、そろそろ練習させて?」

「すぅーーー、はぁーーー」

「えと……アリス?」


 ゆさゆさと、アリスの体を揺らしても背中の手は動く様子が見られない。


 それどころか、私の胸元に顔を埋めて深呼吸をし始めた。これも、前に言ってた和奏ニウム? とかいう謎の栄養を補給しているんだろうか……?


「すぅーーー――」

「あ、アリス! は、恥ずかしいって」

「はぁーーー……心配しなくても、和奏ちゃんの良い香りがしますから、大丈夫ですよ。すぅぅ」


 いちいち言及されると恥ずかしい。もの凄く恥ずかしい。

 例えアリスが相手であろうと、これは恥ずかしすぎる。


「ちょっと……止めてくれないと、こちょこちょするよ?」

「すぅぅ――はぁ……致し方ありませんね」


 名残惜しそうにしながら、アリスが私と距離を取る。


「致し方なくないっ」

「あうっ」


 ふざけたことを言っていたので、アリスのおでこにデコピンをプレゼントしてやった。両手でおでこを押さえて、恨めしそうな顔で私を見てくるアリス。


「ひ、酷いですぅ」

「酷くない! 全くもう……お風呂にも入ってないんだし、匂いを嗅がれるのは恥ずかしいって」


 それに、少し走った後だから汗もかいてるだろうし、まさか胸元で思いっきり深呼吸されるとは思っていなかった。


「じゃ、じゃあお風呂に入った後ならいいのですか?」

「いいわけないでしょー! ほら、防音室いくよ!」

「あ、待ってください和奏ちゃん~」


 玄関のわちゃわちゃで、だいぶ時間を浪費してしまった。


「太一さん、防音室使わせてもらいますねー!」

「はいはーい、お好きにどうぞー!」


 リビングに入ると、太一さんはキッチンで料理の準備をしていた。

 お魚の焼けるいい香りとお味噌の香りがふんわりと漂っている……今日の晩御飯は焼き鮭にお味噌汁だろうか。


 私の家といいアリスの家といい、食の誘惑が多すぎる。

 食欲を刺激する魅惑的な匂いから逃げるように、アリスを連れて防音室に飛び込む。


「さて、吹きますか」


 楽譜とケースをピアノの天板の上に置いて、いそいそと準備を始める。

 カバーのジッパーを開けて、ケースのスライドロックを開ける。


 中学校に進学した時に買ってもらった相棒が、姿を現した。

 シルバーメッキで、二十万円くらいするモデルのフルートだ。


「カビては……ないね」


 三つに分かれたフルートの真ん中の管を手に取って、タンポというフェルトと合成皮革で出来たパットが、カビでダメになってないかを確認する。


 続いて、頭部管を持って軽く息を通す。

 ヒョォォ、と独特な風鳴のような音がする。この状態で何度か息を吹き込んで、管を温めて行く。


「……っ!」


 次に息を吹き込む頭部管を、真ん中の胴部管へ慎重に差し込んでいく。

 なるべくキィを持たないように、やや回しながら差すのがコツ。差し込めたら、吹き口とキィが一直線になるように調整。


「ふぅ……あとは、足部管ね」


 久しぶりだからか、少し緊張する。

 頭部管と胴部管を繋げ終わったら、最後に足部管を差し込む。


 ここが一番緊張する。

 なんせ、胴部管も足部管もキィだらけだから、うっかり力を入れすぎると故障してしまう。


「はぁー……疲れた」


 何度か管の角度を微調整した後、私の手には本来の姿を取り戻した相棒の姿。

 部活を引退して以来、仕舞いっぱなしにしていた私に抗議するように、ひんやりとした冷たさが手に伝わってくる。


 久しぶりだけど、自然と口と左手の人差し指の付け根、右手親指で楽器をしっかりと支えることができた。子供の頃から吹いていたから、自然と体が覚えていたらしい。


「それじゃあアリス、音出すからね」

「はい、お構いなく」


 音の反響を少しでも抑えるために、壁からはなるべく距離を取る。

 まあ、防音室はグランドピアノが置けるくらい広いから、あんまり関係ないとは思うけどね。


 フー、フーと何度か吹き口に息を吹き込んでから、地面と平行やや下に傾けてフルートを構えた。

 アリスは喜びを抑えきれないといった表情で、ピアノ椅子に座って私の方を向いている。


「えぇっと、B♭の指は――」


 構えまでは何とかなったけど、運指はやはりぎこちない。

 キィを強く押し過ぎないように、左手の人差し指・中指・薬指で第一~第三キィをゆっくり押さえる。


 タンポがフルートの穴を塞いで、ぽんぽんと心地良い音が鳴る。

 右手は人差し指でB♭キィ、薬指でFキィを押さえるとB♭の運指が完成だ。


「スゥ――」


 さあ、音出しだ。久しぶりの腹式呼吸で、胸いっぱいに息を吸う。

 アリスのため、アリスのためだけに吹く私のフルートは、どんな音色を響かせてくれるのだろうか。


 私はワクワクしながら、軽く唇を湿らせて楽器に息を吹き込んだ。

 早く、鋭く、だけど喉を開いて「ホーーー」と暖かい息を出すことを意識する。


 まずはロングトーン。いつもチューニングに使用していたB♭の音を出す。

 少しの間があってから、ヒョーーーと甲高いフルートの音が防音室を満たす。


「わぁ……」


 アリスが両手を合わせて、嬉しそうに笑う。

 なんだか、昔に戻った気分だ。


 私が吹いてアリスが聴く。アリスが弾いて私が聴く。

 迎えに来た両親に止められるまで、昔の私たちはそんなことばかりやっていた。


 さて、思い出にひたるのはここまで。フォルテ、テンポは六十で八拍分、しっかりとロングトーンを続ける。


「ふぅぅ…」

「和奏ちゃん、どうでしたか?」


 余った息を吐きだしながら、ゆっくりとフルートを降ろす。

 アリスは、気恥ずかしささえ感じないくらい眩しい笑みで、問いかけてきた。


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