第44話

 重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。起きたばかりだというのに、不思議と意識はしっかりとしていた。


 すると、葵のアーモンドのように切れ長で綺麗な瞳と視線がぶつかる。

 葵の顔は逆さで、こちらを覗き込むような体勢だった。頭にはひんやりとした柔らかい感触。とても心地がいい。


「……よかった」


 そんな言葉が、口からついて出た。


「……? アリス、どうかした?」

「……えっ? ああいや。その」

「なに」

「ええっと、なんかね。ふと、夢だったらどうしようって思って」

「……夢?」

「今までのこと。わたしが日本に転移して、学校に入学して葵と出会って。それから無茶苦茶なことばかり、たくさん起きたけど」

「……ん」

「全部、夢だったらどうしようって思って。そう思ったらめちゃくちゃ怖くなって。それで、さっき起きた時、葵と目が合って。ああ、よかったって。……そんだけ」


 ……なんだかうまく言葉にできない。わたし、小さいころから日本語の勉強を欠かしたことはないし、こんなに日本語へたくそじゃないはずなんだけどな。


「……つまりアリスは――……ううん。なんでもない」

「……? なんだよ」

「なんでもないって。それよりも、少し時間が欲しい。5秒くらい」

「……へ? いいけど」


 そう言って葵は5秒間、わたしから見えないように顔を逸らす。


「ん。くしゃみが出そうと思ったけれど、花粉かな。花粉症の私としては、全世界の花粉をすべて撃ち落としてくれる装置なんかがあったらいいなと思うんだよね」

「……小林製薬でも無理だろ」


 葵はいつもの無表情で、わけわからんちんなことを抜かしている。

 しかしなんだったんだ今の間は。葵の顔は少しだけ赤かったし、もしかして照れてたとか? ……いや、あの葵に限ってそれはないか。照れる要素もなかったしな。


「……ってあれ? そういえばイーディスは?」


 身体を起こそうとしたけれど、全身が重くてうまく動けそうもない。わたしは葵の膝に頭を預けたまま、周囲をきょろきょろと見渡す。イーディスの姿はどこにもなかった。


「ん。ギリギリ【空間跳躍】分の魔力は残っていたようで、アリスが気絶している間に逃げていったよ」

「……へえ、そうなのか」

「でも安心して。もしイーディスがまた襲ってきたとしても、今度こそは私がアリスを守るから。次は絶対に不覚は取らない」


 わたしの髪を撫でながら、葵は自信満々に言う。


「……なにその自信。たしかに葵は意味わかんないくらい強いけどさ。でもだからこそ、イーディスの〈鏡の国〉とは相性が悪いだろ? なんでそんなこと言いきれるんだよ」

「なんでって、そりゃあ」

「うん?」


「だって私、――勇者だし」


「……」

「勇者である私に、何度も同じ手が通用すると思わないほうがいい」

「……そうかもな」

「……? 言わないんだ」

 葵は不思議そうに、わたしの瞳を見つめている。

「……言わないって、なにを?」

「『おまえみたいな変態が勇者なわけないだろ』って。アリス、いつもそう言うでしょ」

「……。……ああ」


 ……たしかに。前までのわたしなら言ったかも。いいや、たしかに言っただろう。


『お前みたいな変態が勇者なわけないだろっ!!』って。


 けれど、今回は言わなかった。

 なんとなく、その理由はわかっている。

 しかし、そんなこと。

 そんな理由、葵に言えようはずもない。

 なぜなら――


 ――あの時。【死者之国】が発動せず、自身の死を一番間近に感じたあの瞬間。葵が神々しい魔力を帯び、わたしを助けてくれたあの時に。葵の横顔を見てふと、言い訳の余地もなく、反射的に、本能的に、直感的に葵のことを。


 ――――――……ああ、勇者みたいだな。


 なんて。そう思ったからだなんて。

 そんなことを、葵に。

 言えるはずもないのだ。


「……べつに、意味なんかないぞ。なんとなく、……ぃわなかっただけだし」

 わたしは本音を隠すように、必死に自分を取り繕う。しかし顔は熱く、後半は消え入りそうな声に。かえって意味深な言い方になってしまった。

「……ッ」


 そんなわたしに、葵は。


「……な、なんだよ、いきなり固まって。どうしたんだ?」

「……アリス、ベロチューしてもいいかな」

「べろちゅー? ってなんだ?」

「舌を入れるキスのことだよ」

「……しっ!? を、いれるキすっ!?」

「ん。いいかな」

「いいわけないだろ!? 舌を入れなくてもダメなのに!!」

「まあそう言うと思った。ところでアリス、今の状況は理解できてる?」

「ふぇ?」


 すると葵はわたしの両頬に手を当て、がしりと固定する。


「お、おひ、な、なにひゅるひら?(お、おい、な、なにする気だ?)」


 頬を目いっぱい押されてうまく発音が出来ない。今のわたしの顔はきっと、ひょっとこみたいになっているに違いない。いやそんなことはどうでもいい!!


「今私たちは二人きり。意味、わかるでしょ」


 葵はわたしを固定しながら器用に膝から降ろす。そして砂浜に仰向けにされたわたしのお腹に、葵は馬乗りになった。徐々に顔を近づけてきている。


「ま、まへ!! ほんひひゃひゃいよあ!?!?(ま、まて!! 本気じゃないよな!?!?)」

「何言ってるのかわからない。しっかり喋って」

「おみゃえのへいひゃろ!?!?(おまえのせいだろ!?!?)」

「アリスが可愛いせいだよ」

「ふうひてるひゃん!!(通じてるじゃん!!)」


 ま、まずい……!! 身体には依然と力が入らない。一方で葵の力はあまりに強い。


 なんでこいつこんなに余力残してるんだよ!? この力をしかるべきところに回せばイーディスにだって勝てただろ!?

 葵の吐息は熱く、頬も紅潮している。やけに興奮していて、もはやわたしが何を言っても聞く耳を持たなそうだ。


 未だかつてないくらい、至近距離に葵の顔がある。なんだか良い匂いもする。こんな状況でも、やっぱりこいつは顔が良い。そんなことを思わせてしまう葵と、そんなことを思ってしまう自分に嫌気がさす。嫌気が、さす、、

 ……い、いやけが。。。


「無理やりは嫌いだからね。最後に一つ、聞いてあげる。返答次第ではやめてあげないこともない」


 そう言って、葵はわたしへのホールドを解除した。頬に解放感を感じる。

 ……しかし腕や足はきっちりと固定されていて、最後に抵抗するのならここしかないのだろう。


 比喩でもなんでもなく、なぜか爆発してしまいそうなほど心臓が高鳴っている。思考もまどろんできていて、まるで脳みそが溶けてしまっているかのよう。

 わたしはなんとか声を出す。


「…………し、したは、こわい、けど。……ふ、ふ、ふつう、のき、キス、なら……ぁ、あおい……と、だった、ら」


 そんなこと、言うつもりではなかったのに。


 ――葵となら。ほかの誰でもない、葵とだったなら。


 ……それも悪くは、ない……のかも、しれない。

 そんな言葉が、わたしのふやけた脳みそにはよぎり――



「――――――――――――――――っ!?!?!?!?!?」



 刹那、頭がチカチカとフラッシュする。

 なにかが、わたしの口内で暴れていた。



「――――――――――――っ」



 ……な、なにが、おきて。……なんか、あま、い?

 …………い、いき、くる、しい……。


「――ぷはッ」


 葵が、わたしの顔から離れていく。

 葵の薄い唇からは少しだけ、透明な糸が引いていた。


「ごちそうさま」


 葵は、舌なめずりをしていて。


「……ぁ、あぅ、ぁぁ、あぁ」


 わたしは言葉にもならない声を上げることしかできない。

 手の甲を口におしつけて、涙目になった瞳を震わせることしかできなかった。

 ……な、なに、い、まの。い、いっしゅんで、わかんなかった、けど。

 ……も、も、もしかして、いま、わ、たし。あ、あおい、に、き、き、き、キス……された、の……? それ、も、ふつうの、じゃ、なく、て…………!?


「……アリス、感想は?」


 葵は意地悪そうに口角を上げて、そんなことを訊いてくる。


 ……かん、そう? こ、こいつ、な、な、な、なにいって……!? 


 ……そ、そ、そ、そ、そんなの。そんなの…………!!



「……や、や、やっぱり!! お、おまえみたいな変態が、ゆ、勇者なわけ、ないだろぉぉおおおっっっっ!?!?!?!?」




 ――わたしはやはり、そう叫ぶのだった。

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