結婚について

 私は白の塔を管理する巫女だから、どこかの家に嫁ぐのではなく、夫を迎えなければならない。それは巫女となることを決めた時からわかっていたことで、ただおばあ様が亡くなって、相手は姉様が決めることになるのだろうかと何となく思っているだけだった。


 ある日、王猫の三番目の子テルセルが、塔からいなくなっていることに気づいたのだ。テルセルはもともといたずらっ子で、塔から脱走することはしょっちゅうだったから、数日は気づかなかった。一週間経っても戻らなくて、そこでやっと行方不明になってしまったのだと気づいた。

 真っ青になって塔や館の周辺を駆け回り、館の者や姉様の手の者まで借りて探しても見つからず、泣きそうになった私に、王猫が告げた。

「境を越えた土地の一番豪奢な建物に、テルセルがいる」と。

 境とは、この塔に最も近い街エンデンを越えた先にある、ティエビエンとユースフェルト王国の境のことだろうと私は思った。塔から、よい馬で駆ければ三日ほどで国境を越えユースフェルトに入れてしまう。その時、テルセルはまだ変化をむかえていなかったが、他の子たちが地のティエラ火のフェゴ水のアグアと呼ぶべき力を持っているとわかったので、風の力を持っているはずだった。風の子ヴェントゾであれば、その距離も飛んでいけてしまう可能性が高い。私は大慌てで姉様に相談した。

「ユースフェルトの最も豪華な建物に、テルセルが向かってしまったようなのです」

 そう話すと、いつもは私の頼みごとを熱心に聞いてくれる姉様が、心底困ったような顔をした。

 その時、ユースフェルトとティエビエンの王家の関係がこじれていたことは、周知の事実であった。ユースフェルトの王がティエビエンの王に借金をし、しかもそれを返済せず定めていた期限も過ぎ、両王の間の問題が国際裁判に発展したのだという。

 その結果、トールディルグ大陸国際法の盟主ジョルベーリはティエビエンの主張を全面的に認め、ユースフェルトの王は退位を迫られ、王太子もその地位を追われ、ユースフェルト王家の権威はその国力にしては奇妙なほどに揺らいでいた。

 姉様は、境の先の一番豪奢な建造物といえばユースフェルトの王宮以外になかろうと言い、今すぐに王宮へ向かうのは危険極まりないと私を止めた。ユースフェルト王家は王位継承問題に悩まされており、成人済みの第一王子と第二王子が対立でもすれば、戦になる可能性もなくはない。こんな時に国境を越えるのはいけないことだと。

 それでも私はテルセルが心配で、王猫のためにも引き下がれず、何度も姉様のもとを訪れて隣国の王宮を訪ねる許可を得ようとした。

 そしてテルセルがいなくなって三月ほど経った時、姉様の方から呼び出された。これからユースフェルトの第一王子と密談をしに行くが、ついてくるかと。私はもちろん即座に了承した。最低限の旅支度を済ませ、ダイラに後をたくし、王猫と子猫たちに短い別れを告げて、白の塔を飛び出したのだ。

 三日間馬車に揺られ、たどり着いた王宮は、予想の五倍は広大だった。ティエビエンの王城もばかみたいに広いけれど、お城は縦に大きいから、土地の範囲自体はさほど広くはない。ユースフェルトの王宮は、台地の上に建ち、塀の中にいくつもの建物を内包した、丸一日かけても回りきれないような広さだったのだ。

 私はほとんど絶望して、居ても立ってもいられず、待っていなさいと言いつけられた応接間を窓から抜け出して、中庭へ出た。王猫の子たちは巫女には寄ってくるが、他の人にはあまり近づかない。せめて建物の中でなく風の伝わる外にいれば、ヴェントゾの方から見つけてくれないかと思ったのだった。


 そうしてそこで、彼に出会った。


 彼——ヴィンフリートは、ユースフェルトの第三王子だった。まだ成人もしていない、私と同じ年の男の子。

 初めて見た時は、すごくきれいな色をした子だと思った。太陽を溶かしたような黄金の髪、夏の空よりも深い青の瞳。鼻が高くて目が大きくて、ユースフェルトよりティエビエンで人気そうな顔立ち。私と同じくらいの背丈。彼は突然現れたはずの私を驚くことなく見つめてきた。

 実は私は、ユースフェルト語が少し苦手だった。ジョルベ語ならティエビエン語と同じにあやつれるのだけど。テルセルのことを聞いてみようと思って、苦手ながらにユースフェルト語で話しかけた私に、彼はジョルベ語で返してくれた。後で知ったのだが、ティエビエン語もできるようだった。こんなに語学ができる人に会ったのは久しぶりだった。

 何と彼はテルセルのことを知っていた。子猫は王宮の屋根の上が気に入りだということも知っていて、秘密だと言いながら、尖塔の上まで案内してくれたのだ。そこでテルセル——ヴェントゾを見つけ、連れて帰ることができた。

 もっとも、あのいたずらっ子はまたも脱走してくれたのだけれど。エンデンの街で泊まった時に、かごから抜け出してしまったらしかった。慌てて王猫のもとに戻れば、今度も王宮へ向かっているようだと言う。

 王猫の子は、変化の時期はそれぞれが司る力の強いところにいたがるのだそうだ。ヴェントゾが求めるのは風の力。ヴィン——そう、その時に愛称を教えてくれた——は風の魔術の使い手で、彼の住む王宮にはよい風が集まっているらしい。めったに巫女以外の前には姿を見せない子猫が彼になついたのも、私が現れた時に驚かなかったのも、全て彼に音を届ける風の力のおかげだった。

 ヴィンは王宮から離れないだろうし、彼がいる限りヴェントゾは王宮に留まりたがる。王猫たちが私にしばらくは白の塔に留まれと言うので、とんぼ帰りすることもできない。本能ならば仕方なし、居場所がわかるだけいいだろうと思い直して、私はヴィンにヴェントゾの面倒を見てくれないかと頼んだ。

 何回か手紙でやり取りして、私はヴィンに初めて会った時の印象を強くした。巫女として多くの人と会っても、とても気が合うと感じられる人は、思いの外少ない。ヴィンは久々の、話していても手紙を読んでいても楽しい気持ちにさせてくれる人だった。話が合うのだ。彼は外国語を学ぶのが好きで、本も好きなようだったし。もっと仲良くなりたいと思わずにはいられなかった。


 ヴェントゾを連れ戻してやると私が普段ないくらい息巻いていたためか、二度目の訪問はすぐに叶った。今度は姉様も兄様もいなくて、私一人の旅。身軽にちょっと行って帰ってくればいいかと思っていたのに、姉様の心配性とヴィンの歓迎のおかげで、一晩王宮に滞在することになってしまった。隣国とはいえやはり多少の風俗の違いはあって、緊張したけれどとても楽しかった。

 ヴェントゾにご飯をやってくれていた王宮の料理長にも、ヴィンの紹介で会うことができたし、一度行ってみたかった図書館にも入ることができた。あんなにたくさんのユースフェルトの本が壁のように並んでいるところがあるなんて、夢のようだったわ! 私も本を借りられたらいいのにと思うくらい。

 それから、件の第一王子殿下とそのお母上の王妃陛下にもお会いした。お二人ともジョルベ語でお話ししてくださって、本当に楽しい夕餉を過ごせた。新しいことを学ぶのに躊躇しなくて、私のような巫女とはいえ貴族でもない者にも敬意を示してくださる。姉様がかの方を次の王にと言うのにも納得がいった。あの方はきっと賢王となられる器だ。

 目的だったヴェントゾ自体は、あと一月は絶対にヴィンのところにいると言って聞かなかったので、仕方なくヴィンたちにお世話をお願いした。何ていうわがままっ子かしら。ま、おかげでヴィンとたくさんおしゃべりできたし、そこは感謝してあげなくもないけれど。

 ヴィンは優しい子だ。彼のお母様の話をしてくれた時、私が母さんと父さんの話をしても、私が王猫の巫女として務めてきたことは揺るがないと言ってくれた。

 彼の秘密も話してくれた。昔はお母様の言うことだけを信じていたとてもわがままな子どもで、今はそれを少しづつでも直していきたいと思っているのだと。彼のいう秘密に、私はとっくに気がついていた。彼の使用人たちに対する態度は、王子らしい命令に慣れているさまと、その命を聞いてくれることに対する感謝や信頼とが揃っていて、私はそれを好ましいと思ったのだ。己の悪いところに気がついて、周囲の人のためにそれを正そうと努力できる人なんて、なかなかいない。

 私は彼のことが本当に好きになっていた。他の人の手に渡したことなどほとんどない、王猫の子の世話を頼むくらいには。

 そう姉様に話してしまったことで、私はすでに姉様の策のうちに絡めとられていたのだろう。

 姉様のもたらした初めての婚約の話は、私とヴィンが結婚することでティエビエンとユースフェルト両国の友好のいしずえとするというものだった。

 正しい政略だった。我が国の唯一の未婚の王族である姉様はすでに婚約者がいて、王族と同じくらい高貴な位と王族の保護者を持つ私は、姉様にとって扱いやすい、大事な駒の一つだっただろう。

 わかっていて私は了承した。だってヴィンとならいいと思ったのだ。彼なら私の本に対する愛情も、王猫への敬意も、姉様たちに与えられた恩を返したい気持ちも理解してくれる。彼ならきっと私の大切なものたちを一緒に大切にしてくれると思った。


 だというのに、隣国の王家から届いた返事は、白の塔の意思を知りたいという文句のみ。


 思い出しても腹が立つ。いくら政略の婚約話とはいえ、私とヴィンの間にある好意を利用しておいて、私のヴィンへの想いも伝えずにこんな話を向こうに持ちかけて、あちらもあちらで彼の正直な気持ちをちっとも知らせてくれないなんて。白の塔の意思など、姉様がこの話に入れてくれるつもりのないことくらい、あちらも承知のはず。無理を言ってこちらから断らせようなどと考えたやからがいるのかと、勘ぐってしまいそうだった。

 そう思ったら、この話の進め方が一から十まで気に入らなくなった。その報せを受け取った時、ちょうど国境を越えていたのをいいことに、使者の制止を振りきってユースフェルトの王宮に乗り込んだ。そのままの勢いで、彼に、この話を利用してでも一緒にいたいのだなんて言い放って……どうしよう、思い出すだけで恥ずかしいわ。

 でも、彼が、ヴィンが応えてくれた。遠回しに断るような返事は、政略の婚姻で不幸な結末を迎えた母君のようになりはしないかと、彼なりに心配してくれただけなのだと教えてくれた。彼の方も私のことを好いていると言ってくれた。それだけで私は恥なんて忘れて舞い上がりそうに嬉しかった。

 とはいえ、その時点で二人の間には、出会ってから一月程度のわずかな積み重ねしかなかった。だから文通を提案したのだ。私の好きな、誕生日の数字である十五を互いに数えるまで、お互いのことを教え合って、それから正式に婚約しようと。それなら彼の懸念も晴れるだろうと思って。

 戻って姉様に文通のことを条件として出すと、思った通りちょっと嫌がられたが、姉様が私の人生を左右することに私の意思を介させてくれなかったからだと怒ってみせたら、了承してくれた。

 予想通りである。結局のところ、姉様は妹に甘いのだ。


 ヴィンとの手紙は私の宝物になった。二人とも十五通を本当に大事にして、限られた言葉で日々と想いを綴った。少しづつ親しくなっていった一行目のあいさつも、だんだんと大胆になっていった末尾の結びも愛おしい。

 昨年のあの半年間は、ユースフェルトはまさに混乱のただ中にいて、この文通ですら途切れかけたり、間が空いたりすることがあった。それでも、何があっても私のことを思い出して手紙を書いてくれたことが、心の底から嬉しかった。

 正式に婚約がなったのは、ごたごたが落ち着いて今年に入った炎芽月の終わり頃だった。二人とも十四の誕生日は過ぎていて、お祝いに彼には青の髪飾りをもらったし、私は彼に銀の腕輪をあげた。婚約の証に贈り合ったピアスは、彼からのは金色で、私からのは銀製だった。お互い独占欲が強くて笑ってしまいそう。彼に贈られた、私の大好きな彼の色をまとって過ごせるのはとっても楽しい。あの夜には初めての口づけまで贈ってもらって、本当に本当に幸せだったわ。

 

 世の中の恋人ができたらやりたいこと一覧の初心者編はだいたいやりきった気がするけれど、唯一できていないことがある。そう、逢い引きというやつだ。

 私たちの周りの人たちは、分別があってとても優しいから、目の届く範囲でなら二人きりにさせてくれるが、実は二人で出かけるということはまだやったことがない。会うのはいつもあちらの王宮だけ。こちらに来てもらったこともまだない。何せあちらは王族であるうえ、ユースフェルトの成人は十六なので、気軽に王宮から出してもらえないのだ。国を越えるなんてもってのほか。

 でもどうしてもあきらめきれなくて、私はとうとう、避けていた王家の闇にほんの少し踏み込むはめになってしまった。

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