第33話 闇医者

1.

  満州への派遣が正式に決まった河村は、官舎を一時空ける必要があった。軍の機密に関わる書類や資料は竹内に預けるとしても、とっておきたい医学書や私物の類をどうしたものかと考えた末、伊達の実家で預かってもらえないかと相談することにした。


「構わないさ、空き部屋ならたくさんある。」と伊達は快く引き受けてくれた。

「で、何で満州行くんだ?」


 橘が尋ねる。

「麻雀で負けたからです。」

「……冗談だよな?」

「医療支援ですよ。」

 河村はいつも通りの口調で淡々と言った。


 翌日、伊達と橘が荷物の運び出しを手伝ったが、河村の荷物は驚くほど少なく、伊達の実家の車を一往復させるだけで全てを運び終わってしまった。三人は時間が余ったため、満州に持っていく防寒着や毛布を買いに、銀座へ向かうことにした。


「せっかくだし、良い物を揃えておけよ。満州は寒いらしいからな。」

 伊達の助言に頷きながら、河村はしっかりとした厚手のコートや毛布、手袋などを選んだ。

 

 買い物が終わり、銀座を歩くいていると写真館があった。

「皆んなで写真を撮らないか?」

 橘が何気なく提案する。河村は少し驚いたが、直ぐに頷いた。


 写真館は空いており、予約なしで撮影ができるという。カメラの前に立った写真技師の指示に従い、椅子に座った橘が腕を組み、その後ろで伊達と河村が真面目に直立する。


 写真の出来上がりは後日になるようだった。

「暇な俺が取りに行くしかないだろうな。」

 橘が笑いながら言った。三人は写真館で解散し、それぞれの帰路についた。


 買ったコートや毛布を官舎に置いた河村は、久しぶりに浅草へ足を伸ばした。最後に江戸の情緒を味わっておこうと考えたのだ。


2.

 夕暮れ時、雷門をくぐり、仲見世通りを歩く。香ばしい煎餅の匂いや、赤提灯の軒先に並ぶ観光客の喧騒を聞きながら、河村は甘味処でみたらし団子を頼んだ。


「満州でも、こういうのが食えたらいいんですけどね。」

 独り言のようにつぶやきながら、串を口に運ぶ。


 そんな折、近くの路地裏から怒号が響いた。

「おい、誰か、医者を呼んでくれ!」

 振り向くと、若い男がふらつきながら出てくる。左腿を抑え、血が滴り落ちていた。


「喧嘩か?」

 河村はすぐに状況を把握した。太腿にはまだ刃物が刺さったままになっている。

「ドスは抜くな。そのまま座れ。」

 手早く応急処置を施した。

「病院へ行くぞ。」


 だが、男は顔をしかめ、首を横に振った。

「俺は訳ありで、普通の医者にはかかれねぇ。……浅草橋の富岡先生のところへ連れていってくれ。」

「富岡?」

 河村はあまり関わりたくはなかったが、傷の悪化を防ぐため、言われた通りの場所へと向かうことにした。


3.

案内された先は、一見すると普通の診療所だが、表の看板は出ていなかった。室内に入ると、ほの暗い照明の下に一人の男がいた。この診療所の主、富岡である。富岡は40代半ば、やつれた顔つきではあるが、鋭い眼光を持っていた。


 河村は男を置いてすぐに立ち去ろうとしたが「待て」と富岡に止められた。


 富岡は男に施された応急処置を見て河村に聞いた。

「医者だな?専門は?」

「整形外科です。」

河村はため息をつきながら答えた。


 富岡はじっと河村を見つめた後、看護師が不在で手が足りないから手伝えと言った。

「……厄介事に巻き込まれるのは嫌なんですけれど。」

「そんなこと言ってる暇があるか?こいつを死なせてもいいのか?」


 河村は再びため息をつき、渋々処置を手伝うことにした。だが、処置を進めるうちに、富岡の手技に違和感を覚えた。彼の手は、ただの町医者のそれではない。


 富岡も河村の手技に何か思うところがあったようで

「……軍の医者か?」

 とつぶやいた。

「貴方に関係ないでしょう。」

「海軍か、陸軍か。」

 河村はその言葉に、一瞬迷ったが、富岡の何か言いたげな眼を見て、静かに言った。

「……海軍です。」


3.

 処置が終わり、男を返したあと富岡は古びたソファーに深く腰を下ろした。


「……俺は元々、陸軍の軍医だった。」

 富岡は、かつて関東軍に従軍していた。そして上官の命令で捕虜を使った生体実験の場に立ち会っていたという。しかし、良心の呵責に耐えかね、記録を盗み出して逃亡。以来、名前を変えて東京に潜伏していたのだった。


「満州では、これからもっと酷いことが起こるぞ。」

 富岡の言葉に、河村は眉をひそめた。

「その実験について、詳細な資料はありますか。」

「ここにはない。明日、また来い。」


 診療所を後にし、少し歩いたところで、河村は数人の男たちとすれ違った。その影が診療所へ向かうのを見て、河村は一瞬足を止めた。


 次の瞬間、背後から銃声が響いた。河村は立ち止まることなく、足早にその場を立ち去るのだった。

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