兄妹の過去
「これからの携帯電話は、通話やメール、ウェブサービスだけでなく、思い出を記録し、共有するツールとしても活用されていきます」
「思い出? 共有? 具体的には?」
「カメラですよ。年末にはV社がカメラ付き携帯をリリースすると業界で噂されています。携帯で撮った写真をメールで共有する。近い将来このスタイルが必ずトレンドになります。我が社はこの流れに一歩遅れをとりました。巻き返すためにも、小型カメラの開発にリソースを割くべきです」
「携帯にカメラ? そんな小さなセンサーでまともな写真が撮れるのか?」
「だからこそ開発が必要なんです。高画素・高画質、かつ携帯サイズのカメラを実現できれば、我が社の主力商品になりますよ。すでに大手カメラメーカーのC社に共同開発を打診しており、感触は良好です。部長のGOが出れば、すぐにでも体制を整えられます」
「だが、俺はこれからコンデジの時代が来ると思っている。コンパクトデジタルカメラなら設計の自由度も高く、ウチの強みである大画面ディスプレイを活かせる」
「確かにコンデジの画質は優れています。しかし、市場規模では携帯が圧倒的です。携帯カメラの技術が向上すれば、コンデジ市場は縮小していくでしょう」
「うーん、携帯カメラか……」
戦略営業部が発足して間もなく、部長の
「課長、なんとか部長のGOを引き出しましたね。さすがです。」
会議後、喫煙室で一服する史雄のもとへ、部下の亀井がやって来た。亀井は第一営業部時代からの後輩で二十六歳。人懐っこく、責任感が強い。新規契約の獲得数では第一営業部でも群を抜いていた。
「大変なのはこれからだ。結局コンデジの営業も進めることになった」
「携帯カメラの品質を向上させて、いずれコンデジを追い抜くのが課長の戦略なのに、矛盾してますよね」
「コンデジの未来は厳しい。C社が共同開発に乗ってきたのもそれを痛感しているからだ。しかし、部長は意志が固い」
「でも、部のメンバーは皆、課長を支持していますよ。部長には負けません!」
「おいおい、亀井。そんなことを口にするな。我々は一つのチームで部長はリーダーだ。まぁ、ウマが合わなくてもうまく付き合っていかないとな」
史雄は光彦の意向を尊重しながらも、部下の士気を下げないように気を配っている。課長に昇進したことで、彼は初めて中間管理職の苦悩を実感していた。
*
「ねぇ、仕事の方はどう? 戦略営業部課長さん」
リビングのソファでスポーツニュースを見ていた史雄に、皐月が寄りかかりながら尋ねる。史雄はこの春、広めのマンションへ引っ越し、皐月との同棲を始めていた。本音を言えばもう少し独り暮らしを続けたかったが、皐月に押し切られた。
「仕事? 別に普通だけど。皐月がそんなこと聞くなんて珍しいな」
「兄さんが仕事の邪魔をしていないか心配で……」
「邪魔? なんでそんなことを思うんだ?」
史雄はテレビを消し、皐月を抱き寄せた。彼女の口から光彦の話が出るのは珍しい。兄妹といっても二人は十七歳も年が離れているため、共通の思い出も少なく、あまり親しくないのだろうと考えていた。だが、それ以上に皐月は光彦に強い反感を抱いているようだった。
「兄さんは昔から自分勝手で思いやりのない人だから、部下になったら大変じゃないかなって思って……」
「そんなこと言わない方がいい。実の兄弟だろ?」
「兄って言っても、血の繋がりは半分だけだもの……」
光彦が高校に入った頃、父親が秘書との間に子をもうけた。その結果、本妻である光彦の母とは離婚。彼女は光彦を残して家を去った。その後、愛人だった女性が正式な妻となり、皐月が生まれた。光彦は母親を追い出されたことで憎しみを抱えるが、父親には到底逆らえない。だからそれが義母と皐月に向かってしまった。
「兄はお母さんを追い出した私の母を決して許さなかったの。ことあるごとに罵声を浴びせ、時には手を上げることも……」
皐月の声は震えていた。幼い頃から義兄に冷たくされ続けた辛い記憶が、今も彼女の中に残っている。最近になって光彦の人柄を知るようになった史雄の脳裏にも、その様子がありありと浮かび上がった。冷酷で立場の弱い者を徹底的に痛めつける性格を重ねれば、皐月の母がどんな目に遭わされてきたのかは容易に想像できる。
「皐月は大丈夫だったのか?」
「私は赤ちゃんだったし、母が必死に守ってくれたわ。でも、物心ついたときから兄には冷たく当たられて、酷い目にも……」
史雄は震える皐月を優しく抱きしめた。
「辛いことを思い出させてごめん。これからは俺が皐月を守るから」
皐月は小さく頷き、史雄の胸に顔を埋めた。
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