第一章 革紐の誓約 ー1

 聖女に見初められた男は、果報者と呼べるだろうか。


『ラングバート伯爵家次男クウィルを、聖女リネッタ・セリエスの婚約者に指名する』


 クウィル・ラングバートは、一文のみ記されたその紙に視線をせわしなく走らせ、胸の内で動揺と戦っていた。クウィルの正面に座して紙を手渡してきたのは、アイクラント王国の王太子レオナルトである。濃い金色の長い髪を後ろでひとつにしばった、深い緑の瞳をした華のある顔立ちの王太子は、クウィルの兄、ラルスと同じ二十七歳だ。レオナルトは兄と幼少期から懇意にしていて、顔を合わせればクウィルにも王太子らしからぬ気安さで声をかけてくる。

 そんなレオナルトがすがすがしい笑みで、これは覆せない決定だと言外に語る。わざわざ王太子の執務室に呼び出されたから何かあるとは思っていたが、これほどの重大事とは想像もしなかった。

「私は、いつから王族の仲間入りを果たしたのでしょうか」

「さて、ラングバート伯爵家が次男を手離したという話は聞かないな」

「殿下……」

「まぁ待て。納得のいく説明はする」

 レオナルトは執務机に積まれた紙の山のてつぺんに手を乗せた。

「これは何だと思う?」

「裁可待ちの書類ではないのですか」

「アイクラントの民の声だ」

 上の一枚をめくって、レオナルトがクウィルの眼前に掲げた。どこぞの領主を経由して上奏された、国民からの意見書だ。現アイクラント王は広く民の想いを聞きたいと、月に一度こうして声を集めている。

 意見書にさっと目を通したところ、内容は今代聖女の婚姻に関してのようだ。

 先代の聖女が亡くなってから必ず十六年後に、星が聖女を選ぶ。新たな聖女となるべき者が十六歳になるとき、星が降り、聖女のあかしとなる印をその体に授けるのだという。聖女は聖剣をたずさえ、アイクラント王国の東西南北にある神殿に祈りをささげる巡礼の旅に出る。ひとつの神殿につき半年をかけ、加護の力を王国全土に行き渡らせる。

 その巡礼があとひと月ほどで終わり、今代聖女、リネッタ・セリエスが王都に帰還する。二年間の務めを終えた聖女は、継承権二位以下の王族、あるいはその縁者に嫁ぐ栄誉を与えられることになっている。

 ところが、今目の前にレオナルトが見せるこの紙の山だ。いかに伝統とはいえ、十八歳の聖女を今の王家に嫁がせるのはいかがなものか。そういった抗議が書いてある。

 聖女に信が無いということはない。聖女の座が空席となる十六年と、新たな聖女が選ばれ巡礼を終えるまでの二年、合わせて十八年を加護の切れ間と呼び、この加護の切れ間には凶化魔獣の出没頻度が爆発的に増加する。単体であればまだしも、ときには大群を成して人を襲う。過去の加護の切れ間には、ひとつの領地が壊滅させられたこともあると記録に残っている。それだけの脅威を退ける力を持つ聖女は、アイクラント王国において、ときに王家よりも尊ばれる。

 もちろん、王家に信が無いということもない。現在の王家は騎士の増強と魔術けんさんに力を注ぎ、国民から高い支持を得ている。

 魔術は、人の魂に干渉する古代魔術と、自然の力を増幅させて操る近代魔術に大別される。古代魔術は限られた血筋にのみ受け継がれたもので、現在ではそのほとんどが失われている。近代魔術もまた血筋で継承されると思われていたが、先代国王が推進した研究のもとで、血筋に関わりなく個人に生まれつき備わるものだと判明した。以降、魔術適性を持つ者には出自を問わず騎士への道が開かれ、近代魔術の研究も進んだことで、魔獣による被害は大幅に減少した。さらに現王は魔獣問題の恒久的な解決を目指して古代魔術の研究にも関心を寄せており、国民の期待は大きい。

 では、そんな王家と聖女の婚約に関してのこれらの抗議の声はどういうことか。クウィルが首をかしげると、レオナルトは右手の指三本を立て、端から順にくいっと折る。

「継承権二位。俺の可愛い弟はまだ八歳だ」

「もちろん、存じております」

 レオナルトの弟、フェリクス。可愛いという評価はこの兄のひいでも誇張でもない。ちまたでは、ようせいの血でも流れているに違いないと冗談めかしてささやかれているほどだ。

「三位。ブロックマイヤー公は三十五歳で、妻帯者だ。四位、アイヒベルク公は……えー、幾つだ?」

「御年四十一におなりですが。殿下、まったくお話が見えません。まず、フェリクス殿下を候補から外される必要などないでしょう」

 上位貴族の婚姻に年齢差がつくなど珍しいことではない。さすがにアイヒベルク公爵との二十三歳差はよくあることと言うには苦しいが、フェリクスならば十歳差と、貴族間の婚姻としてはいくらでも前例のあるものになる。

 だが、レオナルトはいやいやと首を左右に振った。

「旧派貴族の全盛期とは違う。あまりに年齢差のある相手というのが今どき流行はやらない」

 アイクラント建国以前より貴族として王家に仕え、家柄と血統を重んじるのが旧派だ。彼らは爵位を問わず騎士や研究者への門戸を開こうとする王家の考えに反発し、先王の代には旧派貴族の一部が蜂起した。これを王家によって鎮圧されて以降、旧派は勢力を落とし、代わってアイクラントの政治中枢を握ったのが実力主義で新興貴族も多い新派で、現在の貴族議会は八割ほどをこの新派が占めている。

 新派とて家格を軽んじはしないが、昨今はそれよりも、当人らの精神的に良き婚姻をという風潮が強くなりつつある。

「相性を重んじた結果として年齢差が出てしまうのは、むしろ深愛として歓迎されると聞きおよびますが」

「そこに本人の意思があればいいが、聖女の場合は王家の一方的な決定だ。自ら選んだわけでもないのに十だの二十だの離れた相手に嫁がされるというのが、世間受けが悪い」

 抗議の声が言わんとすることは理解した。だが、フェリクスの十歳差が問題になるなら、二十五歳のクウィルが相手でも同じようなものだ。まして、こちらは王族どころか、将来の爵位も保証されない伯爵家次男という立場である。

 そんなクウィルの疑問を察したように、レオナルトが笑う。

「適任者がいないなら、いっそ、本人に選ばせてはどうかとなってな。縁を結びたい相手がいないか、聖女に直接尋ねてみた」

「選ぶ、とおっしゃられますが。聖女様には……感情がないのですよね?」

「そうだ。歴代聖女と同様に、今代聖女も喜怒哀楽、あらゆる感情を喪失している」

 聖剣は、聖女の感情を糧として加護の力を発動するといわれている。初めの巡礼地である北部神殿を出る頃には、もう聖女の心は動かなくなるのだという。感情を失くし人形のようになった聖女の姿を見て、その多大なる献身に人々は涙し、同情し、感謝する。だから、聖女がどのような出自であれ、王家に嫁ぐ誉れも当然と受け止められてきた。

「そのようなかたが、ご自身で婚約者をお選びになる、と?」

「ものは試しというだろう。で、彼女が選んだのがクウィルだったというわけだ」

「……ぅうん?」

 余計にわからない。なぜなら、クウィルは聖女に関わることのない黒騎士だからだ。

 アイクラント王国には白と黒、ふたつの騎士団がある。

 白騎士団に所属する騎士は、式典での警護や貴族の護衛といった華やかな場で活躍する。聖女の巡礼には、この白騎士の中から選ばれた精鋭が同行している。

 一方、クウィルが所属する黒騎士団が相手をするのは魔獣だ。新たな聖女が星に選ばれ巡礼を終えるまで、黒騎士は魔獣討伐の最前線に立ち、巡礼のあとも聖剣の加護をすり抜けた魔獣の討伐にあたる。魔獣の中には人よりはるかに大きなものや飛行するものもおり、たいする黒騎士は皆、高い魔術の才を要求される。

 そういったわけで、聖女が巡礼に出ている二年の間、クウィルは一心不乱に魔獣を追いかけていた。今代聖女の顔すら知らない。

「人違いではありませんか?」

はく石のひとみに黒髪の黒騎士。他にいない」

「私の瞳は琥珀石ではありませんが」

 琥珀石は多様な色を持つ石だが、一般的に思い描かれるのは黄色からだいだいいろだろう。

 だが、クウィルの瞳は暗赤色だ。琥珀のなかにも希少とされている赤琥珀があるが、それだってこの瞳とはかけ離れている。まがまがしいほどの赤目は、柘榴ざくろ石と言われたほうが納得できる。

 この瞳が本当に琥珀石のような黄色で、黒髪でもなければどれほど良かったか。つい目を伏せると、レオナルトはそんなクウィルの思いを見透かすようにため息をついた。

「手違いがないよう、クウィルの瞳については確認した。それでも彼女にとっては琥珀石だそうだ。それから、おまえとラングバート家のことは、きっちりと伝えてある」

「……それでも聖女様──いえ、セリエス嬢は本当にかまわないと?」

 レオナルトはうなずいて、切り札でも出すように真剣なまなざしを向けてきた。

「なぁ、クウィル。これで縁談から解放されるぞ?」

 その瞬間、初夏の川べりで感じるような心地よい風が、クウィルの心中を吹き抜けた。

 目の前に山と積まれる釣書を、片端からちらりとのぞいては破棄する罪悪感。夜会に出ては品定めのねっとりとした視線に耐え、令嬢たちの好奇心の透けた笑顔に応じ、食べ損ねた肉を思って腹を鳴らすひもじさ。上等な酒を味わうどころか酔いもできず、その晩、夢の中で浴びるように酒を飲む満たされなさ。

 そんな煩わしい縁談から、むなしさばかりの夜会から、ついに解放される。甘美な誘惑にクウィルはあっさりと流された。

 どうせ王命では簡単に断れない。それに、聖女が喜怒哀楽を感じないのであれば、こんな自分でも相手が務まるのではないか。もし、うまく務まらずに婚約破棄されたとしても、そんな身に新たに舞い込む縁談はほとんどなくなるはずだ。そんな楽観的で自分に都合の良い考えが、ぐいぐいと背中を押す。

「受けるな?」

「拝命します」

 クウィルがまるで討伐隊長にでも任命されたかのような返答をすると、この結果を見越していたかのように、レオナルトはにんまりと目を細めた。

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