第二十四話 こびり付いた甘い残り香

 黒い影が、夜の街を切り裂くように駆け抜ける。

 太いタイヤがアスファルトを捉え、クロームメッキの単気筒からは、エンジンの重低音が鳴り響き大気を揺らす。

 黒一色に染まったボディの中で、ひときわ目を引くのは深紅の燃料タンク。

 闇夜に映えるその紅は、まるで過去を滲ませる血のように鮮烈だった。

 少し走ると、すぐに煌びやかな市街地へと出た。

 東京の街は、西条が暮らす孤独な部屋とは対照的に、活気に満ち溢れている。

 こんな時間でも、まるで昼間のように喧騒が途切れることはない。


「やっぱり、こいつに乗るとスカッとすんな」


 久しぶりに”相棒”のエンジンを吹かし、その鼓動を感じ取った彼は、先ほどまでの憂鬱が嘘のように吹き飛んでいた。

 それが風を切る爽快感によるものなのか、

 あるいは、賑やかな街の喧騒が、ひとりきりの孤独を薄れさせたのか――


 西条はスロットルを軽くひねり、エンジンの回転数を上げる。

 その瞬間、バイクはまるで獲物を狙う獣のように唸りを上げ、夜の街を滑るように駆け抜けていった。


 ビルの窓に映るネオンの光が、流れる景色とともに視界を染めていくが、ふと、赤色が視界に飛び込み強調される。

 赤信号に促されるように、バイクをゆっくりと停めた。


 信号待ちの間、何気なく空を見上げる。

 そこには都会の喧騒にかき消され、人工の光に埋もれた星々が寂しげに瞬いている。


「……こんな夜も、悪くねぇな」


 独り言のように呟きながら、西条は再びアクセルをひねった。

 流れていく街の光景。

 雑踏の中で笑い合う若者たち。

 赤い提灯の下、酒を酌み交わすサラリーマンたち。

 それぞれの人生が一切交わることはない。

 だが、それでも確かにこの街のどこかで息づいて、"普通"の人生を商い、この街を形作っている。


 その一部になりたくて、今を走っているのだろうか。

 “普通”を求め、過去を捨てて。


 信号の変化を予測し、軽くアクセルを開けようとした瞬間、その手が止まる。

 交差点の先、ネオンの光すら届かぬ薄暗い一角で、ふと視線を感じた。

 心がざわめく。

 まるで「普通」であろうとする自分を否定するかのように、剥がれかけた過去を再び貼り付けるような、そんな鈍い違和感が胸を掠めた。


 ――路地裏で、誰にも気づかれずに佇む影。


(……誰だ?)


 背筋をなぞるようなその”気配”は、ただの通行人のものとは全く違っていた。

 ぞわりと肌を撫でるような冷たい感触。

 それは、どこか懐かしく、嫌に馴染みのあるものだった。

 信号が青に変わる。

 西条は一瞬迷った後、意を決したようにハンドルを切り、路地裏の中までよく見える車線へとバイクを寄せる。

 都会の喧騒から外れたその場所からは、冷えた暗闇の先からやけに懐かしい甘ったるい香水の香りと煙草の匂いが混じり、微かに漂ってくる。

 そんな暗がりの中、壁にもたれかかるようにして立つ、一人の男の姿を見つける。

 闇の中、ゆっくりとその男が顔を上げる。


 その薄笑いを浮かべた横顔は――


「……ああ、やっぱりか」


 かつての友にして、“最も面倒な男”が、そこにいた。


「けど何でこんな所に、アイツは今頃...」


 すぐさま走り出した車の流れによって、実際にその姿を確認出来た時間は一瞬であったが、強烈な出来事かの様にその姿が鮮明に脳裏に焼き付く。

 予想外の人物に気を取られていると、後ろから近づいてくるサイレンの音が彼を現実に引き戻す。


 赤い回転灯が、闇夜の街に不吉な光を刻む。

 その光が、ビルのガラス窓に反射しながら、西条の視界を不規則に揺らす。


「一体どこのバカがやらかしたんだか……スピード違反か?」


 半ば呆れたように呟きながら、周囲を見渡す。

 しかし――どこか違和感があった。


 やけにスムーズな動作、何かが引っかかる。


 ――何かが、おかしい。


 何気なく頭に手をやった瞬間、"空白"が背筋を凍らせる。


 あ。


「ヘルメット忘れてるじゃねえか!!」


 その瞬間、すべてが繋がる。

 赤色の回転灯、背後で迫るサイレンの音――


 西条は数十分前、家を出る前の自分の行動を振り返る。

 暴走族時代、ヘルメットなど無用の長物だった。

 それが常識であり、誰も疑問に思わなかった。

「ヘルメットを着用する」という意識そのものが、西条の中には存在していなかった。

 習慣として根付いていないものを、意識することなどない。

 つまり彼にとって、それは「つけ忘れた」のではなく、「そもそも、思考の外側にあった」 というレベルの話だった。


「……つまり、今この瞬間、俺は思いっきりアウトってわけだ、あの警察が追いかけてきてんのは……間違いなく俺だな」


 冷静に状況を整理する。

 ここは東京の中心部。

 名門・白鳳学園はもちろんバイクの免許取得許など許されていない。

 ましてや、こんな夜中にヘルメットなしで公道をかっ飛ばすなど言い訳の余地もなかった。


「これ捕まったら確実に学校に連絡されんだろ……!」


 頭の中で最悪の未来が脳裏を巡る。

 停学、いや、――下手をすれば即退学。

 せっかく“普通”を目指したのに、こんなことで全てを台無しにするわけにはいかない。

 西条は、深く息を吸い込んだ。

 そして、瞬時に最適解を導き出す。


 ――完璧に逃げ切る…!!


 心臓の鼓動が高鳴る。

 指先が無意識にアクセルを握り締める。

 ほんの一瞬の間を置いて一つの黒い影が爆音を響かせ夜の街へと消えた。

 鋭いエンジン音が空気を切り裂き、路面に焼き付くようなタイヤのグリップ音を響かせながら、闇に溶け込むような漆黒のボディが街の光を掠めるように駆け抜ける。

 それを追うように、赤い灯火が点滅する。

 旋回する回転灯がビルの壁面に映り込み、緊張感を煽るように瞬く。

 二台の緊急車両がサイレンを鳴らしながら、まるで獲物を捕らえんとする狩人のように追跡を開始した。


「ヘルメット未着用の二輪車を確認。現在新宿西口エリアを東方向へ逃走中。追跡を継続する」


 車内では無線が響く。

 警察の動きは迅速だった。

 だが、こんな状況でも西条零は冷静だ。


「捕まえられるもんなら捕まえてみな」


 暗闇の中、アクセルがさらに深く捻られた。

 次の瞬間、バイクはさらに勢いを増し、都会の喧騒を置き去りにし走り抜ける。

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