第34話 雪
1.
官舎に戻った河村は、財布に必要最低限の現金を残し、身分証や書類を取り出すと机の引き出しに仕舞い込んだ。財布の中に現金しかないことを慎重に確認した後、内ポケットに滑り込ませる。
河村は軍服に着替えたが、それは医科のものではなく、襟章には大尉の階級が示されていた。時計を見ると、すでに午後九時を回っている。河村は外套を羽織り、足早に官舎を出た。向かう先は、妻帯者用の官舎。目的は、竹内中佐だった。
扉を叩くと、家人が応対に出た。
「夜分遅くに失礼します。海軍歴史編纂室の田村と申します。竹内中佐が資料と財布をお忘れになったもので。」
奥から竹内の声がした。
「おう、田村か。悪いな。」
姿を現した竹内は、河村を見るなり、将棋を指す仕草をしてみせた。
「茶でも飲んでいけ。」
「しかし、こんな時間ですし……」
「いいから上がれ上がれ。」
客間へ通され、将棋盤が用意される。河村は低い声で話し始めた。
「富岡という闇医者に会いました。」
竹内の手が止まる。
「陸軍の軍医だった男です。捕虜を使った生体実験に関与していたと。」
「証拠は?」
「本人の証言だけですが、記録がある可能性が。」
竹内はしばらく考え込んだ。
「陸軍に消されている可能性が高いな。」
将棋を指しながら、竹内は淡々と言った。
「お前はもうすぐ満州だ。これは他に回す。」
対局は竹内の勝ちで終わった。
「ご苦労だった。」
河村は軽く一礼し、竹内の家を後にした。
2.
翌日、河村は医務局で溜まった書類を片付けていた。机の上に山積みになった報告書を捌きながら、時計に目をやる。もうすぐ五時だ。
今日は整理しなければならない案件がある。五時丁度に河村はペンを置いた。外套を羽織り、封筒に三十円を収めると、財布にはさらにまとまった金を入れた。
満州行きが決まったとき、すぐに遊廓に予約を入れた、今夜は雪と会う日だった。雪は新橋の高級遊女だ。
3.
河村が雪に初めて会ったのは、もう七、八年前になる。
当時、前任者に遊郭へと連れて行かれた河村は、そこで陸軍の情報提供の受け渡しが行われていることを知らされた。遊郭は、ただの歓楽の場ではなく、密かな取引の場でもあった。
「月に一度は活動費から出してやる。」
そう言い残して、前任者は河村の肩を叩き、さっさと帰ってしまった。
残された河村は、目の前の若い遊女を前にして、何をすればいいのか分からなかった。
「……寝ますか?」
雪からの問いかけに、河村は首を横に振った。
「いや、遠慮しておく。」
雪は少し驚いたように目を瞬かせた後、微笑んだ。
「将棋は、お好きですか?」
河村が頷くと、彼女は静かに将棋盤を取り出した。それからの数年間、河村は雪を抱くことはなかった。遊郭の一室で、将棋の駒を打つ音だけが、静かに響いていた。
4.
遊郭の一室。河村は夕食をとっていた。中居が給仕をし、雪が静かに三味線を奏でる。ゆったりと流れる音色が、外の喧騒とはかけ離れた別世界をつくり出していた。
いつもと変わらぬ光景。ただ、一つだけ違うことがある。河村は普段頼まない酒を注文した。
酒が運ばれると、中居を下げ、雪が静かにお酌をする。盃に酒が注がれる音だけが、部屋の空気を震わせた。何も話さず、ただ酒を飲む河村。
雪が盃を片付けるために部屋を出ると、河村は素早く動いた。部屋の隅にある箱を開け、書類を取り出す。陸軍内通者との情報交換の箱だ。そこに用意してきた金の入った封筒を滑り込ませると、箱の蓋を静かに閉じた。
5.
雪が戻ってくる。何も知らぬ顔で、いつものように将棋盤を取り出そうとする。その手を止めるように、河村は口を開いた。
「すまないが、もう少し飲みたい。」
雪は少しだけ目を細めたが、何も言わず頷くと、人を呼び、酒を追加で頼んだ。
再び盃を交わす。それでも、河村はまだ言えなかった。満州へ行くことを、どう伝えればいいのか考えながら、ただ盃を重ねる。
ふと、静寂を破ったのは雪だった。
「河村様。」
その声に、河村は盃を持つ手を止める。
「お会いできるのは、今日が最後でございます。」
淡々と告げられた言葉に、河村の喉が詰まる。雪は続けた。
「鳥屋についてしまいました。サルバルサンを使っておりますが、うちは体面を重んじますゆえ……」
「そうか。」
河村は小さく呟いた。それ以上、言葉は出なかった。
しばらく沈黙が流れる。やがて、雪は立ち上がり、再び将棋盤を取り出そうとする。その瞬間、河村も立ち上がった。そして、そっと雪を後ろから抱きしめた。
「しばらく……このままでいてくれ。」
雪の肩に顔を寄せるようにして、河村は小さく囁く。
「……雪だったんだろ。」
遊郭の一室で得られる情報は、いつも価値のあるものだった。最初は、誰か複数の協力者がいるのだと思っていた。だが、途中で気づいた。
この情報を集め、整理し、まとめていたのは——雪だ。
彼女が身体を張り、遊郭の中で得たものを、河村のために渡していたのだ。雪は何も言わなかった。ただ、静かに河村の腕の中にいた。
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