第19話

 それに、貴文はこのケダモノから目が離せないでいた。許せないでいた。罪の象徴のような何かであって、とてもではないがこれがいなくならないことには平穏に己の罪を数えることすらできないだろうと悟っていた。ただ、簡単に認めるのも癪であるし、認めるにふさわしいだけのことのはを持ち合わせてもいなかったために必然、選ばれるのは沈黙であった。

 沈黙を期待と見たのか、娘は本題を切り出し続ける。

 

「わたくしが、死ぬ話でありましょう。死ねなくなってしまったわたくしが、もう一度いきるという瑞々しさを手に入れる話でありましょう。それが死する前の一瞬の甘美であったとしても、ですよ?」


 貴文には挑発に見えて仕方がなかった。それがお前の罪なのだと言われているようではらわたが煮えくり返る気持ちでありつつ、罪の象徴のような存在がそのようなふるまいを許さなかった。己に残った罪への正義心からか、あるいは己の平穏への便りがいある殻への回帰からか、貴文は単に言葉にうなずいた。



「そんなに簡単に頷くとは思いませんでしたのに、貴方様のそばに何日でも通い続け、ともに薬で一時期の逃避行を繰り広げ、かたやしがない後悔にさいなまれ、かたや死がない色褪せた罅に沈黙をつんざかせる予定でしたのに。様子見がてら祖父を先に派遣したというのに、何の役にも立ちませんでしたね」


 貴文から見て娘の様子は奇異ではなかった。慣れている。慣れてしまっている。このようなケダモノを始めてみたわけではない。初めて見たのはもっともっと前のことだ。そう、樹海に行こうと彼女が言い出すよりもさらに前であり、樹海で逝こうと己が提案するにふさわしくなるだけの力強い引力があったころまで遡る。遡り続ける。貴文は、もともと「えりきてる人魚」というケダモノのことを知っていたのだ。

 この目の前の娘に出会うよりも前。加えて、元、彼女がそのケダモノに近しくなるよりも前のことだ。


「何の役にたたなかったわけではなかろう。薬はあの男にすっからかんにされた。もう浸れるだけの簡易な刺激は次の機会を待たねばならぬ。生かすためだけの簡易な毒は己には持ち合わせがないのだ。あの男のおかげさまでな。それもこれも娘、お前の策謀だろう?」


「策謀などということではありませんよ、わたくしの暇つぶしがてらにおもしろきものが釣れたならば重畳、その結果が薬漬けの楽しき祖父であり、薬切れの、ようやく人の目を見れるようになった貴方様でしょう。ところで」


 娘は頤に人差し指をあてがわせた。本当に今まで忘れていたことを、今更ながらに言い始めるには芝居によってでもいなければならないとの気持ちからだろうか、その動きは舞台じみていた、ぜんまいじみていた。

「貴方様のお名前を、しかとお伺いしても?」

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ハノン貴文 スペース江戸えれきてる自死 こむぎこ @komugikomugira

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