イサド~ようこそ身体パーツレンタルへ~

阿村 顕

第1話

「っだから! どういう意味かさっぱり分からないのよ!」

「もう一度―」

 ガチャンッ。

 突然の大きな音。鼓膜に鈍い痛みが走る。如何やら受話器を叩きつけるように、お客様が電話を切ったらしい。

「ご説明いたしますね」

 残念ながら、私の作り声が届くことはなかったようだ。既に誰もいない受話器の先へ、丁寧な口調で話しかけてしまう何とも虚しい結果となった。

「道宮くん」

「はいっ」

 反射的に出た返事は、思った以上に良く通った。私のたった一言によって、がやがやと騒がしかった社内が水を打ったように静まり返る。

「君さぁー。この間もお客さん怒らせてたよね」

「…すみません」

「いやいや謝って欲しいわけじゃなくってさぁ。電話対応の際は、もっと落ち着いてだねぇ。考えも無しに発言するなって、いつも言ってるよね。そもそも、何度も同じ事を注意されるなんて、やる気あんのかって話。大体さぁ、大切なお客様に―」

 くどくど続くお怒りのお言葉に、肯定のみの相槌を打つ。最初のうちは意見したこともあった。しかし一度も聞き入れられたことはなく、お説教が長くなるだけだった。暖簾に腕押し、糠に釘、課長に意見だ。

 今電話対応をしたお客様とこの間お電話をいただいたお客様は同一人物で、課ではちょっとした有名人だという言葉をグッと飲み込む。

 すごい頻度で電話を掛けてくるため、課長を除いた課員は皆嫌でも番号を覚えている。出たら十中八九お怒りの電話で、基本的にひどい難癖をつけられ、罵倒される。そんな電話には誰も出たくないが、誰かは対応する必要がある大切なお客様だ。

 当然損な役回りは、一番下っ端の私に回ってくるより他ない。

「役立たず」「出来損ない」「まったく今の若者は」「何なんだ、そのやる気がない目は」「若い女の子なんだから」「もっと気をきかせて」「愛想よくできないのか」

 口角泡を飛ばしながら、罵倒し続ける男にただ合図を打つ。

 さっきも同じような言葉が受話器越しに耳の穴から入ってきたばかりだというのに。

「そんなことも分からないの」「それは分かってるわよ、だから。はぁー。あんたって使えない」「この給料泥棒」「とりあえず相槌しとけばいいとか思ってるんでしょ」「人の事馬鹿にして」

「「もうお前なんか、仕事辞めちまえ」」

 お客様の声と課長の声がユニゾンする。

 大丈夫。大丈夫。心を殺せばいいだけ。毎日同じようにやり過ごせばいいだけ。昨日できたんだから、今日できない訳ない。

 毎朝同じ時間に起きて。顔を洗って。

「朝からいいご身分ね。ママはパパのお弁当作りで一時間も早く起きてるのに。」

 同じ時間に朝ごはんとお弁当作って。

「油使うなら、昨日の揚げ物の残り使ってよ。本当に気の利かない子」「ちょっと小言言われたくらいでそんなに慌てて、全く誰に似たんだか」

 食べて。

「くちゃくちゃ噛むな。本当に耳障り」

 着替えて。

「何そのダサい服。女の子なんだから、もっと可愛い服着ないと。そんなんじゃ、会社の人に相手にされないよ」

 メイクして。

「調子に乗って高い化粧品なんか使っちゃって。ママなんて安物しか持ってないのに。あーあ、なんて親不幸な子」

 鞄を持って。家を出て。

「今日も真っ直ぐ帰ってくるの? 若い内にいい人探しておかないと。いつまでも子供じゃないんだから」

 同じ時間の満員電車に乗って。

「お前みたいなブスのケツなんて触んねーよ。調子乗ってんじゃねーよ、このクソアマ」

 出勤して。

「役立たず」「使えねぇー」「お前、テンパるのだけは得意だよな」

 退社して。満員電車に揺られて―。


「―さん。―ねぇさーん。お姉さーん」

 はっと我に返ると私の目と鼻の先に、如何にも胡散臭そうな笑みを浮かべる男性の顔があった。あまりの近さに思わず仰け反ると、その胡散臭い男は元々切れ長の目を更に糸のように細くして、愉快そうに声を上げて笑い出した。

「ははは。大丈夫? お姉さん、すごい暗い顔してたヨ。まるで今にも死んじゃいたいって言ってるみたいな顔」

 私の目線に合わせるために折りたたんでいた腰を伸ばした男性は、見上げるほど背が高く肩幅が広かった。筋肉質な身体にピッタリと張り付くような柄シャツを着用しており、見るからに関わってはいけない匂いがプンプンする。

 隙をみて逃げようと辺りを見渡す。

 あれ? ここって、会社からの帰り道―。

 慌ててポケットの携帯電話を取り出して、側面のボタンを押し込んだ。すると薄暗い辺りを照らすように、19:36という数字が液晶画面に浮かびあがる。

 あれ? 仕事、終わってる―。いつの間に?

 疑問を抱えながらも、良く見知った風景に少し安堵する。顔を上げる途中、視界の端に黒い影が映った。違和感を覚えて、視線をその場に留めるとまたもや男は、私の目と鼻の先を陣取っており、肩越しに液晶画面を覗いているところだったのだ。

 いつの間に? 疑問を感じながらも再び男と距離を取るために、一歩後ろへ足を滑らせる。

「そんなビビんないでヨ、お姉さん。うちの看板の前で立ち止まって暫く経つからさ。お客さんかなって」

 怪しげな男性が拳骨を作った手で目の前の看板を叩いた。コンコンと軽い音が跳ね返ってくる。その音に誘われて視線を下ろすと、内側からの光で浮かび上がった看板の文字につい目を奪われてしまうま。

『誰でも簡単スタイルチェンジ! 一パーツ五分で理想のあなたに。容姿の変更も承り〼! 今なら初回無料!』

 毎日見ている通勤ルートのはずなのに、全く見覚えがない。こんな胡散臭い看板一度似たら絶対忘れないと思うのに、一切記憶にないのだ。

「まぁ、こんなところで立ち話もなんだし、もし良かったらお店の方でお話ししない? 商品も実物を見た方が理解しやすいだろうし。ネ!」

 鼻が、耳が、目が、頭が、肉体が―。私の身体を構成するすべてがこいつは危険だと信号を送ってくる。ついて行っては行けないと。今すぐに逃げろと。

 …でも危険って、何が? 頭がボーっとする。家でママに𠮟られてばっかりで、会社では役立たずで、友人やましてや恋人もいない私が、危険な目に遭ったって別にいいのでは? 何でダメなの? 思考に靄がかかったみたいだ。ママだって寄り道して来いっていつも言うし。

 気づいたら、私は首を縦に動かしていた。

「おー! じゃ、後ろついてきて」

「あっ、あのっ」

「ん?」

 振り向いた彼は後ろ歩きのまま絵文字のような笑顔を浮かべて、私の顔を覗き込んでくる。

「ここって、最近できたお店ですか?」

「―? いいや、ずっとずーっと前からあるヨ」

「何年位前からですか?」

「んー。それを思い出せないくらい前から。どうしてそんなこと聞くの?」

「いや。毎日通っている道なのに、見覚えが無くって」

「はははっ。しょうがないヨ。人間の脳みそって見たいものだけが視えるようになっているらしいからネ。面白いよネ、脳みそって。こんなに世界にありふれているのにまだまだ分からないことがいっぱいなんだ。いいよネ。あっ、ココがお店。どうぞ」

 扉を開けて軽くお辞儀した彼の前を通ってお店に入る。店内は小さい頃にパパと何度か訪れたことのあるレンタルビデオ店によく似ていた。狭い部屋の壁という壁、棚という棚にはちきれんばかりに物が詰められている。それらは、よく見ると目ん玉だったり、指だったり、唇なんかの形をしていた。

 薄気味悪い部屋の隅にはカウンターがあり、店主は慣れた手つきでその中へと入っていく。椅子に腰掛けるとカウンターに肘をついて、目の前の椅子を角ばった手で刺した。

 私は、恐る恐る俯いたまま、椅子に座る。すると、カウンターの上にあったメニュー表が目に飛び込んできた。

『初回一パーツレンタル無料。脳みそ以外すべてのパーツ有。レンタル:一パーツ一時間五百円。購入:需要により変動有。ご相談下さい。』

「お姉さん熱心に視てくれてたから初回無料の一パーツ、一日レンタルにしちゃう! ネ!」

 よく分からないがサービスをしてくれるらしい。何も購入せずサービスだけ受けるのは、コンビニでトイレだけ借りる様な気まずさがする。五百円くらいなら大した痛手にもならないと思い、店主に声を掛ける。

「じゃあ、それともう一パーツ? をお願い―」

「イイ! イイ! まずは無料のだけでいいヨ! 使用してもらって、良かったら今度はお客さんとして来て。ネ!」

 被せられた言葉は捲し立てるように否定で、気圧されてしまう。

「…分かりました」

 私の返事を聞いた彼は口の端をグッと上に上げて、今にも口が裂けそう程の笑顔を浮かべている。

「お姉さんには一回使用してもらえれば、必ず素晴らしさが伝わると信じてる! ネ! どのパーツにする?」

「どのパーツって言われても…」

 脳みそ以外すべて、か。辺りを見渡すと無造作に置かれた手や足が目に入る。綺麗に整ったパーツは作り物にしか見えない。にわかには信じ難いがまぁ、もし本当に変更可能だとしたら、顔のパーツだとママにバレた時が大変だし、ぱっと見は分からないものがいい。

「僕のお姉さんへのオススメは、うーんそうだな。声! 声の変更はきっと気に入ると思うヨ」

「声―」

 そんなものまで変えられるのかと正直驚いた。確かに声ならママに何か言われても誤魔化しが効きそうで丁度いい。

「じゃあ、それで」

「はーい。じゃあ目瞑って」

 言われるがまま、ぎゅっと瞼に力を込める。

「ははは。そんなに怖がらないで。全然痛くないから。ちょっと首触るネ!」

 首に少しこそばゆさが広がったかと思うと

「はい、おしまい。目開けていいヨ」

すぐに何ともなくなった。お礼を言うために口を開く。

「ありがとう?!」

 ございます。そう言葉を繋げたかったのだが、耳から入ってきた澄んだ声に思わず口を噤んでしまう。正に鈴の音を転がすような、美しい声だった。

「ははは。めっちゃいい反応するネ。明日のえーっとこの時計で二十二時二十七分までにお店に来て。一分でも遅れたら買取になっちゃうから、それ」

 私の喉を指さして話す彼に向かって、赤べこのようにコクコク頷く。

「じゃあ、また明日」

「おー。約束より一時間以上早いネ。どうだった?」

「…すごい、良かったです」

 良かったどころではない。最高だった。いつも罵倒するお客様もこの声にうっとりで、今日はただの世間話のみだった。課長やママも今日は愛想がいいと心なしか優しかった。

「良かった! 良かった! 今日はどうする?」

「この声、買い取らせてください」

「いきなりだネ。んー。いいヨ、じゃ百万円」

 そう言って彼は私に向かって手を差し出す。百万円。趣味も友人もない私には払えない金額ではない。けれども、そんな大金を使ったことが無いから少し躊躇してしまう。

 …でもこの金額でこの快適さが手に入るのなら。

「あのっ「あっ、今の声を下取りに出すなら二十万円でいいヨ。どう?」

 めいっぱい勇気を出して絞り出した声を店主にかき消され、つい気の抜けた声で返事をしてしまう。

「へ? そんなことも出来るんですか?」

「できるよー! でも天然パーツは需要が高いから一度売っちゃうと自分のパーツはもう二度と戻ってこないんだけど。それでも問題なければ、ネ!」

「売ります! 下取りに出してください」

「まいどー。じゃあ二十万円」

「すいません。手持ちに十万円しかなくて。まずこれ置いていくので…。足りない分は今すぐ下ろしてきます」

 差し出されたごつごつした手に、財布から出した十万円を重ねる。値段が分からなかったため、取り敢えず十万円を下ろしてきた。

 病院で喉の手術をするのにだって、この金額じゃあきっと足りない。よく考えたら分かることだったのに…。世間知らずで、恥ずかしくなる。

「そう? じゃあ明日でいいヨ。今日は何レンタルしていく?」

「えっ? いや、レンタルは」

「こんなすぐに購入してくれた人、初めてだからサービスするヨ。あっ、そうだ。じゃあ、お金下ろしに行く間だけ何でもレンタル無料! そういえば、今ちょうど戻ってきた美少女アイドルのパーツ全部貸してあげる、ネ! 凄い人気なんだヨ」

 そういって二の腕を掴まれたかと思うと、ものすごい力でぐいぐい引っ張られる。そしてそのまま、カウンターの奥の部屋へ引き摺り込まれた。

 されるがままで白を基調とした部屋に入った私は、思わず辺りを見渡す。

 壁一面に透明な筒がびっしりと隙間を開けすに並んでいる。そして、その一つ一つの中でふよふよ何かが漂っている。

 近くの一つに近づいて筒を覗いてみるとピンク色の柔らかそうな塊が浮かんでいた。畳まれてできたような溝がびっしりと塊に皴を作っている。

 これって…。

「おーい。ココに寝転んで」

 店主に促され、真っ白なベッドへ仰向けになる。合図があるまで絶対に目を開けるなと言われた後、全身に少しむず痒さが駆け抜けた。

 どのくらい横になっていたのだろう。奥底を揺蕩っていた思考が肩を叩かれ、意識が浮上する。

「目開けていいヨ」

 瞼をゆっくりと開いた瞬間、普段より感じる眩しさに思わず目を閉じてしまう。更に瞼を開くスピードを緩めて、恐る恐る目を開く。

 目の前を黒い糸のようなものが横切った。不思議に思いながらも光に慣れた目を開けてみる。いつもより瞼の可動域が広い気がする。

「ほら、前。鏡見て」

 店主の言葉に促され、身体を起こして前を見る。

 するとそこには、私と全く同じ全身真っ黒の服を着た美少女が写っていた。

 吸い込まれそうな程大きな瞳は、光を集めてきらきらと輝いている。そしてその宝石のような瞳は、長いまつ毛に囲まれていた。つんと小さくて形のいい鼻に桃色の唇。陶器のように白くて触り心地の良い肌。絹のように艶やかで長い黒髪。細くてすらっとした手足に小さい頭。どこをとっても美しい正真正銘の美少女がそこにいたのである。

 その美少女は不思議なことに私が右手を動かすと左手を、左手を動かすと右足をといった風に私と鏡合わせて同じ動作を全く同じタイミングで行う。疑問に思い首を傾げると彼女もまた首を傾げる。その動作すら目を奪われるように美しかった。

「気に入った? あれ? もしかして美男子、えーっと、イケメンの方が良かった?」

「え? いや、これってもしかして」

 同じ服を着ている時点で、そうなんだろうと思っていた。しかし、その考え自体が烏滸がましいと本気で思ってしまうほど、鏡の中の私であろうものが美しすぎた。

「そうそう、これが美少女アイドルのパーツセット。じゃ、お金下ろしてきていいヨ」


 夜が辺りを包むように、だんだんと闇が深くなる。街灯をたよりに最寄りのコンビニへ最短ルートで向かう。


 …見られている。

 歩き出してすぐに、いつもと違う視線を感じた。

 というか通り過ぎる人ほぼ全員が私を見ている。自意識過剰ではないことを、通行人の二度見で確信する。

 じろじろと上から下まで舐める様に見られる視線に晒された経験は、今までの人生で一度も無い。どうしていいかが分からず、コンクリートに視線を落としながら、早足でコンビニへと向かう。

「ねぇ、お姉さん。お姉さん」

 肩を軽く叩かれ、反射的に顔を上げる。同世代だろうか。頬を赤らめた顔の男性がカードを私に向かって差し出してきた。

「これ落としたよ」

 そういってカードを押し付けると足早にその場を去ってしまう。知らず知らずのうちに何か落としたのかな? 疑問に思い立ち止まってカードを眺めるが、あたりが暗いせいでイマイチなんて書いてあるのか分からない。

 カードをズボンのポケットにしまい、再び歩き出そうとした瞬間、また男性に話しかけられる。ごにょごにょと聞き取りづらい話し方の彼は、如何やら道を訪ねているようだった。

 家と会社の往復しかしないため、全くこの辺りに詳しくない私がやんわりと断ると、小さく四つ折りにされた紙を渡された。なんだこれ? とは思ったが、一度道案内を断った手前、つい受け取ってしまう。

 結局、その後もコンビニまでの間に三人、コンビニに入ってからは五人の男性に話しかけられた。さらに、その場で購入した飲み物と食べ物を渡されるということもあった。

 十万円を下してコンビニを出ると雨が降っていた。まだ降り始めのしとしととした雨だ。これなら走れば何とかなるかと思い、十万円の入った封筒をカーディガンの中へ忍ばせて脇を締める。走り出そうと爪先に力を入れたその時、後ろからよく知った声が聞こえた。

「もし良かったら入っていきますか?」

 顔を上げるとそこには同僚の荒木君が人懐っこい、くしゃっとした笑顔を浮かべながら立っていた。

「どっち方面ですか?」

 そう聞かれ、会社方向に指を差すと

「僕もそっち方面なんです」

なんていって彼が嬉しそうに笑った。

 嘘つき、反対方向の癖に。そう思いながらもつい彼と話せることが嬉しくて、頷いてビニール傘の中に入る。会社でハブられぎみの私にすら優しい荒木君がいつにもまして優しくて、いつもと違うドギマギした仕草や照れた笑顔が途轍もなく可愛かった。

 何年同じ会社に勤めていても見ることの無かった表情をこのたった数分間で幾つも確認できた時、なんで今日こんなにたくさん男性に話しかけられたのかが漸く理解できた。

 話しかけてきた全員が自分から話しかけてきたにも関わらず、目が合うともごもごと切れの悪い話し方をして顔を赤らめていた。そして最後に、大体がカードや紙切れを渡してくるのだ。今までそんな経験がなかった。だから考えもしなかった。

「こんな夜遅くに一人で歩くなんて危ないですよ。だって…。本当に、お綺麗なので…」

 容姿が変わっただけで一気に距離が縮まるなんて、馬鹿みたい。同僚の道宮には聞いてこなかった連絡先を交換しながらそんなことを思った。

 そう思いながらも、彼から熱っぽい視線を向けられると、ギューッと胸から喉の奥までせり上がってくる初めての感覚がした。そして、残念なことに私はそれに堪らない快感を覚えてしまったのだ。

「おかえり。遅かったネ!」

「すみません。やたらと人に呼び止められて。これ残りの十万円です」

 店主は座ったまま十万円の入った封筒を受け取ると、中身を確認もせず乱雑にカウンターへ投げた。カウンターの中で窮屈そうに組まれた足に片肘をついて、絵文字のような笑顔を私へ向けている。一層細くなった瞼の中の瞳を確認することはできなかったが、確実に私を視ている。いや捉えている。そう確信があった。

「どうだった? 愉しかった?」

「まあ」

 そういってポケットから取り出したカードをカウンターに並べてみせる。

「えっ? こんなに? 可愛すぎるみたいで、普段はあんまり人に話しかけられないらしいんだけどなぁ。同じ見た目でも振る舞いによって、人は態度を変えるのか…。面白いネ!」

「…次の日曜日、十時間。このセット貸してください」

「まいどー。気に入ってくれたみたいで嬉しいヨ。セット割引で一時間一万だから十時間で十万円。当日までにお金持ってきて、ネ。あっ、まってまって。下取りのパーツ外すから。ごめんね、ちょっと時間かかるヨ」

「すみません。強面系ってありますか? できれば筋肉隆々だといいんですけど。それと来週の土日終日いつもの美少女アイドルお願いします」

「はいはーい! 強面で筋肉隆々っと。このパーツとこのパーツでいいかな…。身長ってどれくらいがいいの?」

「百九十センチあると嬉しいです」

「イイヨー! じゃあこれとこれっと。今回もまたテイスト全然違うの選んだ、ネ!」

 あれ以来、私はスタイルチェンジにドハマりしてしまった。性別の垣根も超えられるだけじゃなく、年齢も身長も体重も国籍だって変えられる。本当になんにでもなれるのだ。

 美少女にもイケメンにも勿論なれるが、それだけに留まらない。小学生男子になって、公園にいる子供たちに混ざって鬼ごっこをするのも楽しいし、マダムになって手芸や生け花のような教室の体験に行くのも面白かった。スポーツマンの外国人男性になって走るのは気分爽快だったし、女子中学生になって着た久々のセーラー服はむず痒かった。

 最初は平日二時間だけ、休日は荒木君と用事があるときだけだったのに、仕事で、家で、生きていて、嫌なことがあるとつい足を運んでしまうようになっていた。

 皆に嫌われるようなダメな自分を脱ぎ捨てて、全くの別人になれる。いつもの私と他人の別世界の私になると普段はしないことがしてみたくなる。気が付いたら、仕事場と家以外の時間全てを別人として過ごすようになっていた。

 ママが早く帰って来いと怒鳴る様になったがやっと見つけた私の、私だけの趣味なのだ。これだけはやめられない。

「あっ、美少女アイドルセット、そういえば昨日売れたんだった。ごめん、ネ!」

 さらりと言われた衝撃の事実に思考がフリーズする。

「は? 売れた?」

 驚きのあまり、つい強い口調で言葉を放ってしまう。

「そうそう! 昨日のお客さんが大層気に入っちゃって、ネ。即決で買ってっちゃったヨ!」

 その言葉に一瞬にしてのぼせてしまったかのように、頭が真っ白になる。

「えっ? 困ります…」

 咄嗟にそんな言葉が口を付いた。

 だって私…。美少女アイドルの容姿で、荒木君と付き合っている。

 何度かデートに誘われて、海の見渡せる公園で夜景をバックに告白された時、嬉しくて舞い上がって。…道宮愛実じゃなかったら、彼と付き合えるんだって思ってしまった。

 目の前が端の方から暗くなっていく。沸騰した思考とは裏腹に手の先から急速冷えていくのを感じる。

 だって私。少し離れたところにある文房具会社に勤めている事務員の女の子で、元々はこの近くにある大学の文学部に通っていたからこの辺りに住んでいるなんて設定、律儀に考えた。

 だって私。好きな小説家は宮沢賢治でイーハトーヴがこの世の何処かにあると信じているような不思議ちゃんで、耳馴染みのない擬音を使ったり詩的表現を組み込んで会話したりして、彼好みの浮世離れした女の子を演じてみたりもした。

 だって私。一生懸命、潮なんて美人っぽい名前もひねり出して、今まで一度も本名の道宮愛実と間違って言わなかった。

 じゃあこれから一体、シフォン素材でできた淡い色のふわふわワンピースは誰が着ればいいのだろう。

 ごみ屋敷みたいに乱雑に思考がひしめく脳内に置き去りになった身体が、ツンっと鼻の奥を痛くする。慌ててなけなしの理性をかき集めて、下唇を噛む。

「そう言われても、ネー。残念だった、としか。ネー。また別の美少女ならあるヨ。うわうわ、落ち込まないで! 待ってほら、これをあーして、こっちのを変えてここをこうすれば…。似てない?!?! ちょっと試着してってみて」

 どうしようという言葉で埋め尽くされた脳内だが、身体は動き方を忘れていないようだ。気が付くとベッドの上で仰向けになり、眠る時のように自然と目を瞑っていた。

「じゃ、合図があるまで目開けちゃダメだヨ」

 いつも通りこそばゆい感覚が全身を這っている。バクバクと鳴る心臓が施術に影響しないか、心配になる。

「はい、終わったヨー。どう?」

 心臓を打ち鳴らしながら、祈るように目を開ける。道宮である時より開きのよい瞼に気を付けながら、まつ毛のせいで少し重くなった瞼をゆっくり持ち上げた。

「うーん…。まつ毛が上がりすぎですね。目頭の蒙古襞が前より一ミリくらい多くかぶってますし。なんでしょう、鼻ですかね? 小鼻が二ミリ程小さすぎるような…。いや、人中が一ミリ短すぎるのが印象を変えているのかも。首が二センチほど短いのも気になりますね。あと太もも。今までよりも三センチ細すぎます。…これじゃあ、別人ですよ」

 目の前の鏡とにらめっことして、気になった箇所を店主へ早口でまくし立てる。

「そう? よくわかんないけど。まあ、あるパーツで出来そうな部分は直したげるネ! 分かってるとは思うけど、全く同じにするのは無理無理。出来っこないから諦めて、ネ!」

「そんな…」

 鏡の中で、荒木君と付き合っている女の子と似ているけど何かがしっくりこない顔が、落胆の色を滲ませた表情を作っている。

「寧ろ今まで美少女アイドルセットのパーツが一個も購入者が無かったことが、奇跡だったんだよ。あんなに人気なのに三か月も残ってたなんて凄い! ネ!」

「そうなんですか?」

「そうそう! 大体のパーツは一週間から遅くても一ヶ月で買い手がつくんだよねー。君の声もすぐ売れちゃったよ!」

「じゃあ、このパーツも…」

 身体の先の方から芯に向かって、ぞわぞわと一気に不安が押し寄せてくる。

「次来た時、残ってたらラッキー!」

 声を張り上げて愉しそうに言い放った店主を横目に、急いで鏡を覗き込む。鏡の中の少女は、青白い頬に手をあてている。ハの字になった平行眉と揺れる大きな瞳、わなわなと震える形のいい唇から覗いた美しい歯列は上下がぶつかってカチカチ音を立てている。

「あの、これ買取って…」

「まいどー。どのパーツにする?」

 早く。早く自分のものにしなくては。早く。早く。その言葉で脳内が埋め尽くされる。

「…全部。なるたけあの美少女アイドルに寄せたパーツを全部ください」

 そうしないと荒木君の恋人にもうなれないかもしれない。初めてできた大切な人。憧れの人の恋人になんて、私のままじゃ絶対になれない。

「おっけー! じゃあ、手直ししてっと。目瞑って。…よし、いいよ。結構いいかも! どう?」

 何かが違うが、十分な美少女が鏡の中に写っている。心臓がバクバクと私を急き立てる。

「これでお願いします! いくらですか?」

「まいどー。お得意さんだからね。セットで買ってくれたし、割引で…。一千万円でどう?」

 一千万円?!?! 大金に驚いて私は声も出なかった。

 貯金は結構あった方だった。しかしスタイルチェンジにハマってからは破産気味で、残高は既に底をつきかけていた。

「…下取りってお願いできますか?」

 恐る恐る提案すると店主は大変嬉しそうな声を出した。

「勿論! 何処のパーツ?」

「出せるだけ全部お願いします!」

「えっ! いいの! 大丈夫?」

 店主が顔の横で両手を広げて、分かりやすく驚いたポーズを取ってくる。大きく開いた口から覗く八重歯は鋭くとがっており、なんだか少し人間離れした印象を与えてくる。

「―? 大丈夫です!」

 店主の問いかけの意味が理解できず、とりあえず肯定する。

「すごい助かるよー。君は本当にいいお客さんだ、ネ! 全部天然のパーツだから…。おまけして二百万円。今手持ちがないならローンも組めるヨ! 是非組んでヨ! どう?」

 二百万円なら…。ローンも組めるし、切り詰めれば何とか…。なる、かも…。

「…それで、それで、お願いします!」

「じゃあ、この契約書に目を通してからサインお願い。ネー。あっ、その下のとこ。うんうん。じゃあ契約完了! ありがとう、ネ! じゃ横になって。天然パーツを外す作業もあるから、今回は結構時間かかるヨ! それじゃあ、目閉じて」

 これからのお金のやりくりを考えると頭が痛い。取り敢えず当分スタイルチェンジには行かないとして、節約しても給料だけでは賄えない金額だ。ママには当然頼れないし、何かバイトしないと。

 玄関ドアの取手を引く。お金のことを考えると気が重い。そのせいか、いつにもましてドアが重々しい。

「ただいま」

 リビングに向かって声を掛ける。帰ってきたら大きな声でただいまを言うのが、道宮家の決まりだ。下駄箱に手をついて靴を脱いでいると、ぱっと玄関が明るくなった。

「あらあら、まあまあ。今晩も遅かったわね。お家にいないといけないママと違って、随分自由で羨ましいわ」

「…ごめんなさい」

 しまった。ママの顔をみて謝らないといけないのに俯いたまま、謝罪をしてしまった。慌てて顔を上げてママの方を見ると、彼女は怯えた表情を浮かべていた。

「…ど、どちら様?」

「ママ? 愛実だけど…」

 そこまでいってハッと気づいた。道宮愛実と似ても似つかない可愛らしい容姿をしていることに。荒木君とお金の事で頭がいっぱいで、ママにまで気が回らなかった。

「…お家を間違っているのではないでしょうか? 先ほどはすみません。てっきり娘が帰ってきたとばかり思って…」

「ママ! 私! 愛実! 道宮愛実です。信じて!」

「あのっ。大丈夫ですか? 落ち着いて、何か勘違いをなさっているんですかね?」

「私、道宮愛実なんです。信じてください」

 いつもママにもっと考えろと口酸っぱく言われているのに。どうしてこうも迂闊なのだろう。本当に私はどうしようもない。ママの言うとおりだ。

 どうすれば信じて貰えるか頭を必死にフル回転させる。私しか知らないであろう記憶を辿ってみる。

「道宮聡と道宮美奈子、旧姓牧美奈子の一人娘で、生まれた病院は犬岡総合病院と聞いています。小学校の頃は喘息もちでよく入院してて、それでママを心配させちゃって。あっ、中学生の時、体育の授業でふざけて遊んでいた峰田君にぶつかられてできた左脇腹の傷。ママ、あの時何度も学校へ来て担任の下口先生と峰田君のお母さんに怒ってくれて」

 脇腹が見えるように服をたくし上げる。顎を胸骨にくっつけて左脇腹を確認すると、真っ白に透き通った皮膚には傷一つ付いていなかった…。

「ほんとに、本当に私、愛実なんです…」

 ママの表情がみるみる恐怖に染まっていく。

「一体、何なんですか貴女は…。なんでそんなこと…。警察、呼びますよ」

 がたがたと震えながら、必死に声を張り上げている彼女は、立っているのもやっとなようだ。廊下の壁にのめり込みそうな程身体を預けている。

「あなたっ! 貴方ー! 早く来て! 不審者がっ」

 今度は明かりのついたリビングに向かって声を張り上げ、必死にパパを呼んでいる。私はママの望み通り急いでドアを開けて、玄関を勢いよく飛び出した。

 迂闊だった。あの時はもう荒木君と付き合えないかもということで頭がいっぱいで…。大金の支払いの話で焦って…。ぐつぐつ煮えたぎった思考が自分を急かして…。全く冷静な判断ができてなかった。

 頬を涙が伝う。泣きたくないのに。

 泣くなんてみっともない。また、ママに怒られてしまう。

 この選択が、道宮愛実としての日常を捨てることになると考えていなかった。でも、それでも、家でも会社でも上手くいってない私に優しくしてくれるのは、荒木君しかいないから。そんな心の支えの荒木君と会うには私じゃダメだから。潮は、潮だけは、守りたかった。

 無我夢中で携帯電話をポケットから取り出し、電源ボタンを押す。暗闇でぼうっと光る液晶画面をタップして通話ボタンに弱々しく触れる。

 プー。プー。プー。ガチャッ。三コールの後、相手の声が鼓膜を揺らした。

「もしもし、潮ちゃん? こんな時間に珍しいね。どうしたの? …泣いてる?」

「…ごめっ。突然なんだけど今日、泊めてもらえないかな?」

「今日? ごめん。実は姉さんが泊まりに来ててさ…。明日以降なら問題ないんだけど」

 ひそひそ声を潜めて話す彼の後方から「圭司―」と荒木君を呼ぶ甘ったるい声が聞こえる。

「そうだよね。こんな遅い時間にいきなりごめん」

「俺の方こそ力になれなくてごめん。今日はちょっと無理だけど、明日以降いつでも連絡して。その、心配だから、さ」

「ありがとう」

 ツーツー。携帯から耳を離す前にリップ音がした。

 荒木君、お姉さんがいたんだ。知らなかった。液晶画面をタップして今日の宿を検索する。

 クレジットカードがあるから、今日くらいは大丈夫。大人なんだからこれくらいは、一人で大丈夫。大丈夫を一つずつ積み重ねて、呪文のように繰り返す。

 大丈夫。大丈夫。手の中の携帯電話を固くにじり締めながら、そう何度も何度も繰り返した。

「私、本当に道宮愛実なんです」

「そう言われてもねぇ」

 頭のてっぺんからつま先まで舐めるように私を凝視した後、課長が付け加える。

「どこからどう見ても別人だし、ねぇ」

 へらへらとした笑いを浮かべながら、私の肩にするりと手を滑らせてきた。全身にぞわっと気味の悪い感覚が押し寄せる。そんなことはつゆ知らずといったにやけ顔を浮かべた男は、冗談をあしらうような口調まま、話を全く取り合ってはくれない。

「こちらとしてもお力になりたいんだけども、如何せんそんな分かりやすい噓じゃあねぇ」

「本当なんです。信じてください。これ、社員証です。免許証も保険証もあります」

「んー。だからね」

「課長、お電話です」

 電話をとった先輩が課長を呼ぶ。私に一言失礼と断って受話器をとった課長の顔が、先ほどまでのデレデレとした顔から打って変わって、恐ろしいものを見る様な目線へと変化していく。

「道宮君が。はい。はい。行方不明?! お母様落ち着いてください―」

 課長の電話が終わらないうちに、その場に広げた荷物をまとめ、走り出す。今日ほどヒールの無い靴で良かったと思ったことはない。

 私は大股で社内をかけ抜ける。エントランスから屋外に出ても、人波を縫うように無我夢中で走り続けた。

 全速力で走り抜ける奇行と目立つ容姿のせいで、何人もの人々がこちらを振り返る。どこに行っても、何をしていても感じる視線は鬱陶しい。まるで街中の人に監視されているみたいだ。

 別世界を手に入れたはずなのに、理想の別人なのに…。

 なんでこう、上手くいかないのだろう。


 公園で時間を潰し、終業時間を少し過ぎてから、荒木君に電話を掛ける。

 プー。プー。プー。プー。プー。ガチャッ。五コール後、電話に出たはずの彼の声が聞こえない。沈黙に戸惑い、痺れを切らした私からつい声を発してしまう。

「もしもし? 荒木君? お疲れ様」

「潮ちゃんもお疲れ様。…もしかして、今日俺の会社に来てた?」

 ドクンッ。胸の真ん中あたりが撃ち抜かれたように、大きな音を上げた。冷静を装った声を作って、張り付いた喉を動かす。

「行ってないけど…。どうして?」

「そっか…」

 少しの沈黙の後、大したことではないといった感じで彼は話を続ける。

「いや、朝似てる人を見かけたからもしかしてと思っただけだよ。まぁ、違うと思ったんだけど、一応ね。ごめん、変なこと聞いて。…そういえば、会社の子が行方不明になったらしくて朝から大騒ぎなんだ」

「…へー、大変だね」

 声が震えないように注意して、相槌をひねり出す。

「俺、仕事で多少関わりがあったから。上司に何か心当たりがないか、結構訊かれたんだ」

「そうなんだ」

「正直、何も答えることなくてさ。それこそ仕事の話しかしたことないし、プライベートで交友があるわけじゃないから。ただ、話を訊いてきた上司とは俺、仲良くてさ」

 ずきりと痛む胸を抑えて、相槌をうつ。

「…へー、いいね」

「心配っすねって、世間話をしてさ。あっ、そうだ。潮ちゃんごめん。昨日の話なんだけど。姉さん、ウチに暫く泊まることになってさ。申し訳ないんだけと…」

 彼は、私を疑っている。下手くそな嘘がそう私を確信させる。残念ながら、私も噓が下手だったらしい。彼の声には疑念だけではなく、確信めいたものが混じっていた。

 でも…。だって、それとは別に…。

 私は彼を試してみたくなった。

「私の事、好き?」

 しばらく沈黙が続いた後、彼は喉を鳴らした。強く唇を結んでいたのだろう。口を開けた音が電話越しにも関わらず伝わってくる。

「…勿論好きだよ。でも今回はごめん」

「本当に困ってて…。どうしても泊めて欲しいの? ダメ?」

 唇が震えるのを我慢して、何とか甘えた声を絞り出す。

「姉さん一度言ったら聞かないんだ。本当にごめん」

 ぴしゃりと一言謝罪して、彼は口を噤んだ。その無言から、諦めてくれという圧を感じる。

 本能的に全てを投げうってでも手に入れたかった優しい人。そんな、彼にも拒否されてしまった。

 私は…。一体どうしたらいいのだろう。

「おー。お姉さん! どう? いい感じ?」

 カウンターの向こうから、ニコニコという擬音が聞こえてきそうな程の笑顔で店主が私を迎えてくれる。

「すみません。大変素晴らしい商品だったんですけど、返品したくて…」

 自分が考えの至らない人間だと言い出すのが、恥ずかしくて、不甲斐なくて、ついその笑顔から逃げてしまう。すると、不思議そうな声が頭上から降ってくる。

「―? できないヨ?」

「え? できない?」

 弾かれたように、顔を上げると

「うん。契約書に書いてあるジャン!」

そう言って店主は紙を左で掲げて、首を傾げて覗き込む。

「えーっと確かココに…。あったあった! ほらココ!」

 文字が整列した紙のある一点を長い指が差し示した。そこには「購入品の返品・交換は如何なる場合でも受け付けておりません」と細かい文字で記載されている。用紙の下の方には、本文とは不釣り合いなほど大きく私の名前が良く見知った筆跡で記入してあった。

「じゃっ、じゃあ! 今身に付けているパーツを売って、私が下取りに出したパーツ購入させてください」

「ごめんネ! ジンコウパーツは買取してないヨ」

「人工パーツ? 何を言ってるのか全く…」

 足元がぐらついて不安定だ。このまま、床に飲み込まれてしまうかもしれない。

「君が今付けてるパーツだヨ。人間から取ったパーツじゃなくて、人工で作ったパーツなんだ。自然に作られたものじゃないからすごく整ったものを作れるし、簡単に取り付けられるんだ。けど身体が老いることでパーツが浮いてきたり、身体と合わなくて傷んで腐ったりすることもあるヨ」

「そんな…。そんなの、聞いてない」

「聞かれてないからネ! でも、ほら! ココ! とココ!」

 読む気が起きないびっしりと字が埋まった契約書の上で店主が指を滑らせる。何とか目で文字を追うが零れ落ちていく。買取不可、神工パーツ、身体、有害、影響、傷む、異臭のように単語でしか脳みそに入ってこない。

「じゃあ…。じゃあ! 買い直します。私が売ったパーツ残ってますか?」

「もう全部売れちゃったヨ! でもこれは言ったことあるよ、ネ! 売ったパーツは二度と手に入らないって」

「なんで…? あんな平凡なのに」

「平凡? 同じものが二つとない最高のパーツだヨ。それなのに人混みに溶け込みやすくて、記憶に残らない。需要高いヨ、いろいろ使えるんだって。人間の考えることって面白いネ!」

 絶望で、つい口を滑らせてしまう。

「わっ、私…。これからどうやって、生きて行けばいいの…?」

「さぁ?」

「さぁ? って、あんた」

 悲しいやら悔しいやら、ぐしゃぐしゃに混ざったいろんな感情を抱えきれなくて、つい声を張り上げた。

「んー。なんで怒ってるの? スマイル、スマイル! 笑顔って、結構役に立つヨ。皆勝手に安心する。それよりもさ、今日の分のお金」

 絵文字のような笑顔で、私の胸元に手を差し出してくる。

「えっ? 昨日、十万円払いましたよね…」

「アラー。もしかして、また見てない?」

 彼が指でなぞった契約書の部分には、数字が書き込まれている。

「契約日の翌日に十万円を支払う。その後は、毎月契約日に十万円支払い。って書いてあるヨ。だから、はい」

 更に目を細めた店主が早くと言わんばかりに、手を差し出してくる。

「そんな。今払える分は、昨日ので、全部だったので…、お金ないんです。…それに、仕事に行けなくて、給料が支払われないし…。これからのお金の目途が立ってなくって…」

 瞳に溜まった涙で視界が歪む。喉の奥のツンと込み上げる痛みを飲み込みながら口を開く。上手に話そうと必死になればなるほど、涙交じりの聞くに耐えない声を出してしまう。

「そっかー。大変だね」

 うんうんと笑顔の店主が首を上下に振って、頷いてくれている。

「でも、お代はきっちりきっかり貰わないとネ。均衡が崩れちゃうからさ。お店が続けられなくなっちゃう。それは困るヨ。だから、支払期限は一日たりとも伸ばせないんだよ、ネ!」

 無慈悲な笑顔で淡々と説明する店主に、私は絶望の淵へと落とされる。

 ぬっと伸びてきた店主の手は物凄い力で私の手首を捻り上げる。鞭のように身体がしなると床に叩きつけられ、そのままズルズル引きずられてしまう。

「っ? 痛っ。痛たた。何? 何するんですか?」

 このままでは危ない。脳内でけたたましく警報が鳴り響く。手も足も滅茶苦茶に動かして、動かして。腰を何度も床に打ち付けて、打ち付けて。兎に角、しっちゃかめっちゃかになって、身体を激しく動かしまくった。

「えっ? 何? 誰かっ、誰か助けっ」

 しかし、どんなに暴れても店主はびくともしなかった。それどころか手首が抜ける素振りすらないのだ。なすすべもなく、床の上を滑らされたまま、奥へ奥へと引き摺れてしまう。

 逃げようと必死な私とは対照的に、店主からはやけに愉快な鼻歌が聞こえてくる。

「もー。契約書ちゃんと読んでって、コレも言ったよ、ネ! 折角、人間のルールに合わせたのに」

「よし、これで返済完了だヨ。お疲れ様。でも良かったネ! 残るパーツがあってさ」

 コツコツという音の後、店主の声が脳を揺らす。いや、音が脳に直接、響いてくる感覚がする。

「脳みそがあれば、ひとまず安心だ。だって君という自我がある限り、君はこの世に存在し続けることが出来るからネ。あー、良かった! 良かった!」

 真っ暗だ。目を開けようと試みているが一向に瞼が持ち上がらず、暗闇が広がり続けている。

「折角返済完了したのに購入してくれたパーツをつける部分がなくなったネ。残念。」

 一体私はいつからこの暗闇に居て、いつまでこの暗闇に居なければならないのだろう。

 瞼だけではなく、口も鼻も、手も足も、指の一本だって動かない。何もかも動かない。というか感覚すら、ないのだ。私が今自由にできることは、考えることしかない。

「でも、お腹も空かないし、生殖する必要もない。生きるのにお金がかからなくていいネ! それに会社とか家族とか、今までのしがらみが無くなって、君の悩み、解決したんじゃない? いいことづくめだネー」

 なまじ考えることが出来るせいで、こんなことをずっと、ずっと、考えてしまう。いっそ思考も奪って欲しい。返して、私の瞼を。返して、私の口を、鼻を。返して、私の手を、足を。返して、職場を、家族を。

 ただ、誰かに優しくされたかった…。

 返して、日常を、返してよ…。

「ははは。この溝、たまんないな。脳みそだけはまだ精巧に作れないんだよネ。もっと集めて研究しなくちゃ…。次はどんな脳みそがくるかな」

 叩きつける様にドアを開けると不協和音が響いた。そんなことには気にも留めず、鼻歌まじりで通りに出る。

「娘が! 娘が、行方不明なんです。何か心当たりがありましたら、チラシの連絡先までお願いします。些細なことで構いません。お願いします、お願いします…」

 通りかかる人すべてにチラシを差し出しながら声を張り上げている女性は、僕が横を通り過ぎる際には無反応だ。

 お店の看板の前に一人、生気を失った顔の女性が立ち尽くしている。この前も女性だったし、そろそろ男性がよかったな、なんて思いながら看板の放つ光に吸い寄せられた迷える脳みそに声を掛ける。勿論、笑顔は忘れずに。

「お姉さん。お姉さーん、ははは。大丈夫? お姉さん、凄い暗い顔してたヨ。まるで今にも死んじゃいたいって言ってるみたいな顔」

 

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イサド~ようこそ身体パーツレンタルへ~ 阿村 顕 @amumura

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