第十七話 挑発と挑戦
彼女の口から紡がれるのは、まるで毒を含んだ蜜のように甘く、しかし容赦なく人を傷つける言葉ばかりだった。
花ヶ崎星羅や藤井、市原――自分に良くしてくれている人たちを貶める嘲笑混じりの声が、じわじわと耳に絡みつく。何度も何度も繰り返される侮蔑の響きが、まるで耳の奥に釘を打ち込むように突き刺さる。
――俺自身をバカにするのは構わねぇ。好きにしろ。
けどな――俺のせいで、あいつらまで笑い者にされんのは絶対に許せねぇ。
「……お前、今『バカ』って言ったよな?」
西条の声が先ほどまでの軽薄さを一掃した。
低く、静かに滴り落ちるその声音は、空気の温度を一気に下げた。
「え? だって事実じゃ――」
嘲笑うかのような表情で言い放つその言葉を遮るように西条が口を開く。
「その言葉、絶対に忘れんなよ」
目の色が、一瞬にして変わった。
軽やかだった瞳が鋭く研ぎ澄まされ、獲物を狙う獣のそれへと変貌する。
静寂が満ちる。
先ほどまでの嘲笑が嘘のように、辺りの空気が張り詰めた。
「もし、俺が実力テストでお前に勝ったら――」
張り詰めた空気が、さらに冷たく沈み込む。
西条の低い声が、静かに廊下を満たした。
いつもの軽薄なお調子者の雰囲気は、もうどこにもない。
彼の瞳が、まっすぐに凛を射抜く。
その視線には、迷いも躊躇もない――ただ純粋な決意と怒りだけが滲んでいた。
「――あいつら全員に謝ってもらう。」
その一言が落ちた瞬間、廊下の空気が凍りついた。
まるで冬の夜に吹き込む冷たい風のように、静寂が広がる。
先ほどまでの軽やかな喧騒が遠のき、張り詰めた空気が重く沈殿する。
西条の瞳には、静かな怒りが宿っていた。
鋭く細められた視線が凛を捉え、その場に重圧を生み出す。
彼の声音は決して荒くはない。
だが、それがかえって深く響き、周囲の温度を奪っていくようだった。
「へぇ?」
凛の口元が、面白がるように歪む。
興味深げに眉を上げ、ゆっくりと腕を組むと、喉の奥で小さく笑った。
その笑い声は乾いていて、どこか底意地の悪い響きを含んでいた。
「なにそれ? ぷんぷんに怒っちゃって、可愛いじゃん」
わざと幼子をあやすような調子で、肩をすくめながらクスクスと笑う。
だが、その視線には一切の柔らかさはなかった。
氷のように冷えた眼差しが、西条の表情を余すことなく捉え、品定めするようにじっくりと見つめる。
「でもさぁ、本当にそれでいいの? キミなんかが、私に勝てるとでも思ってるの?」
彼女の唇が、わずかに吊り上がる。
静かに、ゆっくりとした動作で髪をかき上げる。
流れるようなその動作には、無駄な力が一切感じられなかった。
まるで舞台上で演技をする役者のように、隙のない優雅さと、確信めいた余裕が滲んでいた。
長い指先が前髪を払い、艶やかな髪がふわりと揺れる。
蛍光灯の白い光がその髪に落ち、微かに煌めきを宿す。
凛は静かに息を吐きながら、再び西条の瞳を見据えた。
「だって私、前回のテストで学年30位だったんだよ?」
口調は変わらない。
どこか気だるげで、まるで重要なことでもないかのように軽く言い放つ。
だが、その言葉の裏には確かな“差”を示す冷徹な響きが含まれていた。
彼女の微笑は、確信に満ちた勝者のものだった。
「だって私、前回のテストで学年30位だったんだよ?」
口調は変わらない。
どこか気だるげで、まるで重要なことでもないかのように軽く言い放つ。
だが、その言葉の裏には確かな“差”を示す冷徹な響きが含まれていた。
彼女の微笑は、確信に満ちた勝者のものだった
「……ほう」
西条の目が、微かに細まる。
しかし、凛はそれを意に介さず、さらに畳みかけるように続けた。
「あ、もちろん“400人中”の話ね?」
唇の端をわずかに持ち上げ、ふっと口角を歪める。
その笑みには、“私と張り合うなんて、バカらしい”という意図が色濃く滲んでいた。
まるで、勝負の土俵にすら上げるつもりはないと言わんばかりの態度。
凛の瞳はどこまでも冷ややかで、勝負の相手にすら値しないと決めつけるような余裕が滲んでいた。
「まぁ、せいぜい頑張ってよ。負け犬の遠吠えにならないようにね?」
軽やかに言い放つと、わざとらしく肩をすくめながら、西条の肩をポンと叩いた。
その仕草には、小馬鹿にする意図がありありと見えた。
まるで、相手を挑発することすら退屈だと言わんばかりの雑な仕草だった。
だが――
「その言葉――」
西条の唇が、ゆっくりと動く。
その声音は低く、まるで地の底から響くような静けさを孕んでいた。
次の瞬間――
ガシッ
無駄のない、洗練された動きだった。
まるで獲物を逃がさぬように、西条の手が凛の手首を掴んだ。
その指は決して強く締め付けるわけではない。
だが、確かにそこに“意志”があった。
「……そっくりそのまま返してやるよ」
彼の言葉が落ちた瞬間、空気が変わる。
凛の笑みが、一瞬だけ微かに引き攣る。
それはほんの僅かな、刹那の変化だった。
けれども、西条の目は確実にそれを捉えていた。
彼の手の力は決して強くない。
けれど、それでも――何かが違った。
彼の指先から伝わる温度は、ただの怒りの熱ではなかった。
それは燃え上がる激情ではなく、もっと確かなもの――
まるで一点の曇りもない信念のように、手のひらを通じてじわりと滲み出していた。
西条の瞳には、揺るぎない“熱”が宿っていた。
ただの意地ではない。
単なる怒りでもない。
それは、もっと強く――もっと、確かなものだった。
「くれぐれも、“負け犬”にならねぇようにしろよな」
低く絞り出された声音が、張り詰めた静寂の中に深く沈み込む。
その言葉は"挑戦"であるはずであったが、その自信と態度によりまるで"確信"しているかのようであった。
それが冷たい夜の風のように、じわりと体の奥にまで染み渡る。
そして、彼の唇がゆるやかに釣り上がる。
それは、いつもの飄々としたお調子者の笑みではなかった。
――冷えた勝負師の笑みだった。
凛は、一瞬、返す言葉を失いかけた。
だが、すぐに手を振りほどき、取り繕うようにフンと鼻を鳴らす。
「……言ってくれるじゃん?」
再び余裕を装った笑みを浮かべながら、彼女は踵を返す。
だが、その背中には、先ほどまでにはなかった微かな緊張が滲んでいた。
反対方向へと歩き出した西条は、再び教室を目指す。
自販機前でのやり取りが頭をよぎることはなかった。
悔いる思いなど、とうに消え失せている。
今、彼の胸にあるのは、ただ一つ――
対抗心と決意。
ふと、前方からこちらに向かってくる人影が視界の端に映る。
足を止めるほどではないが、自然と視線がそちらに向いた。
遠目にも分かる、洗練された優雅な雰囲気。
その仕草一つすら計算され尽くしたような、品のある佇まい。
無意識のうちに、その存在が誰であるかを思い起こす。
――花ヶ崎星羅。
彼女もまた、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あれ、花ヶ崎さん?どうしてここに?」
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