孤高の孤独
ハナビシトモエ
あなたは水泳に何を持ち込むか
水泳が好きだ。
飛び込むと外の音が途端に聞こえなくなる。その一瞬が好きだ。
水中は自分との闘いで、息をどれくらい持たせるか、どんなペースで泳ぐか、一位になるかを競う。
当然だが、勝つことが目的になる。水泳だけではなく、陸上や体操でもそうだ。勝つ為にやる。一位になって表彰されて、中にはオリンピックに出る権利を得るものがいる。
僕だって、オリンピックを目標に泳いできた。
三十になり、スポンサーがつかない無名の水泳選手にはオリンピックは夢でありすぎる。この辺が引き際かもしれない。全く水泳と関係ない家族は僕にたくさん勇気をくれた。泳ぐ時は声は聞こえなくても気持ちが観客席から聞こえていた。
実は怪我もしていて、週末のレースが引退試合だと決めている。
「指輪外してもいいよ」
辞める事を事前に言っていたが、青天の霹靂だった。ずっと一緒の証明だった結婚指輪はどのレースでも一緒だった。
「なんでそんなこと言うの?」
僕は妻に訊ねた。
「一人でやり切って欲しい。今まで私たちと闘ってくれてありがとう。次の大会は自分一人で満足いくように闘って」
水の中は孤独だ。家族が出来て得た安心感はいつだってプラスだった。それを放棄しろと言われているようで、寂しかった。
「僕は家族と水泳がどっちも大切だよ。二つを一緒にしてはいけないわけ?」
棘のある言い方をしてしまった。もう喧嘩するというスイッチを深く押してしまった。
「そういうのじゃない、私は家族を言い訳にして欲しくない」
妻の激しい言い方に驚いた。
「言い訳なんてしていない」
それでも負けないくらい声を張る。
「じゃあ、なんで辞めるの?」
言葉に詰まった。小一の娘が心配そうに「喧嘩しないで」と居間に入って来た。休戦の合図だ。
義両親と実両親の「いつまで水泳を続けるの」という世間話が苦しかった。仕事はアルバイトで本気になった水泳を一番に考えてきた。
三十になって妻が主に稼いでいるのは今の時代別段おかしいことでは無いのだが、正月の度にされていた二つの両親の言葉を僕はいつしか皮肉に思えた。
表彰台に乗れないくせに。
思えば水泳は好きだったが、小学生から今に至るまで表彰台に乗ったことが無かった。小学生の時に溺れて水を飲んだこともあったのに、よくもまぁ嫌いにならなかったもんだと今になって思う。
小学生から夢はオリンピックだった。歳を重ねるにつれてテレビの中の同年代は世界に羽ばたくのに、僕はプールに通い陸上でトレーニングをし、いつか絶対にオリンピックに行ってやるという一心でここまで来た。
現実は残酷で三十になってオリンピックで表彰台はあまりに狭き門で、引退も年齢による挫折であることも理由の一つだった。好きだった水泳が好きではなくなってきた。二つの両親には家族よりも後に引退を伝えた。
労いの言葉と「歳を取れば取るほど、就職は厳しいからよく決断した」と言われた。やはり皮肉を言われていたのかと思うと、とてもつらかった。
水泳が好きなうちに競技人生を終わりたい。
日本選手権の代表を争う予選会にエントリーした。
その矢先に妻の言葉だった。
「本当に家族を思って辞めるの? 本当に経済的に助ける為に辞めるの? 本当にオリンピックを諦めて辞めるの? あんなに好きだった水泳を全部辞めてしまうの?」
妻の言葉は、違うだろうと言っていた。僕だってそう思いたい。引退を伝えた家族は辞めろなんて言わなかった。
娘は「なんで辞めちゃうの」と聞くし、妻も賛成では無かった。
妻は家族を言い訳にするなと言いたい上で指輪を外せという意思表示だった。
大会当日の朝、妻はお弁当を作ってくれた。妻の手に結婚してから一度も外さなかった指輪を預けた。
「引退試合ではなく、一番をとるレースにしてきなさい」
スポーツは勝つ為にすることだ。一位を取る為に戦術を練り、一人で闘う。
妻の言葉に僕は震えるものを感じた。
今日は勝って日本選手権に出て、表彰台に上がる。二つの両親はきっと水泳を引退するのはもったいないというだろう。
溺れることからずっと一位を取りたかった。その思いを今日のレースにぶつける。積極的に攻める。
「ありがとう。勝ってきます」
孤高の孤独 ハナビシトモエ @sikasann
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