第20話 私のおかき……
「ふふ、お腹が痛いです……」
「もうっ。今からフルート取ってくるから、それまでにアリスも準備しててよ?」
「あ、はい!」
プルプルと体を震わせ続けるアリスにそう告げると、千代野家からやや駆け足で家に帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさ~い。和奏、コレ食べる?」
「えっ、それおかき……!?」
リビングの扉を開けると、お母さんがテレビを見ながらおかきを食べていた。
「いいでしょー? 職場でウメさんにもらったのよ~」
くっ、なんて誘惑だ……でも、おかき食べたいよぉ。
――いやいやいや、ダメだよ私!
「お母さん……それ、後で食べるから取っておいてくれない?」
「あら、好物のおかきに釣られないなんて珍しい。明日は雪でも降るのかしらねぇ」
お母さんが思わず、私の方を振り返って冗談めかして言う。
「今からアリスの家でフルート吹くから、食べたくても食べられないの!」
「そう……なら、ほんの少しだけ取っておいてあげるわね」
バキリ。
お母さんはフッと表情を緩めると、これ見よがしにおかきを頬張った。
「うぅぅ……私のおかきぃ……」
「ふっふっふ。この世は弱肉強食なのよ。あー、ウメさんのおかきは美味しいわね~」
楽器吹く前にお菓子を食べるなんて、言語道断。
断腸の思いで、おかきの誘惑を断ち切ることに成功した。
いつまでも未練がましく、お母さんに食べられていくおかきを眺めているわけにはいかない。
「いいもんねっ!! お母さんがおかき食べ過ぎたこと、お父さんに言っちゃうから!」
「ちょ、和奏――」
そんな捨て
「久しぶりだね……私の相棒」
ケースに付いていたほこりを払い、ケースカバーにケースを仕舞ってファスナーを閉める。そのまま肩に掛ければ、本棚に入れっぱなしだった楽譜ファイルを掴んで、階段を下りる。
「今からアリスの家に行ってくるから――あ、それと私、吹部に入ることにしたから」
「ふぁーい、ふぃっふぇらっふぁーい」
「ちょっと! おかき食べながら返事しないでよ!!」
お母さんは、こちらを見ながら手をヒラヒラと振っている。
顔はこちらを向いているけど、目はおかきの入ったビニール袋に釘付けだ……思うに、私のおかき好きはお母さんからの遺伝ではないだろうか。
「はぁ……それじゃ、行ってきまーす」
ほんの少しだけ、何とも言えない気持ちになりながらも、私は再び千代野家へと急いだ。
玄関から出ると、五時前にも関わらず辺りはかなり暗くなっていた。
電柱の蛍光灯がチカッ、チカチカッと瞬きだした田舎道を行く。
「お邪魔しまーす!」
「おぉっ、和奏ちゃん。久しぶりだね」
「うぇっ!? 太一さん!? お、お久しぶりです……」
玄関を開けると、ちょうど靴を脱ぎかけの男の人がいた。
黒縁のメガネにさっぱりとした短髪、スラックスにワイシャツが似合うこの男性は、アリスのお父さんだ。
「ははは、少し驚かせてしまったみたいだね。ささ、上がって」
「あ、はい!」
太一さんは、私の手元にチラリと視線を向けると、少し驚いたように目を見開いていた。
「おかえりなさい、お父さん」
「うん、ただいまアリス」
玄関での物音が聞こえたのか、部屋着に着替えたアリスが手すりを伝って、こちらへやってきた。
「和奏ちゃんも、おかえりなさい」
「え、私も言うの?」
こういうシチュエーションは、ちょっと気恥ずかしい。
理由は……言いたくない。
「もちろんですっ。ね、お父さん?」
「ああ、千代野家も和奏ちゃんの家みたいなものだろう」
「ほらほら和奏ちゃん。お父さんもこう言ってるんですし、早く早く!」
アリスが私を急かしてくる。おまけに両手まで広げて、無言のリクエストまで飛んできた。
「おや、いいんですか和奏ちゃん?」
「……え?」
太一さんはネクタイを外しながら、ニヤニヤと面白い物を見るような目で私たちのことを見てくる。
「バスでの話、お父さんにしちゃいますよ?」
おかしい。
私はフルートを吹きにきたはずなのに、どうして玄関でアリスに脅されているのだろうか。
「や、やや……それは、ちょっと卑怯なんじゃないかなァ~!?」
大っっっ変、非常~~~に、恥ずかしいのでぜひとも止めていただきたい。
「いいえ! 和奏ちゃんにただいまと言ってもらって、抱きしめてもらうためなら、私は何でもします!」
「え、えぇ~……」
アリスの返答は非情であった。
満面の笑みを浮かべながら、アリスはじりじりと近付いてくる。
お宅の娘さんが、目の前で親友を脅迫していますよ!?
思わず助けを求めて太一さんを見るも、リビングからいい笑顔でグッとサムズアップするだけ。
こりゃ、ダメだ。
忘れていた。太一さんはアリスにとんでもなく甘いということを……。
「さあ、和奏ちゃん! んっ!」
こうなれば、さっさとアリスの要求に応えてしまう方がいい。
おずおずとアリスを抱きしめる。
「えーっと……ただいま?」
「はい、おかえりなさいっ。和奏ちゃんっ」
アリスは満足そうに、私の制服にすりすりと頭を擦り付けてくる。
なんだか、近所にいるネコみたいだ……なんて思ってしまった私は、悪くないだろう。
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