第十五話 真逆で似ている

「来週から語学学習の先生が来ることになった。お前は花ヶ崎家の後継として相応しい人間に育ちなさい」


 父の声は静かでありながら、強い威圧を孕んでいた。

 そこに温かみはなく、期待と義務だけが詰め込まれている。

 それがこの家の「常識」だった。


「貴方には期待しているのよ? 私達以上に、この家を大きくしてちょうだいね」


 母の声もまた、同じ色を帯びていた。

 そこに「私」はいない。

 彼女が求めるのは、「花ヶ崎家の娘」という名の理想像。

 だからこそ、彼女の期待は「花ヶ崎星羅」へと向けられている。

 私個人ではなく、この家を象徴する事となる存在として。


「流石花ヶ崎家のお嬢様、素晴らしいです!」


 語学学習の教師もそうだった。

 彼の笑顔は、私の実力を讃えているのではない。

 「花ヶ崎家の娘」という肩書きに対する賞賛だった。


 結局、誰も「私」を見ていない。

 皆、花ヶ崎の名を冠した「完璧な存在」を求めているだけ。


 ……完璧、完璧、完璧、完璧――

 その言葉が頭の中に幾重にも反響する。


 私は完璧でいなければならない。

 そうでなければ、「花ヶ崎」の名を汚すことになる。

 期待を裏切ることになる。

 ――失望されることになる。


 私に求められているのは「完璧な私」。

 決して「普通の私」ではない。

 この家に生まれた瞬間から、それは決まっていた。

 自分の意思など、最初から考える余地もなかった。


 そんな日々を積み重ねるうちに、それは呪いのように私の心にこびりついた。

 まるで肌に染み付いた香水のように、強烈で拭い去ることがまるでできない。


 ――私は、完璧で居なければいけないんだ


 その思いは、私の根底にまで染み渡り、気づけば「普通の私」を閉じ込めていた。


 そして、今日も私は「花ヶ崎星羅」という仮面を被る。


 ……だけど、ふと疑問がよぎる。


 「――私って、何?」


 鏡の中の自分が問いかける。


 ――!! 花ヶ崎!?


 不意に呼ばれた名に、星羅はふと我に返った。


 「おい、どうしたんだよ、急に立ち止まって」


 西条の声には、いつもの軽さがあった。だが、その奥に微かな戸惑いが滲んでいた。

 彼の視線がまっすぐにこちらを捉えている。


 星羅は一瞬だけ瞳を伏せ、次の瞬間にはいつもの完璧な表情を取り戻していた。

 まるで何事もなかったかのように、毅然とした口調で言葉を返す。


 「……すみません、最近少し忙しくて。でも何ともありませんわ。ご心配をお掛けしてしまいましたわね」


 穏やかに整えられたその声。だが、それは完璧すぎるほどに整いすぎていた。


 周囲にいた藤井たちは、どこか腑に落ちないような顔で彼女を見つめたが、誰もそれ以上踏み込むことはできなかった。

 まるでそこに、一線を引くような空気が漂っていたからだ。


 (……やっぱりそういう距離感なんだな)


 西条は心の中で小さく息をつく。

 彼女の作る“壁”は、決して見えないわけではない。

 むしろ、それは誰もが気づくほどにはっきりとそこにあった。

 けれども、それに触れようとする者はいない。


 ――いや、違うな。


 “触れない”んじゃない。“触れられない”んだ。


 それが、花ヶ崎星羅という存在の在り方なのかもしれない。

 そう思いながら、西条は何気なくポケットに手を突っ込む。

 このまま何も言わずにやり過ごすこともできた。

 そうすれば、彼女はいつも通りの”完璧な花ヶ崎星羅”を演じて、この場は何事もなかったかのように流れていく。


 ――でも、それでいいのか?


 その問いが、不意に胸の奥に引っかかった。


「……なんともねぇ事無いだろ?」


 彼の口から出た言葉は、ごく自然なものだった。

 まるで、彼女が”完璧な仮面”を被る前に、それを止めるように。


 その言葉に、星羅の肩がほんのわずかに強ばる。


 「前にも似たようなことあっただろ? それにさ――」


 西条はふと目を細めると、少しだけ声を落とした。

 風が冷たく吹き抜ける中、彼の言葉は静かに彼女の耳元へと届く。


 「……俺も似たようなトコあるから、何かと勘づくんだよ」


 その呟きに、星羅の指先がわずかに震えた。

 その言葉の意味を、彼女は十分すぎるほど理解できてしまった。

 西条が”仮面”を被っていることも、彼の中に何か”隠されたもの”があることも――。


 「まぁ、お互い色々あるんだろーな。そういうとこに関しては俺たち、似てんのかも知らねーな」


 そう言いながら、西条はいつものように軽く肩をすくめる。

 彼の表情は、普段と何も変わらない。

 お調子者で、何事も軽く流すような態度。


 だが、星羅には分かる。

 彼は、わざとそう振る舞っているのだと。

 今の彼の目は、いつものふざけた瞳とは違っていた。

 どこか自嘲するような、けれどまっすぐな眼差し。


 「そろそろ行こーぜ。この季節なのに、ここ寒すぎんだよ!」


 西条はそう言い放つと、くるりと踵を返し、背を向けた。

 その瞬間、彼の顔には、いつもの”仮面”が戻っていた。

 まるで先ほどのやりとりなど何事もなかったかのようにその場にいる全員の空気を和らげた。


 星羅は、その背中を静かに見つめた。

西条が被り直した”お調子者”の仮面。

それは、きっと彼がこの世界で生きるために必要なものなのだろう。


たとえその仮面の奥を見抜いたとしても、彼が本心を明かすことはないだろう。

それでも、ほんの一瞬、確かに”自分と同じもの”を彼の中に感じた。

その感覚が何なのかは、まだはっきりとは分からない。

けれど、確かに今、彼女の胸の奥に、わずかな引っかかりを残した。


 わずかに頬をなでる冷たい風が、二人の間を吹き抜けていった――。


 教室に戻った後も、星羅はふと、西条の言葉を思い出していた。

 

 (私と似ている……?)


 彼の言葉が脳裏に焼きついて何度も何度も反響する。

 夕陽が窓から差し込み、机の上に淡いオレンジの影を落とす。

 静かな教室の中で、彼女は指先を軽く組みながら考え込んでいた。

 

 一方で、西条もまた、同じように思いを巡らせていた。


(あいつ、思ったより完璧じゃねぇのかもしんねーな……前に感じた”似てる”って感覚、あれ、ただの気のせいじゃねぇかもな。)


 普段は凛として、何事にも動じないかのように見える彼女が、一瞬だけ見せた「動揺」

 それを思い出しながら、西条はペンを弄び、天井を仰ぐようにため息をついた。

 自分だけが“普通じゃない”と思っていたが――もしかすると、彼女もまた、仮面をかぶっているのかもしれない。


 そんな微妙な沈黙を破ったのは、市原だった。

 

 「二人してそんな気難しい顔してどうしたの? そんなに難しい問題でもあった?」


 突然の声に、西条と星羅は、ほぼ同時に顔を上げた。

 市原は机の端に肘をつきながら、西条の顔を覗き込むようにしていた。

 無邪気な笑みを浮かべる彼女の表情には、一切の疑いがない。ただ単に気になったから聞いただけ、という無邪気さがあった。


 「あぁいや、ちょっと考え事してたわ、ほら、実力テストの事とか」


 咄嗟に答えながら、西条は適当にペンを回す。

 思考を悟られないように、いつもの軽いノリを装った。


 「ふーん、まぁ西条くんなら大丈夫でしょ! 昨日、意外と賢かったし?」


 市原は軽い口調で言いながら、笑顔のまま椅子の背もたれに身を預けた。

 それを聞いた瞬間、西条の眉がピクリと動く。


 「だからその『意外と』ってのが余計なんだよ!」


 勢いよくツッコミを入れると、市原は「えへへ」と悪びれもせずに笑う。

 そんなやり取りを見て、藤井は小さく肩をすくめながら呟いた。


 「まぁでも、西条が勉強できるってのは確かに意外だったしな。まぁ、ここに転入してきてる時点で当たり前なんだけどさ、なーんか賢く見えないオーラ放ってんだよな!」


 「お前までかよ!」


 夕暮れに染まる教室に、西条のツッコミが響き渡った。

 その軽妙なやり取りに、星羅はそっと微笑みを浮かべる。

 “完璧”でいることに慣れきった自分とは違い、彼らはこうして気軽に冗談を言い合える関係を築いている。

 それがどこか羨ましいと、ふと、思っているのであった――

 

(……あー、くっそ。余計なこと言っちまったな)


過去を隠し通したい彼にとって、先程の行いがいかに自らの身を危険にさらすことになるか、それは痛いほど理解していた。

 

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