第九話 勉強会?

「お、西条、まだやってんのか!」


 二人だけの静かな空気を切り裂くように、教室のドアが勢いよく開く。ガラガラと音を立てて現れたのは、藤井拓海だった。


「おぉ、拓海か」


 西条は一瞬顔を上げると、軽く笑みを浮かべながらノートに視線を戻した。


「もう少しだけ教えてもらってから帰ろうと思ってたとこだ。」


「お前って案外集中力あるんだな~、転校初日のへらへらしてたお前とは真逆のイメージだわ。それにしても、二日目からほんっと災難なやつだよな!」


 藤井は笑いながら近くの席に腰を下ろし、机に肘をついて西条をからかうように眺めた。


「おい、邪魔しに来ただけか?」


 西条は少し眉をひそめながらも、軽口を叩いて応じる。


「あら、藤井くんもお勉強ですか?」


 星羅が口元に微笑みを浮かべ、柔らかい声で問いかけた。その上品で落ち着いた言葉に、藤井は思わず背筋を伸ばし、いつもより少し丁寧な口調で答える。


「え、ええっと……まぁ、一応って感じですかね。部活終わりにちょっとでもやっとこうかなって思いまして」


 藤井は照れくさそうに頭を掻きながら答える。その態度を見て、星羅はくすりと笑いながら言った。


「部活帰りに勉強だなんて、意外と努力家なのですね」


「そ、そんなことないっすよ!ただ、こいつみたいにならない為に、見たいな?」


 慌てて否定する藤井に、


「ふふ、一体誰の事を言われているのでしょうか?」


 と星羅は微笑みを崩さず軽く頷き、チラリと西条の方を見た。そのやり取りを見ていた西条が、教科書から顔を上げ、すかさず口を挟む。


「おい、なんか一言多くないか? わざわざ俺と比べて言う必要あんのかよ。」


 西条は軽く呆れた表情を見せる。


「だってさぁ、実際そうだろ? 西条みたいにならないための予防策だっての!」


 藤井はニヤニヤ笑いながらそう言うと、わざとらしく胸を張ってみせた。その態度に、西条は眉をひそめてさらに突っ込む。


「お前、ほんっと一言多いよな。で、部活って何やってんだよ?」


「ああ、俺? サッカーやってるんだよ。」


 藤井は胸を張って答えた。


「サッカーやってると、頭も鍛えられるんだよな! ま、俺はそれなりにやってるって感じだけどさ!」


「サッカーで頭が鍛えられる……? お前、絶対それ嘘だろ。」


 西条が呆れたように言うと、藤井は「そんなことないって!」と声を上げる。


「戦略とか立ち回りとか、コースとか、めちゃくちゃ頭使うんだぞ? ちゃんとサッカーやってみたら、脳みそ溶けんじゃねぇか?」


そのまま話題を切り替えるように続けた。


「そういやさ、西条、お前はなんか部活入るの?」


「俺はやんねーかな。もし俺が部活入っちゃうと、活躍しすぎてエース奪っちまうからな」


 西条はわざとらしく胸を張り、ふざけた口調でそう言う。それを聞いていた藤井は思わず吹き出した。


「お前ほんと、どこまで本気で言ってんだよ!」


 そのやり取りを遮るように、クスクスと笑いながら、星羅が静かな声で口を開く。


「はいはい、そういう雑談は勉強の終わったあとにしてくださいな」


 星羅は軽くため息をつきながら、二人を諭すように言った。その柔らかな声には、どこか自然と従わせるような響きがあり、藤井は「す、すみません!」と慌てて姿勢を正した。


 窓の外では、夕焼けがさらに沈み、机の上のカバンに濃い影を落としている。オレンジ色の光が教室全体を包み込む中、机の上に広げられたノートやペンが徐々に夜の帳に飲み込まれていった。

 星羅は、目の前で慌てて姿勢を正す藤井を見つめながら、静かに考えていた。彼が「すみません!」と敬意を込めた態度を取るのは、彼女にとって見慣れた反応だった。白鳳学園の生徒たちは、彼女の「花ヶ崎家の令嬢」としての立場を自然と意識し、適切な距離を保つ。それが、この学校での「普通」の振る舞いだった。


(藤井くんも、まぁ分かりやすいなぁ。お嬢様扱いされるんは慣れてるけど……ほんま、皆こういう感じやわ)


 彼女の脳裏には、昼間の授業中や休み時間にクラスメイトたちが話しかけてきた光景が浮かぶ。礼儀正しくもどこか遠慮がちな態度。それが、彼らが持つ「品格」だと星羅は理解している。


 けれども、そんな空気の中で異質な存在感を放っている人物がひとり――西条零だった。


 ふと視線を横に向けると、彼は教科書を手にしたまま、いつものように軽口を叩きながら笑っている。その笑顔は明るく、クラスメイトたちを和ませ、自然とその場の中心に立っていた昼間の態度と全く同じであった。だが、星羅の目にはその笑顔がどうしても「自然なもの」には見えなかった。


(西条くん……ほんま不思議な人やわ。誰に対してもあんな軽い感じで接するなんて)


 彼が自分に話しかけてきた時のことを思い出す。その態度は、他のクラスメイトたちとはまるで違っていた。距離を置くでもなく、遠慮するでもなく、まるで自分を「特別扱い」する気が一切ないように見えた。


(あの態度……普通なら私にもう少し気を遣うもんやけどなぁ。それとも、ほんまに私のこと何とも思てへんの?)


 星羅は無意識に眉を寄せながら、考えを巡らせた。普通の人なら、彼女の立場を意識して少しは戸惑ったり、礼儀正しく振る舞ったりするものだ。だが、西条にはその気配が一切なかった。それどころか、彼の明るい態度はどこか「作り物」のように感じられる。


(なんやろな……あの軽口の裏に、何か隠してる気がしてしゃあないわ)


 彼女はふと窓の外に視線を移した。夕焼けが完全に沈み、夜の帳が静かに教室に差し掛かっている。机に広げられたノートに影が落ち、室内は静けさに包まれていたが、その中で西条の笑い声だけが空気を揺らしているように感じられた。


(ほんま、あの人……なんか違う。冗談の裏で何を考えてはるんやろ)


 星羅の胸の奥には、彼への興味と同時に警戒心が湧き上がっていた。それは、彼女が今まで接してきたどの人とも違う西条の振る舞いが、直感的に「異質」であると感じさせたからだ。


(絶対に、何か隠してはる。そやけど、私には隠し通せる思てるんやろか?それやったら、ちょっと甘く見られすぎやわね)


 彼女の唇に、微かな笑みが浮かんだ。その笑みには、確信と好奇心が混ざり合っていた。周囲の誰も気づかない西条の「違和感」を、星羅だけが感じ取っている。それは確かな感覚であり、彼女にとって「追求すべき謎」として心に刻まれていく。


(西条くん、あんたが何を隠してはるんか……私が確かめたげますわ)


 静かな決意を胸に抱きながら、星羅は再びペンを手に取り、ノートを開いた。西条と藤井が交わす軽妙なやり取りが、遠く響いている。星羅はその声を背中で聞き流しながらも、その心の奥では彼の「仮面」を暴く計画を静かに練り始めていた。


 そんなことを深く考え込んでいた星羅は、西条に声を掛けられていることに気づかなかった。

「……ヶ崎さん! 花ヶ崎さん!」

 ポンポンと肩を軽く叩かれた瞬間、ようやく我に返った彼女は、驚きのあまり声を上げた。


「ひゃっ……! ど、どうしはったんですか?」

 驚きのあまり、思わず口をついて出た星羅は、その瞬間、自分の失態に気づいて頬をわずかに染めた。恥ずかしさに視線を逸らしながらも、胸の内で静かに深呼吸をし、すぐさまいつもの上品で穏やかな表情を作り直す。その仕草には、彼女特有の冷静さと自制心がにじんでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る