第2話『灰色の希望』

街の外れにある小さな食堂。薄汚れた看板が揺れ、窓ガラスには指紋と埃がこびりついている。それでも、店の中は意外にも温かい雰囲気が漂っていた。古びたテーブルには皿が並び、カウンターの向こうでは中年の女性が鍋をかき回している。


「おばちゃん、朝飯二人分や!」


 Sはカウンターに腰掛けると、気怠そうに足を組んだ。しんは隣の椅子におどおどと座り、周囲を見回す。


「お、お金、僕……」


「あー、気にせんでええ。ここは俺の“行きつけ”や。ここのおばちゃんは俺に借りがあるんや。」


「そ、そうなんですか……」


 Sはニヤリと笑い、ポケットから銀色のコインを取り出してカウンターに放り投げた。


「ほらな?」


 しんは小さく頷き、フードを深く被った。店内には他に客はおらず、壁に貼られた新聞や掲示板には「異端者粛清」「聖なる光で浄化を」と書かれたポスターが並んでいた。


(……怖い。こんな場所で、僕は……)


「なぁ、しん君。」


「はい?」


「お前さん、なんでこんな街におるんや?」


 Sはフォークをくるくると回しながら、真剣な表情でしんを見つめる。


「僕は……仲間を探してるんです。ずっと、探してて……」


「ふぅん、仲間ねぇ。家族とか、そんな感じか?」


「……そう、かもしれない。」


 Sは何かを考えるように口元を触り、しんから目を逸らした。


「ま、ええわ。仲間探しな。俺も多少は手伝ったるよ。その代わり……お前さん、ちゃんと自分を守れるんか?」


「……僕は……」


「ま、無理やろな。お前さん、昼は無理やけど、夜は別人格に任せてるんやろ?」


 しんの顔が強張る。


「なんで、それを……」


「なんとなくや。お前からは二つの匂いがする。それだけや。」


 Sは軽く肩をすくめ、笑った。


「ま、ええやろ。夜の“彼”にもよろしく伝えとき。」


​───────


 朝食を終え、二人は食堂を出た。朝の陽光が街を照らし、そこには一見穏やかな日常が広がっていた。


「さて、次はどこ行く?」


「……とりあえず、安全な場所を探したいです。」


「安全な場所、ねぇ。お前さん、ヒューマノイドはここじゃずっと狙われる運命やぞ?」


 Sの声には少しだけ哀愁が滲んでいた。


 その時、二人の足が止まる。広場の中心に立つ掲示板には新たな張り紙が貼られていた。


『本日、異端者処刑式 午前零時より執行』


 そこには、ぼろぼろの服を着たヒューマノイドの少年の顔が描かれていた。彼の目は怯え、涙を堪えている。


「……これが、この街の現実や。」


 Sはつぶやき、懐からタバコを取り出して口にくわえた。


「どうする、しん君?お前さんはこれを見て何を思う?」


 しんは掲示板の紙を見つめたまま、言葉を失っていた。


​───────


 二人は広場の隅に腰掛け、人々の流れを観察する。通行人たちは処刑の告知に慣れた様子で、誰も立ち止まることはなかった。まるでそれが“日常”の一部であるかのように。


「ねぇ、お父ちゃん。今日の処刑、見に行く?」


「おぉ、見るとも。神聖なる執行や。俺たちが浄化される瞬間や!」


 広場の端では、父親と子供がそんな会話をしている。しんは小さな手で胸元を握りしめた。


(こんなの……こんなの、間違ってる……)


「お前さん、顔色悪いな。」


「……どうして、こんなことが許されているんですか……?」


 Sはタバコの煙を吐き出し、遠くを見つめた。


「許されてるんやない。誰も疑わへんだけや。『トラスト教会の言うことは正しい』ってな。だから、誰も何も言わへん。」


「……そんなの……」


「でもな、しん君。こういう世界で俺たちは生きてるんや。お前さんがその少年を助ける気があるなら……」


 Sはしんをじっと見つめる。


「それなりの覚悟がいるで?」


​───────


 日は傾き始め、街には影が伸び始めていた。Sはしんを連れて廃墟の一室に案内する。窓からは遠くの広場が見え、処刑の準備が着々と進んでいるのがわかった。


「しん君、今夜どうする?」


「僕は……」


 しんは小さく息を吐き、拳を握った。


「……僕は、行きます。」


「ほぉ、よう言ったなぁ。。」


 Sはニヤリと笑い、立ち上がる。


「お前さんはまだガキや。でも、その一歩は確かに意味がある。忘れんなよ、その震えた拳を。」


 しんはゆっくりと頷いた。


 窓の外、空は暗闇に飲まれようとしていた。


​───────


 夜の帳が街を覆い尽くし、広場には緊張感が漂っていた。午前零時の鐘が鳴る時、ひとつの命が消される。その広場を見下ろせる廃墟の窓から、しんは小さな体を縮こまらせるようにして外を見つめていた。


「……時間が、迫ってる……」


 震える声が漏れ、細い指がマントの裾をぎゅっと握る。隣ではSが壁にもたれかかり、煙草を口元に運ぶ。


「お前さん、どうするんや?時間は待ってくれへんぞ。」


「……僕は……」


 しんの喉が詰まり、言葉が続かない。広場では檻の中の少年が怯え、執行人たちが着々と準備を進めている。人々はそれを無表情で見つめていた。


(僕には……何もできない)


 その瞬間、しんの中で小さな「声」が聞こえた。


『おい、しん。何をしてるんだ?』


 その声は、いつものように強引にしんを押しのけるのではなく、どこか冷ややかで、しかし優しさすら滲ませていた。


(……かく……?)


『今日は見逃してやるよ。お前がどうするか、見守ってやろうと思ってな。』


 その言葉にしんの顔が強張る。


(どうして……どうして出てきてくれないの……?)


午後十一時四十五分──


 広場では執行人たちが最後の儀式の準備を進めている。少年の檻の周りには、幾重にも武器を構えた兵士たちが立ちはだかっていた。


「光に還れ!」


 司祭の声が広場に響き、しんの心臓は強く跳ねた。彼は拳を握りしめ、必死に足を前に出そうとする。


(行かなきゃ……僕が、あの子を助けなきゃ……)


 しかし、足は石のように重たく、震える体は一歩も動けない。


「……僕には、できない……」


 涙が零れ、しんはその場に膝をつく。


「どうして……どうして僕は、何もできないんだ……!」


 広場の鐘が、零時が迫っていることを告げるように低く鳴った。


「お願い……君じゃないと、あの子を助けられないんだ……!」


 しんは震える声で空へと訴える。涙が頬を伝い、拳が震えた。


『……やれやれ。結局、俺に頼るのかよ。』


 冷ややかな声がしんの耳元に響く。まるで溜息をつくような、どこか呆れたような口調だった。


『お前はいつもそうだ。結局、自分じゃ何もできやしない。』


「……ごめん……僕には、君が必要なんだ……!」


 その瞬間、しんの体が小刻みに震え始めた。舌が不自然に蠢き、右手の甲が痙攣する。そこにある口がゆっくりと開いた。


「ヒィ……ヒィ……ハハハハ!」


​───────


 かくが姿を現した。赤い瞳が夜の闇を貫き、舌の目玉がぎょろりと周囲を見渡す。


「やれやれ、全く世話が焼けるな。」


 彼は大きく伸びをしてから、S君に視線を向ける。


「待たせたな、S君。」


「あぁ、ずいぶんと“待たされた”わ。」


 Sは軽く笑い、煙草を灰皿に押し付ける。


「さぁ、お前の出番や。夜は短いで?」


「おうよ。今夜は俺がこの舞台をひっくり返してやるぜ。」


​──後でゆっくり、話したいしな。​──

小さく、聞こえないような声で呟く。


 かくは窓枠に立ち、マントをひるがえした。そして、広場に向かって一気に飛び降りる。



「時刻は零時!これより異端者の処刑を執行する!」


 司祭が高らかに宣言し、聖剣が空高く掲げられる。その刃には聖なる光が灯り、少年の顔には絶望の色が浮かぶ。


「光に還れ!」


 その瞬間——。


「待った待ったぁ!」


 かくの声が広場に響き渡る。屋根の上に立つ彼の姿が、月明かりに照らされている。


「なんだ、あれは!?」


「誰だ!?」


 執行人たちが動揺し、武器を構える。


「お前ら、随分と楽しそうじゃねぇか。悪いが、今夜の主役は俺だぜ!」


 かくは広場へと飛び降り、檻の前に立った。


「おう、坊主。怖かったか?」


「……た、助けて……」


「あいよ。今夜は俺が主役だからな!」


 右手の甲の口が大きく開き、檻の鍵が砕ける。


「走れ、早く!」


 少年は涙を流しながら走り去る。その背中を見送るかくの瞳には、一瞬だけ優しい光が宿った。


​───────


「捕えろ!異端者を捕えろ!」


 執行人たちが一斉にかくに向かって突進する。しかし、かくは身軽に攻撃をかわし、右手の甲が不気味に笑った。


「ヒィ……ヒィ……ハハハハ!」


「遅い、遅い!そんなもんじゃ俺には当たらねぇよ!」


 光る刃がかくの周囲を舞うが、その全てが空を切る。


「さて、時間切れだ!」


 かくは足元に煙幕弾を叩きつけ、広場に白煙が広がる。


「じゃあな、お前ら。また遊ぼうぜ!」


​───────


 闇夜の中、かくは廃墟へと戻ってきた。月明かりが彼を淡く照らす。


「ふぅ……今夜は少し派手にやっちまったな。」


 かくは窓枠に座り、足をぶらぶらと揺らす。


「しん、お前、見てたか?」


 その瞬間、彼の体が淡い光に包まれ、しんへと戻った。


「僕は……僕は、何も……」


 しんは小さな声で呟き、膝をついた。


「僕は……どうすれば……」


 涙が一筋、彼の頬を伝った。


​───────


 夜明け前の空はまだ暗く、街は静まり返っていた。

 廃墟の一室では、しんが小さくうずくまっている。身体は震え、目元は涙で濡れていた。


「僕は……僕は、結局……何も……」


 かくが救い出した少年は無事に逃げ延びた。それでも、しんの胸には重たい後悔が沈んでいる。

 窓の外では、執行人たちが広場の後始末をしていた。鎧の音と、何かを引きずる音が響く。


「おいおい、そんな顔すんなよ。」


 Sが煙草をくわえながら、しんの隣に腰を下ろした。


「お前さん、助けたやんか。結果は出とる。」


「違う……僕が助けたんじゃない。君が……かくが、助けたんだ……」


 しんは拳を握りしめ、顔を上げた。その瞳には自己嫌悪と、逃れられない無力感が揺れていた。


「僕は……何もできない……!結局いつも、彼に頼って……!」


「ほんなら、頼ったらええやん。」


 Sは軽く笑い、煙を吐き出す。


「お前さんには“夜”がある。頼れるもんがあるなら、頼ればええ。それは弱さやない。」


「……でも……」


「ま、弱い奴ほど、自分で何とかしようとして結局倒れるんや。」


 Sの言葉はどこか冷たく、しかし優しさが滲んでいた。彼はしんの頭を軽くポンと叩く。


「大丈夫や。お前さんはまだ走っとる。それだけで充分やろ。」


 しんは廃墟を出て、ゆっくりと夜明け前の街を歩いていた。

 壊れかけた石畳、ひび割れた壁、遠くから聞こえる犬の遠吠え。街は傷つき、疲れ果てていた。


「……僕は、どうしたらいいんだろう……」


 街角には一人の老人が座っている。彼はボロボロの布をまとい、冷たい夜風に震えていた。

 しんはそっと近づき、小さな毛布を差し出す。


「これ……使ってください……」


 老人は小さな声で「ありがとう……」と呟いた。


 その瞬間、どこか遠くから鐘の音が聞こえた。

 それは午前零時の鐘ではなく、夜明けを告げる鐘だった。


​───────


 一方、トラスト教会では大司教の部屋に執行人たちが集まっていた。

 十字架が壁にかけられ、ろうそくの炎が揺れる。


「昨夜の騒動、異端者が逃げ出したようですね。」


「……異端者一人の命など、どうでもいい。」


 大司教は冷ややかな声で言い放った。


「問題は、その異端者を解放した“存在”だ。」


「確かに……あれはただの異端者ではありませんでした。」


「執行人Sを呼べ。彼には次の任務を与える。」


「はっ!」


 執行人たちは部屋を出ていく。残された大司教は、聖書のページをめくりながら小さく呟いた。


「夜の道化……興味深い。」


​───────


 夜が明け始める頃、しんは小さな路地裏で一人の少年を見つけた。

 昨夜助けた少年だ。少年は空腹を抱え、縮こまっていた。


「あ……」


 しんは驚き、小走りで少年の元へ向かう。


「君、大丈夫……?」


「……」


 少年は震えながら、しんを見つめた。


「ごめんね……僕は何もできなくて。でも……今度は、僕が助けるから……!」


 少年の手をぎゅっと握る。しんの瞳には、かすかな決意が宿っていた。


「一緒に行こう。安全な場所まで……」


​───────


 廃墟の隅で、Sが待っていた。彼は壁にもたれかかり、軽く笑っていた。


「おやおや、子供連れとはな。ずいぶんと様変わりしたやないか。」


「S君……」


「そのガキ、連れて行くんか?」


「うん。僕が……僕が守る。」


 Sはその言葉に目を細める。


「……なら、お前さんにいいこと教えたろ。教会は次に“大きな掃除”をするらしい。」


「大きな掃除……?」


「ああ。次は、ヒューマノイドが集まる“聖域”を一掃するらしいわ。」


 その言葉にしんの顔が強張る。


「聖域って……」


「お前さんみたいなのが隠れとる場所や。大規模な動きになるで。」


「……行かなきゃ……」


「へへっ、頑張れや。ま、俺はこっちで高みの見物させてもらうわ。」


 Sは軽く手を振り、路地裏に消えた。


​───────


 しんは少年の手を引き、街を歩き出す。朝日がゆっくりと街を照らし始める。


(僕は、逃げない。今度こそ、ちゃんと守るんだ。)


 街の遠くから、再び鐘の音が響いた。それは新しい一日の始まりを告げる音。




​───────​───────​───────

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