第十六話 明確な悪意

 わずかな気の緩みから、星羅に漏らしてしまった言葉。

 それが、西条の中でじわじわと後悔として膨らんでいた。

 頭の片隅に引っかかったまま離れない。

 何度も何度も思い返すたびに、胸の奥に嫌な感覚が広がっていく。

 そんな焦燥にも似たもやもやが喉の奥を塞ぎ、居心地の悪さを覚えた。


 手元のプリントを睨みつけるが、文字はまるで頭に入ってこない。

 ペンを回す。カチ、カチと小さな音が鳴る。

 しかし、それすら落ち着かず、指が滑ってペンを机に落としてしまう。


「……チッ」


 拾い上げ、また回す。落とす。拾う。

 そんなことを繰り返しながら、西条は内心で舌打ちした。


「ごめん、ちょっと息抜きしてくるわ」


 言葉を発すると同時に、椅子を引く音が微かに教室に響く。

 立ち上がると、軽く肩を回しながらポケットに手を突っ込む。

 このままじゃダメだ――自分の中に広がる雑念を断ち切るように、無理やりにでも気持ちを整理するために教室を出ようとした。


 (ちょっと頭冷やさねぇとな)


 軽く息を吐きながら、そう自分に言い聞かせる。


「おう、分かった!ただし、サボりすぎんなよ!」


 藤井が軽く手を振りながら声をかける。

 いつもと変わらない調子の言葉なのに、西条はどこかくすぐったい気分になりながら、肩をすくめた。


「了解ですわ。少し進めておきますので、できるだけ早めに戻ってきてくださいね。」


 星羅の声は、どこまでも冷静だった。

 けれど、ふとした間があった。


 まるで何かを感じ取るように、慎重に言葉を選んでいるかのような、そんな微かな違和感。


 西条の様子を察したのか、誰も彼を引き止めようとはしなかった。

 だが、それを見送る星羅の瞳だけが、一瞬だけ揺れたように見えた。


「……どうしたんだろ、西条くん、ちょっと元気無かったね〜」


 市原が、机に肘をつきながらぽつりと呟く。


「そーだなぁ、流石に疲れが来たのか?」


 藤井は気にするそぶりを見せつつも、大きく伸びをする。

 何気ない会話の一端に過ぎないが、そこに妙な空気が流れていた。


「……そうかもしれませんわね」


 そう言った星羅の声は、どこか硬かった。

 彼女だけが、西条の言葉が何かしら影響しているのではないかと察していた。


 星羅はそっとノートの端を指先でなぞる。

 整然と書かれた文字の上をなぞりながら、無意識のうちに視線が教室の入り口へと向いていた。


 西条の後ろ姿が消えた扉の先。

 彼が今、何を考えているのか――

 それを知ることはできない。


(くそっ……隠し通すつもりなのに、余計なこと言っちまったな……)


 西条はポケットに手を突っ込み、乱暴に指を動かしながら、無意味に布地をつまんだ。

 脳裏に蘇るのは、先ほどの星羅の表情。

 ほんのわずかだったが、彼女は確かに、何かを感じ取ったはずだ。


(……まぁ、花ヶ崎さんがそれを言いふらすとは思えねぇけど、これからはもっと気を引き締めねぇとな)


 気を逸らすように、西条は廊下の窓へと視線を向けた。

 夕焼けが校舎の白い壁を照らし、オレンジ色の光が長く伸びた影を作っている。

 窓の向こうでは、運動部の掛け声が響き、学園の一日はまだ終わっていないことを知らせていた。


 しかし、西条にとっては、その喧騒すら遠く感じた。

 まるで、別の世界の出来事のように。

 自分の秘密を知られたわけではないが、それでもあの一瞬の沈黙が、やけに心に引っかかる。


 (……ちっ、ダメだ。考えすぎんな)


 軽く頬を叩き、頭を振り、纏わり付く思考を振り払おうとしているが、気を抜けば、思考が重く沈んでいきそうだった。


 ――その時、ドンッという衝撃が彼を思考の海から引き戻した。


 ワンテンポ置いて、その衝撃が人であった事に気が付き、急いで手を差し出した。


「……っ、悪い! 大丈夫か?」


 しかし、その手を無視するように、少女は乱れたスカートの裾を軽く払うと、不機嫌そうに顔を上げる。


「いったた……ちょっと、ちゃんと前を見て歩きなさいよね……!」


 乱れた前髪を指で整えながら、睨むようにして西条を見つめる彼女。

 制服の着こなしは一見きっちりしているが、それがどこか“やりすぎ”に見える。

 規律を守っているというより、過度に演出された“完璧”さ――そこに強い自己顕示欲が滲んでいた。


 加えて、派手なメイク。

 白鳳の女子生徒らしく洗練されたものではあるが、どこか作られた感が拭えない。

 異質な印象を与えるその外見は、まるで“自分を良く見せること”に命をかけているようだった。


 西条はそんな彼女の顔を見て、すぐに名前が思い浮かんだ。


 朝比奈凛。

 西条たちのクラスの隣、C組に在籍する、中小企業の社長令嬢。


 大企業の令嬢たちとは違い、彼女の家は上流階級とは言い難い。

 だが、それを誰よりも気にしているのは、本人なのだろう。

 だからこそ、彼女は必死に「選ばれた側」であることを誇示しようとする。


 口を開けば、自分より“下”の人間を探し出し、見下す。

 表向きは上品な振る舞いを装いながら、その実、優越感を得るために言葉を弄ぶ――。


 そういうタイプの人間だと、白鳳の生徒たちは皆、理解していた。


「……って、もしかして貴方、隣のクラスの転入生じゃない?」


 途端に、彼女の表情が面白がるように歪む。

 まるで、獲物を見つけたかのように。


「あぁ、そうだけど? やっぱり俺、有名人ってやつ?」


 西条は表情を崩さず、いつも通りのお調子者の軽い調子で返す。


 ――だが、すぐに違和感を覚えた。


 凛の目が、まるで舌なめずりでもするかのように細められる。

 その笑みは、柔らかいが、どこか棘を含んでいる。


「あー、うん、まぁ……有名っちゃ有名かな?」


 ――白鳳の品格を下げる問題児が入ってきたって意味で、だけど。


 言葉の最後をわざと曖昧に濁しながら、凛はゆっくりと微笑んだ。

 その笑みには、明確な悪意が滲んでいる。


 西条の肩がわずかに強ばる。

 予定外の返答に一瞬動揺を隠しきれず、思わず声が漏れた。


「……は?」


 凛の言葉に、一瞬だけ西条の思考が止まる。

 言葉の意味は理解できる。だが、その悪意のこもった響きに、わずかに眉をひそめた。


「いやー、どうやって入ったの? 裏口? それともいいコネでもあった?」


 彼女は軽く首を傾げながら、楽しげに笑う。

 まるで冗談めかして言っているような、けれどその奥にある確かな嘲りを隠そうともしていない。

 わざとゆっくりとした口調で、一語一語を噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。


「まぁ、とにかく困るんだよねぇ。キミみたいな中途半端なやつがこの学校にいるとさ、私たちの“品格”が下がるっていうかさ…」


 彼女は髪を指で弄びながら、わざとらしくため息をつく。

 周囲の空気が冷たくなるのを感じながら、西条はゆっくりと息を吐いた。


「……まぁ、俺がこの学校の雰囲気に合ってねぇのは認めるけどさ、それ、ちょっと言い過ぎじゃねぇか?」


 西条は努めて冷静な声で返した。

 だが、凛はあたかも”自分は悪くない”と誇示するかの如く、驚いたように目を大きく見開く。


「待って待って、そんな怒らないでよ!」


 そして、すぐに口元を手で覆い、わざとらしくクスクスと笑う。

 表情はまるで子供が「からかいが成功した」とでも言いたげな満足気なものだった。


「それに、これは私だけの意見じゃないからね? 皆の意見を“まとめて”言ってるだけだし?」


 にっこりと笑いながら、さも当然のように言い放つ。

 その笑顔の裏に潜む悪意を、西条はしっかりと感じ取った。


「それにさぁ――」


 凛は少し間を置くと、わざとらしく考え込むように目を細める。

 そして、満足そうに口を開いた。


「訳の分からないお友達と、根暗お嬢様たちを集めて“お山の大将勉強会”してるんでしょ?」


 西条の周りにいる人間――星羅や市原のことを指しているのは明白だった。

 その言葉に、胸の奥に小さな苛立ちがじわりと広がる。


「……あれ、参加する方も完っ璧にバカだよねぇ?」


 凛は楽しげに笑いながら、わざとらしく肩をすくめた。

 まるで、西条の反応を試すように、じっとその目を覗き込む。


 西条は、初めはその挑発をまともに受ける気はなかった。

 だが、凛のその態度に、確かに胸の奥にくすぶるものがあった。

 それを無理やり押し殺しながら、西条はゆっくりと口を開いた――。

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