第10話 リスタート

 私が休んでいる間、人事の発表があった。私と同年代のものが先に出世していた。ある程度予想していても、非常にショックであった。世界が遠くに行ってしまう感覚―。

 自分を大事にしながら、心を守りながら、生きていくつもりだ。この身体と付き合って生きていくには、それが必要だ。でも―。

 傷つかないように、でも結局は毎日毎日、人と背比べをしながら生きていく。他人と比較せず、自分を大事に生きていく。それは難しいことだ。社会復帰とはなんと難しいことか。



 昼間の8時間。自分らしくいられる時間。あるいは自分を騙している時間。この時間は何なのだろう。なぜこの時間に関するあらゆることが自分を悩ませるのだろうか。なぜ他人と望まぬ背比べをさせられてしまうのだろうか。なぜ何かにこだわり、自ら深夜まで戦うのか。自分の心身が大事なのにもかかわらず、なぜ自分を犠牲にしてしまうのか。冷静ではいられなくなるのか。自分自身と他人を比較せず、この戦いから降りる。そして、自分と他人を両方とも尊重できることができればなんと良いことだろうか。



 初春の冷たい空気と暖かな日差しのなか、久しぶりに街を歩く。街を目的もなく歩くのは、コロナ感染拡大以来なかったことだ。最近は街で何かと出会うこともなくなった。私は街というものが好きだった。人々が活動し、出会い、そして別れていく。人だけではない、誰かの思いが詰まった建物、美しい橋、川の流れや街路樹の木陰、様々な出会いがあった。今はただ過ぎゆくだけになってしまっていく感がある。いつか街と出会う日々が戻ってくるのだろうか。



 人生とは何なのだろうか。問いかけは続く。分からなくても、進んでいく。何かが変わっていく。いや人生の意味など、とうに分かっているのかも。やれることをやるだけ。他人と背比べをしても意味はない。分かっているけど、納得しきれていないだけ。どうやったら、喉の奥につまったものを飲み込めるのだろうか。


 4月になり、人事異動となった。子会社への出向だ。出世の道からさらに一歩外れたのを悲しく思う一方で、組織としては私へ最大に配慮してくれたのだと思う。皆優しい。自分が人事権者であってもそうするだろう。これでいい。これでいいのだ―。

 そこでの仕事は自分にとっては初めての仕事であったが、残業漬けになることはなく、定時で上がれる職場だ。なにより、周囲は暖かく、居心地の良い職場であった。



 家に帰っても、子供と遊ぶ時間ができた。以前は家族が寝た後に帰ってきたものだった。子供も6歳になっていた。レゴブロックで毎日遊ぶ。多分、かけがえのない時間なのだろう。まだ喜びとか、楽しいとか、幸せという感情は戻っていない。でもいつか、戻ってきてもいいように、行動をしておこう。妻には大きな心配と負担をかけた。以前だったら、償い、のような感情で動いていたが、家族の幸せのために行動する、それが一番なのだろう。焦ることはない、何気ない今日を積み重ねていくだけだ。


 そもそも自分は出世を望んでいたか。元々は違ったはずだ。ただ街のために自分ができることをしたい。それだけだったはず。失ったものは大きく見えるだけなのかもしれない。それならば忘れていた自分に戻るまでだ。



 安定して働く日々。前の自分にとってみれば刺激が少ないと思うのだろうが、今の私にとってはすべてが調和しているように思える。時折ある軽いトラブルもいいスパイスだ。部下は4人いて、一番のベテランで世話焼きのCさん、最年長で仕事に厳しいが趣味人のDさん、おっとりした性格のEさん、期待の若手のFさん。5人のチーム。良いチームだ。

時に体調不良や希死念慮に悩ませられるものの、仕事には通えている。季節は春から夏、夏から秋へ瞬く間に過ぎてゆく。


 ある休日。公園のベンチに座り、学生時代ぶりにフランクルの「夜と霧」を読む。精神科医のフランクルのナチス強制収容所の経験を記した言わずと知れた名著だ。不幸な体験を重ねている訳ではないが、どんな時も自分らしくあること、それが生きる希望であること、に勇気づけられる。輝かしくなかったとしても、自分らしくあること。そこにあることが価値そのものだと最近ようやく実感できている。

そんな大事な自分の機嫌をとること。そんな人生で良いのではないか。



忙しい日々、そして続くうつ病の日々で、幸せとは何か分からない、というより感じない身体になってしまった。でも、最近少しずつ微かな喜びというものも感じつつある。だからその芽を大事に育てていこうと今は思う。



 寺にも時たま座禅をしに行く。道元禅師は言った。自己をならうは、自己を離るるなり、と。

そう、自分と良い向き合い方をすると、自然と自分と良い距離感になる。病気のときは、自分と自分、自分と世界がへばりついていた。今は、自分と自分、自分と世界が同じくらいの適度な距離感がある。自分と向き合うこと。昔の自分にはそれが足りてなかったように思える。座禅をすると、そのことを思い出すことができる。



 コロナの関係から、暑気払いと忘年会の間の時期に、職場の懇親会が開かれた。買ってきたケータリングと飲み物だけではなく、自分の趣味や特技を活かした思い思いの品を持ってきている。自分で仕留めた鹿のロースト、自分の畑で取れた野菜の煮物、仲間と作った地ビール―。仲間と語らう中で、自分も何かやってみたい。そう思ったのだった。



 何が良いだろう。スポーツは苦手だ。じゃあ、絵でも描いてみようか、それとも楽器か。ふと小説―、小説を書いてみようか、と思った。自分にしっくりする感じがある。40歳にして処女作というのも滑稽だが、何か心が躍る感じがしてきたのだ。



 凡人だって、チャレンジしても良い―。億万長者でなくても、強制収容所の体験がなくても、小説を書いたっていいだろう。人は皆、平等なのだ。



 人生とは何だろうか。

 自分はあれができなかった、これができなかったと悩んでいた。でも、できなくてもいいんだ。あれをやってみよう、これをやってみようでいいのだ。


 人生とは何だろうか。

それはもう既にここにある。そして、これから手に入れるものでもある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リスタート ゆう @yuu_1914

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ