第24話

 〝夢〟を見る。


 わたしが勇者に憧れた日のことを。

 今でもよく覚えている。それは、わたしが召使さんのひとりごとを偶然聞いてしまった時の話。


『――なぜ私があの忌子の世話なんてしなくちゃならないのかしら。私が周りからなんていわれてると思っているのよ』


 そんな低い声が聞こえた。

 優しい召使さんだったと思う。いつもにこにこ笑顔で、おいしいご飯を作ってくれる。わたしの身の回りの世話をしてくれる、おばあちゃんみたいな人だった。だからわたしは、まず自分の耳を疑った。だってそうだろう。あの優しい優しい召使さんの口からわたしの愚痴など、いいや誰の愚痴も零そうはずがないからだ。


 きっと聞き間違いだ。扉一つ挟んでいるのだから、正確に音を拾えなかっただけなのだ。


『……はあ、魔王様は何を考えていらっしゃるの。生まれてくる子が忌子だなんて、そんなのわかり切っていたことでしょうに――』


「――――」


 そんな一縷の望みも、無慈悲にどこかへ消えていった。

 それからだ。わたしが部屋に引きこもり、ほかの誰とも一切交流しなくなったのは。……パパとダイナは、そんなわたしを心配してしょっちゅう会いに来てくれていたけど。


 しかして当時6歳のわたしがそうなってしまったのは、今思えば必然だったのかもしれない。だって6歳だ。今まで友達以上に親しくしていた人の、自分に対する悪口を聞いてしまったら、そんなの受け止める術なんてあるはずもない。

 だから、仕方ない。


 当時のわたしはそうは思えなかった。

 いとも簡単に自分の心をかき乱されてしまった事実が悔しかった。泣きそうになっている自分が情けなかった。忌子の意味、この世界での忌子の定義を調べてさらに傷つく自分が愚かしかった。


 ――生まれてこなきゃよかったなんて、簡単に思ってしまう自分が嫌いだった。


 そんなある日のことだ。わたしが勇者に出会ったのは。

 まあ出会ったと言っても直接本人に、というわけではない。いつかダイナが「……福引で当たったのでアリス様にあげます。なぜこのような駄文ばかり書き連ねられた紙束が金賞なのだ。銀賞の金一封との交換はできないなどと誰が決めた……」と涙目でプレゼントしてきた勇者の冒険譚が、その日偶然わたしの目に入った。


 ダイナからもらったその本たちは、一応部屋で保管はしていたものの、決して読む気にはなれなかった。


 ダイナが渡してきた時に散々文句を言っていたのもそうだし、勇者といえばわたしのパパをぶっ倒した存在。魔王の娘であるわたしが、勇者に対していい印象など持っているはずがない。


 けれどその時のわたしは異常に暇を持て余していたし、なによりこの本は巷でロングセラーとなっているらしい。ちょっとだけ興味もあった。だから少しだけ。ほんの少しだけ読む気で、わたしは最初のページをパラパラとめくっていった。


 それから先はあっという間だった。少しだけ読む気だったはずのページをめくるわたしの手は止まることはなく、10冊はあろう冒険譚を一気にすべて読破してしまっていた。


 なぜそこまで勇者の冒険譚に魅せられたのか。理由を挙げだせばキリがないが、スマートで格好良くて、飄々としているが実は優しくて、何より強い。勇者の人となりに、わたしは強烈に引き付けられた。

 特にパパと和解し神々に戦いを挑む最終章。最後まで守るべき人間たちに認められることはなかった勇者が、民に後ろ指をさされ続け、なぜそこまで世界のために戦えるのかと、神にそう問われる一幕があった。



『私の心は、他人の安い言葉で傷つけられるほど弱く作られていないよ。どうでもいい人間に、なにをどう言われたって、私の心に届くはずもない。響くはずがないんだよ。それにね、私は世界のためとか人間のためとか、そんな殊勝なもののために戦っているんじゃない』


『この世界が滅びれば、私の愛するロリーナとか、あとは一応そこで伸びてるどこかの魔王とかも、全部いなくなっちゃうじゃん。それは困る。私はさ、自分の人生に意味なんて見出すことは出来なかったけれど、だったらせめて好きなものには囲まれていたいと思うんだ。だからこれは、全部私が、私のためにしていること。よそ者の君が私の、私のためだけの行動に、勝手に意味を付け足さないで。勝手に私をわかった気にならないで。はっきり言って、気持ち悪いよ』


 不遜にも神に向かって、勇者はそう吐き捨てる。そして勇者は神に向け、十八番【秘天剣 星砕き】を放った。


 ――カッコいいと、心の底からそう思った。


 自分のいつかなりたい理想像に、勇者の姿はカチりとハマった感触があった。

 誰に何を言われても決して動じず、そして自分の中の本当に大切なたった一つを絶対に突き通す。


 軸からブレない、芯のある人間はこんなにもカッコいいものなのかと、わたしは心底感動した。


 今までわたしは周囲に魔王になれだとか、パパに将来なにになりたいかと訊かれ、お花屋さんになりたい、と答えたこともあったが、そのどれもピンとくるものはなかった。漠然と、みんな大抵そういうものだと、幼心に思っていた。しかし、違ったのだ。


 わたしはその瞬間人生で初めて、魂の奥底から絶対に、なにがなんでもなりたいものを見つけた。

 わたしも、ああなりたいと深く思った。勇者のように、強くなりたいと――



『まもなく平塚、平塚です――』


「……んえ?」

「おはようアリス。よく眠っていたね」


 わたしは重たい瞼をなんとか持ち上げると、隣に座っていた葵がそう声をかけてくる。


「……んん、おはよう」


 どうやら帰りの電車で眠ってしまったようである。わたしは眠気まなこをこすりながら、キョロキョロと周囲を見渡す。葵と反対の隣には、アホみたいな顔をして爆睡しているダイナの姿。

 徐々に意識が覚醒してきたわたしは、車内にわたしたち以外誰もいないことに気づく。いつの間に真っ暗になっていた車窓の外も相まって、まるで日本でもわたしが育った異世界でもない、また別の世界に迷い込んでしまったかのよう。


「……アリスはさ、勇者が好きなんだよね?」


 上着のポケットに両手を突っ込みながら、葵がいきなりそんなことを訊ねてきた。


「突然なんだよ」


 タイムリーな質問である。もしやこいつ、わたしの夢を何らかの方法で覗いていたんじゃないだろうな。葵ならやりかねないっていうか、出来かねない気がする。だってあの葵だし。

 と、わたしがそんなことを考えて身構えていると、


「いいから」


 その言い方は、そっけない。いやいつもの葵も愛想なんて皆無なんだけど。

 ……けれど、いつもの葵とは違う。具体的に言語化できないけど、なんか違う。決定的に違う。一体、どうしたんだろう。


「……そう言われてもな。ええっと好きっていうか……まあ好きなんだけど。どちらかと言ったら憧れに近いかな」

「それは、なんで?」

「勇者が、カッコいいと思ったからだよ」

「……」

「わたしが昔、ある理由で塞ぎこんでいた時。勇者の冒険譚を読んで、勇気をもらった。なにものにも動じない勇者の心強さに深く惹かれた。わたしもああなりたいと心底思った。誰に何を言われたって傷つかない。自分のうちに、絶対の揺るぎない世界を持つ勇者みたいに、強く、カッコよくなりたいって。それが、理由かな」

「……」


 葵はわたしの言葉を聞くと、俯いてしまった。決して長くない葵の髪はしかし、俯いた顔を隠すには十分な長さで。

 ……今日の葵は何かおかしい。わたし、気に障るようなことを言ってしまっただろうか。


「……もし」


 ぽつり、と、葵が言葉を零す。


「……もし勇者が、アリスが思っているほど強い人間でなかったとしたら」

「……」

「……もし、勇者が、弱い自分が嫌いで。弱い自分を殺したくて。強い自分になりたくて。理想の自分を、演じていただけだったなら」

「……」

「……強い、本物の勇者に憧れたアリスはきっと。失望、しちゃうかな?」

「……」


 葵は顔を持ち上げて、わたしと視線を交わす。葵は無表情。しかし、いつもの無表情とはやはり違くて。どこか弱弱しくて、なにか一つのきっかけで、決壊してしまいそうな。そんな危うさを孕んでいる気がした。


「わたしは、」

「……」

「失望なんかしないよ」


 そう、言い切った。


「……」

「わたしが憧れた、勇者の心強さや信念が全部勇者の演技だったとしても。わたしは勇者に、失望なんかしない」

「……どうして?」

「強い自分になりたいっていうその思い自体が、わたしにはとても大切なものに思えるからだよ。それに、勇者の強さが演技や嘘だったとしても、それは絶対に偽物なんかじゃない」

「……」


「強い自分になりたくて、強い自分を演じていたなら、それは全部が全部本物だよ。嘘でもなんだってさ――演じているうちに、本物になると思うから」


「……」

「だから真偽はどうあれ、わたしはあの日。紛れもなく、本物の勇者に憧れたんだ」

「……」


 葵がわたしを見つめてくる。アーモンドのように切れ長で、宝石のように綺麗な瞳で。


「……」

「…………演じているうちに、本物になる、ね」

「……うん」

「……そっか」

 わたしの言葉を反芻するようにそう頷くと、葵はぐっと伸びをする。

「……」


 一拍置いて、彼女はすうーっと、小さく深呼吸をした。そして、


「…………そうだね。そうかもしれない。そうだと、いいな――」


 葵がなにかを、呟いた――


 ――ガタンゴトンと、音が響く。


「……なんか言った? ごめん聞こえなかった」

「ううん、なにも」

「……そう?」


 絶対なにか言っていたのに。でもまあ本人が何でもないというのなら、そういうことにしておいてやろう。わたしはアリス。空気が読める女なのだ。


「……ん。なに」


 ふと、葵の表情を盗み見る。


「なんでもないよ」

「変なアリス」

「……それはこっちのセリフだぞ」


 葵のその表情は無表情で。しかし、先ほどとは打って変わった無表情。

 いつもの見慣れた、葵の無表情だ。


「……」


 そんなことを確認して。

 なぜかはわからないけれど、わたしはおもわず笑みを浮かべていた。

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