第八話 絶望の実力テスト
翌朝、教室へと足を踏み入れた西条は、いつもの軽快な表情からは程遠い、どこか焦りを帯びた面持ちだった。カバンを置くやいなや机にノートと教科書を広げ、何かをブツブツと呟きながらページをめくる。その様子は周囲の生徒たちにも一目でわかるほど異様だった。
「おいおい、昨日の態度とは打って変わって、ほんとお前は忙しいやつだな」
隣の席から藤井が半ば呆れたように声をかける。だが、西条はいつものように軽口を返す余裕すらなかった。
「なぁ、実力テストって知ってる? お前、勉強したか?」
ノートと教科書を交互に睨みつけながら、一切視線を藤井に向けずに問いかける西条。その焦燥感は明らかだった。
「そんなの当たり前だろ? 春休み中はずっと勉強してたぞ。」
藤井は西条の真剣な様子を見て少し笑いを堪えるようにしながら答える。だが、次の瞬間、ふと気づいたように眉を上げた。
「おい、お前まさか……」
「……あぁ、そのまさかだよ」
西条は顔を上げると、深いため息をつきながら真剣な表情でそう呟いた。
「俺が実力テストを知ったのは昨日だ。」
その言葉を聞いた藤井は、一瞬の沈黙の後、思わず吹き出しそうになった。周りで会話を聞いていたクラスメイトたちも、同じように口元を押さえながら肩を震わせている。
「おい! 笑ってんじゃねぇよ!」
西条は机に手を置きながら声を上げる。その必死さにますます笑いを堪えきれなくなる生徒たちだったが、西条はそれどころではない様子だった。
焦ったようにノートをめくり、ページに書かれた内容を目で追う。彼の頭の中には、中川先生の言葉が何度もリフレインしていた。
(勉強しないで受けたら、大変になるぞ……って、あれ絶対脅しだろ。でも、やらなきゃマズいよな)
そんな必死な表情を浮かべ、ノートに向き合う西条の姿は、転校二日目とは思えないほどの切迫感に包まれていた。普段のお調子者の姿はどこにもなく、彼の額には少し汗が滲んでいた。
そんな中、教室の隅から響いた一つの声が、その場の雰囲気を一変させた。
「私が勉強、お教え致しましょうか?」
柔らかくも凛とした声に、全員の視線がその主に向けられる。そこに立っていたのは、花ヶ崎星羅だった。彼女はその場の空気を一瞬で掴むように、微笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。そんな彼女には、西条の表情に時折感じる「違和感」の正体を探るため、と言う目的があった。
(彼に対して感じるこの違和感、西条くんが何を隠してはるんか、少し探らせてもらいますわ。)
「花ヶ崎……さん?」
急な申し出に驚き、西条は思わず彼女の名を呼び顔を上げた。その声に、星羅はクスリと笑みを深める。
「転校してすぐですのに、実力テストの準備が間に合わないなんて、大変そうですね。でも、放っておくのも可哀想ですし」
あくまで優しさ、という形をとる彼女の言葉はどこか余裕に満ちており、その所作一つ一つが洗練されていた。クラスメイトたちは、その美しい佇まいに自然と口を閉じ、星羅の言葉に耳を傾けていた。
「いいですよ。必要なら、私がしっかり教えて差し上げます」
星羅は軽く頷くと、西条の横に座り、広げられたノートを一瞥した。その視線は鋭く、ほんの少し見ただけで内容を理解したかのようだった。
その美しい所作と落ち着いた口調に、西条も他のクラスメイトも一瞬気圧されるような感覚を覚えた。まるで星羅が空気そのものを支配しているかのようだった。
「えっと……いや、いいけど。ていうか、ほんとに教えてくれるの?」
戸惑いながらもそう口にする西条に、星羅は微笑みを浮かべながら返した。
「もちろん。本気で頑張る気があるなら、ですけど」
その言葉に、周囲からは小さな笑い声が漏れた。だが、星羅の視線だけは真っ直ぐで、冗談を言っている様子はなかった。
その様子を見ていたクラスメイトたちがざわめき始める。
「あの花ヶ崎さんが!?」
「花ヶ崎さんから声かけるなんて見たことないぞ!」
驚きの声が次々と上がり、教室内の雰囲気は一気に変わった。それは、白鳳学園の「花ヶ崎星羅」という存在の特別さを象徴しているようでもあった。彼女が自ら誰かに声をかけるなど、滅多にあることではない。それだけに、この光景は生徒たちにとって驚きそのものだった。
そのざわめきを聞きながら、星羅はふと自分の行動を振り返る。
(......なんてことをしてしもうたんやろか)
普段であれば、クラスメイトたちの視線や反応に動じることはほとんどない。けれども今回は違う。周囲の注目が向けられている理由が、自分の「突拍子もない行動」だと自覚しているからだった。頬がじんわりと熱くなり、思わず顔を伏せてしまう。
(普段やったら、こんなこと絶対せえへんのに……。周りがこんなに騒ぐなんて、ちょっと目立ちすぎたわね)
それでも、花ヶ崎星羅は「完璧な令嬢」としての振る舞いを崩すことは許されない。深呼吸をして気持ちを整え、視線を上げると、微笑みを浮かべながら言葉を発した。
「皆さん、そんなに驚くことではありませんわ。わたくしが西条さんに声をかけたからといって、そこまで大げさに騒がれるなんて、少々心外ですわね」
涼やかに放たれたその言葉は、周囲を一瞬静かにさせるほどの力を持っていた。だが、ほんの一瞬だけ早口になったその声の調子に、内心の動揺が見え隠れしていたことに気づく者は、いなかった。
(こんなことで、わたしが恥ずかしがるなんて……。あかん、冷静にならんと)
西条はそんな星羅の様子を目の当たりにしながら、特に気にする様子もなくニヤリと笑う。
「そっか、じゃあせっかくだし、教えてもらうかな。俺、マジで覚悟決めないといけないかもな」
その軽い調子に、星羅はほんのわずかに表情を曇らせた。けれどもすぐに、いつもの優雅な微笑みを取り戻しながら静かに呟く。
「本気で覚悟を決めていただけるなら、こちらも全力でお付き合いしますわ」
再びクラスに戻ったざわめきの中で、星羅の心には、一抹の照れと不安が交錯していた――それでも、令嬢としての完璧さを装い続けることを忘れずに。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った教室には、夕暮れの赤い光が差し込んでいた。机に伸びる影は少しずつ長くなり、空気は静けさを増していく。教室内に響くのは、ペンを走らせる音と二人の小さな会話だけだった。
「なぁ、花ヶ崎さん。この問題、どうやって解けばいいんだ?」
普段のお調子者らしい西条の振る舞いは影を潜め、その声には驚くほどの真剣さが宿っていた。昼間の彼とはまるで別人のようだった。
星羅は手元から顔を上げ、その様子をじっと見つめる。
「ふふ、西条くんがこんなに真剣になるなんて、少し意外ですわ」
軽く笑いながらも、その瞳にはどこか探るような視線が宿っている。彼の真剣な表情、その奥に隠された何かを見透かそうとしているかのように。
「この問題は、この式を使えば簡単に解けますのよ。ほら、やってみてくださいませ」
星羅は手元のノートにさらりと数字と記号を並べ、解法のヒントを示す。
「なるほど!さすがはお嬢様!」と軽口を叩く西条に、彼女はため息をつきながら答える。
「お嬢様、だからでは無く、"私"が努力したというだけですわ。さて、そんな軽口言ってる元気があるのなら、次の問題を解いてみてください」
西条は軽く肩をすくめて笑みを浮かべたが、どこかぎこちなさが滲んでいた。
「でも、こんなに俺に付きっきりで教えてくれてて、花ヶ崎さんは大丈夫なの?自分の勉強とかさ」
「まぁ、私の事を心配してくださるのですね!ですが、私は西条くんとは違って一ヶ月前からしっかり対策しておりましたからね。」
意地悪そうに笑う星羅の様子に、西条は肩をすくめて苦笑した。
「花ヶ崎さんって、そういう冗談も言うんだな。なんだか意外と面白いじゃん。」
「ふふ、そうですか?隠していたつもりは一切ありませんのよ。ただ……」
星羅は言葉を切り、ふと窓の外に目を向けた。赤い夕陽が沈んでいく。その光が彼女の横顔を柔らかく照らし出しながらも、どこか儚げな影を落としていた。
その横顔を、無意識に見つめていた自分に気づき、西条は思わず視線を逸らした。
(なんだろう、この感じ。……もしかして、俺はコイツを自分と重ねてんのか?)
心の奥にしまい込んでいた記憶が、ふいに頭をよぎる。けれど、彼はそれを振り払うように、無理に明るい声を出した。
「じゃあ、花ヶ崎さんの教えを受けて、俺も一発で解いてみせるわ!」
西条はそう言うと、星羅の示した解法を手がかりに問題に向き合い始めた。
「……期待していますわ」
星羅の穏やかな声には、ほんの微かな好奇心と、まだ言葉にできない感情が混じっていた。
ペンが紙を走る音だけが響く中、二人の間に静かな空気が流れていた。夕陽の光が最後の輝きを教室に落とし、夜の帳がそっと迫りつつあった。
その時、そんな静寂を切り裂くように、突如としてガラガラ、とドアが開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます