🇧🇹8 ブータンの国王と民の距離感

 ブータンの民族衣装を着込んで向かった先は、『タシチョ・ゾン』というらしい。

 「ゾン」とは行政機関と僧院が共存する施設のことで、官公庁のような役割を担っているそうだ。城壁に囲まれた広い敷地内に寺院(祈りの場)があるだけでなく、僧院(僧侶たちの共同生活の場)が併設されている。


「Jさん、『タシチョ』ってのも地名なの?」

 シムが尋ねたのは、ホテルへ向かう前に訪問した古刹『チャンガンカ・ラカン』が〈地名+ラカン(寺院)〉だったからだろう。

「いえ、タシチョは『祝福を受けた砦』という意味です」

「え、そうなの? 同じルールで命名されるわけじゃないんだ!」

「『祝福を受けた砦』ってまた、なんというか……オシャレな命名ですね」

 一同がどよめく中、イチコが尋ねたこともまた誰もが思ったことだろう。

「ゾンはかつてチベットからの侵攻を防ぐために造られた要塞建築です。それが改修されて、今は行政と祈りと軍事の場になっています」

「じゃあ、ゾンって他にもあるんだ」

「はい。パロにもパロ・ゾンがあります」

「ええー? それは地名なんだ」

「このタシチョ・ゾンはブータン全体の国政の中枢だから、トクベツ」


 時々カタコトの日本語を挟みながら得意気に話すJさんは今、民族衣装のゴの上から大判ストールのような白い布を纏っている。それはハッチャンとシムも同じだ。皆一様に、左肩から斜めに布を巻きつけている。

 そしてイッチーと私も、インドのサリーに似たブータンの民族衣装キラを身体に巻き付け、左肩に帯のようなものを引っ掛けた。

 この白い布は「カムニ」、帯のようなものは「ラチュ」と言い、ゾンを訪問する際や公式行事、祭りの際は身につけることが義務付けられていると言う。つまり、これがブータンの正装である。


 広い広い敷地内をぐるりと見渡すと、特徴的な四角い箱型の建築物がずらりと並んでいる。どれもが大きい。古刹『チャンガンカ・ラカン』と同じく基本は白壁で、帯状に赤い塗料「ケマ」が塗られているのが特徴的だ。


「おっ、Jさん、あれって坊さん?」

 我々が入ろうと向かっている寺院から、赤い袈裟をかけたマルコメ君が登場したのだ。だがハッチャンよ……、指をさすんじゃない、指を。子供じゃないんだから。

 どうやらこのグループのメンバーでは私が最年長のようなので、オカン的感想を心に抱いてみる。

「そう。一般人は白のカムニ、僧侶は赤い袈裟を纏います。階級によって纏う色が決まっていて、国王とブータンで一番偉いお坊さんは黄色ですね」

 なるほど、そういう視点だったか。


 「幸せの国」と呼ばれるブータンにもはっきりとした階級制度がある。

 いや、階級というよりは役割の違いをきちんと意識している、と言った方が良いかもしれない。少なくともカースト制度のようなものではなく、「皆が国の一員だが、中でも尊いお方がいる」というニュアンスを感じるのだ。

 これは信仰上、意識することなのかも知れない。


 私も明確な信仰を持たない日本人の一人だ。

 だから寺院の壁画に描かれるチベット仏教の開祖、グル・リンポチェを見ても「おヒゲのおじさん」という以上の印象を抱くことがない。

 彼は実在した伝説の人物で、ブータンの書物や口承の中に登場する英雄である。

 Jさんの解説の中でもよく登場する名前なのだけど、なるほどブータンではそういう位置付けの人なんだ、という以上には踏み込めないのだ。

 しかしブータンの人たちの考え方を聞けば聞くほど、国王、大僧正、そして伝説の英雄グル・リンポチェといった明確な信じる対象がいることで、何というか心が安定しているように感じる。それが一体感の源であるようにも。


 では私は一体何を信じているのだろう?

 信じられるのは自分だけ?

 そんな揺らぎやすく頼りないものでは、すぐに崩れ去ってしまいそうだ。


「向こうには王さまたちが暮らす王宮があります」

 Jさんの解説は続いている。

「寺院のお堂内部と同じく、王宮にもカメラを向けてはいけません」

「そっかぁ。なるほどなぁ」

 思いがけず、しみじみとした声が出た。

「ポロさん、何が『ナルホド』なんです?」

 イチコが分かりやすく「どゆこと?」と言いたげな顔をしている。


「いや、外国人がブータンを旅行する時に必ずガイドが同行することになっているのって、最低限守ってほしいルールやマナーを、その必要があるその場で伝える為なんだろうな、って」

「ああ、確かに。まとめて説明されたって覚えられないこともありますし、後からあれがそれだったのかって気づいて血の気が引くことだってありそうですもんね」

「うん。ルールを守らせるための罰金ってネガティブな感情を生み出すし、結局ルールやマナーが守られてる状態を維持するためのセーフティネットにはならんし」

「そっか、外国人が知らずのうちに侵害してしまったルールやマナーでも、ブータンの人たちにとっては大事にしていることを蔑ろにされたも同然ですもんね」


 そんな話をJさんは大層嬉しそうな顔で聞いていた。

「旅行に来た外国人も嫌な想いをせずに済むし、ルールやマナーを守ってくれる外国人をブータン人が嫌がる理由もありません」

 素晴らしい、日本でもそすればいいのにと思う反面、日本は地域の個性が強く、一貫性のある国のガイドというのは難しそうな気がした。観光地において成立するのも営利目的で楽しんでもらうという趣旨のガイドであろう。


「このタシチョ・ゾンでも昼間は通常執務が行われているので、平日は夕方以降しか入れません。そういったことも、私たちガイドに任せてくれれば良いです」

「本当に助かります」

「うん、すっごい安心感だわ」

 ここぞとばかりに、誰もがしみじみとJさんを讃えた。それに対して「仕事だから」なんて言わないのがまた好ましい。


「そーいやさ、あっちが王宮で、川の向こうが国会議事堂、ここが行政機関ってことは、王様ってこの辺りで仕事してるってこと?」

 とシムが閃いたように言う。

「その通りです。仕事が終わった後、アフターファイブは王様も一般人に混ざって一緒にサッカーをします。ブータンの国技はアーチェリーだけど、最近はサッカーが流行っています」

「へ〜、ブータンでもサッカーが流行ってるんだ」

「ポロさん、そこじゃないでしょ」

「いや、またJさんのジョークかな〜って」

 Jさんもまた、あの浅草のコンビニで出会った外国人店員と同様に、日本語と、日本の感性をある程度理解し、面白がって意表を突いてくることがあるのだ。


「王さまも一緒にってウケる〜。本当だったら面白いけど」

 ほうら、ハッチャンも信じてない。

「え? これは本当ですよ。まあ一緒にって言っても、やっぱり皆んな王さまに気を遣っちゃうけどね。でもセッタイじゃなくて、普通のスポーツだから」

 これには皆、唖然とした。まるで会社の上司と部下ではないか。

 俄かには信じがたく、「だったら面白いよね」って話にしておいて欲しいのにJさんは涼しい顔をしている。


 ほんとうに、ブータンという国は一体どうなっているのだろう。

 それとも小さな国だと、王さまと国民の距離感なんて、そんなものなのだろうか。

 

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