第5話 水の領地―竜宮城へ―

 かつて、精和界せいわかいと人界は1つの世界だった。

 能力、寿命の差などあれ、当初はそれなりに共存できていた。

 ただやはり、物質を主に生きる種と、半ば物質でありながら、高度な精神力を自在に力に変換できる種とでは、歩幅が合わなくなる。

 それぞれが大なり小なりの群れを成し、交流をほぼ遮断し、境界を作って住み分けて何とか均衡を保ちはしたが、それは神の理想とする世ではなかった。

 そして何よりも、裏の世界、魔獄界まごくかいの勢力拡大が脅威となっていった。

 世界の影として生まれたその世界は、魂が邪な色に染まると落ちていく奈落。

 光のない、何もかもを吸いこもうとするかのような、か黒い次元。

 天を目指し精進しょうじんするはずの魂が進むのとは、真逆の場所である。

 神の影とも言える邪悪は、落ちてくる魂を糧に力を肥大させ、全ての世界を飲み込んで我がものにしようとする貪欲な意思をもった。

 侵略の始まりである。

 結果、犠牲になるのは、主に人間。

 人は神にとって、伸び代豊かで無垢な愛し子である。

 だが、邪悪な存在にとっては、糧にもこまにもなる、ひたすら便利なモノでしかない。

 坂道は登るより、降りる方が早い。

 甘美な餌をチラつかせれば呆気なく誘い込まれる人間を、邪悪は嬉々と屠っていった。

 このままでは、人が滅びる。

 天界の協議の結果、世界を一部、精和界として分かち、人界と天界の中央に据えた。

 同時に人界から魔獄界も引き離され、精和界が間に入ることで、人の世に直接、侵攻することが出来なくなった。

 かつて人と共存していた大地よりも小さくはあるが、精神性の高い力を持つ種族が移り住んだ精和界は、魔獄界からの侵攻を食い止める役割、そして、人が天に向かうための架け橋の役目を担う。

 幾度かの変遷へんせんの末、精和界は世界の中心にして唯一の大陸に、大きく四つの領地に分かれていた。

 風、火、地、水の領地。

 天界が定めた司守が座するその地は、人間の国家のように厳しい境界線を敷いてはいない。

 元素の力に溢れたそれぞれの地は、司守によって統制される。

 それぞれの種族が、自らの持つ力を伸ばせる地に寄り付き、自由に大小の国、または町や村、集落を作り、単独で暮らしてもいる。

 司守は王ではなく、守り人であり、支配はしない。

 元素の力をを安定、増幅、もしくは制御し、問題が起これば真っ先に動く。

 精和界の者達は、司守を守護者として尊重し、頼り、また手助けする。

 世界の中心である大陸の周囲に点在する島々に離れて住まうダークエルフを始めとする、特殊な種族もその理からは外れない。

 また、切り離されたとはいえ、人界とは血脈のように繋がっている。

 人界への扉は主に大陸中央にあり、故に人と最も交流のある、妖精たちの国が据えられた。

 気ままな性であれば、世界のあちこちに単独で移り住む者もいるが、人界との交流を保ち、守る役目は損なわないのが妖精の存在理由だ。

 精和界が乱れれば、繋がる人界にも災厄が現れてしまう。

 人界が大きく乱れれば、精和界に充ちる力もバランスを崩す。

 互いに支え、影響し合う関係を人の殆どが忘れても、精和界に生きる者達は遵守し続ける。

 いつか、魂の兄弟としてまた一つの世界で、手を取り合うその日まで。

※※※

「岸辺の皆さんは、私達が見えていないようですね?」

 船尾に設えられた座席は、二人並んで腰掛けたら目いっぱいの広さだが、船とは思えないほど安定して座り心地が良い。

 船特有の揺れもなく、黒曜との距離が近くて気恥しい以外は、快適な川下りだ。

 しらじらと明けてくる空の下、流れゆく景色を珍しそうに眺めながらロゼッタは黒曜に話しかけた。

 地の領地に住む者達は、地属性が強いものが多く、おしなべて働き者だ。

 朝日と共に起き出して水を汲みに来る者や、畑や家畜の世話を始める者の姿が川岸に見え始めた。

  誰もが、河を滑るように下っていくロゼッタ達に気づかない。

「認識阻害が施されているからな」

 なるほど、とロゼッタは納得した。

 下流に行くに従い、川幅はさらに大きくなり、見るだけでも水の深さがたっぷりとある。

 この船は、水の司守である龍王が用意したものであるという。

 国境やら鎖国がある人界のような煩わしい境界線はない世界だが、龍族の国は現龍王になってから、めったに外部から人を迎えないと聞く。

 ―……どのような方なのかしら……。

 黒曜の双子の弟君。

 以前、感じの悪いハーピー達が喋り散らかした情報によれば、本来なら黒曜が龍王となっていた…と…。

「ロゼッタ、船が水中にもぐる。少し揺れるぞ」

「ふぁっ?!」

 呆けた声を出したロゼッタの肩が、隣に座る黒曜に強く抱き寄せられた。

 いつも黒曜から漂う乳香のような爽やかな香りと、彼が羽織ったジャケットの皮の香りが入り交じってロゼッタの鼻腔になだれ込み、鼓動が早くなる。 

 船はするりと魚のような滑らかさで、水中に潜った。

 結界で守られているとはいえ、勢いで体が少し座席から浮きかけたのを、黒曜の腕が守ってくれた。

「はわわわ、ありがとうございます…」

 びっくり眼で見上げると、すぐ近くに黒曜の微笑みがあって頬が火照る。

 最近、黒曜に関わること全てに心臓が忙しい。

 これも急な成長の弊害へいがいなのだろうか。

 ―……成長期って、色々大変だなぁ……。

「前情報が何もないのは、不安だろう」

ロゼッタの考え込んだ様子を案じたのか、黒曜が語り出した。

「現龍王は水の司守だが、職務の全ては水の宮ではなく、龍宮で行っている。龍宮には、それを可能にする力があるからな」

「水の宮は、主不在の空き家なのですか?」

「いや、隠居した私の父母が住み、管理している。母はアプサラスという水霊で、先代の水の司守だ。私と弟を産んだ後に龍族の強い気を受け止めきれずに体が弱り、住み慣れた宮の方が心安く過ごせるだろうと、そのように取り計らった」

アプサラスと言えば、踊りに長け、美しいことでも知られる種族だ。

なるほど、黒曜が美丈夫なのも頷ける。

「龍族の国は、龍宮そのものだ。ゆえに、広さはお前の故郷よりも狭いが、水の領地の中でも強い力を持つ。

 だからと言って私が生まれた頃は外部との交流も特に縛りはなかったが、ある時から警戒が強くなってな」

 結界によって守られた小舟は、水中を切るように進みつつ、しかし小魚や水草の1本に至るまで傷つけずに進んで行く。

「私の双子の弟、水蓮が天界より一人の赤子を預かったのだ。その子は軽々しく表に出すことはできない事情があり、警戒せざる得なくなった。水蓮が龍王の座に就いた今でも、それは変わらない。だからこのようにまどろっこしい船で出向くことになったのだ」

「お船、楽しいから嬉しいです」

 にっこり笑ってロゼッタは言った。

「龍王様が育てられた赤ちゃんは、元気にお育ちになったのですか?」

「ああ」

 黒曜の視線が、逃げるように遠くへ投げられた。

「珠のように大切にされ、見事な姫に育ち、今や龍王の妃だ。長く姫と呼ばれていたため、今でも王妃ではなく、愛称のように姫と呼ばれているが」

 ロゼッタの胸内で、散り散りだった情報が繋がる。

「……あの…もしかして…エフォリア姫さまという……」

 微かに黒曜の横顔が強ばったのを、ロゼッタは見逃さなかった。

「あ、えっと、意地悪なハーピーが、言っていたのです」

 なぜか、最初に会った時、黒曜が口にしたとは言えなかった。

 短い吐息交じりに、黒曜は答える。

「情報を、完全に遮断することは難しいな。そうだ、そのエフォリアだ」

「すみません……」

「お前が謝ることはない。恐らく、エフォリアが姿を見せることはなかろうが、万が一、顔を合わせることがあっても、特に気を張る必要は無い。お前は興味本位でエフォリアを探るような真似も、何を見知っても、やたら吹聴するようなこともなかろう」

「はい!私は黒曜さまの猫なので、黒曜さまにしか興味がありません!」

 ほんのり漂った気まずい空気を払拭しようと、両手を拳に握りしめ、気合と共にしっかり頷いて見せる。

 ロゼッタの言葉を受けて、黒曜は片手で顔をおおい、笑いを漏らした。

 そんな姿に、いつもの黒曜を見てロゼッタの肩の力が抜ける。


 ロゼッタは気づいていた。

 いつもいつも、黒曜を──黒曜だけを見ているから、気づいてしまった。

 エフォリアの話題を、黒曜が避けようとしていることに。

 いつも、聞けば何事に関しても丁寧に話してくれる黒曜なのに、エフォリアのことだけは、上澄みをすくったようなことしか語らない。

 ―……黒曜さまは、エフォリア姫のことに触れたくないのだわ……。

 誰に対しても公正な姿勢の黒曜が、なぜエフォリアに関してだけはそのような態度なのだろうか。

 避けることで、逆に、特別に扱っていることがわかってしまう。

 その事実が、澄んだ水に一滴の濁りが落ちたように、ロゼッタの心に不安の滲みを残した。


 その後、龍族特有の王族の呼称や作法、龍宮内の制度などを教わりつつ、二人を乗せた小舟はさらに進み、周囲の水の色が変わる。

 濃紺から瑠璃色、そして光の差し込む、爽やかな白群色びゃくぐんいろに変わりゆく。

 漂う水の香りも、潮気を帯びたものに変わった。

「そろそろ到着だ」

 黒曜が言うと同時に、船がするりと水面に上がる。

「わあ!」

 ロゼッタは声を上げた。

 どこまでも広がる鮮やかな水の景色。

 群青、藍色、勿忘草色わすれなぐさいろ、露草色───幾重にも入り交じるあらゆる青、青、青……そして泡立つ白。

「空との境目が、わかりません!」

 あらゆる青に、所々明るい緑や白が差し色となってきらめく水の世界に、赤と青を基調に、金の縁飾りがされた門が唐突に現れる。

 その前に、長身の人の姿があった。

 袖も裾も長い薄墨色の衣装を、鮮やかな青地に金の刺繍の入ったベルトを締め、墨色の薄いガウンに似た長い上着を合わせた姿は龍族の伝統的な衣服だろうか。

 ロゼッタのスカート丈よりも長い裾の衣装だが、女々しい印象はみじんもない。

「……水蓮」

 頭上で1つ纏められた癖のない長髪は白く、毛先に行くに従い藍白、白群、紺碧と色を濃くする。

 海の色そのもののように。

 一見柔和にも見える容姿だが、黒目が勝った瑠璃色の双眸は力に満ち、がっしりした首や、姿勢の良い姿には犯しがたい威厳があった。

 ―…あの方が黒曜様の双子の弟君……龍王様……。

 小舟は主に礼をとるかのように、厳かな静けさでその御前ごぜんに停まった。

※※※

「まあ、バレるわな……」

 独り言ちて、アルスは執務室の椅子から立ち上がった。

 黒曜から送られてきた書簡は、彼の元に居る妖精が見た夢見の内容が綴られており、暗に己の秘密が指摘されていた。

「妖精って奴らは、つくづく忌々しいな」

 なぜ、黒曜のそばに妖精がいるのかはわからないが、何かと絡んでくるもう一人の妖精も既に薄々感付いていたようだから、いずれにしろ結果は同じだ。

 糾弾され、司守は剥奪、果ては仲間達ダークエルフの住まう離島より遥か先の名もない小島に流刑、もしくは監獄行きかもしれない。

 我が身がどうなろうとかまわないが、切願を果たせなかった未練はある。

 まずは早急に、邪な闇に通じるものを封じなければならない。

 アルスは隠し階段を開ける為、部屋の中央に歩を進めた。

 瞬間、

「アルス────ッ!!!!!!」

 叫びながらかっ飛んできたフロリンダの膝が、顔面に綺麗に決まった。

 目の前に火花が散って、アルスは尻もちを着いて床に転がった。

「っっって!!何すんだコラァ!!俺じゃなかったら頭ぶっ飛んでたわ!!」

「一周吹っ飛んで戻るくらいがアンタにはちょうどいいわよ!!ばーかばーか!!」

 床で半身を起こしたアルスの前に、フロリンダは腕組みをして、仁王立ちで立ちはだかる。

 銀の髪に挿したマゼンタ色の小花の飾りや、キラキラ輝くライラック色の衣装には似つかわしくない怒気が全身から放たれている。

「黒曜から私にも内密に伝達が来たわよ!なんで私が優しく匂わせ指摘した時点で、さっさと危険なものから手を引かないの!?バカなの!?バカかな!?バカなのね!??」

「うるせーな、死んでもいいけど俺はバカじゃねえ!!」

「それ!!アンタの妹にも言えるの!?」

 フロリンダは、身近な一族の者以外、誰も知らないはずの急所を穿った。

「……てめぇ……何でそれを……」

「私は風の愛し子。世界を巡る風は、情報を自ずと集める」

 フロリンダは腰に手を当て、偉そうにあごらした。

 顔立ちが可憐な分、高飛車な振る舞いすら愛らしさが滲むのが憎らしい。

「アンタは、お母さまが人との間に授かったハーフエルフの妹のために、足りない魔力を補うようなアイテムの開発をしたかったんでしょう」

 正鵠せいこくを射抜かれて、アルスは苦々しく顔を背けた。

「だけど妹さんはもう、自分で人界を選び、そこで生きていくことを決めた。どうしてそれを認めて、見守ってあげないの?」

「人の世だと、人間達の寿命の流れに取り残される」

 脆弱ぜいじゃくで大した力もないくせに、群れを成して知恵を使い生きる人間達は、群れの輪からはみ出る者を忌み嫌う。

 こちらの世界では半端者と蔑まれ、人の世では異端と嫌悪される、そんな環境に妹が置かれるかと思うと、居たたまれない。

 家族意識の薄いダークエルフは、勝手気ままだ。

 父はさほど交流はなく、母も思いつくままに過ごしている。

 それを非難する気はなく、親なんざどうでもいいが、力無い妹だけは違った。

 奔放な母は、妹を産み捨てるようにして、またどこかへと姿を消した。

 生粋のダークエルフとは比べ物にならぬ程度の魔力しかもたない妹を、面倒見てきたのはアルスだった。

 弱々しくやたらと泣くばかりの赤子───放っておけば、すぐに死んでしまうであろう命を、守らなければならないと生まれて初めての使命感に駆られて、必死に育ててきた。

「他なんかどうだっていい。ただアイツが安心して生きていける手立てが欲しかっただけだ」

「シスコンをどうこう言うつもりはないわ。どんなものも、愛は愛だもの。だけど、本末転倒ってわかる?精和界に災いが起きたら、人界に反映されてしまう。妹さんだって巻き込まれるわ」

 アルスは何も言い返せない悔し紛れに、髪を掻きむしった。

「妹さんを信じてあげなさいよ。サポートは、アンタが思い描いた形でなくともできる…本当はわかってるはずよ」

 わかっている。

 ずっと守りたいなんて、自分のエゴイズムでしかないと、わかっているのだ。

「大好きなお兄様が、自分へのこだわりから罪を犯したなんて知ったら、妹さんどんなに悲しむかしら。

 ああ……私、うっかり口が滑っちゃうかも……エミリーちゃんに話しちゃうかも……」

「なんで名前まで知ってんだよ!!」

「だーかーらー、私を誰だとお思い?妖精は、人間の『良き隣人』。一番あちらに通じてることお忘れ?」

 アルスは奥歯をかみ締めた。

 根幹は同じでありながら、光の中で伸び伸び育った種族、妖精。

 眩しい、ゆえに、忌々しい。

「ねえ、単細胞!まさかと思うけどぉ」

 フロリンダは声音を変えて、上目遣いを向けてきた。

「危険な本の封印を解いたはいいけど…もしかして、封印はできないとか?」

 人差し指で自らの柔らかな銀髪をクルクル弄びながら煽られて、アルスは勢い良く立ち上がった。

「ソッコーで片付けてやる!見てろよ!ばーかばーか!」

「自己紹介はいらないから早くしなさい!」

 互いに罵りあいながら、隠し階段を解錠して階下に向かう。


 執務室から差し込む明かりが作る二人の影の中で、音もなく、何者かがほくそ笑んだ。

※※※

 黒曜が先に船から降り、ロゼッタの手を取って下船の手助けをしてくれた。

 龍王は黒曜と向き合うと、よどみない所作で右手の拳を左手で包む礼をとる。

 黒曜もそれに倣った後、ぐっと砕けた様子で、二人は拳を軽く打ち合わせた。

「まさかお前が直々に出迎えに立つとは思わなかったぞ」

「兄者が嫁御を連れてくるのだろう里帰りに、私に代わる出迎えなどおるまい」

 嫁、という単語に、黒曜もロゼッタもしばし起動停止し—―次いで動揺した。

「いや待て、嫁というか、面倒を見ているというか、故あって預かっている乙女で……」

「浮ついたところのない兄者が、女人を連れて参ると聞いたものだからてっきり……」

 龍王の眼差しが自分に向けられたので、ロゼッタは慌ててスカートの端をつかみ、片足を後ろに引いて膝を軽く曲げて礼を取る。

「お初にお目にかかります。ロゼッタと申します。龍王様におかれましては、ご機嫌麗しく……」

 ふむ、と龍王はひとつ頷く。

「堅苦しく構えずとも良い。そなたは兄者の大切な連れであるゆえ、心から歓待しよう。さあ、まずは城内へ」

 促され黒曜の後ろについて門をくぐると、景色が一変した。

 巨大な翡翠色ひすいいろの城が、目の前にそびえている。

 いや、城というより、自然の断崖を掘り出した立体の集落のようにも見える。

 城のそこここから水が溢れ出し、壁を潤いで輝かせている。

 あちこちに突き出た屋根の一部が受け皿のように水を受け止めては湛え、溢れてはゆるかな滝となり、地上に落ちる。

 落ちた水は城を囲み、その神秘的な外観を水鏡となって地上に映し出していた。

 門をくぐるまで見ることすら出来なかった、龍宮城の威容いようである。

 ロゼッタは圧倒され、しばし棒立ちになった。

「場所酔いしたか?」

 黒曜に声をかけられて、ロゼッタは我に返る。

「龍宮には、幾重にも結界がかけられている。初めて来た者には、圧迫感を感じる事もあるだろう」

「大丈夫です!素晴らしさに、気圧されてしまっただけです」

 笑顔を返すと、黒曜はそっと手を握ってくれた。

「龍宮には、龍族の民草がほぼ居住している。広いから迷子になるなよ?」

「子どもじゃないから、大丈夫ですよ!」

 少し拗ねた風に唇を尖らせたて見せたが、気遣いの嬉しさと、手を繋いだことへの照れ隠しだった。


 二人の姿を振り向いて目に留めた龍王は、微かに目を見張った後に、またすぐに歩き出した。

 その口元は、柔らかな笑みが浮かんでいた。

※※※

 火山内部なのに、空気が異様に冷えている。

 爽やかな涼しさというよりも、全身が総毛立つような不快な冷気。

「アンタ、よくこんな気持ちの悪い空気の中にいられるわね」

「俺らダークエルフは、闇寄りの一族だ。お前ら脳天気な光側の奴らとは違うからな」

「脳天気は余計よ。単細胞」

 フロリンダの言葉に、アルスは振り向きもせず、長い階段をより暗い階下へと進む。

 ―…何かを見落としている気がする……。

 フロリンダは、アルスについて行きながら考える。

 情報を確実につかんだ実感が、足りなかった。

 何かに押され、流されるように動いている心もとなさがある。

 その不安を具体的に掴むために、フロリンダはアルスの均整の取れた背中に声をかけた。

「ねえ、アルス、アンタが封印を解いた危ないものは、書物なんでしょ?それは、アンタ達一族に受け継がれていたものなの?」

「知らね」

「へ?」

 フロリンダは驚いて足を止めた。

「お前らだって好き勝手生きてる種族だけど、俺らはもっと単独行動が多い。必要に応じて手は貸すことはあるが、基本、互いに干渉しない。

 本に関しては、管理してる場所自体にそれぞれの魔法で区分されていて、一族しか見られないと決まったもの、どんな種族が見ても構わないものっていう判別が自動でされる。例の本は、一族にしか閲覧できない区域で、たまたま見つけた」

「たまたま…」

「なんか隅っこに見たことねえのがあるなって手に取ったら、強いロックが掛けられてたから、なんか特別な記録かと思うじゃん。あと、強力な封印とか、外してやるって気になるというか」

「そのチャレンジ精神は、有意義に使って欲しいわ……」

 フロリンダはこめかみに手を当てながら、遠のく足音を改めて追いかける。

「まったく、闇の魔力の研究に手を出したのかと勘ぐった私がバカだったわ。単細胞のアンタが、闇に首突っ込みながらも、何やかやと司守やってられるハズないのに。そんな器用なことできないわよね。

 で、その本には何が書かれていたの?」

「知らねぇ言語。だが、魔獄界のものだってことはわかった」

「解読できたの?」

「できる前にバレた」

「アンタがアホの子で世界は救われたわ…。それにしたって、確かに闇寄りの種族ではあるけれども、アンタ達も精和界に生きているんだから、そんな怪しい気配の本は、危険だと察知できるでしょうに……」

「気づかなかった」

 呆れ果てたふうなフロリンダの言葉に、クシャクシャと頭をかいて、アルスは吐き捨てた。

「目的があると、それ以外どうでもよくなっちまうんだよ」

 だからさ、と言を継ぎ、歩きざまに壁を殴る。

「相応しくねぇんだよ、司守なんてよ。黒曜や水蓮みてぇな、明らかに育ちも良くて魔力もあって、人望があるような奴こそ相応しいだろ」

「でも、火はアンタを選んだのよ。それ以外の理由はどうでもいいのよ。それだけに応えれば良い」

 アルスはチラリと振り向いて、フン、と鼻を鳴らした。

「お前みたいな跳ねっ返りの綿菓子みてぇな奴でも司守だしな」

「そうね、フワフワで見た目可愛くて食べれば夢のように甘い、綿菓子ね私は、確かに!」

 フフンと倍返しで鼻を鳴らし、フロリンダは肩をそびやかした。

 あからさまに顔を顰めて、アルスはまた先を行く。

 否、はたと足を止めた。

「……こんなに長い階段だったか……?」

 呟いた瞬間、空間が渦を巻いて歪んだ。

※※※

「この中に入るのですか?」

 驚きすぎて逆に笑いが込み上げ、半洗いの顔でロゼッタは、黒曜に確認する。

 目の前には、大瀑布だいばくふ

 細やかな飛沫ひまつが風に乗り、ロゼッタの全身をしっとり潤わせる。

「ここが城の入口なのでな」

 龍王は悪戯っぽい視線を投げてよこすと、するりと瀧に吸い込まれるように先に消えた。

「大丈夫だ、怖かったら私につかまっていれば良い」

 水の司守であり、水神の位も持つ龍王や、その兄である黒曜は大丈夫で当たり前だろうが、小物の妖精である自分など水圧でひとたまりもない気がする。

 ロゼッタはひしと黒曜の腕にしがみつき、目を瞑った。

「行くぞ」

 腕にぶら下がるようにしてついて行くと、涼やかな清水の香りに包まれた後、広々としたエントランスホールに立っていた。

 龍宮の外観と同じ柔らかな色味の翡翠の壁から、内部に入ったことを知る。

 壁の四隅、柱の両端には、波をモチーフにした金の精緻せいちな意匠が施されているが、床や壁には、継ぎ目が見えない。

 龍宮自体が、ひとつの生き物のようだ。

 その広いホールの両端に、ズラリと人々が並び、男性は先程、龍王が見せた礼と同じ、女性は柔らかく丸めた左手の甲に右掌を乗せて、龍王と黒曜に頭を下げている。

 男性は龍王と似た衣装だがより軽装で、女性もエンパイアラインの衣装に、薄手の上着を羽織り、胸の下にサッシュベルト状の色とりどりの布を巻いて止めている。

 皆、一様にきっちり髪を頭上で結っていた。

「お帰りなさいませ、黒曜大公さま」

 一人が口にしたら、全員が一斉に唱和した。

 雪崩なだれのように向かってくる響きに、ロゼッタは身をすくめる。

大袈裟おおげさなことは避けて欲しいと言ったはずだが」

 黒曜はいささか苦い顔で龍王に言った。

「すまない。私が出迎えるという辺りから、兄者の帰省を皆、察してしまった。誰もが嬉しいのだよ。許してやってくれ」

 困ったように微笑む龍王は、凛々しさと美しさが不思議と同居していて、武神には見えない艶やかさがある。

「皆の者、兄者はまだ到着したばかり。内輪で積もる話もあるゆえ、華やかな歓待はまたの機会にしたい」

 龍王の言葉に、皆がまた一斉に頭を下げ、その間を三人はさらに進んだ。

  ─……何だか、とっても場違いだわ……。

 龍族の面々は、揃いも揃って背が高い。

 妖精はおしなべて小柄な者が多く、地の宮に仕える地霊達も、寿命が長く姿形の成長が遅い特徴ゆえに、平均して小柄だ。

 何だか自分が縮んだように思えて、ロゼッタは俯きがちになる。

 その横顔に強い視線を感じて思わず顔を振り向けると、苦々しい面持ちでこちらを見ている女性の一群があった。

「……なんという礼儀知らず……」

 唇の動きから自身への非難を読み取り、ハッとしてロゼッタは、黒曜の腕から手を離す。

「どうした?」

「あ、お行儀が悪かったです……」

 黒曜は小さく笑って、ロゼッタの頭に手のひらを乗せた。

「初めての場所で、戸惑ってぼんやりするのは無理もない事だ」

 気遣う言葉は嬉しいが、先程の視線がより強くなったようでロゼッタは身を強ばらせる。

 次の間に続く扉の前で、龍王は一旦立ち止まり、ゆるやかな動作で振り返った。

「兄者と共に来た客人に、誰も粗相の無いように」

 電流ように鋭い気が広いホールに走り、ロゼッタに向けられていた敵意がしぼむ。

 たった一言で場の空気を変えた、やはりこの方は王であられるのだと、ロゼッタは感服した。

 侍従によって大きな両開きの扉が開け放たれ、龍王に続いて次の間に滑り込み、多くの耳目の気配が遮断されたら、やっと肩から力が抜ける。

「龍族は皆、一族の矜持を強く抱いている。中にはそれが行き過ぎて、他族を軽んじてしまう者もいる。

 さらに言えば、兄者はとんと無頓着だが、とても人望があり、女人にも人気がある。滞在中、嫌な思いをすることがあれば、遠慮なく相談されよ」

 穏やかに龍王に言葉をかけられ、ロゼッタは恐縮した。

「お気遣いありがとうございます」

「まずは私に言うのだぞ」

 黒曜に覗き込まれ、ロゼッタは頬を火照らせながらこくこくと何度も頷いた。

 そのやり取りに目を細め、龍王がするりと前方に手を差し向ける。

「こちらが本命の出迎えだ」

 天井から幾重にも垂らされた紗が待ちかねたように左右に避けられ、その後ろに隠していた人物を顕にした。

「待ちかねたぞ、黒曜」

 涼やかな張りのある女性の声が響いた。

 長身の女性と、ロゼッタと大差ない身長の女性が並び立っている。

 長身の女性は、先程目にした龍族の女性特有の衣装を纏っているが、紺の落ち着いた色目を基調にしながら、金糸銀糸で所々に施された細やかな刺繍が質の高さを物語る。 

 琥珀色こはくいろの瞳に、結わずに梳き流した燕子花かきつばた色の癖のない髪、蜜色みついろの肌で柔和な顔立ちだが、立ち姿に威厳があり、かなり高位の方と見えた。

 そして、その隣に慎ましく佇む女性に視線を移して────ロゼッタの目は、思わず釘づけになる。

 龍族の伝統的な衣装と、ロゼッタたちが纏う衣装を見事に融和させたドレスが素晴らしい。

 陽の下に揺れる波のようなきらめく布地も、独特のデザインも目を惹きつける。

 しかし、何よりもその人の容姿───天上の空を映したようなつぶらな瞳、果実のような唇に陶器のような肌、水面に光の粒子が踊るような色の髪は、毛先に行くにつれて柔らかく波打つ巻き髪になっている。

 全ての作りが精緻で、優美だった。

 ─……まるで絹に包まれた、希少な青みを帯びた真珠のような方……。

 これまで様々な美貌を目にしてきたが、その人の美しさはそのどれとも雰囲気を異にしている。

「姉の公主と、そして私の妻だ」

 —……公主はお姫さまのことで…背の高い方は黒曜さまのお姉さま…お隣が龍王さまのお妃さま…、ということは!

 龍王の紹介を飲み込んだロゼッタはハッとして黒曜を見上げようとし──大股で公主が歩み寄ってくる勢いに押されてすくみ上がった。

 間近に来た公主は、ロゼッタをまじまじと見つめる。

 強い眼光に射抜かれ、不躾に見とれるようなことをしたから咎められるのかと、冷や汗が額に浮かんだ。

 そんなロゼッタの目の前に、長い指に摘ままれた何かが、スっと差し出される。

「飴ちゃんをやろう」

「ファッ?!」

 ピンク色の紙に包まれた丸い物は、確かにキャンディーの甘い香りがする。

 戸惑って黒曜と龍王を交互に見たが、二人ともただ無言で頷くばかり。

「さあ、遠慮なく食せ」

 いそいそと包み紙を解き、透明な赤いキャンディーを取り出すと、姉姫はロゼッタの唇の前に突きつけた。

 流れに逆らえず、パクリと口に含むと、果実の甘みが口に広がる。

「おいひいです」

 無作法であろうかとの懸念も忘れ、口内で飴玉を転がしながらうっとり呟いてしまった。

 瞬間、ロゼッタは姉姫に抱き上げられる。

「なんだこの可愛い生き物は!!黒曜、良い嫁御を連れてきたな!!最高かよ!!」

「姉上、嫁というわけでは……」

「嫁ではないのか!ならば私が貰おう!そなた、名はなんという?」

「ロ、ロゼッタと申します」

「私は音瀧おとたき。養ってやるゆえ、我が御所に来るが良い」

「い、いいえ!私は黒曜さまの猫なのです!!申し訳ありませんが、他のどなたのものにもなれません!!」

「ん?猫?」

 琥珀色の双眸が、しばしロゼッタの顔の上に固定される。

 龍王が「あ」と、 音瀧が「おお」と同時に呟く。

「確かに昔いた……マオに似ている」

「似ているなぁ。そうか、猫か!それはいい!」

 龍王の言葉を受け、音瀧は蜜色の細い喉を仰け反らせて、声を上げて笑った。

「猫の嫁御も良きかな、良きかな。まだ嫁御未満なら、アレか、猫の許嫁というやつか。ふむ、確かにまだ少し、黒曜と番うには気が足らぬな。

 なんというか……力の均衡と……滞りもある」

 大らかだった音瀧の目が一瞬鋭い光を帯び、ロゼッタは服を脱がされたわけでもないのに全身をくまなく調べられたような感覚に陥った。

 驚きはしたが、嫌な感じはしない。

「その件で、姉上のお力を借りるために参ったのです」

 我が意を得たりと、黒曜が素早く口を挟んだ。

「なるほど。詳しく話を聞こう。もっと飴ちゃんもやろう」

 弾んだ声で、ロゼッタを幼児よろしく抱き上げたまま、音瀧は振り返る。

 静かに立ったまま成り行きを見守っていた佳人と、ロゼッタの視線が結ばれた。

 淡い紫銀の、不思議な光沢のある美しいドレスの端を優雅に摘み、龍族ではなく、妖精たちのする礼をその人はとった。

「龍王の妃、エフォリアでございます」

 —……この方が……。

 会ったことはないけれど、何度となく符号のようにロゼッタの前に現れた名前。


 それが秘匿の美姫、エフォリアとの出会いだった。

※※※

 宮殿そのものから溢れ出る水の上にそびえ立つ、龍宮城。

 その周囲ぐるりを囲む水面に映る姿は鏡像ではなく、水中下に存在する宮の本宮そのものだった。

 龍王を始めとする王族にとって、水中の城こそが居住地なのである。

 魚を始めとする見知らぬ水中の生物が窓の外を行き交う不思議に、ロゼッタは目を白黒させた。

 通された朱色の円卓の上には見慣れぬ、けれど匂いで明らかに美味とわかるもてなしが所狭しと置かれ、左隣に座した音瀧が、いそいそと取り分けては皿に盛り、時に口に入れてくれる。

「旨いか?もっと食せ。好き嫌いはあるか?ほら、魚の骨はとってやったゆえ、あーん」

 箸という、棒を二つ用いるカトラリーがうまく使えないロゼッタにはありがたいのだが、ただでさえ長身の龍族の面々に囲まれ、さらには甲斐甲斐しく世話を焼かれ、いよいよ幼児になったような自分がほんの少し残念に思える。

 —…でも美味しい。

 故に拒めず、親鳥から餌を貰う雛鳥よろしく、食べ物を口に入れて貰ってはついつい笑顔になる。

 龍王も黒曜も、姉公主のやる事には口を出さない───というか、出せないようだ。

 それ以前に、龍王は隣のエフォリアと親密な眼差しを交わしあい、互いにあれこれ取り分けあったりと、眩しいほどに仲睦まじい。

 しかしエフォリアだけは、折々にこちらをじっと見つめていた。

 静かな、表情の読み取れない美貌に強い視線を注がれるのは、どうにも落ち着かない。

 声をかけてみたくても、ほぼほぼ何かを咀嚼していては叶わなかった。

「水菓子は何が良い?焼き菓子もあるぞ」

 最後に運ばれてきたデザートの果実を、音瀧が丁寧に剥いては差し出してくれる。

「これは初めて見るフルーツです!瑞々しくてプルプルで美味しい……」

「ライチが気に入ったか?ならばまた用意してやろう。さ、焼き菓子も食せ」

「ロゼッタ」

 と、右隣で言葉少なだった黒曜が女官から皿を受けとり、ロゼッタの前に置いた。

「まあ!これはミルクプリンですか?」

 皿の上には、花の形をした一口大の白いデザートが幾つか、食べられる花と一緒に美しく盛り付けられている。

「食べてごらん」

 木のスプーンが添えられていたので、自ら手に取って白いデザートを口に含むと、柔らかなミルクの甘みと、独特の風味がとろけて交わり舌の上に広がる。

「おいしい!好きです、このミルクプリン!」

「杏仁豆腐という。杏の種の中身で風味を付けている牛乳の菓子だ。好みにあうと思って支度させた」

 ほう、と音瀧が感心したように黒曜を見る。

「お花も素敵です」

 美味しいものは嬉しいが、黒曜の優しい気遣いが何より嬉しい。

 添えられた花も、野菜のように口内をさっぱりさせる。

 黒曜と音瀧の視線に囲まれて、ニコニコとまた1つ、花の形の杏仁豆腐を口に運ぶロゼッタに、おずおずした声がかかった。

「……お花が、お好きですか?」

 エフォリアだった。

 驚いて、思わず咀嚼そしゃくせずに杏仁豆腐を飲み込む。

 柔らかな食べ物で良かった。

「は、はい」

「牛乳も…お好きなのですか?」

「はい!妖精はみんな新鮮なミルクが大好きです」

 エフォリアは微かに唇を緩めて、鷹揚おうように頷いて目を伏せた。

 どんな意味があったのか良くわからないやり取りだったが、エフォリアが機嫌を悪くした様子はなく、龍王も意外そうに微笑しただけなので、受け答えに失敗はないだろう。

「そうかそうか、新鮮な乳を支度してやろう」

 音瀧も機嫌よく頭を撫でてくれた。

 場の雰囲気は壊れていない。


 だが、エフォリアが口を開いた事で、隣の黒曜の様子が変わった事だけが、ロゼッタは気にかかった。

※※※

「完全にやられたわね」

「クソッ」

 空間を火炎で爆破しようとしたところ、発火した傍から吸い取られるように炎は消えた。

 フロリンダの風もしかりである。

 歪められた空間に捉えられた事を認めざる得ない状況に、フロリンダは愛らしい唇をへの字に曲げた。

「何だよ、本を開いても、昨日まで何事もなかったんだぜ」

「今日と昨日が、全く同じになるわけないでしょ」

 ダークエルフのアルスでさえ、空間に漂う邪気の濃さに気圧されている。

「何らかの狙いがあって、抑えていたんでしょう。本は内容に関係なく、空間を繋げる呪具だったんだわ」

 本を開く、それ自体があちらとこちらを直結させる鍵だったのだ。

 それをひた隠していたのに、なぜ、今この時に抑制を取り外したのか……。

「待っていたのだ」

 地を這うような怖気を覚える声がした瞬間、フロリンダは背後から何かに飛びかかられた。

 —……しまった!

 目の前の塗りつぶされたような闇から、目が異様に突き出た異形の顔だけが浮び上がる。

 黄土色の体毛が生えた肌に、顔の下は猛獣、濁りのある赤い双眸は昆虫のそれ……。

「慎重に、慎重に……開く度に、少しづつ道を繋いだ……好機を逃さぬため。熱を招く火、しかし何よりも、風。それが網にかかる時を、待ちかねていたぞ」

「狙いは……私……か」

 気味の悪い羽音をけたたましく鳴らす何かに背中から押さえつけられ、フロリンダは見えない冷たい床に捕縛された。

「フロリンダ!おい!」

 叫べど、アルスの方も不可視の力に縛り付けられているらしい。

 背に在る羽根が、何者かに強く噛みしだかれる感触に目眩を感じて総毛立つ。

「頂こう…強い風の力……」

 異形が、愉悦ゆえつ混じりの声を紡ぐ。

「やめろ!手ぇ出すなら俺にしろ!そいつは関係ねえ!!」

「もちろん、お前も頂くさ、小僧。まずは風を食したらな……。嬉しや、妖精を喰らうのは久方ぶりゆえ……」

 首をもたげて気丈に異形をねめつけていたフロリンダは、がくりと力を失い突っ伏した。

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