蚊太郎と蚊美子のお引越し
キジトラタマ
第1話
とある池のほとりに、蚊太郎と蚊美子という、仲の良い蚊の夫婦が住んでいました。
蚊美子は妊娠中で、夫婦は産卵を楽しみにしていました。
そんなある日の、早朝。
夫婦が暮らす家に、大量の雨が降りそそぎました。
それは、雨ではありませんでした。
周囲に漂う、アンモニア臭。散歩に来た、犬のオシッコだったのです。
しかも、雨は一回だけではありませんでした。
「まったく。どうして犬というヤツらは、こうも他犬のショウベンの上に、自分のショウベンをぶっかけたがるんだ」
心優しく穏やかな蚊太郎が、大声を出すのは、珍しいことでした。
「このままずっと続けば、無事産卵できるか、不安だわ」
蚊美子も心配しています。犬の習性を考えれば、以降も続くのはほぼ間違いありません。
そこで夫婦は相談し、引っ越しを決意しました。
「俺が、いい引っ越し先を見つけて来る。それまで蚊美子は、ここで待っていろ」
「わかったわ。私は大丈夫よ。いってらっしゃい。早く戻って来てね」
蚊美子はひとりぼっちになる不安を抱えながらも、新しく生まれて来る命のために、留守番を受け入れます。
そして蚊太郎は、新居探しの旅に出ました。
現在夫婦が暮らす場所は、コンクリートに囲まれたオフィス街の一角に残る、小さな池のほとり。
蚊太郎は周囲にもっと産卵に最適な池がないか、必死で探します。
しかし半日が過ぎても、なかなか見つかりません。
見つかってもすでに先住がおり、夫婦が居を構えるほどのスペースは残っていませんでした。
「隣町に、美しい、大きな池があるらしいわよ」
教えてくれたのは、顔なじみの蚊弥子でした。
蚊弥子は御年40日の、おばあさん。夫はすでに亡くしているが、明るい性格で蚊望も厚く、地域に精通しています。
蚊弥子によると、その池がある公園は、『犬の散歩禁止』だそうです。
(そこだ!そこにしよう!)
蚊太郎は、即決しました。
「蚊弥子ばあちゃん、恩にきるぜ」
意を決し、下見へ行くことにします。
しかしすぐさま、困難が立ちはだかりました。
蚊太郎の行動範囲は、2km程度。長距離の移動は、経験がありません。
(ちゃんと行って、帰って来られるのだろうか)
大きな不安が、頭をよぎります。
「行くんなら、電車を利用しなさい」
天の声のような、蚊弥子からのアドバイス。
「電車…とな」
「まもなくしたら、その辺の建物から、人間たちが大勢出て来るわ。彼らにくっついて行けば、電車に乗れるわよ」
「なるほど」
(それなら、長距離の移動も可能だ。電車は、行ったり来たりしている。帰って来るのも、容易いだろう)
蚊太郎は、電車を利用することにしました。
「各駅停車よ。人間のアナウンスが、教えてくれるわ」
「了解」
ほどなくして、仕事を終えた人間たちが、路上に湧き出て来ました。
蚊太郎は駅へ向かうと思われる男性サラリーマンに目をつけ、白シャツの背中にくっつきます。本来なら、黒いスーツなどの方が目立たなくて済むのですが、夏場の仕事終わりは、見つけるのが困難でした。頭も、手が伸びて来る危険性があります。腰より下は、周囲がよく見えません。少し目立ってしまいますが、仕方ありません。
(電車に乗り込むまでだ。背中なら、気付かれはしないだろう)
そして蚊太郎は見事、各駅停車の電車への乗車に、成功しました。
すぐさま男性の背中から離れ、網棚の端にとまり、次の駅に到着するのを待ちます。
(よし。あとは次に扉が開いた際に、外へ出ればいいだけ。楽勝だな。今夜中に家に戻って、明日の朝には引っ越しができるだろう)
奇妙な視線を感じたのは、リラックスして、呑気に構えていた時でした。
(…ん、なんだ。なんか、人間どもに見られている気がするな)
ふと辺りを見渡すと、前に立つ男性、その両側に立つ男性と女性、少し離れたところからも複数の人間たちが、蚊太郎をじっと見つめています。
しかもその目つきは、尋常ではありません。獲物を狙う鷹、もしくは鷹に警戒するウサギのように、相反する感情が瞳に宿っていました。
(何なんだ。この異様な雰囲気は)
車内には、独特な緊張感も漂っています。
(…ひょっとするとコイツらは、俺に血を吸われるとでも、思っているのだろうか。待て、俺はオスだぞ。血は吸わねえ。血を吸うのはメスの蚊のみということくらい、人間だって知っているだろう)
蚊太郎は、あえて意識しないよう努めました。
しかし殺気立つ視線は、なかなか背中から離れません。
(…まさかコイツら、蚊のオスとメスの区別が、ついていないのか。全然違うんだぞ。ほれ、この立派な、フワフワした触角を見てみろ)
オス特有の触角を人間にアピールするため、体をわずかに動かします。
すると蚊太郎の意に反し、周囲の空気は、一層張り詰めました。
人間たちは、蚊太郎が飛び立つと思ったようです。
(…マズい。これは、マズいぞ。こいつらは本当に、オスの俺に警戒してやがる。きっと隙あらば、襲って来るに違いない)
蚊太郎は、命の危険を感じました。
自宅では、愛しい蚊美子が、帰りを待っています。ここで、センベイになるわけには行きません。
(早くここから、脱出せねば)
そう思った、矢先でした。
アナウンスが流れ、電車が速度を落とし始めました。次の駅に、到着するようです。
(早くしろ、早くしろ)
気持ちばかりが、はやります。
そして電車の動きが止まり、扉が開きました。
(よし、今だ!)
蚊太郎は羽をひろげ、扉へ向けて飛び立ちます。
(外は、もうすぐそこ。急げ!)
しかしその時、不運が起きました。
蚊太郎は運悪く、エアコンの空気の流れに捕まってしまったのです。
(むむむっっ)
体が風に押され、前へ進めません。体力がどんどん、奪われて行きます。
(あきらめるな。ここでくじけるわけには行かない。愛する蚊美子が、家で帰りを待っているのだ。がんばれ、蚊太郎!もう少しだ!扉はもう、すぐそこ)
目の前に、扉が迫ります。どんどん、どんどん。
パーーーーーーーーーーーーーン!!!
突然、電車内に大きな破裂音が響き渡りました。
一瞬の出来事に、周囲が騒然とします。
しかしすぐさま、場には安堵の空気が漂い始めました。
一人の白シャツを着た男性が、手のひらに視線を落とし、何かを見つめています。
一方、その頃。
夕方の連続雨が去った、とある池のほとり。
蚊美子は、大きくなったお腹を抱えながら、薄暗い空を眺めていました。
(私の愛する、蚊太郎さん。今晩中に、帰って来てくれるかしら。明日でもいいわ。私はいつまでも、あなたを待ち続けます。蚊太郎さん、蚊太郎さん)
遠い空に思いを馳せながら、蚊美子は蚊太郎の帰りを信じ、待ち続けるのでした。
完
蚊太郎と蚊美子のお引越し キジトラタマ @ym-gr
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