琥珀色の騎士は聖女の左手に愛を誓う

笹井風琉/角川文庫 キャラクター文芸

序章 巡礼の終わり

 聖女リネッタ・セリエスが王太子妃ユリアーナの訪問を受けたのは、最後の巡礼地である南部神殿でのことだった。

 神殿内に用意された自室にリネッタが入ると、ユリアーナが懐かしむような笑みを浮かべてソファから立ち上がった。上品に編みこんだはちみつの色の髪も、穏やかな若草色のひとみも、リネッタの記憶にある姿よりいっそう大人の女性らしくなった。自分が十八歳ならユリアーナは二十二歳かと、彼女に会うことのなかったこの二年の月日を思う。

「妃殿下にここまでお越しいただかずとも、春には王都に戻りますのに」

 アイクラント王国の四つの神殿を聖剣とともに巡る二年間の旅が、あとひと月で終わる。王都の聖堂に帰還すれば、式典の場などでリネッタがユリアーナと顔を合わせる機会はある。

「式典では王太子妃と聖女としての謁見になってしまうでしょう? その前に、わたくし個人としてリネッタに会いたかったのです。ちょうど殿下が南部の視察を予定されていたから、付いてきてしまいましたの」

 いたずらを白状するように、ユリアーナが口元を手で隠す。こういうところは、幼い頃に子どもだけの茶会で顔を合わせていた当時と変わりない。

 先にユリアーナが座るのを待って、リネッタも向かいのソファに座った。王太子妃としてのりんとした表情を浮かべるユリアーナから、ねぎらいの言葉をかけられる。

「この南部ではもう、魔獣を見かけることは滅多にないと聞きます。聖女リネッタの尽力に心よりの感謝を」

 リネッタもまた、聖女としての微笑みを顔に張り付けて返す。

「もったいないお言葉です、妃殿下」

 アイクラント王国の北東に広がるノクスィラ山脈は魔獣のそうくつだ。山脈奥地に湧くしようの中から魔獣は生まれ、成熟すれば凶暴化し、血を欲して人を襲う。聖剣にはそういった魔獣を鎮める加護の力があり、聖女だけがその力を行使できる。

 先代の聖女が亡くなりリネッタが聖女となるまでの十六年間、聖剣の加護は途切れ、アイクラント王国は魔獣の脅威にさらされてきた。聖女と聖剣に代わり国を守ってきたのは、魔術と剣術にけた騎士たちだ。

「これで、騎士団の皆様のお勤めも楽になるでしょうか」

 リネッタが問えば、ユリアーナはゆっくりと首肯した。

 彼女が壁際に控える自身の護衛騎士らにくばせして退室させると、室内にふたりきりとなる。途端に、王太子妃の肩書を外すように、彼女はほふっと息をついた。

「ねぇ、リネッタ。巡礼を終えれば、次は婚約でしょう。わたくし、あなたの望みを聞かせてもらいにきたの」

 先ほどまでよりくだけた口調で、ユリアーナがおかしなことを言う。

 聖女の婚約は王家が決める。歴代の聖女がそうであったように、リネッタもまた王族に嫁ぐと決まっている。それに、今のリネッタに何かを望むなどできないことは、ユリアーナもわかっているはずだ。

「すべて、国王陛下のお言葉に従います」

「リネッタの婚約は、殿下とわたくしに任されているの。そうできるよう殿下におねだりをしてしまったわ。だからリネッタ、聞かせて。あなたが望むこと……いいえ、望んでいたことを」

 ユリアーナのしんな若草色の瞳をじっと見つめ返す。望むことはないが、かつて望んでいたことなら確かにある。

 リネッタはソファを離れ、書き物机の引き出しを開けた。中からくたびれた革表紙の手帳を取り出すと、ユリアーナが驚いたように目を見開く。

「その手帳……」

「はい。いつかのお茶会で、妃殿下からいただいたものです」

 リネッタは当時十二歳で、まだお互いに聖女でも王太子妃でもなかった。この手帳に書いた望みはなんだってかなうという戯れを楽しめる、無邪気な少女の心を持っていた。

 戻ったリネッタはユリアーナの向かいではなく隣に座り、手帳の最後の一頁を開いて差し出した。自分の中にたったひとつ望むことがあるとすれば、これだろうと思う。

 手帳を持つユリアーナの手が震える。彼女はいたわしげにまゆを寄せ、細く長い息を吐いた。

「……叶えるわ。わたくしがきっと叶えるから」

 何度も力強くうなずくユリアーナに、リネッタは返すべき表情を考える。この場にふさわしいものはきっと、かつて茶会で浮かべていたのと同じ顔だろうと思えた。けれど、どれほど記憶をたどろうとも、その瞬間の自分の表情を自分で思い出せるわけがない。思い出の景色の中に見えてくるのは、明るいユリアーナの笑顔ばかりだ。

 だからリネッタは、その思い出の笑顔をなぞるように口角を上げて目を細めた。だが、向き合うユリアーナは、痛みに耐えるように唇を引き結ぶ。

「妃殿下。わたしは、きちんと笑えていませんか?」

 リネッタが尋ねると、ユリアーナは手帳を閉じてひざに置いた。リネッタの左手を丁寧な動きですくい、両手で包み込む。

「いいえ。とても……上手よ、リネッタ」

 この優しい声や手のぬくもりを受け止める心を、もうリネッタは持っていない。

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