第7話 災厄の中で見えたものは

 煙る禍々しい巨大な渦が、豊穣の大地を荒らしている。

 まるで、幾重にもとぐろを巻いて威嚇いかくする、邪悪な毒蛇のようだ。

 空気の旋回から湧いて出るいなごの群れは、さしずめ大蛇の毒液か。

 銅のような色の熱を孕んだ風は、地上のあらゆるものを薙ぎ払い、高笑いするように飲み込みながら地の領地をじりじりと蹂躙じゅうりんしていく。

 風に対して、地の力は分が悪い。

 黒曜が到着した時、地霊の長、麗珠の指揮により、地霊達を先頭に総出で壁を作り侵攻を防いでいたが、防壁だけに集中出来ぬゆえに苦戦を強いられていた。

 竜巻から飛び出してくる、無数の蝗にも対処しなければならないのだ。

 異様に顎の発達した異形のそれらは、実り豊かな大地を卑しい口で蹂躙していく。

 惨憺たる光景だった。

 ロゼッタを置いてきて良かったとつくづく思う。

 花を、緑を、実りを愛するあの妖精が此様を見たらと思うと、胸が締め付けられる。

『必ず迎えに来てください』────そう言ったロゼッタに、頷いて約束した。

 心細げにこちらを見上げたロゼッタを、早く安心させたい。

 あんな哀しそうな顔のまま、待たせたくはない。

 だが、荒れ果てた地の領地を目にしたら、ロゼッタの顔はさらに曇るだろう。

「彩雅!しばし忌々しい羽虫共に集中してくれるか」

 自ら先頭に立って精鋭を指揮し、大鎌を奮い、蝗を群れごと幾多も狩り倒している彩雅は即答した。

「御意!」

 黒曜が到着するまでの間、戦闘体制で動き通しであるにも関わらず、疲労も見せずに従う側近に、黒曜は改めて強い感謝と信頼を覚える。

「麗珠殿にも、ご助力痛み入る……一気に終わらせよう」

 黒曜は深く息を吸い、全身の気を一点に練り上げる。

 大地が呼応する。

 この地の守護者の力にならんと、地脈を唸らせて気が黒曜に集まる。

 常人であれば、受け止めきれぬその力に、さらに血の力────水が共鳴した。

 それは司守となってより、最も近しくあった側近の彩雅でさえ目の当たりにしたことがない、黒曜の力の解放。

 地霊たちが力をふり絞って築いた防御壁が、水を含む。

 さらに厚くなって強度を増し、唸るような地響きと共に上へ上へと伸びていった。

 感嘆の声があちこちから上がる。

 黒曜の足元の大地も守護者を祀るように盛り上がり、邪悪な竜巻を防ぐ壁の一部となって天に届けとばかりに伸びる。

 水の渦に守られた黒曜の左右には、旋回する黒曜石の大ぶりな輪——チャクラムが二つ。

 それを武器に、熱を孕んだ巨大な竜巻と黒曜は相対した。

「ご武運を!」

 彩雅の声に、後からとめどなく声が続く。

 一番の敵を察知した蝗らが、一斉に黒曜へと牙を剥いて襲いかかろうとするも、彩雅の鎌の一閃が放つ衝撃に、斬り伏せられ塵となる。

 黒曜の築いた壁に一時守られた民草も、彩雅に倣って司守を援護せよと蝗らの駆逐に集中し始めた。

 その隙を突いてなお黒曜に襲いかかった虫共は、水の渦に跳ね飛ばされる。

 黒曜が試すように両手を動かすと、黒曜石のチャクラムは浮いたまま、よどみなく動作に従った。

 地の領地を守ろうと奮闘する民草の見守る中、黒曜は水の渦を纏い虚空に飛び、邪悪な竜巻に突入した。

※※※

 電流のような衝撃が背筋を貫き、ロゼッタは肩を竦めた。

「どうかしたか?」

 肩に軟膏を塗ってくれていた音瀧が、手を止めて声をかける。

「今……黒曜さまが…大きな、とてつもないエネルギーを放った気がして…」

 言いながらロゼッタは、身に着けていた首飾りに触れた。

 髪飾りと共に肌身離さずにいるそれは、無二の大切なもの。

「龍宮城内の強固な結界の中では、血を分けた姉である私とてわからぬが、お前がそう感じるなら、黒曜は役目のために力を尽くしているのだろう」

 音瀧の言葉に、ロゼッタは深く頷く。

 —……わざわいが一刻も早く収束しますように…黒曜さまがご無事でありますように……。

 ロゼッタは首飾りに触れたまま、しばし目を閉じて祈った。

「黒曜は実のある男子だ。約束は違えぬ。早々に迎えに来る。お前が信じて待つことが、何よりの支えになろう」

 温かな慰めに、ロゼッタの目はまた潤む。

「そんなに泣いてばかりいたら、目玉が溶けて流れ落ちるぞ」

 からかわれて、慌てて目尻を指先で拭った。

 慣れない場所で、ロゼッタが一人きりにならぬよう、なるべく共にいてくれる音瀧の心遣いには感謝ばかりだ。

 迷子になった蓮の空中庭園で、途方に暮れていたロゼッタを探し出してくれたのも音瀧だった。

 そんな優しさが黒曜と似ていると思うと、親近感が増していく。

 薬を塗り終え、衣装の肩紐を直していると、不意に扉を叩く音と共に女官が訪いを告げる声が響いた。

「夜分に失礼致します。エフォリアさま付きの侍女、鮎波あゆは藍那あいなと申す者でございます。

 ロゼッタさまに、エフォリアさまより、お届け物をお預かりしております」

 一瞬、音瀧と顔を見合わせ、訝し気なまなざしを交わしあう。

「エフォリアの名前が出ているから、問題なかろう」

 音瀧の囁きに、ロゼッタも同意して頷いた。

「どうぞ、お入りくださいな」

 許可を与えると、両開きの扉の片側だけ開き、女官が二人、しずしずと入室した。

 前を歩くのが、名乗りをした鮎波という侍女だろう

 丁寧に礼をとり、両手で恭しく書簡を差し出した。

 ロゼッタがそれを受け取ると、それを合図に背後の女官に目配せをする。

 箱を捧げ持った藍那という侍女が、ずいと前に出た。

 やや不満を滲ませた仏頂面に相応しく、鮎波と違って所作も粗雑だ。

「こちらをロゼッタさまに、と…。どうぞお受け取りくださいませ」

 戸惑うロゼッタだったが、音瀧にそっと背を押され、おずおずと箱を受け取った。

 改めて鮎波が礼をとる。

「明日、お会いできますこと、エフォリアさまはいたくお喜びでございます。どうぞよしなに…」

「こちらこそ…」

 思わぬことにうまく挨拶が返せないロゼッタへと、藍那のなじるような視線がチラリと刺さる。

 そのまま侍女たちは滑るように退出した。

 ロゼッタは水色のシーリングスタンプの押された書簡を開き、中を見る。

『夕刻にお会いした時には、慌ただしいお誘いで失礼いたしました。また、突然の誘いにもかかわらず、お受けくださいましたこと、とても嬉しく思います。

 早速ですが、明日のお朝食を共にしたく、ご招待いたします。ロゼッタさんのお国に倣えば、モーニングハイティーになりますでしょうか。迎えの者を遣りますので、城内の案内などはご安心ください。

 お近付きの記念に、こちらを受け取って頂けたら嬉しく思います』

 ロゼッタは卓に置いた箱に視線を移す。

「こちらは何でしょうか……」

「見てみるが良い」

 音瀧に促され、箱を開けてロゼッタは声を上げた。

「なんて素敵なワンピース……!」

 思わず手に取り、掲げて惚れ惚れと眺める。

 大きな襟には縁に細やかなレースが飾られ、小さな薔薇のコサージュが中央に可愛らしく着いている。

 パフスリーブの袖、スカートの裾は三段のフリルになっており、そこもレースやリボンと共に、小さな薔薇がいくつも縫い止められていた。

 スカート丈が膝下で、はしたなくもなく、動きやすくもあるのが心憎い。

 何よりも、真珠のような光沢の白地に、金の細いストライプがきらめく布地は類を見ない美麗さだ。

 コサージュ、フリルやリボンには淡いピンクが使われ、ロゼッタの髪色にマッチして映える。

「ほう、エフォリアが久方ぶりに本気を出したな」

 感心した様子で、音瀧も衣装に見入った。

「エフォリアは物造りがたいそう好きでな。衣装は布地から織る凝りようだ。縫い物の他に、調理にも好むので、水蓮はエフォリア専用の工房と厨を作ったほどだ。もの造りの間と呼び、エフォリアの気に入りの場所だ」

「布地から……!!」

 驚愕と感嘆を二つながらに抱いて興奮する手で、ロゼッタはワンピースの布地を撫でる。

 独特の感触が、記憶のひとつに触れた。

「この生地は…フロリンダさまが着ていらした衣装と同じ……」

「ああ、風のお嬢さんは、司守の顔合わせか何かの折に、温泉を目当てに水蓮にくっついてきたことがある。その時、エフォリアと親しくなった。物怖じしない自由さで、あちこち龍宮城内を探索していて出会ったらしい。

 気ままであっても、情報を司る風の司守であれば、その大事とするところは心得ている。そうした人柄を見込んで、水蓮もこちらへ出入りする許可を与えているのだよ」

 なるほどと、ロゼッタは頷いた。

 確かに、奔放な妖精の気質を体現したような方だが、無闇に混乱を生むような振る舞いはしない。

 秩序を尊重する心構えが自然と身についている。

 上に立つ者の資質をフロリンダは確かに持っていた。

「こんな素晴らしい衣装、頂いても良いのでしょうか……」

 ロゼッタの呟きに、音瀧が苦笑する。

「どこからどう見ても、お前に合わせて仕立てた物だ。ありがたく受け取るのが、一番の謝意となろう」

 ロゼッタは素直に頷いた。

 手紙の最後は、『お会いできるのを楽しみにしています』で締めくくられている。

 手紙からも、衣装からも、純粋な好意が伝わってくる。

 —……ありがたいことだわ……。

 頬を緩めてロゼッタは、明日は、この衣装で行こうと決めた。

※※※

「何で、何であんな下賤げせんの妖精風情に……!」

 小声で毒づきながら、一人の女が夜の中をいらただしげに歩く。

 誰にも聞かせるわけにいかない胸内だったから、女は住まいである龍宮の外に出て、領地の隅に鬱蒼うっそうと茂る暗い林にまで、感情を吐き出すためだけに歩いた。

 久方ぶりに帰省した、黒曜大公。

 エフォリア姫を慕いながらも想い叶わず、龍王継承も失い、下るように地の司守になった、いたわしい公子。

 陰りを帯びてもなお凛々しい偉丈夫なあの方のお傍に上がり、お慰めしたいと願っていた。

 帰省なさると聞いて、胸を弾ませていたら、どうだろう。

 頭の弱そうな妖精を連れ帰った。

「見た目ばかりは愛くるしいが、妖精という輩は奔放で、礼儀も身に付いていないれ者ばかり……!」

 弟君が龍王となり、公子から大公へと呼び名を変えた、王の血に連なる優れた方。

 そんな方に寄り添うのは、尊い血筋の同族が相応しい。

 妖精などという、品のない輩がまとわりついて良いはずがない。

「一体どうやって取り入ったのか……まったく恥を知らない」

 初見でも黒曜大公の腕にこれ見よがしにしがみつき、龍王の気まで引き、城内での自由な振る舞いを許された。

 今朝方には、あの妖精の振る舞いを咎め立てた同胞が、音瀧公主によって厳しい処罰を受けた。

 お陰で、城内で言いたい事も言えない。

 林の中ならば、悪態も木々の静けさが吸い取ってくれる。

 龍王の血に連なる全てに庇護されるばかりか、エフォリア姫からまで、衣装を下賜されるとは。

 エフォリア姫の織り成す布地の素晴らしさ、仕立ての巧みは、類を見ない。

 龍王の衣装は、ほぼほぼエフォリア姫の手製である。

 下賜されることほぼなく、音瀧公主か、もしくはいつの間にやら取り入った、風の司守のみが折々に贈られている。

「風の小娘といい、妖精とは本当に厚かましく、忌々しいことよ」

 苦く呟き、傍の木を殴りつけた。

「本当に貴女の言う通りねぇ〜」

 独り言に応えがあって、女は飛び上がって顔を左右上下し、暗がりに声の出処を探した。

 いささか離れた木の上に居るモノを目にして、女はフンと鼻を鳴らす。

 領地の外れは、結界の境である。

 龍族の守護地の外を行き来する、取るに足らぬ生物に、まま出くわすことは珍しくない。

 女の独白に同調したのは、人面に鳥の体の醜い妖鳥だった。

「下がれ下郎。誇り高き龍族の領地に近寄るな、けがらわしい」

 声を聞いた当初に驚きうろたえてしまった羞恥をごまかすように、女は傲然ごうぜんと吐き捨てた。

「これはこれは、いと高き血筋の麗しい方に大変な失礼を……。仰ることが一々ごもっともで、卑しい身でありながら、つい感心して賛同してしまったのですわ。どうぞお許しくださいませ」

 丁重な答えに、相手が下級の妖しとはいえ、少しばかり苛立ちがなだめられる。

「妖精とは本当に図々しいもので……しかも、人をたぶらかす魅了の才に長けているのですから、本当にいやらしい輩です。貴女さまほどの方ならば、その怪しからぬ術から尊い方を解放する手立てをご存知でしょうが……。

 わたくしが知っているくらいですもの。さしでがましい事を口にしました。ごめんあそばせ」

 そう言っていとまを告げ、羽ばたく妖鳥の聞き捨てならない台詞に女は声を上げる。

「待て。魅惑の術を解く方法を知っているのか」

「ええ。わたくし、恥ずかしながらあちこち飛び回らずにいられぬ性ですもの。情報は自ずと集まりますの」

「……その手段を知りたい」

 女の言葉に、妖鳥は不思議そうに首を傾げた。

「ご存知ではない、と…」

 女は居丈高に肩をそびやかした。

「下賤の輩の術になど、関わる暇がないゆえにな」

「まあ、それも仰る通りですわ。わたくし如きが、高貴な龍族である貴女様のお役に立つようでしたら…喜んで持てる知恵全てをお捧げしましょう」

 女はほくそ笑む。

 知恵の足らない妖鳥だ。

 持っている知恵を引き出したら、始末すれば良い。

 造作もないことだ。

 このような醜い生き物と関わるだけでも己の恥ではあるが、誰に知られることなく必要なことだけを引き出し、消してしまえばすべては無かったことになる。

「良い心がけだ。さあ、こちらに来い」

「よろしいのですか?」

「ああ、私は結界から出るを許されておらぬゆえ、お前が来るしかないだろう」

「嬉しいこと…」

 妖鳥は嬉々とした様子で、こちらに向かって羽ばたいた。

「結界内には、内側からの招きがなければ入れない…助かった助かった…」

 女は眉をひそめる。

 先程までは、妖鳥と言えど女の声音だったものが、しゃがれた低いものになった。

 良く見ると、こちらに近づく妖鳥の姿もおかしい。

 顔と体が、左右で違う。

 まるで、二羽を半分に割って、接着したような姿だ。

 間近に来て、いよいよその姿の異様さに気づいた。

「ヒッ」

 真っ赤な昆虫の目玉が、ギョロリと自分を捉える。

 しまった、と思った時には、女は身動ぎすることも、声を上げることも出来なかった。

「嬉しや…嬉しや…」

 妖鳥は喜悦を漏らしながら、女の口に頭から突っ込む。

 苦痛と息苦しさに、しかし喘ぐことも出来ず、黒い粒子になった妖鳥に女は身を内側から蝕まれる。

「安心せよ、お主が岡惚れする大公殿を誑かした妖精は、我がお主となって喰ろうてやるゆえ…邪魔者は消える。本望であろう」

 体内から脳を侵食されながら、女は取り返しのつかない異形に内側から食われていく絶望のままに自我を喪った。

※※※

 黒曜が竜巻に突入して、一夜が明けた。

 竜巻は依然として消滅まで至らない。

 渦を巻く大気を切り裂き、勢力はかなり削ぎ落としたものの、決着がつかない。

 竜巻の中央────もっとも空気の旋回する箇所の流れを裂くことができないからだ。

 そこは竜巻が振り撒く毒気の根幹。

 瘴気と、悪意の熱風によって強固に侵入を拒む箇所。

 壁で足止めをしていても、地上の被害は収まらない。

 地上を守る者たちにも、疲労がにじんでいることがわかる。

 —……賭けに出るか……。

 黒曜は渦を巻き、瘴気しょうきに満ちた熱を孕んで吹きすさぶ突風の中、決意を固めた。

※※※

 エフォリアに招かれたモーニングハイティー────朝食の席に行くため、ロゼッタは起きて早々に身支度をした。

 —……モーニングハイティーってお手紙にあったけど、常若の国ティル・ナ・ノグと同じ感じかな?

 それとも、朝食の言い方を私に合わせてくださっているだけで、内容は龍族の様式かな? 昨日、音瀧お姉さまが用意してくださったみたいな、甘いお豆のお粥とかが出るのかな?

 あれこれ考えつつ袖を通したエフォリアから贈られた衣装は、驚いたことに、今のロゼッタの体型にピッタリだった。

 —……まさか、蓮池でお会いした後、すぐに作った……?

 だとしたら、縫製が大得意の妖精と同等の腕前である。

 細やかで丁寧な縫い目、飾り、全てがそつなく完璧だ。

 襟ぐりが大きく開いているので、黒曜からの贈り物もちょうど良く着けられる。

 髪飾りも着け、ポシェットも斜めに掛けたところで、昨夜も顔を見せた、鮎波という侍女が一人、迎えに来た。

 広い龍宮の、長い廊下をあちこち歩き、やがて珊瑚や真珠で飾られた、白く大きな両開きの扉の前に出る。

 音もなく開いたそこの伸びる廊下をさらに進むと、貝の透かし彫りが品良くあしらわれた、淡い水色の扉に行き当たった。

「エフォリアさま、ロゼッタさまが参りました」

「お通ししてください」

 エフォリアの声に応じ、扉が両開きにされる。

 淡い青を基調に、白と天色、そして柔らかな藤色が要所を飾る、清らかな室内がロゼッタの目の前に広がった。

 純白に青のしゃの布地を重ね、波のような美しいドレープを見せるエンパイアラインのドレスを纏ったエフォリアが、侍女二人を背後に控え、立って出迎える。

 静かな波打ち際に咲く、白百合のような美しさだ。

「本日はお招きありがとうございます」

 スカートを摘んでお辞儀をしたが、エフォリアはじっとこちらを見るばかり。

「エフォリアさま……?」

 ロゼッタが小首を傾げると、艶やかな頬がみるみる薔薇色に染まり、フラリとよろめいて近くの小卓に手をついた。

「いかがされました?!」

 慌てて侍女共々かたわらによると、エフォリアは頬を押さえて長く息をついた。

 その額で、間近で見ないとわからないくらいの繊細な白金の鎖に通された、サファイアをあしらったごく小さな星形の飾りが光を跳ね返している。

 細やかな意匠に、ロゼッタは一瞬目を奪われた。

「大丈夫です、なんでもありません……」

 可憐な声が、小さく答える。

「ロゼッタさんが……その……とってもお可愛らしくて……」

 え?とロゼッタは目を丸くしたが、傍付きの侍女たちはそうかとばかりに身を退けた。

「着てくださったのですね……衣装」

 春の優しい青空のような無垢な眼差しが注がれて、ロゼッタは少し鼻白む。

「は、はい!とっても素敵な衣装をありがとうございます!着心地も、まるで羽根を纏っているように軽くて……こんな素敵な衣装、見たことがありません」

 花のかんばせに、歓喜が広がった。

 同時に、優しい水色に銀の粉をまぶしたような髪が細やかなきらめきを放つ。

 ロゼッタは改めて、エフォリアの美しさに胸を突かれた。

「良かった…!ロゼッタさんにお会いした時から、色々な図案が思い浮かんで…、あ。

 いけない、わたくしったら、せっかく来て頂いたのに……。どうぞこちらへ」

 気を取り直して案内するエフォリアに従い、続きの間に行くと、大きな円卓に所狭しとティースタンド等に乗った料理や菓子が並べられている。

「まあ!すごい……!」

 思わず両手で口を覆って感嘆すると、エフォリアが恥ずかしそうに少しうつむいた。

「楽しみで、作りすぎてしまって……」

「エフォリアさまが、手ずから調理を?!」

 モーニングハイティーというには張り切り過ぎな豪華な内容を、すべて一人で手作りしたのであれば驚き以外ない。

 ロゼッタは目を丸くして、料理とエフォリアを二度見した。

 照れくさそうに肩を竦めて、エフォリアはにこやかに頷いて見せる。

「はい、すべてわたくしが作りましたの。お口に合えば良いのですが……」

 びっくり眼のまま侍女に促されて共に席に着き、ロゼッタはカトラリーにもまた感嘆する。

 すべて故郷のそれだった。

 —……お箸に慣れない私のために、急いでそろえてくれたのかしら…。

 エフォリアのもてなしぶりを見るに、そうとしか思えない。

 料理はロゼッタが親しんできたものと、龍族の伝統的なものがそれぞれ用意され、中には折衷して仕上げたものもある。

 常若の国ティル・ナ・ノグを尊重しながらも龍族の良さも大切にし、何よりもロゼッタに楽しんでほしい、

喜んでほしいという気遣いが隈なくどころか山盛りで感じられて、胸が熱くなった。

 —……エフォリアさまは、純粋な心を持った本当の姫君なのだわ……。

 頑張りがいささか暴走して、ややチグハグになっているところまで可愛らしい。

 向かいに座ったエフォリアを見ると、はにかんだ笑顔を浮かべている。

 —……なんて魅力的な方……。

 容姿の美しさだけではなく、心映えも純真無垢で優しく、素晴らしい。

 このような方であれば、黒曜が恋してしまうのも無理はない。

 そう思うと胸がズキリと痛んだが、ロゼッタは笑顔でそれを振り払った。

 エフォリアが、花柄のティーポットを手にロゼッタに近付き、カップに紅茶を注いでくれた。

 アフタヌーンティーの作法だが、一生懸命、常若の国について学び、それを生かして歓待してくれる気持ちが嬉しかった。

 茶漉しを通って注がれる紅茶の色は、澄んで美しい。

「とってもいい香りです…」

 うっとりと呟くと、稀代の美姫はまた嬉しそうにはにかむ。

 水に射し込む陽光を巧みに招き入れた明るい部屋で、和やかな朝の茶会は始まった。

※※※

 何度蹴散らしても際限なく向かってくるいなごを斬り伏せながら、決定打を彩雅は模索する。

 主君とて同じであろう。

 黒曜が竜巻に突入してから一夜明け、主君の疲労も気にかかる。

 領地の力、血脈の力を二つながら最大限に行使し続けるのは、心身共に多大な消耗は避けられない。

 案じながらも巨大な鎌をふるう彩雅の紫水晶の耳飾りが、リンと鳴って黒曜からの通達を知らせた。

 素早くそこに手を当てる。

『彩雅、蝗はしばし放置。前線に居る者総ての力で、防御壁を強化せよ』

 彩雅は眉を寄せた。

 禍々しい蝗らは、黒曜が到着するまでは豊穣の大地を餌場とばかりに嬉々と貪っていたが、この地の主—―司守が姿を見せると、間近に飛ぶ輩は我先にと襲いかかった。

  狩る手を止めたら、竜巻の中の黒曜へと一斉に牙をむくだろう。

 しかし、主君の命は尊重し、従うが忠だ。

『……御意』

 不安を飲み込んで、彩雅は応えを返すと、指揮下の者たち及び援軍に黒曜の指示を伝達した。

※※※

「おいしいです!」

「良かった!沢山召し上がってくださいませ」

 エフォリアの料理は見栄えも味も良く、使い慣れたカトラリーが用意されていることもあり、安心してロゼッタは美味を楽しむことが出来た。

「エフォリアさまは、何でも上手にお出来になるんですね。私は妖精のくせに不器用だから、尊敬します」

「そんなことはありません。出来ないこともありますわ」

 エフォリアがやけにキッパリと言うので、ロゼッタは少し面食らう。

 モジモジと手に持ったロールパンをもてあそびながら、エフォリアは伏し目がちに言を継いだ。

「……お友だちを作ること、とか……」

 意外な言葉に、ロゼッタは目を瞬かせる。

「ずっと…龍宮の最奥で、お兄さまに養育されて……あ、あの、お兄さまとは、龍王さまのことですの。嫁ぐまで、ずっと妹としてお育て頂いたのです。

 不自由のない恵まれた環境ですが……周りに親しく接する同性の方はいなくて……だから、物を作ることだけが楽しみで……あの」

 エフォリアが耳まで赤くなった。

「ロゼッタさんがいらした時……わたくし、嬉しかったのです。とっても可愛らしくて…本当に可愛らしくて……。すぐに親しい仲になられた音瀧お姉さまが、うらやましくて……。

 わたくしも仲良くしていただきたいと……思っておりますの」

 エフォリアの言葉に偽りがないことは、ロゼッタにもわかった。

 この広い城の真奥で、兄と慕う殿方に大事に育てられ、不足はないが、同じ感覚で話せる相手がいない……それは、恵まれていても、どこか寂しさが拭えないのではないだろうか。

 ロゼッタは、故郷の仲間たちを思い出す。

 気のいい同朋たちは、離れた今でもロゼッタの大切な存在だ。

 美貌も才気もあり、愛する方の妻になったこの上なく恵まれた美姫にも、寂しさがあるのだと知ったら、エフォリアが急に身近に感じられた。

「フロリンダさまが、エフォリアさまと親しいと、音瀧お姉さまから伺いました」

「はい。フロリンダさんは可憐で気さくな方で、龍王さまにも許されて、折々に遊びに来てくださいますの」

 ロゼッタは、隣の椅子に置いたポシェットから、木苺のジャムが詰まった瓶を取りだし、エフォリアに差し出した。

「これは、私が手作りしたジャムです!フロリンダさまのような力もない、半人前の妖精ですが、お友だちになっていただけますか?」

 ロゼッタの言葉に、エフォリアの瞳が星のように輝いた。

「ええ、ええ!喜んで!こちらこそお願いしますわ」

 エフォリアはロゼッタの差し出すジャムを、両手で受け取った。

「早速いただきます」

 いそいそと自ら瓶を開けたところで、控えていた侍女の一人が横槍を入れる。

「エフォリアさま、お毒見……」

「必要ありません」

 みなまで言わせず、エフォリアは侍女に顔を振り向けた。

「あなたたち、下がって良いですわ。お友だちと水いらずで過ごしたいの」

 柔らかな笑みで、けれど絶対の圧のあるエフォリアの指示に、侍女たちは引き下がって礼を取ると、控えの間に退出した。

 それを見届け、エフォリアは嬉しそうに銀のスプーンでジャムをすくいとる。

 エフォリアの指の跡ですっかり変形したロールパンをちぎってたっぷりつけると、柔らかな唇に押し込んだ。

「まあ……とても美味しい……」

 口元に手を当て、目を丸くする様も愛らしい。

「これは……祝福の付与を込めまして……?」

 ロゼッタは両手をパタパタさせながら、かぶりを振った。

「私にそんな力はありません」

「いえ、微かですが、確かに祝福を感じます。口にした者の気持ちが弾む、幸福感の付与……」

 また一口ジャムを塗ったパンを食すと、エフォリアは目を細めた。

「ロゼッタさんが、食べた方を笑顔にしたい気持ちがそのまま祝福になっているのですね……音瀧お姉さまも仰っていましたが、たくさんの可能性をロゼッタさんはお持ちですわ」

 初めてそのような褒められ方をされて、ロゼッタは赤面した。

「私など、凡庸で、特別な力も無い身で…でも、少しでも伸び代があるなら、嬉しいです」

 —……力溢れる黒曜さまに、少しでも近づけるなら……。

 最後は心で呟いて、幸せな気持ちでティーカップに唇をつけた。

「ロゼッタさんなら、黒曜さまとお似合いのご夫婦になりますわ。めでたく嫁がれたら、わたくしと姉妹ですわね」

 ロゼッタの気持ちを見透かしたかのようなうきうきしたエフォリアの言葉に、噎せて少しばかり紅茶を吹いた。

「し、失礼しました……いえ、私のような小物は、黒曜様に相応しくは……」

 あたふたとナフキンで口元を拭うロゼッタを、エフォリアは不思議そうに見ながら小首を傾げる。

「ロゼッタさんは、黒曜さまをお慕いしていらっしゃいましょう?」

 無邪気でストレートな問いに、ロゼッタは耳まで熱くなる。

 それでも、嘘はつけない。

 コクリと頷いた。

「は、はい…でも、黒曜さまは…私を特に……」

 —……特別に好きではない。

 優しい方だから、何くれとなく面倒を見てくださるが、愛されているわけではない。

 娘のように、妹のように見ているだけだ……。

 エフォリアは、ますますわからないと言った風に顎に手を当てた。

「大事なのは、ロゼッタさんが黒曜さまを愛しているかどうかではないでしょうか」

 エフォリアの声は、すべるように耳朶じだに、心に入り込む。

「誰もが皆、自分とは別の存在です。愛し合っていても、全く同じ気持ちではありません。求めても、きりがないのです。

 大切なのは、自分の気持ち。自分が愛しているかどうか。

 自己を起点とする想いが確かでなけば、例え愛されても、軸がない不安定な状態です」

 エフォリアは胸の前に両掌を重ねて置いた。

「ロゼッタさんは、黒曜さまが想いに応えてくださらなかったら、黒曜さまを憎く思いますか?」

 エフォリアの問いが、凪いだ泉に落ちる水滴のように、ロゼッタの胸深くに落ちた。

 例え黒曜に愛されなくても、自分は黒曜を憎むことなどできない。

 優しくしてくれるから、黒曜を愛したのではない。

 最初は己の存在を具現化させた存在への、憧れという思慕だった。

 黒曜に接し、人柄を見れば見るほど、心惹かれた。

 黒曜が今なおエフォリアに恋していても、だからといって自分の想いが消えることはない。

 自分の知らない時を過ごしていた黒曜も、今の彼を作り上げた軌跡ならば、愛しく想う。

 黒曜が自分に見せ、与えてくれたもの────それが痛みを伴うものであっても、なくしたくない。

 全てが愛しい。

 哀しくないのに、胸がいっぱいになってロゼッタの双眸に涙が溢れた。

 知らなかった。

 気づいたつもりでいたけど、まだまだ知らなかった。


 ────自分は、こんなにも黒曜を愛している……。


「あ……ッ」

 肩の傷跡が不意に疼いて、ロゼッタは手で抑えた。

 じんわりとした熱が圧を伴って、ロゼッタの肌の内側へと浸透してくる。

「ロゼッタさん?!」

 エフォリアが席を立って傍らに駆け寄った。

 傷跡から始まった熱はロゼッタの内側に広がり、やがて収まる。

「どうしてか……傷跡が熱くなって……」

「確認しましょう」

 エフォリアに促され、ロゼッタは襟を緩めて肩を出した。

 視線を向けて驚く。

 どれほど手を尽くしても消えなかった傷跡が、綺麗に消えている。

「なぜ……でしょうか……?」

 独り言のようなロゼッタの問いに、エフォリアの託宣を告げる巫女のような声が返る。

「……その痕さえ、なくしたくなかったのですね。黒曜さまがくださったものだから」

 ああ、と腑に落ちてロゼッタは僅かに惚けた。

 痛みや悲しみ、傷跡でさえ、黒曜に繋がるものならば失いたくない。

 その想いは、ロゼッタが気づくと気づかぬとに関わらず、既に己のうちにあったのだ。

 黒曜への想いをはっきり自覚し、また覚悟が決まった事で、傷跡も内側へ昇華した。

「私は……とても、とっても……黒曜さまを愛しているのですね……」

 はらはらと涙を流すロゼッタの背を、エフォリアが撫でる。

 その手があまりにも優しくて、ロゼッタはみるみる気持ちが落ち着いていく。

 黒曜がエフォリアに恋をした理由がわかる、と改めて強く思った。

 それは嫉妬を伴わない、清々しい理解。

 男女問わず、惹かれずにいられない。

 現に、ロゼッタはエフォリアが大好きになってしまった。

 温かく包み込むような慈愛を惜しみなく放つ、エフォリアが大好きだ。

「傷痕が消えましたって、早く報告したいです。ずっとこの傷痕を、黒曜さまは気にしてらしたから……」

「きっと早々にお帰りになりますわ。地のご領地のこと、わたくしから、龍王さまに……」

 エフォリアの声は、最後まで聞こえなかった。

 キンと甲高い不穏な音がロゼッタの脳裏に鳴り響き、尾引いて外界の音全てを掻き消したのだ。

 それは繰り返し途絶えることなく鳴り続け、不快感にロゼッタは両の耳を抑える。

 脳を揺らすような最後の一音にビクリと一瞬震え、のけぞったままロゼッタは硬直する。

 室内の景色が砂嵐がかかったようにかすみ、今この場には無い光景がロゼッタの視界を埋めた。

 黒く渦を巻く突風、禍々しい牙と異様に発達した顎を持つ羽虫……。

 それらの中心で黒曜が────とてつもなく邪悪な何かに背後から捕らわれ……真っ赤な鮮血が吹き出した。

「黒曜さまっ!!」

 ロゼッタは叫び、座ったまま昏倒した。

※※※

 邪悪な羽虫が、黒曜目掛けて一斉に襲いかかる。

 黒い雲のような一群は、竜巻の威力をものともしないで向かってくる。

 猶予はなかった。

 二つのチャクラムを重ね、融合する。

 黒いチャクラムは黒曜の半身ほどの大きさの、一つの輪となった。

 黒曜は司る地の力、体を流れる血脈の水の力の全てをチャクラムに集中する。

 防御に用いていた水もチャクラムに纏わせ、呼気を整える。

 フロリンダのように、空に浮いている状態での力の行使は得手ではない。

 それも消耗の理由になる。

 この一撃で決めるつもりだった。

 黒曜は、竜巻に向けてチャクラムを放った。

 地の領地に住まう精鋭たちの尽力で、一時的にでもかなり勢力が弱った今しかない。

 気合いの全てを込めて、黒曜は右手を一閃した。

 その動きに合わせてチャクラムが荒ぶる風が引き裂き、迫っていた蝗の群れも力の放出に巻き込まれて塵となる。

 渦を巻く水を纏ったチャクラムは、今度こそ確かに竜巻の中心に届いた。

 最も毒素の濃い核をも、しっかりと両断した。

 幾重にも旋回する乾いた熱を孕む暴風の渦が横一文字に切り裂かれ、急速に勢いを無くしていく。

 歓声が地上から微かに聞こえた。

 勢い、竜巻の中心に躍り出る黒曜だったが、達成感よりも違和感が先に立った。

 —……本体を突いていない。

 直感を胸内で言語化したと同時に、背後から左肩に衝撃を受けた。

「さすが龍の王族よ。地と水を全力で同時に使いこなすとは……おお、何と力に溢れた旨味……」

 無防備だった左肩に、猛獣の如き牙が食い込む。

 それは首筋の太い血管まで切り裂く獰猛さだった。

 黒曜の視界に、宙に舞う己の鮮血が広がる。

 しまった、と思った時には、黄土色の獣毛が生えた頑強な腕に、身を戒められていた。

 蹴散らした蝗の、新たな一群がさらに向かい来る。

 霞んでいく意識を、しかし光のような声が貫いた。


『────黒曜さまっ────!!』


 たちまち黒曜は我を取り戻す。

 —……迎えに行くと約束した。

 澄み渡った意識は激痛と同時に、ひとつの気配を掴む。

 それは、自分に最も近しい血の躍動。

 共鳴が黒曜にだけ知らせるその希望を、無駄にするわけにはいかない。

 黒曜は、背後から自らを縛める邪悪な存在を、逆に離すまいと我が身を掴む手を土で硬めた。

 噛みちぎられた動脈から、さらに血が吹き出す。

「何をせんとする?抗うと苦痛が長びくだけぞ?」

 昆虫の眼と、獣の口を持つ邪悪な異形パズズは、愚かな悪足掻わるあがきとばかりに愉悦混じりのおぞましい咀嚼そしゃく音をわざと聞かせる。

 が、それは次の瞬間、ピタリと止まった。

 一抱えもある槍のような、鋭い切っ先を持つ何かがパズズの胸を貫いていた。

 それは雷を纏い旋回する水────パズズの胸を穿ったまま弾け、放電してその肉体を炭のように変えて塵とした。

 だが、その凶器は黒曜を傷つけることはない。

「最初から私を連れてくれば良いものを」

 空気の濁りを払うような涼やかな声が、パズズの背後から玲瓏と響く。

「単身解決しようとするとは、水臭いぞ、兄者。お陰でおいしい所だけさらうような、こすい真似をする羽目になった」

 いつの間に来たのやら、苦笑いを浮かべる水蓮の姿があった。

 しかし安堵も束の間、二人の間に蝗の群れが割って入る。

 凶悪な口とあぎとを持つ蝗が、深手の黒曜に向かい来る。

「兄者!」

 けたたましい羽ばたきの向こうに、水蓮の声がした。

 再び薄れゆく意識の中、消えゆく竜巻が散らした塵芥ちりあくたにまかれながら地上に落下していく黒曜の視界に、有り得ない姿が飛び込んでくる。

 上空からは黒霧のような蝗の群れ、下からは柔らかな光……。

「……ロゼッタ……?」

 掠れた声で呼んだその姿は、半分透けたように見えて、実態を感じなかった。

 けれど淡く光る鱗粉を散らしながら、泣きそうな顔でこちらに伸ばされた白い腕は、確かに黒曜を抱きとめた。

 強い膂力りょりょくの欠片も感じない細い腕に、傷ついた己の体が抱えられる。

 血を流し過ぎて冷えた体に、ロゼッタの温もりが心地好い。

 甘い香りが鼻腔に入り込み、痛みが嘘のように引いていく。

 真綿にくるまれるような安心に満たされ、黒曜は眠りに引きずり込まれた。

「必ず……迎えに……」

 小さな呟き残して。

※※※

 激痛に仰け反り、ロゼッタは息が詰まり椅子から転げ落ちた。

「ロゼッタさん!?どうなさいました?!」

エフォリアの問いかけにも、左肩を押さえるばかりで言葉が出ない。

「何だ今の結界の揺れは?!」

 乱暴に扉が開くと同時に、音瀧の声が響いた。

「入るぞ、エフォリア!」

 つかつかと慌ただしい足音と共に、音瀧の気配が間近に寄る。

「ロゼッタ!お前…なんの無茶をした?!これは……!!」

 音瀧に半身抱え上げられるが、痛みに息がつまり、声が出ない。

 音瀧の掌が左肩に押し付けられ、何やら唱えた後にそれが離れた瞬間、痛みはひいた。

 凄まじい虚脱感が襲い、朦朧もうろうとするロゼッタの視界に、人型をした紙が音瀧の掌の上に生まれた小さな水の渦に巻かれて消えていく様が映った。

「痛みは形代に移したが、気の消耗が酷い。補わねば」

「おと、た……おね……さ……」

「落ち着け、ロゼッタ。お前、精神体を飛ばして、黒曜の傷の痛みを肩代わりしたのだ」

 自分が何をしたのか定かではないが、音瀧がそう言うならそうしたのだろう。

「これを口に含め」

 音瀧の指で、飴玉がロゼッタの口内に入れられる。

 優しく甘いミルクの味は、消耗した気をゆっくり補っていく。

 音瀧の差し出すキャンディーには、確かな効能が付与されていたのだと、今更ながらロゼッタは悟った。

「音瀧お姉さま……、エフォリアさま……ご迷惑をおかけして……」

 回復していく気力をかき集め、ロゼッタは口を開いた。

 二人とも、大きくかぶりを振る。

「自分でも…何をしたのか……良く分からなくて……ただ、黒曜さまが……大怪我を……」

 ロゼッタは両手で顔を覆った。

 恐ろしい光景だった。

 黒曜のあんな姿を見るのは、我が身が斬られるよりも辛い。

 そして、確かに願ったのだと気づいた。

 黒曜の痛みを我が身に負いたいと。

 この上の負荷を負わぬように、いっとき、休養の眠りについて欲しいと。

 ロゼッタはすがるように音瀧の手を握りしめた。

「音瀧お姉さま、お願いです。黒曜さまの傷を癒してくださいませ。今、黒曜さまは身体の機能を一時止めています。激しく血を失った体が、これ以上負担を負わないように、そうしました。願ったら、出来ました。

 音瀧お姉さまなら、あの重症を治癒できるはずです」

 一気に言って、ロゼッタは目眩に襲われてうなだれた。

「お前は黒曜のこととなると、とんでもない無理をするのだな。痛みを肩代わりした衝撃で、お前の心の臓が止まっていたかもしれぬのだぞ?」

 呆れたように言う音瀧の手を借りて、ゆっくり横になる。

 エフォリアの膝を枕にしていることに気が引けたが、遠慮する気力はもう残っていない。

 額に、音瀧の手が置かれた。

 ひんやりしていたが、慈しみが伝わってくる。

「弟の窮地きゅうちを救ってくれたこと、感謝する。一刻も早く、傷跡も残さずに治癒して見せよう。

 エフォリア、一人になるが、大丈夫だな?」

「はい、お姉さま。すぐにでも黒曜さまの元へ」

「ロゼッタには必要な薬湯を煎じたものを届けさせる。では、参る」

 部屋に来た時同様、音瀧は素早く、ことを成すために立ち去った。

「しばらくじっとしていてくださいね、ロゼッタさん」

 優しくエフォリアが囁く。

「ロゼッタさんの負担を考えれば、無茶なことをなさったと、わたくしも切なく思います。けれど」

 エフォリアは柔らかな笑みを浮かべた。

「黒曜さまを想って無茶をするロゼッタさんの気持ち、わかりますわ。龍王さまが深手を負うようなことがあったら、わたくしも同じことをしてしまう、きっと」

 共感は心を癒す。

 寄り添ってくれるエフォリアの優しさが、ありがたかった。

 —……やっぱり……私、エフォリアさま好きだなぁ……。

「ありがとうございます…」

 微笑みを浮かべるエフォリアの額に、小さく光る飾りの輝きが何故だかさらに安らぎをもたらす。

「……額飾り……綺麗ですね、とっても……」

 温かな心持ちのまま呟いて、眠りに吸い込まれたロゼッタは、エフォリアの驚愕の表情を見なかった。

「ロゼッタさんには……見えるのですか……」

 遠くでエフォリアの微かに震える声を聞いたが、答えられずにロゼッタはしばしの眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る