02
早いペースで呼吸を繰り返しながら、ルミリナは立ち止まる。
彼女の視界には、古びた桟橋があった。
誰かがその縁に腰掛けているようだった。海風にそよぐ綺麗な銀色の髪が、遠くからでも見て取れる。
(まさかあの人が、怪我をしている……!?)
ルミリナは疲れた足を何とか動かして、その人の元へと走った。
「あっ、あの! 大丈夫ですか……!?」
ルミリナの言葉に、銀色の髪の人が振り向く。
瞳までもが、髪と同じ麗しい銀色だった。銀色の睫毛に、透明感のある白い肌。
歳の頃は十八歳のルミリナと同じくらいか、少し上くらいに見える。動きやすそうな衣服に包まれた身体は、すらりとしている。硝子細工のように繊細で整った顔立ちをした、美しい青年だった。
その美しさに驚きの表情を浮かべるルミリナに、青年はすっと目を細める。
「……僕に、何か用か?」
「あ、えーと、その、用事と言いますか……怪我、大丈夫かなあって……!」
「怪我……? ……ああ、このイルカのことか」
青年はそう言って、再び海を覗き込む。
ルミリナは、彼の視線の方を見た。
視線の先には一頭のイルカがいて、背鰭の側に痛々しい切れ込みが入っている。まるで赤色の絵の具が溶け出すかのように、さらさらと血液が海中に零れていた。
「もうじき、死ぬだろうな。目が虚ろだ」
青年は憐れむように言う。
ルミリナは目を見張ってから、すぐに着ているドレスの袖を捲る。
不思議そうに瞬きを繰り返す青年に微笑みかけてから、ルミリナはばっと海へ飛び込んだ。青かったはずの海水が透明となって舞い、陽光を浴びて数多の雫がきらきらと光る。青年の瞳が驚愕の感情を帯びた。
ルミリナは、慈しむようにイルカを抱きしめる。
その眼差しはどこか聖母のようだった。濡れた灰色の髪から水滴がぽろぽろと滴り落ちる。冷たい海水の中にいながら、ルミリナの表情にはひとさじの歪みも起こらない。ただただ、純粋な優しさに染まっていた。
桜色の唇が、開かれる。
「〈陽だまりのように暖かな安らぎを・そよ風のように柔らかな癒しを〉」
ルミリナが治癒の魔法を紡ぐと、イルカの深い傷がみるみるうちに再生していった。イルカの黒い瞳に、生命の輝きが戻ってくる。
ふあー、とイルカが嬉しそうに鳴いた。イルカはずぶ濡れのルミリナに愛おしげに頬ずりしてから、広大な海へと再び旅立っていく。
ルミリナは安堵したように微笑んだ。
「ふう、よかったあ……よか、った……ぶくぶくぶくぶくぶく…………」
海へと沈んでいくルミリナに、青年が唖然とする。
「おいおいおい!? お前、ナチュラルに溺れようとしていないか!? 待て待て待て!」
灰色の頭頂部までもが海に呑み込まれそうになった頃、青年が勢いよく跳んだ。ルミリナの身体を抱きかかえると、彼女の顔を海から出す。水浸しになったルミリナの顔をびしょ濡れのハンカチで拭いてあげながら、青年は呆れたように目を細めた。
「お前、泳げないのか?」
「い、いえ……水泳は、とっても得意でして……」
「なら何故今、沈みかけたんだ?」
青年の声は微かに震えていた。糾弾しているようにも、心配しているようにも聞こえた。
「そ、そのお……わたし、治癒の魔法にあんまり適性がないみたいで……例えば指の切り傷を治すくらいなら全然平気なんですが、あれくらい大きな傷を治すと、お腹に、激痛が……」
ルミリナは自身の腹を押さえながら、申し訳なさそうに目を伏せる。
青年は数度瞬きしてから、溜め息をついた。
「……取り敢えず、陸に上がろう」
◇
砂浜にうずくまるルミリナを、青年は同情するように見つめていた。
「……まだ、腹が痛むのか?」
「そうですね〜……まあ、一時間くらいすれば、多分よくなるので……全然気にしないで、くださいね〜……」
「流石の僕でも気にするが」
青年はそう言うと、すっと屈む。
「自分に治癒の魔法をかけることはできないのか?」
「で、できるんですけれど〜……先程も言った通り、適性がないので……逆に、腹痛が増します……」
「……それじゃあ、使ってみろ。治癒の魔法を、自分に」
青年の言葉に、ルミリナは目を丸くする。
「え、えーと……もしかしてあなたって、『どえす』というやつですか……?」
「違うが」
青年の視線が真冬のように冷える。
「いいから、使ってみろ。……ただし、ほんの少しでいい。限りなく小さな魔法でいい。それなら、腹痛も殆ど起こらないんだろう?」
「ま、まあ、そうなりますが〜……」
「それと、手を貸せ」
ルミリナの前に、青年の右手が差し出される。骨張った大きな手を、ルミリナはぱちぱちと瞬きしながら見た。
「な、なにゆえ……?」
「いいから貸せ。貸したら魔法を使え」
青年に言われるがままに、ルミリナは自身の右手を彼の手に重ねる。
そうして、微かな治癒の魔法を使用した。
(…………あ、あれ…………?)
ルミリナの頭を、疑問が浸していく。
何故なら――ほんの少しの魔法で、あれだけ感じていた腹痛がさあっと消え去ったから。
呆然と呼吸してから、ルミリナは青年の方を見つめた。
「な、治りました……!」
「そうか。よかったな」
ぶっきらぼうに告げて立ち上がる青年に、ルミリナは問い掛ける。
「…………助けて、くれたんですか?」
青年の瞳が、淡く揺らいだ。
でもその揺らぎは、すぐに冷えた温度に隠された。
「……別に。ただ、すぐ側で痛がられるのが目障りだっただけだ」
「えっと……つまり、助けてくれたってことで合っていますよね?」
ルミリナの真っ直ぐな言葉に、青年は面倒くさそうに目を逸らす。
ルミリナはゆっくりと立ち上がった。それから、青年の右手を自身の両手で包み込んで、ふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます! すっごく、すごく助かりました!」
どこまでも純真に微笑いながら、そんな言葉を零すルミリナに。
青年は目を見張ってから、そっと口を開いた。
「……お前は確か、聖女候補だよな」
「あっ、そ、そうです! よくご存知ですね……」
「お前は」
青年は銀色の双眸を、鋭くする。
「……どうして、聖女になりたいんだ」
海風が吹いて、ルミリナの灰色の髪と、青年の銀色の髪が揺れる。
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