第3話『聖域の影』

朝日が街を照らし、空は薄い橙色に染まっていた。しんは小さな少年の手をしっかりと握り、街の外れに続く道を歩いている。


「君、名前は……?」


「……リオ。」


「リオ……。僕はしん。安心して、必ず安全な場所まで連れていくから。」


 少年リオは小さく頷き、その小さな体をしんに寄せる。二人は瓦礫と灰に覆われた街を背に、遠くの丘を目指して歩き続けた。



 道の途中、しんはふと足を止め、地平線の彼方を見つめた。空は美しい朝焼けに染まっているが、その景色にはどこか冷たい違和感が漂っている。


(僕は……仲間を探さなきゃいけない。)


 しかし、しんは手がかりを何一つ持っていない。名前すら、もう曖昧で、自分が覚えているものが正しいかどうかも分からない。


(あの人は……だれだっけ……?)


 記憶の中で名前が交錯し、顔がぼやける。それでも彼らは確かにいた。確かに一緒に笑った記憶がある。


(きっと、僕が探している人はこの世界にいる。どこかで僕を待っている。)


「しん……?どうかしたの?」


 リオの小さな声がしんを現実に引き戻す。しんは笑みを作り、少年の頭を軽く撫でた。


「大丈夫。行こう。」




 丘の影でひと休みしていたしんは、胸の奥に小さな痛みを感じていた。右手の甲が微かに震え、舌が口内で不自然に蠢く。


『おい、しん。いつまでフラフラしてんだ?』


「かく……」


『お前さ、仲間仲間って言うけど、見つけられる自信あんのか?』


「自信なんて……ない。でも、探さなきゃ。彼らは……大事な仲間だから。」


『名前すら曖昧なくせに、よく言うぜ。』


 かくの舌の目玉がしんをじっと見つめ、右手の甲の口が不気味にくつくつと笑った。


「それでも……探さなきゃ。もし僕が諦めたら、誰が彼らを見つけるの?」


『……まぁ、そういうところは嫌いじゃねぇよ。』


 かくは小さくため息をつくように笑った。


『今夜、少しだけ協力してやるよ。だから、お前はお前でしっかり動け。』


「……ありがとう、かく。」


『泣き言ばっか言いやがって。』


 しんは目を閉じ、心の中で静かにかくに感謝を伝えた。彼らは二人でひとつだ。その事実が、しんを少しだけ支えてくれていた。


​───────


 二人はさらに歩みを進め、やがて遠くに大きな門が見えてきた。そこには『聖域』と書かれた古びた看板が掛けられている。


「ここが……聖域?」


 門の向こうからは、子供たちの笑い声や、かすかな歌声が聞こえてくる。しかし、どこかその雰囲気には緊張感が漂っていた。


「……この場所なら、リオは安全かもしれない。」


 しんは門の前で立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をする。


『しん、気をつけろよ。この場所、なんか妙だぜ。』


「分かってる。でも、ここしかない……」


 門を押し開けると、そこには広大な広場が広がっていた。花壇が整備され、小さな建物が並び、子供たちが走り回っている。


「いらっしゃい。」


 その声にしんは振り向いた。そこには穏やかな笑みを浮かべた青年が立っていた。

 ヒューマノイドらしき彼は、優しい瞳で二人を見つめている。


「ここはヒューマノイドが安心して暮らせる聖域。あなたたちも、ゆっくりしていってください。」


​───────


 しかし、聖域は平穏そのものではなかった。

 住人たちの目には怯えが見え、誰もがどこか周囲を警戒している。


「どうして、こんなに……」


 しんはリオを連れて施設内を歩く。どの扉も鍵がかかっていて、誰も目を合わせようとしない。


「……何かがおかしい……」


 その時、しんの背後から小さな声が聞こえた。


「君、ここに来ちゃダメだよ。」


 振り返ると、小さな少女が立っていた。彼女は怯えた表情で、しんの手を引っ張る。


「逃げて……ここは、もう安全じゃない……!」


 少女はしんに、聖域の裏側を小声で伝えた。

 トラスト教会が「聖域」を“浄化”しようとしていること。

 今夜、午前零時──彼らはこの地を無慈悲に焼き尽くすこと。


「逃げなきゃ……!」


 しんの心は焦りと恐怖に満たされる。しかし、その中で小さな疑問が浮かぶ。


(もし……もしここに、僕の仲間がいるとしたら?)


「かく……どうしよう……」



 しんの手は震え、リオの小さな手の温もりが彼を引き止める。


​───────


 夜が近づき、遠くで鐘の音が鳴る。それは絶望の前兆。


「夜が来る……」


 しんは目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「お願い……かく。君じゃないと、ここにいる人たちを救えないんだ……!」


​───────


 夜の街は深い闇に覆われ、鐘の音が静寂を裂くように響いていた。

 路地裏にうずくまるしんは、小さな体でリオと少女を必死に抱き寄せていた。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 震える声は細く、途切れ途切れに漏れ出る。

 額から滴る汗、固く噛み締められた唇。


(僕じゃ……僕じゃ守れない……!)


 その時、金属音と共に冷たい足音が路地裏に響いた。

 影が伸び、鳥のくちばしを模した仮面が暗闇に浮かび上がる。


「……見つけた。」


 執行人・レイが短剣を構え、しんに向かってゆっくりと歩み寄る。



 レイの赤い瞳が、獲物を捕らえる猛禽類のようにしんを見据える。


「動くな。」


 その言葉だけで、しんの体は硬直した。

 動かなければ、もしかしたら助かるかもしれない。そんな甘い考えが頭をよぎる。


「お願い……やめて……!」


 か細い声が震えながら零れる。


「罪を裁くのは、私ではない。神だ。」


 レイは一歩、また一歩と距離を詰める。

 しんの背後で、リオが息を詰まらせ、少女が涙を流している。


 (僕には……どうすることもできない……!)


 その時、頭の奥で冷たく乾いた声が響いた。



『……おい、まだそのままでいるつもりか?』



 その声はしんの頭の中に直接降り注ぐように響いた。

 冷たく、どこか呆れたような声色。


「……君は、どうして……いつも待ってるんだ……?」


 しんは震える手で胸元を掴み、目を閉じた。


「僕じゃ……動けない……! 僕は弱い……怖いんだ……!」


 その言葉に、かすかに乾いた笑いが返ってきた。


『チッ、まったく……お前は相変わらずだな。』


 ゆっくりと、しんの身体から力が抜けていく。

 そして次の瞬間、瞳が赤く染まり、唇から舌が垂れ下がった。


 舌の先には、ぎょろりと動く目玉が不気味に揺れる。


「はぁ……やれやれ、また俺の出番か。」



 しんの細い肩は、かくのものに変わり、表情には冷たい余裕が浮かんでいた。


 レイは短剣を構えたまま、静かに言葉を放つ。


「……夜の存在。」


「お前、毎回同じ台詞だなぁ。」


 かくは舌の目玉を動かし、右手の甲にある口がくつくつと笑い声を上げる。


「ヒィ……ヒィ……ハハハハ……!」


 その異様な雰囲気に、レイの動きが一瞬だけ止まる。

 かくはその隙を見逃さず、リオと少女の手を引いた。


「さぁ、お前ら。ここは俺に任せな。」


​───────


 かくは走りながら、ふっと小さく息を吐いた。


「まったく、しんのヤツは毎回これだ。」


 夜の冷たい風がマントを揺らし、舌の目玉がかすかに動く。


「怖くても、足が震えても、それでも逃げなかったのは褒めてやるよ。」


 かくは嘲るような口調で言いながらも、その表情にはどこか微かな優しさが滲んでいた。


「お前はいつも頼るくせに、最後まで俺に言わねぇんだよな。」


 彼の瞳が、僅かに寂しげに揺れる。


​───────


 路地裏の先で、銃口がかくを捉えた。

 ポーター・アシェが震える手で銃を構えている。


「待て!動くな!」


 その声は張り詰めていたが、どこか迷いが滲んでいた。


「……お前、撃てるのか?」


 かくはゆっくりと足を止め、赤い瞳でアシェを見つめた。


「この子たちは、異端者か?」


 アシェの指が引き金を震わせる。


「僕には……わからない……!」


 その迷いに、かくはふっと息を吐いた。


「お前、まだガキだな。」


 そして一瞬の隙を突き、かくは子供たちを抱えて走り去った。


​───────


 廃ビルの一角、かくは子供たちを降ろし、静かに目を閉じた。

 赤い瞳が薄れ、舌の目玉がゆっくりと閉じる。


 しんが、息を切らしながら膝をついた。


「僕は……僕は、君たちを守れたの……?」


 少女とリオがしんを抱きしめる。


「ありがとう……。」


​───────


 アシェは路地裏で、銃口を下ろしていた。

 レイが静かに近づく。


「アシェ、お前は甘すぎる。」


「……分かっています。」


 二人は夜明けの光に照らされながら、それぞれの道を進んでいった。



​───────

 その頃、かくはしんの意識の中で独り言のように呟いた。


『……なんだかんだ、面倒見ちまうんだよな。』


 赤い舌の目玉が微かに揺れ、口の端がわずかに歪む。


『お前が動けるなら、それに越したことはないんだけどな。』


 夜明けの光が瓦礫を照らし、世界が静かに色を取り戻していく。


​───────


隠れ家は夜の闇に飲み込まれるように静まり返っていた。月明かりだけが小さな窓から差し込み、木製の床に青白い光の線を描いている。微かな風が壁の隙間から入り込み、カーテンをわずかに揺らした。


子供たちは端に固まるようにして眠っていた。疲れ果てた表情、すすり泣きが止まらない小さな肩、寝息は浅く、時折びくりと身体が震える。


その傍らで、しんは膝を抱えて壁にもたれかかっていた。紫の髪が顔を隠し、うつむいた表情は闇に溶け込んで見えない。


「……僕は……どうして、ここにいるんだろう……。」


小さな声が漏れた。それは夜の静寂に飲み込まれ、誰にも届かない。


しんの手は震えていた。


かくは、出てこない。今夜は、あえて出てこないでいる。


「……どうして、何も言わないの?」


しんは右手を見つめた。いつもなら、もうとっくにかくが姿を現して、自分に代わってくれていたはずだ。


「……君も、呆れているんだね……。」


ふっと小さく笑う。それは自嘲気味で、どこか諦めに近い表情だった。



「お兄ちゃん……。」


震える声が闇を裂いた。しんははっと顔を上げる。そこには幼い女の子が、小さな手でしんの袖を掴んでいた。


「怖かったけど、お兄ちゃんがいてくれたから……だから、逃げられたんだよね……。」


少女の瞳には涙が滲んでいる。それでも必死に笑おうとしている。


「……僕は……。」


しんは言葉を詰まらせた。少女の小さな手の温もりが、彼の震える指先に広がる。


「僕は……何も……。」


「ありがとう、お兄ちゃん。」


しんは口を閉ざし、少女の手をぎゅっと握り返した。その小さな手は、彼の手よりもずっと力強いように感じられた。


​───────


隠れ家の中は静寂に包まれている。壁際では子供たちが寄り添い合い、少しだけ穏やかな寝息を立てていた。


しんは立ち上がり、窓際に向かう。外には夜の闇がまだ広がっている。月明かりが静かに街並みを照らし、遠くには教会の尖塔が影のように浮かび上がっていた。


「……かく。」


しんは右手の甲を見つめた。

かくは出てこない。それが、しんにはわかっていた。


今夜は、自分で答えを出さなければならない夜だ。


​───────


遠く離れた廃墟の教会。風が吹き抜け、天井の隙間から月明かりが差し込む。静寂に包まれた空間で、アシェは銃を両手で握りしめていた。


「……僕は……僕は何をしているんだろう……。」


彼の声は震え、目は虚空を彷徨う。


近くではレイが短剣を研いでいた。無機質な金属音が、廃墟に響く。


「迷いは命取りだ、アシェ。」


レイは顔を上げることなく、淡々と告げた。


「僕は……迷ってなんか……。」


「お前は甘い。そんな迷いが、お前を殺す。」


レイは短剣を鞘に収め、冷たい瞳でアシェを見つめた。


「次に迷った時は、お前が”処理”されるだけだ。」




​───────

隠れ家の扉の外で、微かな足音がした。


コツ、コツ。


しんの肩がびくりと震える。子供たちは目を覚まし、怯えた目でしんを見つめる。


「だ、大丈夫……。」


しかし、その声には自信が欠片も宿っていない。


扉が、ゆっくりと開いた。


月明かりに照らされながら、そこに立っていたのはアシェだった。


アシェは銃を下げ、しんを見つめていた。彼の瞳には迷いと葛藤、そして痛みが滲んでいる。


「……逃げろ。」


しんは息を呑む。


「え……?」


「今のうちに逃げて。僕は、お前たちを見なかったことにする。」


アシェの声は震えていた。


「なんで……?」


「僕には、もうわからないんだ……。神様の教えが正しいのか、僕たちがやっていることが正しいのか……。」


アシェの指が銃の引き金にかけられるが、その手は震えている。


「お願いだから、早く逃げてくれ……!」


しんは小さな子供たちの手を握り、扉の外へと足を踏み出した。


「大丈夫……僕が、守るから……!」


震える声で言い聞かせるように呟く。その背後で、アシェは銃を下げたまま立ち尽くしていた。


「僕は……僕は……。」


彼の頬を涙が伝う。


​───────


夜明けはまだ遠く、空には淡い青が滲み始めていた。しんは子供たちの手を握りしめ、暗い路地裏を慎重に進んでいた。足音を立てないように、息を潜めながら。


「静かに……ここを抜ければ、大通りに出られるはず……。」


しんの声は小さく、震えていた。しかし、子供たちはその声に従い、小さな足で必死に彼について行った。


背後では、アシェが立ち尽くしている。しんは彼の姿を振り返らないまま、路地の闇へと消えていった。


​───────


アシェは銃を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。足元には彼の影が歪んで伸び、揺れている。


「……僕は……。」


涙がぽたりと地面に落ちる。


「僕は、何を信じればいいんだ……!」


彼の叫びは闇に吸い込まれ、誰にも届かなかった。アシェは震える手で銃を再びホルスターに収め、壁にもたれかかる。


彼は、ただ子供たちの無事を祈っていた。


​───────


路地裏はまるで迷路のように入り組んでおり、古びたレンガの壁がしんたちを取り囲んでいる。風が冷たく、夜の湿った空気が肌を刺す。


子供の一人が小さく泣き声を漏らした。


「もう……歩けないよ……。」


しんは立ち止まり、しゃがみ込んでその子供の顔を覗き込む。


「大丈夫……あと少しだから。僕が……僕が、守るから……。」


しんの言葉には震えがあったが、それでも子供たちは小さく頷き、再び歩き始めた。


しかし、遠くから足音が聞こえる。


「おい、あそこにいるぞ!」


鋭い声が闇を裂き、金属がぶつかる音が響く。


しんの心臓が早鐘のように鳴る。


「走って……!全力で……!」


子供たちは泣きそうな顔をしながらも必死に走り出す。しんもその後ろを追いかける。


足音が近づいてくる。闇の中から現れたのは、教会の兵士たちだ。銀色の鎧と十字架の紋章が月明かりに浮かび上がる。


「異端者だ!捕えろ!」


男たちは聖なる武器を手に、しんたちを追い詰めようとする。しんの呼吸が荒くなる。冷や汗が頬を伝い、手足が震える。


「くそっ……!」


狭い路地に逃げ込むと、袋小路。高い壁が彼らの行く手を遮っている。


「終わりだな。」


兵士たちはゆっくりと歩み寄る。子供たちはしんの背後に隠れ、震えている。


「まーた追い詰められとるやんけ」


静かな声が闇に溶け込むように響いた。


しんはその声に心臓が止まりそうになるほど驚いた。そして、兵士たちが一斉に振り返る。


そこにはSが立っていた。壁に片足をかけ、片手をポケットに突っ込み、いつもの軽薄な笑みを浮かべている。


「……S君!」


しんの顔が強張る。兵士たちも同じように警戒の色を浮かべた。


「おいおい、ほんまにお前ら、ガキ相手にムキになりすぎちゃう?」


兵士の一人が声を荒げる。


「S、貴様……!」


「はいはい、落ち着きぃや。」

Sは軽く手をひらひらと振り、しんを見つめた。彼の瞳がわずかに細められる。


「お前さん、また面倒ごとに首突っ込んどるんか?」


「S君……どうしてここに……?」


しんの声は震えていた。


「んー、ちょっと見物しに来ただけや。まぁ……あんさんが逃げ切れるかどうか、興味あったんよ。」


その言葉に、兵士たちは一瞬顔を見合わせる。


「S、これは教会の任務だ。お前には関係ない!」


「そうやなぁ。でも俺、金もらってへんし、今はどっちに付くか決めかねとるんよ。」


Sの笑顔は軽薄だが、その瞳には何か鋭いものが宿っている。


しんは子供たちを守るように立ち、震えながらSを見つめる。


「……僕たちは、もう行かなきゃ。」


Sは片手を挙げ、ため息をついた。


「おう、わかったわ。ほな、今夜は見逃したる。」


その瞬間、兵士たちが動こうとしたが、Sが指を一本立てた。


「お前らもや。今夜は俺に免じて引いたらどうや?」


「S……!」


「今ここで動いたら、俺はどっちにつくかわからんで?」


その言葉に兵士たちは動けなくなる。沈黙が路地裏を支配した。


「さぁ、早よ行きぃ。」


しんは震える手で子供たちの手を握りしめた。


「……ありがとう。」


Sは軽く片手を振り、笑みを浮かべた。


「礼はいらん。はよ行きや。」


​───────


しんたちは路地裏を抜け、やがて街外れの小さな空き地に辿り着いた。東の空がわずかに白み始めている。


「ついた……?」


子供たちが小さく頷き、涙を拭う。


しんは息を吐き、夜明けの空を見上げた。


「これで……少しは……。」


しかし、その背後では、まだ危険が渦巻いていることを、しんは理解していた。


​───────


 冷たい風が吹き抜ける空き地で、しんは子供たちを草むらに隠していた。


「……ここから動かないで。絶対に、誰にも見つからないように。」


 子供たちは涙を拭い、小さく頷く。その様子を見て、しんは震える足を踏み出し、路地裏の闇へと向かう。


 (僕は……また、彼に頼るのかな。)


 胸の中でかくの顔が浮かぶ。冷ややかな笑顔と、どこか面倒くさそうな表情。


 (でも……今は僕が、やらなきゃ……。)


​───────


 湿った空気の中、アシェは震える手で銃を握りしめていた。


「僕は……僕は……。」


 引き金にかけた指が小刻みに震える。


 その向かいに立つレイは、鳥の仮面の奥から冷たい視線を投げかける。


「お前には、迷いがある。」


 レイの手には短剣が握られ、いつでもアシェの心臓を貫ける状態だった。


「任務に迷いは不要だ。」


「僕は……間違っているのか?」


 アシェの瞳には涙が滲み、唇は震えていた。



 その場面に、息を切らしたしんが飛び込んできた。


「や、やめて……っ!」


 レイとアシェ、二人の視線が一斉にしんに向く。


「異端者。」


 レイは冷たい声で呟き、しんに向かって一歩踏み出す。


「逃げろ、しん……!」


 アシェが叫ぶが、しんはその場に立ち尽くす。


 レイが短剣を振り上げた——その瞬間。



「待った待った、えらい盛り上がっとるやないか。」


 静かな足音が響き、軽薄な声が闇の中から降ってきた。


​───────

 路地の入り口に立っていたのは、先程と同じ軽薄な笑みを浮かべたS君だった。


「ほんま、お前ら、ちょっとは空気読めや。夜明け前のロマンチックな時間やっちゅうに。」


 Sはポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと近づいてくる。


「S……!」


 アシェは息を呑む。


「お前、なぜここに……?」


 レイが警戒するように短剣を構える。


「まぁまぁ、待ちぃやレイくん。アンタも、もうええやろ?これ以上は話がややこしゅうなる。」


 Sはヒラヒラと手を振り、路地の真ん中に立った。


「それとも、レイくん、俺と一緒に踊るか?」


 Sの目が一瞬だけ鋭く光った。


 レイはしばらくSを睨みつけていたが、やがて短剣を収め、ゆっくりと身を翻す。


「……任務はここまでだ。」


 レイは闇の中へと消えていった。


 しんは恐る恐るSを見つめる。


「S君……。」


「さっきぶり、小さな勇者さん。戻ってくるなんてなぁ。」


 Sは軽く肩をすくめ、ポケットから飴玉を取り出して口に放り込んだ。


「ほな、次はアンタや。」


 彼はゆっくりとアシェに向き直る。


「アシェくんやったっけ?あんた、ほんまにこのままでええんか?」


 アシェは震える瞳でSを見つめる。


「僕は……僕は、何をすればいいのか、わからない……。」


 その言葉にS君はふっと笑みを浮かべた。


「ほな、一つだけ教えといたるわ。正しい答えなんか、どこにもあらへん。ただ、選ぶんや。自分が信じたい道を。」


 アシェは息を飲み、銃を静かに下ろした。


「僕は……僕は……。」


 しんがそっとアシェの肩に手を置く。


「一緒に、来ませんか……?」


 アシェは涙をこぼしながら、小さく頷いた。




​───────


 Sはその様子を見届けると、ポケットに手を突っ込んだままゆっくりと後ろを向いた。


「ほな、これでひとまず一幕終了やな。」


 そして、ふと小さく呟く。


「……ほんま、こいつらおもろいわ。」


 誰にも聞こえないように、小さな笑みを浮かべた。


 そして彼の姿は、路地裏の闇に溶けるように消えていった。



 東の空に光が差し込む。


 しん、アシェ、そして草むらで震えていた子供たちが空き地に集まる。


 夜が明け、街は少しずつ動き出していた。


「……行こう。」


 しんの小さな声に、アシェは頷く。


「ありがとう、しん。」


 子供たちの手を引き、彼らは新しい一歩を踏み出した。


​───────

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