第二十三話 一人の理由

 なんとも言えない表情を浮かべた西条は、散らかった床に鞄を無造作に投げ置き、靴を脱ぐと、ゆっくりと部屋の奥へと進んだ。


 「ただいま……親父、お袋。」


 ぼんやりとした明かりが、簡素な室内を照らす。

 その小さな空間に負けないほどに、掻き消されそうな小さな声が木霊した。


 それは、まるで返事を求めないかのような、独り善がりな呟きだった。

 誰に聞かせるわけでもなく、ただ口をついて漏れた言葉。

 まるで、そこにまだ誰かがいると錯覚させるための儀式のように――。


 しかし、その小さな声は、嫌に静まり返った部屋の中で独りよがりに反響し、

 四隅の影へと吸い込まれるようにして、ゆっくりと消えていった。


 都会の喧騒とは真逆の、その静寂は、再び彼に”路地裏での出来事”を思い出させる。

 無意識の内に頭の中を駆け巡った血の匂い、拳から放たれる空気を割る様な衝撃――

 手を出さ無かった安堵の裏側に見え隠れする、喧嘩に対する懐かしさと期待を感じている自分に気づく。

 その感情を振り払うように、部屋の隅にある小さな仏壇の前へと腰を下ろした。


 「俺、このままじゃ駄目だと思って、普通になろうとしてる。

 けど、結局”本質”は変われねぇな……。

 親父がいたら、今の俺になんて声をかけてくれてたんだろうな」


 俯いたまま、小さく息を吐きながら視線を上げる。

 目の前に飾られた一枚の写真――


 強面ながらも、どこか笑みを含んだ、厳しそうな男。

 そして、その横で穏やかな微笑みをたたえる、どこまでも優しげな女性。


 その中央には――二人に肩を抱かれながら、無邪気な笑顔を向ける幼い少年がいた。

 ただただ幸せそうな一枚の家族写真に写る情景は、まるで"孤独"とは真逆の風景を切り取った写真であった。


 「……変わりてぇよ、俺だってさ」


 そう呟きながら立ち上がると、その言葉は独りでに漂い、静寂の中へと消えていった。


 仏壇に染み付いた線香の残り香が、わずかに鼻をくすぐる。

 その匂いに、どこか安心感を覚えながら、西条はゆっくりと台所へ向かった。


 「今日こそは、まともなもん食うか。」


 そう意気込んでみたものの、結局手が伸びたのは、いつも通りのレトルト食品だった。

 湯を沸かしながら、冷蔵庫を適当に漁り、賞味期限の迫ったコンビニ弁当を取り出す。

 振り返った際に、戸棚に体がぶつかると、溢れんばかりにストックされたカップラーメンが転がり落ち、苦笑しながら拾い上げた。


 「結局、こうなるんだよな……」


 呟きながら、慣れた手つきで封を開ける。

 電子レンジのブザーが無機質に鳴り響く音が、部屋の静寂にやけに響いた。


 食卓には、手をかけた料理の代わりに、コンビニの弁当とカップ味噌汁が並ぶ。

 それを見ると、ふと昔の食卓の記憶が蘇る。

 温かいご飯、味噌汁の湯気、焼き魚の香ばしい匂い。

 「ちゃんと食べなさい」と笑いながら箸を差し出す母の姿。

 無愛想に見えて、誰よりも家族を気にかけていた父の背中。


 ……でも、そんな記憶は、もう随分と遠い。

 手を伸ばせば届くようで、もう決して掴めないもの。


 カチャリ、とプラスチックの箸を割る音が、静かな部屋に響いた。

 西条は一言も発さず、ただ淡々と食事を始める。


 (……明日は、もう少しマシなもん食うか。)


 そう思いながらも、また明日になれば、同じようにレトルトを選ぶのだろう。

 それが彼にとっての“普通”になってしまったのだから。


 食事を終えた彼は、どこかまだ憂鬱な空気を引きずったまま、机の上に広げた教科書をぼんやりと見つめていた。


 「やべぇな、全く集中できねぇ……。」


 文字を追ってはいるものの、頭に入る気配は皆無。

 こういう時は、無理に机に向かっても意味がない。

 考えすぎるくらいなら、いっそ気分を変えた方がマシだ。


 「……久しぶりに出るか。」


 ラフな部屋着のままでは肌寒い夜の空気に耐えられそうもなく、クローゼットから黒いジャケットを引っ張り出して羽織る。

 薄くなった生地が、少しだけ時間の経過を物語っている。


 玄関の扉に手をかけると、ギィ……と年季の入った重い扉が鈍い音を立てた。

 外へ足を踏み出した瞬間、思惑通り冷たい空気が全身を包み込む。


 「やっぱ、まだ寒いな……。もうちょい厚着するか?」


 そう呟きながらも、すぐに首を振る。

 ――めんどくさい。


 そういう細かいことを考え出すと、また出るタイミングを失いそうな気がした。


 ため息交じりに夜の空を一瞥しながら、ポケットに手を突っ込み、そのままアパートの裏手へと歩き出す。


 そこには、一台の大きなバイクが静かに佇んでいた。


  黒を基調としたボディに映える、目を引く真紅の燃料タンク。

 その姿は、決して新品ではなかった。

 ボディには細かな傷や擦れが刻まれ、長い年月を共に過ごしてきたことを物語っている。

 しかし、それらの傷跡さえも、一種の風格を帯びていた。


 これは、ただの”古びたバイク”ではない。

 無造作に扱われ、時間の経過に任せて劣化したわけではない。

 むしろ――長年にわたり、乗り手によって大切にされ、細やかな手入れを受けてきた証が、その佇まいの端々に滲んでいる。


 その存在感は、まるで過去の記憶を宿すかのように、静かにそこに在った。


 西条は無言のまま、そのバイクに近づき、片手でタンクの表面をゆっくりと撫でる。

 冷えた金属の感触が、指先に伝わる。


 ――普通になりたかった。すべてを捨てるつもりだった。


 かつての自分を切り離し、“まともな生き方”をしようと決めたはずだった。

 名門校・白鳳学園に転入し、ただの高校生としての生活を送る。

 暴走族の総長として名を馳せた過去も、血で血を洗ったあの喧嘩の日々も、すべて置き去りにして。


 だが、それでも――。


 ――これだけは、手放せなかった。


 このバイクだけは、どうしても捨てることができなかった。


 彼が総長であった頃、共に駆け抜けた時間。

 仲間たちと夜の街を疾走し、風を切り裂いた日々。

 エンジンの鼓動と共に、全身に響く振動。

 戦いの後、血の匂いを残しながら、それでもただ風を感じて走ったあの瞬間。


 ――それらのすべてが、このバイクには刻まれている。


 西条はそっとバイクに跨りハンドルを握りしめる。

 エンジンをかけていないにも拘わらず、

 ただ、ここに跨るだけで、あの頃の感覚が鮮明に蘇る。


 (……結局、こうして過去に執着してるうちは変われねぇのかもしれねぇな。)


  苦笑いを浮かべながら、ポケットの中で握りしめていたキーを取り出し、そっと差し込む。

 キックスターターを思い切り踏み込んだ瞬間、夜の静寂を切り裂くように、低く響く重厚なエンジン音が鳴り響いた。


 クロームメッキが施された各所が、街灯のぼんやりとした光を拾い、淡く鈍い輝きを放つ。

 スロットルをひねると、バイクは力強く震え、まるで長い眠りから目覚めた獣のように、その躯を動かし始める。


 そして――轟音とともに、漆黒の影は夜の街へと飛び出した。

 流れゆく景色の中で、街の明かりがクロームに反射し、淡い光の軌跡を残していく。

 闇夜をかき分けるかのように走り去るその姿は、過去と現在をつなぐただ一つの証のようであった。

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