第二十二話 孤独のカタチ

「家まで送って行きましょうか?」


 花ヶ崎星羅が問いかける。

 西条零は、一瞬だけ足を止める。

 その言葉自体に悪意はない。それどころか、普通の感覚なら親切な申し出だと受け取るべきものだろう。


 だが、西条の背筋には、護衛たちの視線が刺さるように感じられた。

 そして何より、“家まで送られる”という状況が、彼にとって最も警戒すべき事態を招くかもしれなかった。


 (……このまま送られたら、何かしら気づかれちまうかもしれねぇし…)


 感の鋭い彼女に家まで送られるような真似をすれば、“普通の学生”としての仮面にヒビが入る可能性がある。


 わずかに間を置いた後、西条は気軽な調子を装って口を開いた。


 「いや、いいよ。このまま急いで帰るわ。」


 できるだけ自然に、当たり前のように。

 そう言い残すと、星羅の表情を確認する間もなく、西条は歩き出した。


 (……気を遣わせちまったか? いや、余計な詮索をされるよりはマシか)


 背後で、星羅の護衛の一人が何かを確認するように視線を向けていた。

 だが、それに気づくことなく、西条は夜の道へと足を進めていった。


 黒塗りの高級車が、夜の街を滑るように走行している。

 その薄暗い車内には、花ヶ崎星羅と、先程西条を見つめていた細身の男――運転手兼護衛の伊庭慶次が乗っている。

 すぐ後ろを走る同じ車種の二台目には、他の屈強な護衛が二人乗っている。


 「やっぱお嬢はよく面倒事に巻き込まれるよな」


 伊庭はルームミラー越しにちらりと星羅を見やる。

 先日のきっちりとした礼儀正しい態度とは打って変わって、使用人としてはまるで相応しくない、砕けた調子で話しかける。

 だが、”お嬢様”はそれを特に気にした様子もなく、むしろ穏やかに微笑んでいた。


 「そうですわね……しかも、まさかそれが同級生だったなんて」


 夜の街灯が流れゆく車窓に映り込み、星羅の表情をぼんやりと照らし出す。

 ふふっと微笑む彼女の姿は、どこか気を許したような、柔らかい雰囲気を帯びていた。


 「へー……あの”西条”とかいう男と、そんなに親しいんですかい?」


 伊庭が悪戯っぽく笑いながら尋ねると、星羅はわずかに頬を膨らませ、不満げに視線を逸らす。

 けれど、その仕草はどこか気恥ずかしそうでもあった。


 「別に、親しいとかや無いんやけどな……」


 ――あ。


 自分の口から漏れた言葉に、星羅の動きが止まる。

 それは、長年意識して封じ込めてきた”地”の部分だった。


 貴族社会という格式高い世界。

 名門校という厳かな場所。

 そのどちらにおいても、余計な偏見を持たれぬよう、完璧な”花ヶ崎星羅”であることを徹底してきた。

 そのはずだったのに――こんなにも簡単に”素”が出るなんて。


 「……うっかりしていましたわ。徹底していたつもりだったのですが」


 油断した、と言わんばかりの表情には、どことなく恥じらいが浮かんでいた。

 上品に見える仕草の端々に、ほんの少しだけ”素の星羅”が滲んでいる。


 伊庭はそれを見て、くつくつと喉を鳴らして笑う。


 「まぁまぁ、こんな時くらいいいじゃねぇか。他に誰も居ないんだし、俺も公の場とは違ってこんなんだしさぁ」


 星羅はちらりと伊庭を見る。

 確かに、彼の言う通りである。


 ここには他に誰もいない。

 そして、伊庭は彼女の”表と裏”を知る数少ない人間だ。


 窓の外を流れる夜景を見つめながら、星羅はそっと息を吐いた。


 「西条くんは、何となく私と似ている気がして……それに、えらい重いもん抱えてて、それを必死に隠してる気がするねんなぁ……」


 そっと吐いた吐息と共に流れた言葉には、彼女自身の葛藤や境遇、そして自分を隠すことへのプレッシャーが幾重にも折り重なり、静かに滲み出ていた。

 それは、経験と抑圧の中で育まれた者達にしか生まれ得ない特別な共感だった。


 夜の車内に、しばしの静寂が落ちる。

 ハンドルを握る伊庭は、ルームミラー越しに星羅をちらりと見つめた。


 「まぁ、なんかデカイこと隠してるってのは俺も同感かな。さっきチラッと見てたけど、なんとも言えねぇズッシリと重い空気感が漂ってたなぁ。俺が色々調べとこっか?」


 軽い口調ながら、その提案は冗談ではなかった。

 彼の能力なら、それこそ西条零の過去を調べることなど容易いのだろう。


 しかし――


 「いえいえ、それは結構ですわ」


 星羅は静かに首を横に振った。

 その瞳には、迷いのない意志が宿っていた。


 「無理やり暴いた“秘密”は、隠している本人にとっては“傷”そのものです。

 誰かに知られることで癒えるものもあるでしょうけれど、それを選ぶのは本人でなくてはなりませんわ。

 無理やり剥がされた傷は、ただ痛みを残すだけ。

 それで本当に分かり合えるはずがありませんの」


 その言葉には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。

 星羅自身、“隠さなければならないもの”を抱えて生きてきたからこそ、誰かの秘密を暴くことの意味を知っている。


 伊庭は片手をハンドルに置いたまま、軽く肩をすくめる。


 「あ、喋り方戻しやがったな?」


 「私は油断した時、先程みたいにふと言葉遣いを忘れてしまうかも知れませんわ」


 そう言いながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。

 だが、すぐに良い案を思いついた、と言わんばかりに伊庭を見返し、くすっと笑う。


 「私から言わせれば、そこまで完璧に話し方を使い分けできる貴方が、とっても不気味に感じますわよ」


 伊庭はその言葉に一瞬固まり、次の瞬間、思わず笑いを噛み殺した。


 「うわ、なんだその言い方、最近で一番ひでぇ」


 星羅は、クスっと笑みをこぼす。

 楽しげな雰囲気を外に一切漏らさず、車は静かに夜道を進みながら、穏やかな雰囲気のまま目的地へと向かっていた。


 一方その頃――。


 西条零は、静かな夜道を足早に歩き、自らの居場所へと戻ってきた。

 人気のない住宅街を抜け、小さな古びたアパートの階段を上がる。

 廊下にはどこか湿気を含んだ空気が漂い、窓の外に広がる都会の喧騒とは対照的に、ここには静寂が満ちていた。


 玄関の鍵を開け、扉を押し開くと、狭い一室に夜の冷えた空気が染み込んでいた。

 部屋の照明をつけると、薄暗い光がぼんやりと部屋全体を照らす。


 そこには、最低限の家具だけが並び、生活感の乏しい空間が広がっていた。

 テーブルの上には、数冊の古びた雑誌と、飲みかけのペットボトル。

 壁には何も飾られておらず、まるで部屋、というよりも、"唯生きる為の空間"であるかのようにに思える。


 西条はカバンを散らかった床に置き、靴を脱ぐと、ゆっくりと部屋の奥へと進み呟く。


 「ただいま……親父、お袋。」

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