第37話 瘤の王子さま

人物

唐立 エマ 48:元ホテルマン、現在Peony & Wisteria Travel Agency代表取締役

朴(パク・ユジュン/ユージーン) 49:韓国の実業家

Georg von Rheingold(伯爵/ゲオ) 54:リチャードの父

パクの父

パクの母

※エマとGeorgとの会話言語はドイツ語、ならびにエマとパクの会話言語は英語ですが、便宜上すべて日本語で書かれています。





銀座のカフェ、トリコロール内、向かい合って座るエマとRheingold伯爵。 

一通りの話を聞いた後、すべてに合点がいったかのような、考え込む表情のエマ。

対するRheingold伯爵はなにやらスマホをいじり始める。



伯爵「今、聞いていただきたい音源がこの中にありまして。

ちょっと待ってくださいね・・・」


エマ「はい・・・あの、あらためて思うんですが、ゴシップ騒動があった当時のパク様は、本当に辛かったでしょうね」



思い出し、苦笑いをして首を横に振るRheingold伯。



伯爵「ああ・・・あの当時の彼は、悲しいとか辛いとかそんなレベルではなく、プライベートの環境が粉砕されてしまって、仕事に邁進することで必死に自分の心を保っている感じでした」


エマ「粉砕、ですか?」


伯爵「左様・・・全てがばらばらに砕け散るかのような衝撃でした」



エマの脳内の風景では、パールのネックレスが大理石の床に落ち、パアン!と玉が四散する様子が思い浮かんでいる。



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回想・・・パクの両親の家、リビングで立っている若いパクに対し両親が・・・かたや泣き顔ですがり、かたや血相を変えて向き合っている。



パクの父「どうしてこんな時に合せて、アデラインが、我々に対してひどいことを?」


パクの母「あの子が、アデラインが、すすんでこんなことをするわけがありません!

ユジュン、一体あなたとあの子の間になにがあったの?」



眉間にしわを寄せ、両親の顔から目をそむけてパクは慎重に言葉を選んだ。



パク「俺と彼女との関係は、終わったんです」


パクの父「終わったとはどういうことだ?! 交際には時間をかけなさい、と言ったばかりじゃないか! どうしてお前は、この父の言うことに逆らうのだ?」


パク「俺は生まれてから今まで、お父様の言うことには全て従ってきました。 

でも、これだけは無理です! 俺はあんな ”怪鳥ハルピュイア” のような女とは添い遂げられません。 一緒にいるだけで苦痛だったんです」



 ”怪鳥ハルピュイア” は、本来はギリシャ神話の中に登場する半女半鳥の生き物だが、パクが言及している ”怪鳥ハルピュイア” は、ダンテの『神曲』の中にある、地獄編第七圏・自殺者の森に住むといわれている、気味の悪い人面鳥の方だった。

子供の頃に買い与えた本を思い出し、怒りで目をむく父。



パクの父「なにが ”怪鳥ハルピュイア” だ! ”世界の歌姫” を捕まえてお前は!!」


パク「ならばこのひどい仕打ちは ”世界の歌姫” と言われる人間がすることですか?

これが彼女の本性だったんです! 

不快な鳴き声で人を惑わせて、希望の芽をついばんで萎えさせる ”ハルピュイア” そのものじゃありませんか!」


パクの母「ユジュン、あなた・・・あのゴシップの通りなの? 変な嗜好を持っているの?」


パク「・・・」



パクのジャケットの袖を両手でつかみ、グラグラと揺さぶる母。その肥えた丸い顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らして、口角泡を飛ばして息子を責めたてる。



パクの母「嘘だとおっしゃい、ユジュン! 私たちが大切に育てたあなたが、そんな変な嗜好を持っているなんて、絶対にありえません!!」


パク「・・・」


パクの母「あなたは、世の中の手本となるような、立派な男の子のはずでしょ? 私はあなたをそうやって育ててきたんですよ! それがあなた・・・どうして変態などと罵られているの?」


パク「・・・どうして俺が、世の中の手本にならなくてはいけないんですか?」


パク母「だってあなたは、お父様が作り上げたこの会社組織を受け継ぐ存在でしょう?」


パク「その為の準備は、これまでの人生で十分にしてきました。

けれど、どうして心までをも、あなた方の言う通りに生きねばならないんですか? 

俺はあなた方の道具か何かですか?」



父もまた、息子に詰め寄る。



パクの父「お前が心理的に無理だというなら、今からでも私は、お前から一切の権限を取り上げるつもりだ」


パク「俺がそれを、無理だと言いましたか?

ゴシップのために、一度就任したものを取り上げることが、最善とお考えですか?

それこそ、身内の動揺が世間に広まって、さらに社名に傷がつくことになりはしませんか?

本社支社含めて、何万人もの家族を、路頭に迷わせるつもりですか!」



その言葉に父は悔しそうに顔をゆがめる。



パクの父「だったら! お前はなにが最善と思うのか?」


パク「今更、決定を覆さないことです。 くだらないゴシップに惑わされず、毅然と遂行する姿勢がもっとも大事です。

俺の頭はおかしくありません。 幹部との信頼関係はこれまで良好でした。

ですから、これよりたった一年、舵取りを任せてくださればいいんです。 

一年経って結果が伴わなければ、その時は自らここを退いて、普通の同世代の若者と同じように他の職を探します」



がっくりとうなだれる父。



パクの父「わかった・・・お前の言うとおりにしよう」


パク「ありがとうございます。 結果が出なければ、俺を断罪して構いません。

・・・あの女に対しては、俺はすぐにでも名誉棄損の裁判を起こすつもりです」



しかし母はなおも息子の袖をつかむ。



パクの母「ねえ、お願い! 本当のことを話して頂戴!

あなたは普通の子でしょう? ゴシップに言われてるような変態ではないでしょう?」


パク「お母様・・・俺が変態だったら、一体どうなんですか?」


パクの母「なんですって?!」


パクの父「もう、やめなさい! こんな話は無意味だ!」



父は母の肩に手を置いて、息子から引き離そうとするが、母は彼の袖を必死につかんだまま、一向に手放そうとしない。



パクの母「いいえ、あなた! 私はどうしても納得いかないんです!

ユジュン、お願いよ! はっきりと言って頂戴! 

あなたは私の子なんだから! 変な子じゃないでしょ!」



体をぐらぐらと揺さぶられ、苦しそうに目をつぶるパク。



パク「・・・もうそういう、子供じみた呼び方をやめてもらえませんか?

いい加減、俺はもう大人ですし、あなたの所有物じゃありません。

俺は・・・変態なのかもしれません」


パクの母「あ・・・嘘、嘘よ!」



パクの母は顔を引きつらせ、彼の腕から手を放すと、ふらふらと後ずさりし始めた。

大声で叫ぶ母。堪らず父は、母の口に手を当てて騒ぎを止めようとする。



パクの母「嘘! 全部、嘘よ! 嘘に決まってる! 嘘よ!! あああ!!」



すると突然、彼女は白目をむいてふっと体の力が抜けた。そしてそのまま仰向けにばたんと倒れてしまった。母の後ろにいた父は、母に倒れ掛かられ、一緒に床に倒れる。

パクも慌てて駆け寄り、母の手を握るが、母は気絶している。



パク「お母様、お母様!」


パクの父「だれか!! 救急車を! 救急車を!!」



家の奥から家政婦が顔を出し、扉のそばにある電話のボタンをプッシュし始める。



*******************


 

それから間もなく、家の外に救急車が停まり、担架に乗せられた母が車内に運ばれている。

それと一緒に車に乗り込む父。憔悴した表情、無言でパクの顔をちらりと見るとすぐに目を背け、それと同時に車のドアが閉まってゆく。 パクは救急車が去る様子を見ながら、ただ立ち尽くすだけだった。



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回想からカフェの風景にもどる。まだスマホをいじっているRheingold伯と、それを眺めるエマがいる。



伯爵「あった・・・見つけましたよ。

はじめにお伝えしておきますが、これは、人の声をかたどったものです。

刺激の強いものではありませんが、これを聞いて卒倒することがないようにと願います」



言いながら彼はスマホにイヤホンコードを繋ぐ。



伯爵「どうぞ」



イヤホンをひとつ差し出され、それを左耳に差し込むエマ。

やがて聞こえてきた音源は、女性の朗読音声だった。

内容を聞く限り、何かの解説文を読んでいるようだったが、朗読が進むにつれ、次第にエマの目がびっくりしたように丸くなる。



エマ「あれ? これ、私の声かな・・・こんな朗読、どこでもしたためしがないんですけど」


伯爵「これは、かつてユージーンが私に託したもので、人工的に作られた音声なのです。

アデラインショックの後に渡されたものですから、おそらく25年以上昔に作られたものでしょう」


エマ「えええ?!」



エマは何度も何度も繰り返しその音を聴いている。

その、夢中になって聴いている様子をじっと窺うRheingold伯爵。



伯爵「いかが、ですかな? これと同じ声を持つ人を見つけたら、会いに行くから教えてほしい、と言われていました。 ユージーンの理想の声なのだそうで」


エマ「マジか・・・」



エマはなんだか、マニアックなものをみているかのような、変な笑顔を浮かべている。



エマ「まいったな、面白い・・・これはじつに面白いですよ、伯爵。

この声は確かに、私の声質とほぼ同じだと思います。

しかし、なんというか、不思議な浮遊感がある。

ここからさらに加工してみたくなるというか。 楽しめそうな気がするんです」



その答えに、驚愕の色を隠せない伯爵。



伯爵「楽しむ、ですと? 私はてっきり、違和感や不快感を持つのではないかと、心配していましたが」


エマ「いやいや・・・」



首を横に振って穏やかに笑うエマ。



エマ「案外そうでもないのです。 

もっとも、普通の人であれば、もしかすると気持ち悪く感じるのかも知れませんが、実は私も少々、変わり者なんですよ」



耳からイヤホンを外して、彼にお返しするエマ。



エマ「幸か不幸か、私は美術畑の人間なものですから、こういう実験音楽的な要素を含んだもの、大好きなんです。

あと、30代の頃には定期的に、声を使った仕事も行っていましたから、こういうのを聞いても別に何とも思いません」


伯爵「声を使った仕事? アナウンサーか何かですか?」


エマ「政治家の選挙活動の手伝いです。 車に乗って、拡声器マイクで宣伝の台本を読み上げる仕事です。 そういう仕事をする人を俗に ”ウグイス” とも呼ぶんですが。

日本の議会の立候補者は、投票日当日までの一定期間、そういうパフォーマンスを日常的に行うんです。

大した仕事ではありませんが、そのおかげで私は、自分の声を客観的に聴くことには慣れているんです。 ただそれだけです」



うんうんと頷くRheingold伯。



伯爵「なんと・・・偶然とはいえ、そういった経験をお持ちの方がこの声の持ち主でいらしたとは。

おそれながら、誠にあなたは、今のユージーンにふさわしい方のように思えてなりません」



エマは慌てて、手をばたばたと振って見せる。



エマ「ええ?! まさか、とんでもないことです!

私は彼にふさわしくは無いかと・・・だって私は本当に庶民の生活をしていますので、彼とは生きている世界がまるで異なりますから」



そういいつつ、エマは自分の前に置かれたコーヒーにミルクを入れてかき混ぜる。



エマ「しかし・・・彼の状態を理解することはできると思います」


伯爵「ご謙遜をおっしゃいますな。

差し支えなければ、なるべく早いうちにユージーンと話をしてはくれますまいか?

彼は当時のトラウマから、この音源の存在自体について、世間には秘匿すべきものとして、胸のうちの一番深いところにしまい続けているものでありますから」



Rheingold伯は、スプーンを置いたばかりのエマの片手を両手で握り、祈るような顔をした。



伯爵「何卒、お願い致します。

私は彼の長年の友として、彼には幸せになってもらいたいと願っているのです、心から!」


エマ「いや、その・・・まあ、わざわざ教えてくださり、ありがとうございます。

パク様には、日ごろから色々目をかけていただいて、大変お世話になっているんです。

ですから今後はこれを踏まえて、私なりに彼の力になれるよう、努力してみます」



Rheingold伯は笑顔でエマの手をそっと放すと、手を挙げてスタッフに会計を頼んだ。

エマは何やら満足そうに腕を組んでいる。



エマ「それにしても。 ああやって聞くと、案外私の声は、素材としてクールなのかもしれませんね」


伯爵「え? ああ、左様。 私もそう思いますよ」



今度は伯爵の方が何とも言えない笑いを浮かべた。



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Rheingold伯と別れたエマは、その足で銀座7丁目にあるビジネスホテルにチェックインした。

時計は午後5時過ぎ。フロントデスクで支払いを済ませてカードキーを受け取り、流れるようにエレベーターに乗り込む。やがて5階でエレベーターが停まり、エマは速やかにエレベーターから降りる。


部屋の扉の前でカードキーをかざし、扉を開けたその時、プルプルとスマホに着信が入った。

画面表示を見ると、なんとパクからだった。

部屋に慌てて入り、後ろ手にドアを閉めてから通話にでるエマ。



エマ「Hello・・・」


パク「こんばんは、エマ。 私です。 今、あなたは忙しいですか?」


エマ「こんばんは、パク様。 いいえ、忙しくありません」


パク「今日はこの後、仕事でしょうか」


エマ「いいえ。 明日の午後まで仕事はありません」


パク「分かりました。 あなたは今、東京の銀座にきていると聞きました」



いきなり銀座の名前がでて、びっくりするエマ。



エマ「はい・・・もしかして、グラーフと話をなさったのですか」


パク「ええ。 あと2時間半で羽田につきますので、20時に銀座で会いましょう」


エマ「えええ?! は、はい・・・」


パク「夕食はとっていただいて構いません。 ではあとで」


エマ「はい、ではまた・・・」



ぷつっと通話が切れる。

スマホを握ったまま、どっとベッドに仰向けに倒れるエマ。



エマ「嘘みたい! 展開が早すぎて、頭が全然ついてゆかない・・・」



そのまましばらく、エマは目を閉じて仮眠をとるのだった。



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エマは夢を見た。

自分が朗読しているような声をバックに、人形劇が展開される夢だった。



エマ「これは、アラビアのあるお話です。

ある大きく豊かな王国に、背中に瘤を持つ王子がいました。 王子は父王と同じくらい、大変優れた若者で、民のことを思い、公平なまつりごとをおこなっていましたが、背中の瘤を気に病んで、お后となる姫を選べませんでした」



ターバンを巻いた丸顔の人形の若者が、部屋の窓辺でひとり泣いている姿が映された。

そばに人形の父王がやってきて、王子の肩をぽんぽんと叩いた。



エマ「父王は王子にこう言いました。 

心配することはない。 我が国のしきたりでは、たとえ婚約しても、互いの姿を見られるのは一年後なのだから、一年かけてゆっくりと愛をはぐくめばいいのだ。

そなたの誠実な心とすぐれた知性をしっかりと理解すれば、どんな姫も心からそなたを愛し、そなたの背中の瘤を気にすることはないだろう」



人形の王子は、なにやら工具をもっている。すると魔法のように、ぽん、と黄金の乙女の像が姿を現した。



エマ「それでも、本当に自分を好きになってもらえるのか信じ切れない王子は、自ら黄金の乙女の彫像を作りました。 そして父王にこう言いました。

これと同じくらい美しい人が現れたら、言いつけに従って結婚します」



すると場面が変わり、黄金の像にそっくりなお姫さまが父王に手を取られてやってきた。



エマ「父王はなんと、大陸つづきの小さな国から、本当に黄金の像にそっくりな、美しいお姫さまを見つけてきました。

父王は姫にこう言いました。 どうか、王子のお后として、この国へ嫁いでください。

ただし、この国のしきたりでは、お互いの顔が見られるのは一年後です。 守れますか?」



髪の長い人形の姫は、父王の前で踊るようなポーズをとっている。



エマ「姫はこういいました。 はい、王さま。 しきたりに従って王子さまと結婚します。

一年後に王子さまの顔を見られるのを楽しみにしています」



次の場面では、黒い布を被った王子と、同じく黒い布を被った姫が互いに向き合っている。



エマ「王子と姫は、毎日決まった時間に、暗い部屋でお話をしました。

王子は姫の前で楽しいお話をしたり、楽器を演奏して歌を歌いました。

王子のお話はとても楽しく、音楽も歌声もすばらしいものでした。

姫はやがて、王子のすばらしさに強く心ひかれてゆきました。

そしてこう思いました。 この王子さまは世界で一番美しい王子さまに違いない、と」



場面が変わり、大きな木と背景に城の窓辺がある。窓辺には、顔を半分だけ出して、姫の顔が見えている。そこに、瘤の王子が部下と一緒に馬にのって通りかかる。



エマ「王子の姿をみたくてたまらなくなった姫は、あるとき召使のひとりにお金を渡して、王子がでかけるところを覗けるように、知らせてもらいました。

そしてある時、狩にでかける王子の姿を、遠くの窓辺から覗き見ることに成功しました」



姫はひとりで部屋にいるが、慌ただしく、なにかいろんなものを手に取っている。



エマ「姫は、王子の背中に瘤があることに大層ショックを受けました。

そして、これまで毎日会って募らせていた愛の気持ちが、すっかり色あせてしまいました。

もうここにはいられない、しきたりを盾にとって、瘤のある醜い王子と私を結婚させようとするなんてひどい、と姫は大層怒り、そのまま国に帰ってしまいました」



次の場面では、瘤の王子が部屋でしくしく泣いている姿があった。



エマ「王子は、悲しみに包まれました。 姫をすでに深く愛してしまっていたからです。

王子は毎日泣いて過ごし、食事も喉を通りませんでした」



心優しい王子が、瘤のある背中を丸めて、やり場のない気持ちを必死にこらえて、たった独り、部屋でしくしく泣いている・・・


するとそこに、ぷるぷる、とスマホのバイブ音が聞こえてきた。



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エマははっとして夢から目を覚ました。 窓の外はすでに真っ暗で、そばのスマホが振動している。

着信は、パクからだった。



エマ「はい・・・」


パク「エマ、今どこにいますか?」


エマ「・・・すみません、そのままホテルで眠ってしまいました」


パク「疲れていたんですね。 

今私は、6丁目のハイアットにいます。 来られますか?」


エマ「はい・・・私は7丁目におりますから、すぐにそちらへゆけます」


パク「入口で待っています」



ぷつっと通話が切れる。



エマ「・・・寝過ごした。 なにも食べていないし。

とりあえずこのままでいいから、急がないと」



バッグの中身を急いで確かめ、慌てて部屋を出るエマ。



*******************



ホテル内、良いムードのダイニングバーの一角、テーブルに向かい合うエマとパクがそこにいた。

二人の前にはディナーコースのシーフードの皿がおかれている。

皿の料理を夢中で食べるエマ。

対するパクは、白ワインのグラスを口元に運びながら、穏やかな優しい目でその様子を眺めている。



パク「美味しい?」


エマ「美味しいです! お腹空いてたので!」


パク「それは良かった・・・本当なら、もっといい場所を調べてくればよかったのですが、突然来ることに決めたので、準備不足でごめんなさい・・・でも救われました。 

私はラッキーでした。 部屋もここだけすぐに予約できて、このレストランも当日のディナーを受けてくれて、それに、あなたが美味しいと喜んでくれて」


エマ「すごいことです!」


パク「なにが?」


エマ「だって・・・うん・・・」



エマは手をテーブルの下に隠して、お行儀のよい子供のような態度をとってみる。



エマ「突然ここに来ようと決めて、これだけスムーズに事が運ぶ人なんて、早々いませんよ。 もう、あなたは幸運を呼ぶ人そのものじゃありませんか!」


パク「本当にそう思う?」


エマ「はい、もちろんです」



エマはにっこりと笑って、皿の最後の一切れを食べ終え、フォークとナイフを端にそろえる。



エマ「ずっと電話だけでしたのに、突然こうしてお会いできるなんて、びっくりですが嬉しいです」


パク「私も。 長い間、顔を見せられずにいて、ごめんなさい」


エマ「いいえ、いいえ! だってお互い、仕事がとても忙しいんですから。

それは言いっこなしです」



二人の前に肉料理の皿が置かれる。



パク「あの・・・私はゲオルクからあなたのことを聞きました」


エマ「私も、伯爵からあなたのことを聞きましたよ。 色々辛かったんですね」


パク「・・・」


エマ「あの・・・」



エマは早速肉にナイフを入れる。



エマ「ん・・・なにから話そうかな。 

人間の、三大欲求を言えますか?」


パク「はい。 食欲、睡眠欲、性欲」


エマ「Exactly!」



エマはカットしたステーキをフォークに刺したものをプラプラと掲げて、返事をする。



エマ「ここからは、私独自の考えですから、世間一般的に通用するものではないのをお許しくださいね。

で、その三大欲求にすべての事象を振り分けて考えると、単純に見えてくるものがあります」


パク「ええ。 なんでしょう」



頬杖をついて興味深げに、肉をほおばるエマを眺めるパク。



エマ「芸術は、どの欲求にあてはまるでしょうか?」


パク「・・・性欲、ですか?」


エマ「Exactly! 芸術は、性欲・・・とりわけエクスタシーを感じるための物事なのです。

例えば、鮮やかな青やキラキラとしたクリスタルの輝きを見て恍惚となる。

また、荘厳な音楽を聴いてうっとりしたり、激しいノイズを聴いて脳内がスパークする。

これ、全てエクスタシーだと考えます。 ここまで分かりますか?」


パク「分かります」


エマ「そして、音楽家ですが」



パクが軽く眉根を寄せる。



エマ「音楽家には二通りあります。

作曲や即興で独自の音を作り出す音楽家と、演奏家、です。

この両者は、言葉の上ではともに音楽家ですが、意味合いは全く異なります。

先の音楽家は、無から有を生み出す行為をする。

そして演奏家は、あるものを表現する・・・その解釈に独自のものを見出してオリジナリティを追求することもありますが、彼らはアーティストではなく、あくまでもプレーヤーなんです」


パク「・・・」


エマ「そして、芸術家と演奏家との違いですが、これは明白です。

芸術家はすべてにおいて、無から有を生み出し、美を発見する者たちです。

演奏家は、今いったように、有をさらに積み重ねる人々。 ここまで分かりますか?」


パク「はい、もちろん」


エマ「パク様、あなたの音源を聴かせていただきました。

あなたは、あの音声を無から作り出したに違いない。

それは非常に崇高な行為です。

私はあの音声の中に、いくつかの音を伴う現代美術家の作品と同じ匂いをかぎ取りました。

その時、気づいたんです。 あなたはアーティストだったんだな、と、」



パクは驚いた顔をしている。グラスを持つ手が、宙でぴたりと止まる。



エマ「あなたは、ご自身のフェティシズムを不当に揶揄され、とても傷ついた経験をお持ちだと聞いています。 

でもね、真のアーティストは、そのフェティシズムを作品に昇華することができるんです。

例えば、ファッションデザイナーのジャン・ポール・ゴルチェを思い出してください。

彼の作品は、明らかにビジュアルにおけるフェティシズムをファッションに昇華させて、そこから一世を風靡する、大きな経済効果を生み出した」



パクはグラスをすでにテーブルに置き、皿の一点を見て、エマの声に聞き入っている。



エマ「あなたが伯爵に託した、あの貴重な音源は、秘匿するべきものではありません。

あれはあなたの処女作で、望むならそこからさらに改良を加えて、世に公表すべき作品です」



エマは、テーブルの上からパクの前に両手を差し出した。 その手を、パクはそっと掴んだ。



エマ「私はあなたから、並々ならぬ御恩をずっと受け続けてきて、いつかその御恩返しをしたいと思っていました。

でも今、やっとそれを見つけられました。

私は大変光栄にも、あなたの作品にエクスタシー、つまり芸術性を発見した、初めての人になれたんです。

ですから私は、あなたのデビューのお手伝いをします」


パク「デビュー、とは?」


エマ「あなたは、現代アーティストとしてデビューするんです。

私が持つささやかなご縁を総動員させます。

ぜひ、お手伝いさせてください。 一緒に世に出す作品を作りましょう」


パク「私に、そんなことが?」


エマ「はい。 これまでの二十数年、なにも気づけなかったのは、大変勿体なかったですね。

本来なら、ハルピュイアに ”変態” と言われた時点で、ご自身の才能に気付くべきでした」


パク「あ・・・」



一瞬だけ泣きそうな顔をするパク。 エマも少し目を潤ませて微笑む。

そしてパクの手をそっとはなして、グラスの白ワインをぐいっとあおった。



エマ「芸術なんてね!  ”変態” と言われてなんぼの世界なんですよ。

他人と違うことこそ恵みであり、誇りととらえねばなりません。

ハルピュイアは、ただのプレーヤー。 あなたは、アーティストです。

どんなに逆立ちしたって、ただのプレーヤーには、アーティストの産みの苦しみは理解できません」



そう言いながら、グラスをあけて、皿の残りの肉を食べるエマ。

パクもエマにつられてナイフとフォークを手に持ったが、皿の脇でその手は止まったままである。



パク「・・・2年前、私はあなたを忘れようとしました」


エマ「私がまだ、フーガに勤めていた時ですか?」


パク「はい。 私はフーガを訪れるたびに、あなたの声を録音させてもらっていたんです」


エマ「あ! そうだったのですね。 全然問題ありませんよ」



エマはにこにこしている。



エマ「それは、私が美術について語っていた言葉、ですか?」


パク「はい。 私はあなたのまとまった音声を、コレクションしていました。

ですからそれがあったので、あなたがフーガからいなくなることを知らされた後、もう二度と会えなくても、私は生きてゆけると思っていました。

でも神は、私とあなたに、チャンスを与えてくれました」


エマ「そうでしたよね。 まさか、あんなふうにまた、ご縁がつながるとは思っていませんでしたから。 あなたと出会えなければ、私の人生は大きく開けませんでした」


パク「あなたと出会えなければ、私はずっとトラウマに縛られたままでした」


エマ「今は、いかがですか?」


パク「私の心を包んでいた堅い殻が、割れ始めた感じです」


エマ「素晴らしいです。 本来のあなたが見え始めたんですね、パク様」



パクはそれを聞いて、少し困った顔で首をかしげた。



パク「エマ? もう、その呼び方はやめにしませんか?

私はもう、あなたの顧客ではないのですから、もっとラフに」



エマは照れたような表情をしている。



エマ「では、なんて呼べばいいのでしょうか。

私はまだ、あなたからの融資を返済できていません。

ですから、やっぱり、上下関係をなくすのは気持ちが悪いというか」


パク「では、オッパと呼んでください」


エマ「オッパ!」



エマは目を丸くして、楽し気に笑った。



エマ「私は、韓国語を学ぶのをさぼっていましたよ。 ごめんなさい。

オッパって、そういう時に使うんですね? もっと勉強します」


パク「はい、正しい使い方です。 私の方がほんの少しだけ歳上ですし」



時間をかけて、ようやく二人はそれぞれの皿を空にした。



*******************



ダイニングバーをでて、ロビーの椅子にこしかける二人。

だいぶ夜が深まっており、外の道路は自家用車よりタクシーが目に付くようになってきた。



エマ「飲みすぎました。 ごちそうさまでした、オッパ」


パク「どういたしまして、エマ。 明日の予定は?」


エマ「ええとですね、明日は新幹線に乗って、13時過ぎにはオフィスに戻ります」


パク「銀座を去るのは何時ごろ?」


エマ「10時過ぎで問題ないかと」



そういってショルダーバッグを肩にかけて立ち上がる。



エマ「では、私はもう帰りますね。 ありがとうございました」


パク「あの・・・待って」



パクがエマの片手をとる。



エマ「どうしました?」


パク「・・・ここの方が広いから、こちらへ泊まってゆかない?」


エマ「え?・・・いやあ、あの・・・」



突然のパクの提案に、ばつが悪そうに頭をかくエマ。



エマ「確かに私の方は安いビジホですけどね、でもそんな、まだ早くありませんか?

ちょっと、随分ねえ・・・」


パク「行かない・・・で・・・」



帰りかけようとするが、パクはごく小さくつぶやき、その手を放そうとしない。

冗談めかして苦笑いをし続けるエマ。



エマ「まいったなぁ、もう・・・オッパもけっこう、酔っぱらったんでしょ?」



エマは笑いながらパクの顔を覗くと、驚いた。

ポロリ、ポロリ、彼の頬に涙がつたわっていた。

静かな表情はそのままに、無意識のように目から涙だけがこぼれているのだった。



エマ「あ・・・どうして?」



エマが思い出した風景があった。

夢の中で、体を丸めてしくしく泣く、人形の、瘤の王子さまの姿だった。

エマは思わず、人形のように座ったまま動かないパクの頭を胸に抱いて、あやすように語りかけた。



エマ「オッパ、どうしたの。 どうして泣くの? もう泣くことないんだよ・・・」



ロビーには既に、二人のほかに人影はなかった。



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