昇進と火種
二〇〇〇年三月。今年三〇歳になる史雄は、営業のエースとして次々に大型契約をまとめ、来月から新設される戦略営業部の課長に就任する。課長としては異例の若さだが、史雄の実績を考えれば当然の人事だった。
「乾杯!」
駅前の小さな居酒屋で、史雄は同期の清水と祝杯を挙げる。カウンター席が六つと奥に小さな座敷がある、常連客で賑わうこぢんまりとした店だ。壁には手書きのメニューが並び、季節の肴やおすすめの日本酒が書かれている。カウンターの向こうでは店主が包丁を動かし、時折、女将の明るい声が響く。今日は運よく二席だけ空いていた。
「それにしても、二十九で課長とは同期の出世頭だな」
「運がよかっただけさ。今や液晶パネルは海外勢も参入してレッドオーシャンだからな。早く次の手を打ち出さないと」
「そのための戦略営業部だろ?
「助かるよ。実際に仕事を動かしてみないと分からない事だらけだけど、いざという時には頼む」
三年前、史雄が仕掛けた携帯電話向け大画面液晶ディスプレイの売り込みは、会社の業績を飛躍的に向上させた。今やディスプレイだけでなく、光学機器や各種デバイスなど、携帯電話の部品製造においては業界のトップランナーとして認知されるまでになっている。
二〇〇〇年当時、携帯電話の普及は急速に進み、大手通信会社三社が競うように新機種を発売していた。新モデルが出るたびに史雄の会社の部品は飛ぶように売れる。この実績が評価され、戦略営業部が発足。その初代課長に史雄が選ばれた。
「でも、戦略営業部の部長にジュニアが就任するとは意外だったな」
清水の一言に、史雄の表情が曇る。
「まあ、うまくやるさ。あの人だって会社の利益を優先するだろうし」
ジュニアこと
「でも、あの人について良い噂って聞かないよな」
「やっかみもあるんじゃないか? 確かにクセは強いけど、仕事には響かないだろ」
そうは言いつつも、史雄は光彦に対して大きな不安を抱いていた。
光彦は気分屋で、思いつきで部下を振り回す。失敗しても責任を取らず、知識やスキルが不足しているのに他人に助けを求めることができない。それなのに自分を有能だと信じて疑わず、部下を見下して信頼関係を築けない。さらに、優秀な人間の足を引っ張り、手柄の横取りも平気でする。甘やかされて育ったせいか他者に冷酷で、人の
社内では「こんな人物が社長になって大丈夫か?」と懸念する声も多いが、一方で「ウチの規模くらいの会社なら、社長一人ですべてを決められるわけじゃない。ジュニアの性格はむしろコントロールしやすい」という意見もある。実際、光彦は「お坊ちゃん」なだけに、強く迫られるとあっさり折れる。その弱さこそ、役員たちが彼を恐れない理由だった。
「まあ、お前にとっては将来の義兄になるかもしれない相手だから、悪口も言えないわな」
「関係ないよ。俺は会社のために全力を尽くすだけだ」
三年前、史雄はアクシデントがきっかけで社長の娘・
皐月は短大卒業後に入社し、今年で二十三歳。まだ結婚を意識するには早いが、史雄の昇進を機に、もっと関係を深めたいと考えているようだ。
二人の交際は社長も公認で、顔を見るたびに「結婚はまだか?」と訊かれるらしい。若手のホープである史雄が身内になれば、社長にとってこれほど心強いことはない。光彦の能力に不安があるだけに、その思いはなおさらだ。
役員が集まる懇談会では、「いや~、高瀬君が社長になったら、会社はますます発展するな!」という冗談交じりの軽口が飛び交うこともあった。その場に光彦はいなかったが、後日話を聞いて、一日中不機嫌だったという。
そんな因縁のある二人が、来月から直属の上司と部下になる。楽しいはずの酒の席だったが、光彦の話が出た途端、史雄の酔いは一気に覚めた。
「おっ、鳴ってるぞ。バイブ」
清水がスーツを指差す。手を伸ばすと、携帯電話が振動していた。
「噂をすれば……」
「皐月ちゃんか? 出るなら外に行けよ」
史雄は携帯を片手に店を出た。
「もしもし?」
『
「駅前の居酒屋で清水と飲んでる」
『そっか、だから部屋にいないんだね。私も誘ってくれればいいのに』
「狭くて汚い店だからさ。それにしても、部屋って……うちに来てるのか?」
『明日休みだから、ご飯作ろうと思って。昇進祝いにケーキも買ったよ』
「そっか。じゃあすぐ帰るよ」
『いいの? 飲み始めたばっかりでしょ』
「いいんだ。店のつまみより皐月の料理の方が美味いからな」
『清水さんはどうするの? お誘いする?』
「いや、アイツはこの店の常連だし、一人でも楽しめるから気にしなくていいよ」
電話を切り、史雄は店に戻った。
「お姫様のお呼び出しじゃ、王子様は帰るしかないな」
「よせよ。もう酔ってるのか?」
史雄は一万円札をカウンターに置くと、店を出てタクシーを拾った。
「ったく高瀬のやつ、もう尻に敷かれやがって……。あの二人、本当にうまく行くのかね?」
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