コーヒーと猫の水

有ノ木 こはる

コーヒーと猫の水

 パートナーが自分より早く起きてコーヒーを淹れてくれる朝に憧れていた。

 恋愛がテーマの洋画やドラマ、少女コミック、乙女ゲームなどにシチュエーションの如何を叩き込まれた世の女性ならば、いとも簡単にこの情景を思い浮かべることができるはずだ。

 早朝。鼻をくすぐる香ばしい香りで目を覚まし、柔らかい毛布から抜け出しベッドから起き上がり、寝癖のついた髪をふわふわと揺らしながらダイニングへ向かう。コーヒーの香りが濃くなってくる。

 おはよう、とパートナーがキッチンから呼びかけてくる。もちろん彼は身支度の完成まであと一息の様相で、すでにシャワーを浴びてスーツに着替えた彼のネクタイとジャケットはダイニングの椅子にかけてあり、ワックスだけ馴染ませた黒髪の艶が窓から差しこむ朝日で煌めいている。その姿を横目に、ゆったりとソファに腰掛ける。ととと、とコーヒーフィルターから落ちる雫の音が聞こえてきた。

「今日は暖かいみたいだよ」

 コーヒーの雫が落ちるのを、シンクに両手をついて見守りながらの何気ない会話。窓際の観葉植物に水をやり、ふたたびソファに戻ると同時に、彼がコーヒーマグを手渡してくる。

「ありがとう」

 今日も一日良い日になりそう。朝はお互いブラックで。ネスカフェ、ゴールドブレンド。

 とまあ、こんなおしゃれな場面作りは難なく想像できるとを誇るべきかどうかは別として、容易であるのは事実。だが、理想と現実は違うのが定石である。

 実際、コーヒーの香りは二階のベッドルームまでは届いてはこないし、届いたとしてその香りで覚醒できるような繊細さは持ち合わせていない。毎朝携帯のアラームと「アラームを止めるか、あるいはスヌーズを続けるか」の究極の選択肢に半分寝ている判断力の全てを投じているのがリアリティなのだ。身支度完成までの時間を逆算し、ぎりぎりのところまで粘って強引に体を起こすと、迷いなくトイレに行き用を済ませて洗面所へ。洗顔と歯磨き、ブラッシング、コンタクトレンズの装着までを五分以内に済ませるのが命題で、終わったらすぐに着替えてメイクに移る。

 呑気にソファに座って時間を無駄にする余裕などありはしない。

 出発の時間まであと十分というところで、ようやくピアスと腕時計を身につけて全ての準備が整った。

 情報番組が映っているテレビの内容より、画面左上の時計に注意がいく。まだ火曜日だな、あ、今日報告書上げないといけないんだった。まずい、データの集計をだれかに頼んでおけばよかった、など業務事項が頭の中をちらつく。

 ことり。

 ローテーブルにマグカップが静かに置かれる。

 ふと見上げると上はワイシャツ、下は下着、靴下だけを履いた夫が歯ブラシをわしわししながら私にコーヒーを出してくれていた。

「ありがと」

 手短にお礼を言い、残り時間を気にかけながら熱いコーヒーをすする。

「今日十二度だって」

 天気予報の情報を伝えるともごもごと歯磨き粉の泡に溺れそうになりながら返事が返ってきた。脳内で変換すると「コートいるね、もう真冬だ」らしい。

 うんうんと頷く。1ラリーの会話を終えて夫は洗面所に消え、瞬時にパンツを履き、ネクタイを締めジャケットを羽織った。

 定刻。テレビは寒い冬にぴったりの鍋料理を紹介するコーナーに差し掛かったところだったがリモコンの電源ボタンを容赦なく押す。

 今日は平和に終わればいいのにな。

 暖房を切ったことを指さし確認したら仕事に対する憂鬱な気持ちを荷物と一緒に引っさげて玄関に向かう。それが我々の朝である。


「猫に餌か水あげてる感覚なんだよなあ」

 朝のコーヒーは私からお願いした訳ではなく自然と始まった習慣だったが、パートナーからすると完全に日常の一幕らしい。

 モーニングルーティーンと言えば聞こえはいいが、確かに猫は好き勝手に起きてきてろくにありがたがる素振りもなく、さも当然のごとく出されたカリカリを食べて、水を舐めている。私の姿にそっくりという訳だ。

 飼い猫の素質があるなと思いつつも、どこか違和感を覚える。一体私の妻としての存在感はどこにあるのだろうか。もちろん家事は人並みにはできるし、フルタイムで働いてもいる。なのに妻としての体感がないままもうすぐ1年。

 自分自身のゆとりのない時間配分に呆れるのは言うまでもない。あと十五分早く起きれば慌てずに済むのはわかっている。そんな典型的な「朝に弱い」妻を咎めることもなく、夫は毎日自分の支度に加えて、私のためにコーヒーを淹れる手間を惜しまない。彼は朝にコーヒーを飲まない人間であるにも関わらず、だ。

 確かに少女漫画のような日常はどこかにはあるかもしれない。それを理想像とするのもありだろう。でも、自分のためだけに用意される一杯のコーヒーは既存のシチュエーションにはない思いやりに裏打ちされたものだと気づく度、人間の想像し得る理想や憧れがなんと陳腐で軽いものであるかを知る。

 私に与えられる全ての優しさに、私は何を返そう。早起きをして完璧なブレックファーストを提供することはできないかもしれないが、猫に水をやるようにコーヒーを用意してくれる夫に、明日はもう少し行儀よくお礼を言い、品よく飲むことを心がけることはできそうだ。現実は理想とは違うというフレーズは決して落胆ではなく、予期せぬ贈り物のように幸福を味わうためにあるものだと言えるように。

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