木を背に、その仄暗い両眼で
うっさこ
間際とその後で
よほど腹が減っていたのだろう。
俺もまた腹が減っていた。
喉を潤したばかりであった。
真っ先に噛みちぎられた喉笛。
その次にその牙が突き立てられた、俺の右腕首。
そこから獲物がこぼれ落ちる。
血の付いた青銅の刃。
俺は俺が死んだことを自覚できている。
だから、俺は俺が喰われることに、最早抵抗しようがない。
そもそも、そこにあるのは、俺であるのだろうか。
俺は、俺という存在は、未だそこにあるのだろうか。
切らせる息も無くなって、生きることができなくなる程の血も失って。
それで漸く、俺は後ろを振り返ることが出来るようになった気がする。
もう、狼の視線にも、その遠吠えにも、鋭い牙にも、怯える必要はない。
なぜならば、俺は死んでしまったから。
木に
随分と必死に食うじゃないか。
よほど腹が減っていたのだろう。
俺を襲った二匹の狼のうち、一匹が俺の腹を食い破っている。
もう一匹は、何処にいったのかと思えば、そのうち小さな狼を咥えて戻ってきた。
その後ろに、同じ様に小さな狼が数匹、歩いて着いてきている。
やっぱり、子供が居たんだな。
この水場は、連中の縄張りで、直ぐ近くに寝床にしている巣があるのだろう。
俺を襲った二匹は、
俺の腹を食い破った親狼が、その鼻先を離す。
血で真っ赤に濡れたそこを、恐る恐る、小さい狼達が近づき、鼻を寄せる。
ああ、俺の身体が、食い荒らされていく。
身寄りも、身内ももう居ない。仲間と呼べる連中も、見殺しにして俺は逃げてきてしまった。
俺を、看取ってくれる奴も居なければ、惜しんでくれる奴も居ないだろう。
そもそも、俺が誰で、俺が何故死んだのか、それすらもこの薄暗い夜の森の中で、埋もれて消えていくのだろう。
月が、木々の葉の隙間から、地に光を落としている。
不思議と音は聞こえなかった。もう何も聞こえない。
両目からの視界だけが、何とか感じられる。視線の移動はできる。
俺は死んだんだ。
その事実が、木の幹に転がっている。
死んだ後の事など、誰も知りようがない。
知りようがないからこそ、俺は俺が喰われる姿を、見せつけられるなんて思っても居なかった。
狼達が俺の身体を貪っている。
腸から時折血が吹き、子どもの狼達が腸を必死に咀嚼しながら噛み千切っている。
食べては、時折、近くの岩場に水を飲みに行く。
水を飲んでは、再び、俺を喰いに戻って来る。
親の狼達は、脚の太ももや、
ドロリと、食い破られた腹から、内臓が新たに漏れ出した。
人の体には、こんなにも肉が詰まっているのだと、死んでから気がついた。
人を食べるなどという事は狼にとっても珍しい事のはずだろう。
変化があるたびに、小さい狼達ははねたり、驚いて離れたりしながら、俺の腹を奪い合うように貪っている。
時間が過ぎていったのだろう。
周囲は、徐々に明るさを帯びていく。朝が来たのだ。
森の何処かもわからない、こんな深い場所には、誰もやって来ない。
だからこそ、狼達はここを、安全な巣として縄張りにしているのだろう。
徐々に明るくなっていくその場で、狼達は、徐々に俺の身体に興味を失っていった。
小さい狼達は、血で赤く染まったその顔で、鼻をヒクヒクと動かしながら、既に少し離れた場所で丸くなって眠っている。
陽が完全に登りきると、こんな森の奥でも、それなりに明るい。
時折、近くの草が揺れている。虫でも居るのだろう。
喉が渇いたのだろう目を覚ました子どもの狼達が、じゃれ合っているだろう姿が、時折視界に入り込む。
俺は死んだはずだ。
だが、視界は、未だ眠くなることもなく、見開かれている。
無音の視界の中で、ただ、視界だけが続いていく。
狼達は、俺の腸を食うためにここに居たのではなく、ここに住んでいる。そういう確信が募っていく。
そんなことしか出来ない。それ以外何も出来ない。
この思考は何処からきて、何処へ行くのか。
俺は何時までここでこうしていればいいのか。
死んでしまって動くことの出来ない、この視界を、正直、飽き始めていた。
あんなに辛かった空腹も感じない。疲労も、痛みも、寒さも暑さも感じない。
ただ、思考と視界だけがそこにある。
草が揺れ、湧き水が流れ、狼達が生活している。
そんな光景だけが、流れていく。
あの時、もっと上手く立ち回っていれば、死なずに済んだかもしれない。
この場所に立ち入らないで、もっと別の場所に逃げていれば、まだ生きていたかもしれない。
そんな、俺自身に対する振り返りも済んでしまったのは、二度目の夜の、中頃のことだった。
そして再び朝が来る。
そして再び夜が来る。
俺の脚の白い骨が、何時の頃からかはっきりと見えるようになった。
そんな骨の一部を掘り出し、子どもの狼の一匹が咥えて走っていった。あれはどこの部位だろうか。足首の下だろうか。
じゃれ合うように、子どもの狼達が、俺の脚から骨を掘り返して、咥えて持っていく。どうやら俺はもう、食料ですらないようだ。
血もとっくに全て流れ出てしまったようだ。喰い残された肉は、乾いて黒くなっている。開かれた
また夜が来る。
そしてまた朝が来る。
一日、一日と過ぎていく。もう何も考えたくなかった。
ただ、視界に入り込む狼達を観ている。
子どもの狼達は少し大きくなっただろうか。
時折、森の小動物を咥えて歩いているのが見える。口元を赤くしている姿も見える。
この岩場の湧き水で喉を潤し、昼や夜を問わず、眠くなれば近くで丸くなって眠っている。
雄が二匹、雌が二匹。それと両親がいる。
それが分かったのは、子どもの狼達が、おぼろげながら辿々しく、互いに繁殖行為を始めたからだった。
家族で
逃げる雄、噛みつく雌、或いは力任せに雌を押さえつける雄。
兄弟姉妹でも、狼であっても、性格のようなものはあるようだ。
親狼達は、そんな様子を、少し離れて観ている。
何度も何度も夜が来て、何度も何度も朝が来る。
森の様子はただ変わらない。
仲間が増えた気がした。
その亡骸は骨になると、俺の近くに添えられた。
こいつはどの子だったろう。俺の骨を一番最初に咥えて遊んでいた奴だったろうか。
腹に子供を抱えたまま、ふらふらと歩き、やがて立ち止まり、横になったまま、動かなくなった。それに、連れ合いだった兄だか弟は、その日から、姿が見えなくなった。
もう一組の
死んだ俺には何もすることが出来ない。ただそれを観ているだけだ。
何とか無事、子供が産まれ、そして何時の頃からか、上の世代の親狼達が姿を見せなくなった。
何時の頃だったか、この辺りは狼の大きな巣になるだろうと思ったが、そんな事はなかったようだ。
増えるばかりではない。事故もあれば、不運もある。
増え続けるなんて、そんな都合の良いことは起こらない。
子どもの狼だって、健全に育ち続けるとは限らない。
餌を食えねば簡単に死んでしまう。
俺の周りにばかり、仲間が増えていく。
時折、狼がやってきて俺の周りに骨をくわえて、放り投げていく。
人の骨は、俺だけだが、随分と賑やかになった。
きっと、最初に俺を喰った連中の骨も、ここに混じっているのだろう。
一人寂しく死んだつもりだった。
だが、そんなつもりはないのだろうが、巣の狼が時折、俺の前に姿を見せる。
俺の視線に気づいているのか、いないのか。
実際に、目が合ったと思う瞬間も、この長い時間の中で一度ならずあった。
この時もそうだった。骨をくわえてやってきた狼が、俺の側にそれを放り落とす。
その姿を見つめていると、背を向けて数歩歩いた所で、振り返り、俺と視線を交差する。
思えば、何時の頃からか、見かける狼の数も減った気がする。
俺をじっと見つめる、その狼の視線は、木々の葉から溢れる朱い夕日に照らされている。
その視線が、ひどく寂しそうに視えた。そんな気がした。
その日を最後に、狼が姿を見せることはなかった。
ふと、視界がガクリと落ちる。
どれだけ過ぎたかわからない日々の中で初めてのことだった。
自由にならず気持ち悪い視線移動の後で、俺の視線は横向きになって地に伏した。
どの狼の、どの部位かわからない。そんな骨にうずもれるように、俺の視線は横向きになったまま、戻ることはない。
ふと、どれくらい昔に感じたことかわからない、そんな不思議な感覚に陥る。
それは暖かさ、だったのかもしれない。
そう感じた瞬間に、視界が暗くなっていく。
もう夜だ。
辺りはゆっくりと闇に落ちていく。
その日は、それがとてもとても、暗く感じた。
月のない夜よりも、ずっと暗い夜がやってきた。
どうせ、朝はやってくるだろう。何も視えなくても気にすることはない。
それよりも、久々に感じた、暖かさに再び身を委ねたかった。
暗くなっていく森の中で、眼の前で、草が揺れている。
一匹の虫が、その草によじ登り、その茎を揺らしている。
ああ、お前だったのか。ずっと俺を観ていたのは。
何時の頃からか、何処からか、感じ続けていた視線の正体が漸く解った。
揺れる草の葉の上で、虫が俺をじっと観ている。
そんな姿も、徐々に暗くなっていく森の中で、解らなくなっていく。
あの狼は、最後にやってきた狼は、この先も元気にやっていけるだろうか。
恐らくもう、観ることが出来ないその姿を、俺は寂しく思いながら、
そっと、目を閉じた。
木を背に、その仄暗い両眼で うっさこ @ussako
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