ダイアモンドの胸飾り

神宮寺 柾

第1話 夜のオルフェ

 あの夜のことは何から何まで決して忘れることはできません。姿はそこに無いのに、確かにいたのだと知らせるようにいつまでもいつまでも残る、息ができないほど濃密な男のくさむらの匂い。この上なく幸運な出会いは、人生において最も苦しい不幸だったのです。


 何から話しましょうか。そう、この辺り昔とすっかり変わってしまいました。今高架になっている私鉄の線路はかつて地上にあって、その両側は見事な桜並木でした。始発駅から出たあたりは飲食店などの続く賑やかな街区でしたが、最初の踏切の手前のところから桜の木が連なって、人通りも少なくなります。周囲にそれほど高い建物はなくて、まだ平屋の木造住宅なんかも多く残っていました。そしてこの場所、今私たちがいるここ、当時はコンチネンタルロイヤルホテルという名前の13階建てホテルがありました。中心部からは離れてはいましたが、格式のあるホテルとしての歴史があり、著名な方なども泊まっていました。重厚な和洋折衷な洋式の館内も見事だったのに、老朽化が進んで取り壊され、このマンションが建ったのですよ。そのホテルが、私と黒岩さんとの密会の場所でした。


 エントランスには大きな回転扉があって、臙脂色えんじいろの制服を着たドアマンが立っていました。褐色の艶のある木製の枠にガラスを入れた4枚の扉が十字に組まれて、そのそれぞれには金色の真鍮製の押し手がPUSHの文字板と並んで、素敵だったんです。手で押すと思ったより軽やかに回すことができました。ギシギシと鳴る小気味よい音も趣があって、建物の外と中では空気が違うようでした。今あのような回転扉は見なくなってしまいました。いろいろなことが効率を優先して無駄を排して、リスクも最小限にとなった時、昔からある風情のようなものは消えていく運命なのでしょうね。


 黒岩さんと初めてお会いした日のことは、何度も観た映画のように鮮明に覚えています。桜が満開で、風はぼんやり温みがあり、雨が近づいている予感に街灯が潤んで見える夜でした。私は25歳でしたか?多分そのくらいで、黒岩さんは10歳年上の35歳前後だったと思います。あの頃の35歳は皆さん落ち着いた雰囲気の方が多く、黒岩さんも私の父親くらいの年齢と思ったほどです。見るからに上等の生地で仕立てた背広を、すっきりと着こなしてらして、一目でああこの人はとても怖い人だな、と感じたこと覚えています。怖いというのは、乱暴そうなというのではなくて、何とも説明のつかない暗い熱情を無理やり押し込んで蓋をしたがゆえに、中で張り詰めて今にも壊れそう、そんな箱を身の内に抱えている怖さでした。声の柔らかいトーンや言葉遣い、振る舞いがこの上なく紳士的で、だからこそ近寄ってはいけない、深く関わると危ない佇まいがあったのです。何となく伝わっていますか?初めて会った時にすでに、震えるほどの幸甚と悲劇の予感があり、危ない魅力に胸が波立つばかりでした。しかし、時計の針は前へ進むだけ、傾き出した心は立て直すことは出来ません。


 今はコンビニになって一帯が明るくなっていますが、5丁目の商店街の一番北側に、「オルフェ」という小さい会員制バーがありました。その頃の一帯は戦前の古い建物もいくつか残っていて、点在する空き家の闇が寂れた雰囲気を醸す街区でした。人目を避けて入る会員制の店には好都合だったのでしょうね。最初にそこへ連れて行ってくれた人のことはもう思い出せませんけれど、一人で何度か行くうちに出会ったのが黒岩さんです。当時のゲイバーは、知らないお客さんが飛び込みで入って来ないように、入り口に会員制という札を取り付けていたのですよ。今でこそLGBTとか何とか言って、一般の人にもそういう部類の人がいることを周知させていますでしょう?そのおかげで女性も入れるゲイのお店も増えているようですけれどね。


 あの頃のゲイバーでは、来ているほとんどが「ゲイバーに出入りしていることを世間に知られたくない」人でしたし、だからこそお店の中では本名を名乗ることなく素性を隠したままで、お馴染みのお客同士が親交を深めていました。また、いろいろな手段で自分たちのテリトリーを世間から隠していたと思います。ノンケって分かりますか?一般にゲイのことを「そのケがある人」と呼んでいたことから、「そのケがない人=ノンケ」なんです。今で言うところのストレートでしょうか。自分の認識する性と実際の性が一致していて、なおかつ異性が性の対象という定義ですね。普通に女が好きな男がノンケと思えば大丈夫です。そうそれで、ノンケって言葉自体が隠語でしたから、ゲイかどうか判断しかねる相手に「ノンケですか?」と聞くみたいなノウハウもありました。アナログですよね。そもそも当時はゲイという呼び方よりホモの方が一般的でした。今でこそホモは同性愛者の蔑称的に扱われていますが、一般人が男性同性愛者を呼ぶ際の単語は、ホモかオカマしかありませんでしたから、差別用語であるというよりも、差別的に使う時にも親しみを込めて使う時もあったのですよ。ゲイとて、差別的に使えば、蔑称と同じですから。


 そのオルフェという会員制バーは、カウンターのみ8席の狭い店で、週末には六尺デーなるイベントが行われていました。六尺って分かりますか?六尺褌の略で、要するに週末に来る客は、店内では褌一丁の裸になることが決まりでした。男が好きな男だけが来る店で、裸同然の姿で並んで飲むわけですから、お互いが好みの人同士だと、惹かれ合うのが早いわけです。今でいうマッチングアプリみたいな機能が昭和の時代のゲイバーにありましたし、私と黒岩さんもそうやって出会いました。


 夜の10時を過ぎると着ていた服を脱ぎ、褌姿になるので、裸になりたくない客は10時前に帰っていましたし、逆に裸になることが目的の客は10時を過ぎてから来ていました。その日私が9時ごろ店に行くと、一人カウンターに客がいまして、それが黒岩さんでした。オルフェの店主マスターは当時50代後半だったでしょうか、いかにも昭和の日本の親父という白髪の混じった短髪にねじり鉢巻をして、丈の短い水半被みずはっぴへその上あたりで結ぶ出立ちが非常に似合っていました。ああいうのを着慣れているというのでしょうね。胸板とお腹が逞しく、褌が映えるのですね。週末のマスターはその格好でカウンターの中で接客していて、椅子に座っている黒岩さんの背広姿と対照的でした。日本的な伝統衣装の六尺褌・半被と、西洋で発展してきたスーツ。何というか、どちらも長い時間をかけて装われて来た、男の美しさ・魅力が最も際立つコスチュームなのです。


 男らしい、これを求めることも今ではジェンダー差別などと言われるみたいですが、あの頃、ゲイの世界でモテる男らしさには明確なイメージがあり、それは女が求める性的魅力とほぼ重なっていたように記憶しています。ご存知ないでしょうね、日本で本格的な男性化粧品がコマーシャルを放送した時、その広告のイメージモデルにアメリカの男優が登場しました。濃い口髭をたくわえ、野生的な風貌で人気だった男優は、広大な砂漠を馬で駆け抜け、汗に汚れた体を川で洗い流したり、帰宅してパイプを咥え、ワイシャツを脱いだ上半身裸の上に、オーデコロンを大量に振りかけていました。そこにナレーションが、男らしさとは、男臭さとは、と問いかけ、最後は「男の体臭」と言う決め文句でした。当時はそれが男らしさの象徴だったのですよ。私も子供心にああいう男がモテるのだと思いましたし、CMで男優が自分の顔を撫でる仕草を、みんなで真似したものです。

 そのような、鍛えて盛り上がった筋肉、濃く凛々しい眉毛や、髭、胸毛などの体毛、焼けた肌など、テストステロン濃度の高そうな男が、ゲイの世界でも人気の主流でした。今の若い人たちにとっては、当時の男らしさはむしろモテないと言う傾向のようですね。眉毛を細くしたり、体毛を処理してツルツルにしたり、昔ならオカマ扱いされた行動が、今は当たり前になっているなんて、不思議な気がします。私に言わせれば「毛深い男は女性に嫌われる!」的な風潮も、結構なジェンダー差別だと思いますけどね。


 マスターが私を黒岩さんの隣に座らせました。あの頃出会いの場が少なかったゲイにとっては、ゲイバーのマスターは「客同士をくっつけさせる」役割もありました。隣に座らせるということは、この人どう?という合図だったので、マスターは黒岩さんの好みのタイプを知っていたのでしょう。

 今はどうだか知りませんが、かつてのゲイバーは初めての客にまず「どんな人が好み?」と聞くのが定式でした。店側は来た客がどんな男を探しているのかを知った上、客同士をマッチングさせることで「あそこは(カップル成立が)できる店」という評価を得ていたのですよ。アプリが今やっていることと同じかもしれません。


 「祭りに出ているのですか?」と黒岩さんが聞きました。この町では毎年褌姿の男が山車を担いで練り歩く伝統行事が行われているので、それに出るのかという質問でした。いいえ、出ていません。と答えると、出ればいいのに、と笑いました。その笑顔に私は見惚れました。少し後退した生え際、額の皺、濃い眉毛、その下の涼しげな目元、頬から顎にかけての蒼い髭の翳り、下顎の割れた輪郭、均整のとれた丈夫な男の、精力を満満とたたえた相貌そうぼうです。有り体に言う「精悍で男らしい顔」に、低く柔らかく響く声、がっしりと大きい体躯、雰囲気どれをとっても好みでした。そうなのです、私は子供の頃から好意を抱くのは「男性」でした。あの頃は男の魅力・価値は強さであり、逞しさであり、筋肉の盛り上がった強靭な肉体や濃い体毛などを目にするたび、心が浮き立つような感覚があったのです。

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