第6話 動き出す災厄
魔力で安定させた丸い光がいくつもの燭台から放たれ、室内を玉子色の柔らかな輝きで満たしている。
かつて過ごしていた龍宮城内の己の
丁寧に管理、保管され、何一つ損なわれていない。
地の宮へ旅立つ時、仕えていた者もすべて置いてきた。
未練はなかったが、こうまで何も変わっていないと、感謝と同時に、少しばかり罪悪感が胸を掠める。
かつての自室で、黒曜は双子の弟と向き合っていた。
最後に見た時よりも
隣室では、音瀧がロゼッタの診療をしていた。
「……そういう事情であったか。いやはや、妖精たちは得てして突飛な行動で驚かせてくれる」
ロゼッタの身の上を語れば、己と繋がる誕生の因果に触れることになる。
それはまだ心の幼かった水蓮の、過去に犯した罪に触れる事にもなり、黒曜にはいささか気の重いことだった。
しかし、贖罪のために己の青春を全てエフォリアの養育に捧げ、さらに自己を厳しく磨く事に努めた果てに龍王となった事実は、罪を許された証。
そう思って慎重に話した黒曜に、水蓮は何度も深く頷いてみせた。
「母恋しさに、あちこちで荒れて力を振るい……人界にまで悪戯に降りて暴れた事は、私の恥ずべき罪だ。胸に刻み、決して忘れることはない。その行いを、兄者に口だけでなく、とうとう力で戒められたあの日…あの娘は生まれたのか」
目を伏せ、両膝に肘をついて手を組み合わせ、水蓮は息をついた。
「確かに、私と兄者の力がぶつかれば、強い波動が辺りに影響を与えるは必須。あらゆる条件が偶然重なって……否、偶然はこの世にない、きっと必然だったのだ。それにしても」
そこで水蓮は顔を上げて苦笑した。
「兄者の力の波動から芽生えた命にしては、なんとも愛らしい娘だな。いや…あの時、駄々をこねる私を戒めながらも、兄者は周辺に…妖精たちの国に危害が及ばぬように気遣う余裕があった。その思いやりが反映したのやも知れぬな」
「買い被りすぎだ」
「兄者こそ
「思いがけなく娘のような養い子が出来たも同然だ。いずれ、父代わりに……」
言いかけて、黒曜は口を噤んだ。
ロゼッタを、他の誰かに笑顔で嫁がせる想像ができない。
「輿入れさせてやる、と?」
水蓮が微かに笑いをもらした。
眉を上げると、すまない、と素直な謝罪が返る。
「いや、かつての自分を見ているようでな……。私も罪の贖いと思い決め、天から預かったエフォリアを育てた。姉上にもかなり手を借りたが、赤子を一人前に育てるというのは、本当に難しい。ましてや我儘で甘ったれの若造だ。早く育て上げて、お役御免になりたいものと思った日もある。
だが、我ながら非の打ち所のない姫に育ったエフォリアを前にした時、誰にも渡せないと思った」
それは、エフォリアも同じだった。
父というには若すぎると、兄として育てた姫の中には、自分を慈しみ育てた水蓮に家族以上の愛が芽生えていた。
それは誰も入る隙間のない絆だった。
今振り返ればそれは明白だが、あの頃は神託の前に
愚かであったと、黒曜は苦く、しかし静かに思い返す。
当時の無様な日々を、静かに
「あの可愛らしい妖精が、他の誰かに抱かれることが許せるか?兄者」
切り込むような水蓮の言葉に、やっと黒曜の感情が波立つ。
ここに到着するまでは、苦悩の果てに切り捨てた現実を前にして平静でいられるのか案じていたが、水蓮とエフォリアが仲睦まじく並ぶ姿を見ても、全く気にならない自分がいた。
そんな自分に驚き、逆にいちいち戸惑った。
「嫁に出すということは、そういうことだぞ」
想像ができない以前に、想像を試みることすら頭が拒否した。
「終わった。開けるぞ、弟共よ」
言うが早いか、姉の音瀧が扉を開けて割って入る。
音瀧は空いた長椅子に腰を下ろすと、空いた杯を手に取り差し出した。
黒曜はそこに、杏の酒を注ぐ。
円卓を挟み、コの字に膝を突き合わせた姉弟達は、そのまま無言で乾杯した。
「ロゼッタの様子は?」
黒曜の問いに、杯を一息に煽って音瀧が答える。
「疲れが出たのか、施術中に健やかに寝入ったゆえ、寝台に寝かせたぞ。
肩に滞っていた水の気は、うまく吸収された。体に強い不調が出ることはなくなるだろう。私の見立てでは、まだまだ素地に余裕のある娘ゆえ、力の均衡は経験から学んで
「姉上の施術でも……ですか?」
眉を寄せる黒曜に、音瀧は頷いた。
音瀧は、母から受け継いだ癒しの術に精通した、一流の薬師でもある。
「時間が経過しすぎたせいもあるかもしれぬ。様子を見ながら、塗り薬を調合する故、案ずるな」
手酌でさらに酒を杯に注ぎ、音瀧は高杯に盛られた干し
「まあ何にせよ、お前が傷物にした責任を取れば良いのだ。私は愛い義妹を二人得る。どこにも損はなかろう」
うんうんと、水蓮も頷く。
「…なぜ皆、ロゼッタを
「黒曜……お前、ロゼッタを見る時の自分の眼差しを、見たことはないのか?」
「いや姉上、対象物を見ている己を見ることはできまい」
水蓮が
「この上なく愛しいものを見る目をしているぞ」
動揺した手が、卓に置かれた自分の杯に当たる。
カタリと音を立てて倒れた
苦笑を浮かべた水蓮が軽やかに空いた手を左右させると、時が巻き戻るように杯は置き上がり、酒は杯に戻った。
「さて、私はそろそろ戻る。エフォリアが会食の後、『もの造りの間』に引き篭ってしまったので、根を詰めすぎぬよう止めなくては」
言って自らの杯を干すと、水蓮は席を立った。
「ロゼッタ嬢には、龍宮内のいずれとて自由に行き来する権限を与えよう。では、また」
「エフォリアによろしくな」
音瀧が手を挙げ、黒曜は静かに見送る。
「私も今宵は引き揚げる。黒曜、お前も久方ぶりの故郷だ。思うところはあるだろうが、ゆっくり休め」
干し棗を噛み締めながら、杯の酒を音瀧は一口含んだ。
「いい夜だ。私も良い夢を見られるだろう」
「快く施術をしていただき、ありがとうございます。姉上」
「水臭いことを。頼りにしてくれたこと、嬉しく思うぞ。二度とお前が帰ることはないのではと思っていたが……こうして姉弟が久方ぶりに穏やかな時間を過ごせたのも、ロゼッタのお陰だな」
音瀧は立ち上がり、母と同じ琥珀色の双眸で黒曜を見下ろした。
「大切にするのだぞ」
言い置いて、上機嫌で音瀧は退室した。
黒曜は水蓮が中身を戻した杯を手にすると、唇を湿らせ、瞑目して長い息を吐く。
自分の心が、あらゆる方面から
軽くかぶりを振って立ち上がり、隣室に向かった。
来客用の部屋は、卓と椅子、そして寝台も備えた、
黒曜の私室に最も近いので、滞在中はここをロゼッタに与えることにした。
寝台の上で寝息を立てるロゼッタの頬は、血色が良い。
思わず頬をつつくと、優しく温かい弾力が指に心地良かった。
—……エフォリアに
真っ先に浮かんだのは、知られたくないという思い。
叶わぬ恋に、もしかしてとの望みを掛け、愚かにも砕け散った惨めな己など、知られたくない。
ロゼッタの無垢な眼差しに映る自分は、司守として立派に責務を果たす、頼れる存在でありたかった。
情けない姿は、見られたくないのだ───。
—……明日は、龍宮内を案内してやろう⋯。
きっと好みだろうと用意させた杏仁豆腐を、嬉しそうに口に運んでいたロゼッタの姿が脳裏に浮かび、気持ちが凪いで行く。
せっかくだから、他では見ることのできない珍しい色々なものを見せて楽しませたい。
そう決めてもう一度頬を突くと、ロゼッタはむにゃりと寝ながら微笑んだ。
釣られて、黒曜の唇にも笑みが浮かんだ。
※※※
いつも憎らしいほどの自信をきらきらしく振りまいていた妖精が、力無く倒れ伏しているのを、アルスは見つめることしかできない。
身体が、見えない巨大な手で掴まれているようだ。
しなやかな
異様に発達した顎をギチギチ動かし、フロリンダの背にある大きな虹色に光を映す羽根を噛み締めている。
妖精の羽根は、魔力が可視化したものであり、
物理ではないので、物質は素通りする。
羽根が力の象徴であれば、格上の妖精であるほどにそれは立派な見栄えとなる。
羽根への接触には相応の力が必要となり、人間であれば不可能に近く、精和界の住人でも、そこそこの妖精ならまだしも、高位の妖精のそれとなれば可能な者は限られる。
だが
それを考えれば、自分が迂闊にもこちらに招いた魔性は、かなり力があるらしい。
—……せめて体が動けば。
アルスは歯噛みしたが、いかんせん、空間ごと捕らわれてしまった。
「オイ!なんかデカイ虫!そいつ、そんな美味くねぇからやめろ!腹壊すぞ!」
悔し紛れに怒鳴り散らしたら、宙に浮いた異形の目がギョロリとこちらを見た。
「
「いや、何言ってんの?朋輩って、こいつ別に友達とかじゃねーし。自称綿菓子だけど、コイツ甘くねぇからな?口は悪いし平気で膝蹴りとかするし、美味いわけねぇわ。お前、美味いもん食ったことねぇの?悪食ってヤツ?」
「妖精の旨味を知らぬとは……」
「知りたくねぇし。アイツの性根知ってるから、食う気にならん。そっちの食の好みは知らんけど。本気で美味いもの食ったことねぇんだなぁ、気の毒に」
「気の毒なのは貴様だ、小僧……我は飢えと乾きより生まれ、蝕む熱風で緑を食い尽くす宿命の者。緑の恵みの申し子たる妖精の美味を誰よりも心得ている。口を慎め」
ハッとアルスが吐き捨てた刹那、微かにフロリンダが動いた。
「······掴んだわよ」
今まで身動ぎもしなかった妖精は、素早く髪に飾ったマゼンダ色の小花に触れた。
『座標確保、ポータル固定。空間繋ぎます』
どこか遠くから冷静な女の声が響く。
「熱を孕む悪しき風、緑を貪る
同時に、フロリンダが鋭い声を上げた。
それを合図というように、か黒い空間にボコリと穴が開き、目を刺すような光と茨の蔓が入り込んできた。
ぐがぁ、と異形が苦痛の呻き声を上げる。
「はいな!空間連携ですの!」
フロリンダの髪に飾られた、マゼンダ色の小花と同じ髪色の幼女が躍り出て、腕を一閃した。
その動きから猛スピードで生えた茨の
さらにその背後から、突風の勢いで輝く剣を構えた女が躍り出た。
「マスター・フロリンダにこのような狼藉、許すまじ」
言った時には異形の顔を上段から両断していた。
空間への支配が崩れたようで、アルスへの捕縛も解かれる。
「お前ら、妖精か?」
「はいな!」
マゼンダの幼女が、ビシッと敬礼して見せた。
その背には、髪色と同色の、透ける蝶のような羽根がきらめいている。
茨の蔓に巻かれ、巨大昆虫は身を捩りながらどんどん動きを失って行った。
「食べるのが大好きなアンタ達に、聖なる水をたっぷり含んだ棘をあげますの!」
あっという間にどさりと昆虫は倒れ、フロリンダはすっくと立ち上がる。
「あぁ、気持ち悪いったら」
剣の女が、フロリンダの羽根に、ガラス瓶に入った水を振りかける。
「応急処置ですが…
「お姫さまの布が守ってくれたわ」
「オイ!フロリンダ、お前平気なのか?!」
アルスの言葉に、フロリンダはじろりと睨み返す。
「平気なわけないでしょ!?気持ちの悪いモノに乗られて、羽根を噛まれて!!しかもアンタ…まぁ、言いたい放題言ってくれたわね…?」
瞬間、フロリンダが髪に挿した花をアルスに投げつけた。
小花は花弁を散らし、それは勢いのある鋭利さでアルスに襲いかかる。
咄嗟のことで避けきれずに棒立ちになったアルスは切り裂かれる覚悟をしたが、それは己を避けて背後に襲いかかった。
気味の悪い苦痛の声に振り向くと、いつの間にやら暗闇から伸びた、毛むくじゃらの腕にそれらは突き刺さっていた。
「可愛いからって、あんまり妖精をなめないで下さる?」
浮いたままの切り裂かれた異形の顔が、宙をくるくる飛び回って気味の悪い笑い声を上げる。
「此度はコレで退散しよう……怖や怖や……」
鋭利な飛び道具と化した花びらを幾つも突き立てた腕が、すうっと暗闇に溶けていった。
「待て!」
アルスは咄嗟にその手に向けて、力を放った。
「待つのはアンタよ!火を使うな!奴の餌になる!」
フロリンダの制止が飛んだが、一歩遅かった。
逆巻く火炎を異形の腕を掴む。
咄嗟に剣の女が、大きく空間に輝く剣を一閃させた。
金属がぶつかるような音を立て、暗闇が崩れ落ち、全員が火の宮の地下室に居た。
「アンタの策略皆無のバカグチ効果で、奴の名前を掴むことが出来たから、アンタへのお仕置は倍返しで許してあげるわ」
直後に、フロリンダがフラリとよろめくのを、幼女が慌てて両手を差し出し支える。
「あー!もう!私、帰る!帰って沐浴して寝る!」
髪を振り乱して、フロリンダが
剣の女が、武器を腰の鞘に素早く納めて軽々とその身体を抱き上げる。
「我々は風の宮にフロリンダさまをお連れします」
マゼンダ色の妖精が、両手を上げたまま、ぴょんぴょん跳ねながら口を挟んだ。
「あたしはプリムラ!こちらはお姉さまです!」
「魔性の前では
わたくしはシャルロット。妖精ですが、戦闘に魔力を特化させているため、羽根は可視できる領域にありません。
妹と共にフロリンダさまにお仕えする者。以後お見知り置きを」
名前は本質を表す。
ゆえに、名乗りは誰もが慎重だ。
「ウォーエルフか」
妖精の中でも、自分たちに一番近しい種族である。
シャルロットは頷いた。
その腕に抱き上げられたフロリンダの顔は、蒼白だ。
「え?なにお前、ガチで弱ってんの?」
「わずかながらも羽根を
「……うるさい。単細胞。アンタには倍、奴には三倍返ししてやるから、首を洗って待ってなさいよ。アイツは魔王格の一人、パズズ。熱風で疫病を撒き散らしながら、飢えが満たされることのない
シャルロットの腕の中から、弱々しく、それでも負けじと眼差しに力を込めてフロリンダは言を紡ぐ。
「奴は私の羽根を少しばかりではあるけれど、喰らった。アンタの炎もデザートにした。
…ケジメ、つけなさいよ」
その言葉を潮に、妖精達はきらめきを残して消えた。
「ケジメ……って……」
つぶやいた瞬間、宮が
凄まじい長い地揺れに、アルスは総毛立つ。
全身が異様に熱を帯び、血が踊るようだ。
熱が……暴れている。
「こんなに早くかよ……!!」
次の瞬間、薄気味悪い高笑いと同時に、火の宮に連なる火山のひとつが噴火した。
※※※
目覚めたら、胸が苦しかった。
着てる服がきつくて、ロゼッタは胸のあたりの生地を引っ張る。
ぼんやりした記憶を手繰り寄せ、音瀧に施術を受けている最中に寝こけてしまったことに気づいた。
—……失礼をしてしまったわ·····。
とても気持ち良かったのだ。
生まれ育った
半身を起こすと、驚くほど体が軽かった。
黒曜がずっと気に病んでいた肩の痣は消えたかと、部屋に置かれた姿見に向かう。
花窓の向こうは柔らかな青の水中だが、豊かな光が差し込んでいるところから、日が昇っていることが分かった。
素足で波模様の織り出された厚い絨毯を軽やかに踏み、真鍮の全身鏡の前に立った。
「え?」
ロゼッタは声を上げる。
見慣れた自分の姿だが、違う。
昨日と違う。
髪が伸び、背もいくらか伸びている。
着ていたワンピースは膝を隠すくらいの丈だったのだが、膝上になっている。
胸がきつく、シャーリングの入ったスクエアネックの胸元から、まろやかなふくらみがはみ出ている。
もしやと思い背を見たら、羽が一回り大きくなっていた。
「はわわわわわ」
自分でもわかるほどの成長だ。
ちょっと飛べるかな、と試しに踏ん張ってみたら、少しだけ浮いた······だけだった。
「でもでも、すごい……音瀧さま、すごい」
ただ、肩を確認したら痣はまだある。
残念なようなホッとしたような気持ちで、誰よりも早くに黒曜に知らせたいと、ロゼッタは部屋を飛び出した。
そこで三人の女性と鉢合わせ、あわやぶつかりそうになる。
「お、おはようございます」
慌てて挨拶をしても、女官達は眉をひそめるばかり。
はしたなかったかと、ロゼッタは萎縮する。
「あの、黒曜さまはどちらに·····」
「ご一緒にまいられたのに、ご存知ない、と·····?」
鼻から抜けるような笑いが、三人から不穏なさざ波のように起こった。
「公子さまからお伝えしていないことを、わたくし共が話すことはできません」
にベもなく言われ、ロゼッタは困惑する。
仕方なく、お辞儀をして部屋に戻った。
女官達は扉の前に居座り、ロゼッタが扉を閉めた途端に声高に喋りだす。
「まったく、あのようなはしたない姿での無作法······お里が知れますわ」
「黒曜さまもお優し過ぎる。次期龍王として、エフォリア姫さまとの婚儀を待たれている時に神託を受け、心ならずも地の宮に流れたことを考えれば、いっときの慰めが必要だったのでしょうが」
「誰が見ても、黒曜さまはエフォリア姫を恋い慕っていらしたもの·····ねぇ?」
ロゼッタは耳を疑う。
人の話に聞き耳を立てるのは、恥ずべき行いだ。
しかも女官達は、わざと聞かせるために話しているのもわかる。
美しい身なりをしていても、いつぞや会った怪鳥ハーピー同様の底意地の悪い行い。
そんな悪意と関わってはいけないと理性は告げるが、足が感情に縫い止められてしまった。
「妖精は、殿方を誘惑する術に長けていると聞きます。あんなおぼこい容姿をしていても、きっと……」
「きっと、なんだ?」
そこに、音瀧の大きな声が割って入った。
「客人の無作法を咎めるわりには、
焦ったような衣擦れの音と、「あの」「いえ」等の女官達の声が入り交じる。
「こちらの客人は、龍王直々に、龍宮城内のいずれへも自由に行き来できる権限を与えられた。
「
「その気はないと申すか。しかしお前たちの言い草は、地の司守を格下に見ていると取れる。それは、全ての司守を蔑む発言と取られてもおかしくない。
世の力の均衡を、身を呈して守る要のお役目への蔑視が、龍族の総意だと取られし時はお前たちの首だけでは済まぬぞ」
扉越しにも音瀧の威厳が伝わってきて、ロゼッタまで気がついたら直立不動になっていた。
「己の言動を恥じる気持ちがあれば、とっとと去ね」
慌ただしい衣擦れの音がして、パタパタと足音が遠ざかる。
それを見届けたような間があり、扉がノックされた。
ロゼッタは少し後退って、「はい、どうぞ」と返事をする。
「調子はどうだ〜!?」
先程の威厳を脱ぎ捨て、両開きの扉を勢い良く開いてにこやかな音瀧が歩み寄ってきた。
別人のように人懐こく琥珀色の目を輝かせ、両手でロゼッタの頬を包む。
「なんだ、成長したな?!」
ムニムニと頬を揉まれ、ロゼッタは言葉を紡げない。
「すぐに影響が出るとは、末恐ろしい愛いやつめ〜」
ひとしきり頬を両手で
「ふむ、
「そこまでして頂いては⋯替えの衣装から、今着ても不自然でないものを選びますので⋯」
言ってロゼッタは、卓に置いてあるポシェットに小走りで駆け寄った。
中には着替えと手作りジャム、そして、女王ティタニアが夢で伝えてくれたことを守り、黒曜にも話して、妖精王が黒曜に送った手紙も持ってきている。
するりと小さなポシェットから衣装が出てきて、音瀧は感心の声を上げた。
「素晴らしい!それは妖精の魔法がかけられた道具なのだな」
「はい!あ!」
思いついたロゼッタは、ジャムを取り出す。
「これ、私が作ったジャムです!よかったらどうぞ!」
「ロゼッタが作ったものか!それは良い。頂こう」
嬉しそうにジャムの瓶を手に取り、音瀧は即開封すると、指を差し入れてぺろりと舐めた。
「枇杷だな、うまい!」
言って、ロゼッタの頭をワシワシ撫でる。
「後で大切に味わおう。ご褒美に、飴ちゃんだ」
笑顔で言って、ロゼッタの口に丸いキャンディーを入れてくれた。
口にミルクの甘みが広がって、ロゼッタの顔がほころぶ。
「気に入ったか?昨日、牛乳が好きだと言っておったので、早速、支度したのだ」
「まあ…!ありがとうごさいます。とっても美味しいです」
満足そうに目を細め、音瀧はロゼッタの頭を撫でた。
「奴らの
全てを見透かしながら受け止めてくれる、あたたかな眼差しで音瀧は言う。
心遣いに胸を打たれ、ロゼッタは俯いた。
でも、どうしても胸に刺さって抜けない棘がある。
「あの…音瀧さま……」
おずおずと話し出すロゼッタに、音瀧が満面の笑みのまま、ずいと顔を間近に寄せる。
「お・ね・え・さ・ま!お姉さまだぞ?何でも聞くから、言ってみるが良い」
圧の強い笑みで言い直しを迫られ、ロゼッタは恐縮しながらも言い直す。
「お、音瀧お姉さま…あの、私、ちょっと怒ってます。えと、正直に言うと、かなり」
気を鎮めるために、一旦、深呼吸した。
「黒曜さまは司守として、本当に真面目一途に勤めてらっしゃるのに、あの方達はとても失礼な事を言っていました。地の司守は、残念なお役目なんかじゃない。とても重要で、なくてはならない立場です。
でも、あの…本当は……、黒曜さまは⋯龍王になりたかったのでしょうか?」
音瀧は、顎に手を当てて少し考え込んだ。
「なりたいというより、なるべきだ、という意識でいたろうな」
音瀧に促され、ロゼッタは手早く着丈の合った衣装に着替え、二人並んで長椅子に腰掛ける。
「龍王の継承は、実力優先。その通りいけば、私が龍王であったろう。ただ、
そうなると龍王は男子となるので、私は候補から外れる。水蓮と黒曜は文武いずれも実力に大差はない。よって、先代の龍王である父が、長子である黒曜を指名したのだ」
威厳溢れるあの龍王と差がないほどの力───やはり黒曜はすごい方なのだと感じ入る胸に、微かな切なさが過ぎる。
「一族にとって、絶対的な存在からの継承指名であれば、逆らいようがない。ただその後、新たな神託が下り、黒曜は地の司守に指名された。さらに、水蓮が水の司守に指名されたのだ。
地の司守は地の領地に座することになり、龍王との兼任は難しい。それがあり、水の司守に指名された水蓮が王位を継承することになった。
その経緯に身勝手な解釈を付けて、黒曜を都落ちしたように言う者もいるわけだ。だが、それはとても浅はかで愚かな解釈だと思うのだよ、私は」
「名前は本質を表す、天から授かる閃きだ。
黒曜は、鉱物のひとつ。水は地と親和性があるから、幼き頃は深く考えなかったが、今となって思えば、黒曜は生まれ落ちて名付けられた時、すでに地の力を内包していたのだ」
ロゼッタは、深く何度も頷いた。
黒曜が守る地の領地の豊かさを考えたら、そうとしか思えない。
「あの……ただ……」
一番聞きたくて、けれど、聞くのが怖いこと。
その恐れを押し除けて、ロゼッタは言を継いだ。
「黒曜さまは、エフォリア様を……お慕いして……いらっしゃったのですか?」
ほんの少しだけ、悲しげに音瀧は微笑んだ。
「それは……、黒曜本人に聞くといい。自分以外の誰かの気持ちをあれこれ話すのは、推測の域を出ない戯れ言になりがちだからな。黒曜もそんなことは望むまい」
音瀧の言葉はもっともで、それ以上ロゼッタは何も問うことができなかった。
気詰まりになりそうだった空気を、扉を叩く音が打ち消す。
「ロゼッタ、目覚めているか?」
黒曜の声に、ロゼッタは弾けるように立ち上がった。
「はい!」
「入るぞ」
室内に足を踏み入れて黒曜は、手を上げる音瀧に目を止めた。
「姉上もいらっしゃいましたか」
「ロゼッタの
こちらに改めて目を向けた黒曜は、しかし、すぐに戸惑ったように目をそらした。
「……確かに」
「羽根も少し大きくなりました!」
黒曜がこちらを見てくれないのが寂しくて、間近に駆け寄り一回転して、成長ぶりをアピールする。
「そうか…それは喜ばしい。もう少し早く様子を見に来れればよかったのだが、火の領地で災いが起きてしまってな」
「えっ!?」
ロゼッタは声を上げ、音瀧は
「幸い、お前が霊夢で妖精の女王より託された先見の内容から想定していた。おとなしかった火山が噴火したのだが、地脈を通じて付近の住人の避難が素早く行えるよう、アルスに伝え、予想範囲すべてに対策をしておいたのだ。お陰で、被害は最小限にできた。
今はアルスが率先して鎮静のために力を尽くしている。フロリンダからの通達で、敵の正体も掴んだ。今後もまた対策はとれる」
「人の世に影響はありませんか?」
「地震や火山の活性化など、完全に影響がいかぬとはならないが、最小に留めることは出来る。
火は上昇する力。精神的な面では開発や技術の発展を司るので、そちらにもいささか支障が起こるやもしれぬが…大災害級の問題にはならぬだろう」
「それは、何よりです…」
人間たちの『良き隣人』として、ロゼッタは胸を撫で下ろす。
音瀧が立ち上がり、ロゼッタの頭をまた撫でた。
「では、私は戻る。また後に塗り薬を調合したら参るゆえ、気楽に過ごしておれ。お前は龍宮のどこへなりとも行ける権利を与えられておるのだからな」
言うが早いか、音瀧はさっさと退散とばかりに手を振って退室した。
「身体に不調はないか?」
黒曜に問われ、ロゼッタは頷く。
「お陰様で、とても調子が良いです」
「少し前に、姉上が気を尖らせていたようだが…何かあったのか?」
その質問にはすぐに答えられず、ロゼッタは目を伏せた。
だが以前、何かあったらきちんと話して欲しいと言われている。
言い難い事だが、ロゼッタは口を開いた。
「私が部屋から飛び出したら、ちょうど近くにいた女官さんたちと、ぶつかりそうになって…、ちょっとお咎めを受けたのです。その方たちは、私が部屋に戻っても、その場でお喋りを続けていて、その内容を、音瀧お姉さまがお叱りになりました…」
黒曜が短い嘆息を漏らした。
「不快な会話をしていたのか…大体予想はつく。
ポンと頭に大きな掌が置かれた。
音瀧も撫でてくれたが、黒曜にそうされると、なぜだか胸がキュッと甘く痺れる。
「気に病むことはない。お前はお前らしくあればいい」
黒曜の優しさに触れて、ロゼッタの心が揺さぶられた。
知りたいけど、知りたくない。
けれど気がついたら、言葉が口を突いて出ていた。
「黒曜さまは……」
「ん?」
「エフォリアさまと……婚約、してらしたのですか……?」
しばしの沈黙の後、黒曜は「ああ」とだけ短く答えた。
これ以上聞いてはいけないと思いつつ、言葉が止まらない。
「あの……エフォリアさまを、お慕いして……?」
返事はなかった。
これまでにない、二人の間に立ち込める重苦しい空気が、答えだとロゼッタは気づいた。
知らなければ良かったことを聞いた自分に怒り、そして傷ついた。
「ロゼ……」
黒曜が何か言わんとした時、黒曜の耳にあった黒曜石の耳飾りから、鋭い紫の光が周囲に刺さるように放たれる。
『我が君に疾くお知らせ申し上げます!!』
不意に場に割り込んだ彩雅の声に、ロゼッタは飛び上がる。
黒曜が耳飾りに触れると、遠く離れた地の領地にいる、彩雅の姿が室内に映し出された。
彩雅は、身の丈よりもなお巨大な黒水晶の鎌を手にしている。
鎌には巨大なスギライトが独特の意匠で嵌め込まれており、そこから渦のような紫光が放たれていた。
「何事だ」
『巨大な異形の
ロゼッタは青くなって両手で口を覆った。
地の領地は、豊かな大地の恵みの要。
もたらされる豊穣は、この世界にも、人の世の恵みにも繋がる。
『領地の境を、地霊の長・麗珠様の指揮に立って防衛しております。避難の必要な民の誘導も行っておりますゆえ、ご安心を。
我も宮の防衛体制を整え次第、前線に参る所存。ここにお伝え致します』
一礼して、映像は消えた。
「彩雅さま……」
口を覆ったまま、ロゼッタは体が震え出すのを止められなかった。
とても恐ろしいことが起きている。
「ロゼッタ、私も即時、地の領地に戻る」
「!、私も……」
「いや、お前はここに残り、姉上の施術を受けるのだ。ここは強力な結界に守られているので、安全だ」
両肩に手を置かれ、諭される。
自分は黒曜のものであれば、嫌だとは言えない。
そして、ついて行ったら足手纏いにしかならない事もわかっていた。
「姉上に、後の事はよくよく頼んでおく」
「私は、黒曜さまの猫です」
ロゼッタは震え声で訴えた。
「必ず迎えに来てください。私の帰る場所は黒曜さまのお傍です」
黒曜の花紺青の双眸が、微かに揺れた。
肩に置かれた両手が動き、しかし思いとどまるように空で止まり、掌はまた肩に置かれる。
「約束する。いい子でな」
子どもをあやすように微笑んで踵を返すと、黒曜は部屋を出ていった。
後に残るのは、微かな彼の香りだけ。
—……大丈夫、黒曜さまはとっても強い力があるもの……。
それは疑いない事実なのに、なぜ、こんなにも不安になるのだろう。
なぜ、涙が溢れるのだろう。
一人部屋に取り残され、理由の分からない涙に、ロゼッタは途方に暮れていた。
※※※
「私、いつもは泣き虫じゃないんです……」
ロゼッタの言葉に、音瀧はうんうんと頷いて寄りそう。
結界の振動を感じ取ったので何事かあったのだとは察したが、地の領地に禍が迫っていたとは。
黒曜は即時、水蓮と己にその旨を共有すると、ロゼッタを託して帰還した。
その判断は上に立つ者として、至極正しい。
それにしても、と音瀧は思う。
—……もう少し、器用に振る舞えぬものか?
龍族は、武に優れながらも才気もあり、誇り高い優秀な種という自負はあるが、いかんせん、感情面では不器用なきらいがある。
情が薄いわけではない。
むしろ逆である。
愛しても、どう近づいて良いのかとまごつき、かと思えば、想い決めたら一直線になり過ぎて周りが見えなくなったり、臆病になって相手を遠ざけたり……。
特に男子がそうした傾向が強い。
とは言え、自分も特別な感情が絡んだ場合は、うまく振る舞える自信はない。
黒曜からロゼッタを頼むと託され、気楽な身分柄、改めて
少しばかり背が伸びたとはいえ、まだまだ自分たちに比べれば小さな妖精が、部屋で一人立ち尽くし、さめざめと泣いているではないか。
胸が締め付けられるような儚げな姿だ。
—……泣かせた黒曜本人が見たら、罪悪感でハゲ散らかすであろうに。
有能な、しかし幾分
去り際に、思い切り熱烈に抱きしめてやれば、まだマシだったものを……。
「どいつもこいつも、やりようの下手なことよ……」
ロゼッタに聞こえぬように、音瀧は愚痴をこぼす。
思えば、水蓮もややこしい紆余曲折の果てに、めでたくエフォリアを娶ったのだ。
「どうしてなのか分からないけど、涙が止まらなくなってしまって……」
うんうん、とまた音瀧は頷いた。
朝と同じようにロゼッタと長椅子に並んで腰掛け、冷えた小さな手を両手に包んでやる。
気持ちを落ち着かせるために焚いた優しい桃の香が漂う室内で、なお涙を流しながらロゼッタは語る。
今は吐き出すことで、気持ちが幾分整理出来るであろう。
「私はずっと、黒曜さまにお会いしたかったんです。黒曜さまの力の波動が私に精神を芽ぶかせたから、私は肉体を得て、私になったのです。お会いできて本当に嬉しくて、お傍にいるなんて夢のよう。なのに、私は欲張りになりました。お傍を離れたくないんです」
「欲張りで、良いではないか」
ロゼッタの手のツボを柔らかく押しながら、音瀧は言った。
「黒曜も、嫌ならハッキリ拒むであろう。そうしないのは、同意してるということだ」
「黒曜さまは、お優しいから……。私は何の役にも立ちません。特に飛び抜けて美しいわけでもなく、特技があるわけでもなく、力も微力。知恵もまわるわけでは無い。本来なら、お傍に置いてもらえる身ではありません」
「ロゼッタは、鏡を見たことがないのか?」
「はい?いえ、毎日見ています」
「ならば、意識を改めた方がいい。お前はとても愛らしい。磨けば光る珠のように、これからさらに美しくなっていくだろう」
ロゼッタは、泣き腫らした目を丸くする。
「……でも……妖精はみんなもっと……」
「なるほど。周りが見目好いので、己の美しさに気づかなかったか。安心するがいい。黒曜も今朝、成長したお前に見惚れていた」
「目をそらしてしまわれましたが……」
「眩しすぎたのだろう」
広く開いた襟ぐりから除くこぼれんばかりの乳房が、という部分は、飲み込んだ。
急に豊かさを増した乳ばかりではないことは、重々承知しているが。
ロゼッタの脈が早くなったのが、包み込む手から伝わってくる。
「離れたら、もう二度と会えない気がして」
クスン、と俯いたロゼッタの鼻が鳴る。
「黒曜は必ず迎えに来る。約束を違えるような弟ではない」
音瀧の言葉に、ロゼッタは頷いた。
「必ず迎えに来てくださいって、私がワガママを言ったから」
つらつらと涙がまた流れ落ちる。
「優しいから、ワガママを聞いてくださる。黒曜さまから求められている訳では無い…エフォリアさまのように想われているわけでは……、あ!!」
言ってロゼッタは、おもむろに顔を上げる。
「なんてことでしょう!私、エフォリアさまがうらやましいみたいです!!」
驚愕の中に、焦燥、
「なんて不遜な…欲張りな…」
ワタワタと無意味に顔を左右したかと思うと、音瀧から手を離し、顔を
—……おもしろい……。
不謹慎にも、音瀧はそんな気持ちでロゼッタを眺めていた。
愛らしい乙女が、一人百面相をしている。
エフォリアもだが、龍族の婦女子は感情をあまりあらわにしないよう
音瀧は、ロゼッタの背を撫でた。
「
「あいっ?」
顔を覆った両手から上げた小さな白い顔が、みるみる火照る。
感情の暴走が許容範囲を超えてしまったようだ。
—……これはマズイ。
判断し、音瀧はロゼッタの額に指を当てる。
途端にロゼッタは、フラリと前のめりに崩れ落ちる。
「…やれやれ、恋する乙女とは、かくも面倒で愛らしいものよ」
華奢だけれど柔らかな体を受け止めながら、音瀧は独りごちた。
抱き上げて寝台に運び、そっと横たえる。
泣き腫らした瞼の上に、薬草詰めた布袋を置いた。
こうしておけば、目覚めた時は瞼も充血した目も落ち着く。
香りも良いので、気も鎮まる。
身体の成長に伴い、魔力も増したとあれば、精神もまた深く豊かになる。
精和界の住人は、精神性が豊かであるほどに力が強くなるのだから当然だ。
ただただ黒曜を無邪気な童のように慕っていた段階から、一足飛びに恋い慕っている状態なのだと気づき、同時に自分の裡にある不安や嫉妬、欲望まで見えたものだから、すぐに受け入れられぬのは当然だ。
「懐かしいな⋯」
かつてエフォリアも似たような状態になったものだが、ロゼッタよりも覚悟が早かった。
物心着いた頃から、お兄さまのお嫁さまになると言い続けていたのだから、さもありなん。
「まったく、黒曜もロゼッタも不器用なことだ」
苦笑いも漏れるというものだ。
眠れば、入り乱れた感情は一時なだめられ、思考が整理できる。
「恋をすると、誰もがいささか気が触れるのやも知れぬな。さっさと用を片して、迎えに参れ、黒曜」
二人が幸せな未来を迎えることを願い、音瀧は温かな微笑みを浮かべた。
※※※
目を覚ましたら、夕刻だった。
体を起こすと、お腹がくぅと鳴って、ロゼッタは空腹に気づく。
半身を起こすと、顔から柔らかな布袋が落ちたので、手に取るとハーブの良い香りがした。
音瀧の心遣いだと察し、ロゼッタは感謝と共に、その香り袋を胸に抱きしめる。
同時にまた腹が鳴って、鼻腔が卓から漂う美味しい香りを捉えた。
卓の上にフードカバーが掛けられた、食事の支度が置かれている。
寝台から降りて近寄ると、甘い豆のリゾットが程よい温かさで盛られていたので、椅子に腰掛け、抗いきれずに木のスプーンで口に運んだ。
小さな
腹が満たされると、眠る前のことが思い出される。
─……音瀧お姉さまに、とっても恥ずかしい姿をお見せしてしまったな…。
だが、気持ちを吐き出して眠ったおかげか、だいぶ気持ちがスッキリしている。
少し外の空気が吸いたくて、ロゼッタはそっと部屋を出た。
また誰かに咎められたらという不安はあれど、地上の空気が吸いたくて階段を探す。
階段を見つけては登り、あちこち歩き回った。
時折誰かとすれ違っても、皆、丁寧に足を止めて無言で礼を取った。
初めて来た時に見た、手を包み込むような礼だ。
誰もがとても丁寧な様子なので、かえって気軽に案内を頼むことがためらわれ、闇雲に歩き、登った先にやっと空の景色に繋がる扉を見つけた。
開け放たれた両開きの扉の向こうに、遮るもののない空が見える。
ロゼッタは、小走りにそこに飛び込んだ。
水の香りが爽やかな、清やかな場所だった。
上から降りてくる水を受ける
暮れる空が見えるので、龍宮の地上部分の、だいぶ上の方なのだろう。
池の水、清らな蓮にも、艶々輝く白瑪瑙にも、黄昏の光が朱色の揺らめく彩りを与えて美しい。
ロゼッタは池の縁に座り込んで、ぼんやりその景色を眺めた。
「……ロゼッタさん……?」
声をかけられて振り向くと、意外な人が立っていた。
エフォリアである。
背後には、侍女らしき女官が二人従っている。
侍女たちはロゼッタに礼を取ったが、一人はロゼッタに対する
慌てて立ち上がり、スカートの端をつまんで挨拶をする。
「かしこまる必要はありませんわ」
エフォリアはにこやかに言った後、しばしじっとこちらを見つめた。
「ロゼッタさん……背が……伸びました?」
「あ、はい…」
「まあ……」
呟いてエフォリアは、白い陶器のような頬に手を当てて考え込んだ。
気詰まりである。
その場を去ろうとロゼッタが口を開き、しかし同時にエフォリアも口を開いた。
「「あの」」
タイミングがまるで同じだったので、二人とも目を丸くする。
「申し訳ありません、あの、エフォリアさま、どうぞ」
慌ててロゼッタは、エフォリアに先を譲った。
エフォリアは一瞬戸惑ったが、眼差しに力を込めると、決意したように頷いて言った。
「ロゼッタさん、あの、わたくしの支度する茶会か……あの、食事の席に、いらっしゃいませんか?」
意外な申し出に、ロゼッタの目がまた丸くなる。
「私が行ってもよろしいのでしょうか……」
「もちろんですわ」
エフォリアは力強く頷いた。
断る理由がない。
龍宮では、ロゼッタは何もやることがない。
「喜んで……」
ロゼッタの答えを聞くと、エフォリアの頬に柔らかな桃色がさした。
「今日はもう夕刻なので、慌ただしいですし、明日いかがでしょう?」
「はい」
「後ほど、お時間などをお知らせするために、使いの者を遣ります。楽しみにしていますわ」
言ってエフォリアは礼をとると、優雅に
一人取り残されてロゼッタは、突然のことにしばしぼんやりしてしまう。
自分が迷子であることに気づいたのは、辺りに薄闇のヴェールが降りてきてからだった。
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