26 テネブルシュール騎士爵領 領主館にて

粉塵が晴れ、ギヨームが目の当たりにした、窓の外に広がる光景。



それは悪夢そのものであった。



先ほどまで彼の権威と安全を象徴していたはずの、樫の木で作られ鉄で補強された堅牢な館の門は、跡形もなく消え失せていた。


いや違う。

消え失せたのではない。


むしろ、消え失せたのであればまだここまで恐怖せずにすんだのではなかろうか?


門は木っ端微塵に砕け散り、まるで嵐に弄ばれた木の葉のように、その残骸が宙を舞い、周囲に降り注いでいるのだ。



その夢のようにすら思える、悍ましい破壊の中心に一人の女が立っていた。



肩に担いだ巨大なスレッジハンマー。

その先端には、砕けた門の木片とひしゃげた鉄の残骸が、まるで戦利品のようにこびりついている。


アニエス・ジルベール。


彼女は、たった一撃で、攻城兵器でなければ破壊できぬはずの門を粉砕してみせたのだ。



人間に可能なのか?

あれは化け物ではないか?

違う、あれは悪魔だ。



その場にいた誰もが、時が止まったかのように動けずにいた。


門の脇で警備にあたっていたギヨームの門番たちも。

アニエスを追ってやって来たジルベール領の兵士たちも。


ただ呆然と、信じがたい光景に目を見開いている。


アニエスはそんな周囲の驚愕など意にも介さず、ゆっくりと砕け散った門の残骸を踏み越え、館の敷地内へと足を踏み入れた。

まるで新雪の原のように、地に散らばった木片や鉄片が軋んで音を立てる。


その音に、門番は……いいや、門番の身体は、自分の仕事をようやく思い出してしまった。



「ま、待て!そこから先は、ギヨーム様の許しなくして入ることは許されん!」



我に返った門番が怒号を上げる。


しかし声が震えており、半ば悲鳴のようである。

何よりも、その足は一歩も前に出ていない。


恐怖が、彼の体を地面に縫い付けていた。


アニエスは門番を一瞥する。



「ならば、私と戦って止めるか?」



その問いに、門番は息を呑んだ。


戦う?

この、門を一撃で粉砕する化け物と?


門番の膝が、がくがくと笑う。


無理だ、敵うはずが無い。


真面にやれば死ぬだけだ。

真面にやれば……。


アニエスはその哀れな姿を一瞥すると、興味を失ったように視線を外し、再び館へと歩みを進める。

その時、中庭で訓練をしていたのであろうギヨームの兵士の一人が、鞘から剣を抜き放ち、アニエスの前に立ちはだかった。


彼は恐怖に歪んだ顔をしてはいたが、逆にそれが自制心を麻痺させたのだろう。

足は竦むことなく、必死の形相を浮かべている。



「そ、それ以上進むな!不届き者め!」



だが、その勇敢で無謀な兵士がアニエスに斬りかかるよりも早く、背後で動きがあった。

アニエスの隙を見た門番が、手にした槍をアニエスの背中に向かって突き出そうとしていたのだ。


背後から襲えば殺せる!


その殺気を、アニエスが感じ取れないはずがなかった。



いや、本来殺気などという個人の感情を、人間であろうアニエスが察知することなど不可能である。

そのような感覚器は持ち合わせていないし、アニエスは超能力者でもなければ、まさか神託ハンドアウトを賜っている使途プレイヤーというわけでもない。


目の前で相対している剣を持った兵士。

彼の目の動き、その後ろにいるであろう槍を持った門番の存在、そこから何が起きているのかを経験から察知し、兵士の瞳に映った門番の動きを確認した結果にすぎぬ。


殺気を感じ取るとは、そういった細かな仕草や状況から総合的に感知・判断するものである。



アニエスは背後を振り返ることすらせず、門番が突き出された槍の穂先を……まるで小枝でも掴むかのように、こともなげに掴む。


来ると分かっていれば容易いものだ。

玉投げを受け止める遊戯キャッチボールにも等しい。


そのまま、信じられないほどの腕力で槍を引き寄せれば、いまだに事態を脳が理解しておらず槍を握ったままの門番をぐいと引き寄せることができる。


アニエスが門番の腕を、しかと掴んだ。



「―――?!」



そして門番が、ようやく事態を理解して悲鳴を上げるよりも早く。

剣を構えていた兵士の方へと、背負い投げの要領で豪快に放り投げたのだ。



「「ぐえっ!?」」



槍を突き出した門番も、剣を構えていた兵も。

まさかそのような事が起きようなどと予想したことなどない。


想定すらしていない。


経験も……経験など、していてたまるか。


男二人が絡まり合い吹き飛ぶ。

その重なり合った体は勢いを殺されることなく、館の石造りの壁にそのまま激突する。


肺から息を強制的に押し出される感覚に見舞われる2人の男らに向かい、アニエスはその場で助走もなく跳躍……まるで弓矢のように飛び込んだアニエスの足が、折り重なる二人の男の身体に突き刺さる。


熊をもしとめた強烈な飛び蹴りを叩き込まれた二人の兵士は、口から血反吐と、得体のしれぬ赤黒い塊臓物を吐き出し、命乞いどころか悲鳴を漏らす猶予すら与えられずに絶命した。

壁が鈍い音を立てて揺れ、二つの肉の塊は壁に縫い付けられ、もはや倒れることすらできぬ。



アニエスを止める者は消えた死んだ



アニエスは館の扉に手をかける。

施錠されていなかったそれは、軋んだ音を立てて観音開きで内側に開く。


館の内部は、高い天井の吹き抜けになっており、二階へと続く優雅な螺旋階段が、この館の主の富と権威を象徴していた。


なるほど、これならば仮に高位の貴族が訪れたとて、所詮は下級の貴族よと侮られずに済むのであろう。


だが今その空間には、轟音を聞きつけ慌てて集結したらしきギヨームの私兵たちが立ち並び、剣や槍を構えている。

侍女や召使いたちは金切声にも等しい悲鳴を上げながら、館の奥へ、あるいは部屋のどこかへと逃げ込んでいた。


睥睨するアニエスに、しかし兵らは襲撃を躊躇う。


この場に居る全員でかかれば、いかような化け物であろうと討伐は叶おう。

だが先手者は誰が行うのか、その者は確実に死ぬであろうに。


そうして瞬く間の停止の最中。


二階の手すりで一人の兵士がクロスボウを構え、アニエスを狙う。


弦が弾ける乾いた音。

鋼鉄の太矢ボルトが、アニエスの胸元をめがけて一直線に飛来する。


板金鎧すら貫く、致命の一刺し。

だがアニエスは顔を見上げ、飛来する太矢を見据える。


そして太矢が自らの体に到達する寸前、その手で掴み取った。



「なっ……!?」



クロスボウを放った兵士が、信じられないものを見たかのように絶句する。


好機!

この状況を逃せば次などない!


その隙に階下にいた別の兵士が、雄叫びを上げながらアニエスに斬りかかった。


斯様な絶技を見せられてなお、彼女に挑んだ兵の勇気は讃えられるべきだろう。

恐怖を抱えつつも、身体は動かせなばなぬという訓練の賜物であろう。


戦場であれば名前の一つは遺せたやも知れぬ。

だが、この無謀な突進は何の価値すら生まぬ。


恐怖を抱いてもなお竦まずに剣を振るう、その訓練の成果を笑うつもりなど、あろうはずもない。


だが敢えて言うのであれば……怯えた刃など、アニエスにとって凡夫の鈍らと変わらぬ。


アニエスはその剣閃を、最小限の動きでひらりと躱す。

それは宛ら、淑女が舞踏会で踊るワルツ。


そしてすれ違いざま。

先ほど掴んだばかりの太矢を、無防備になった兵士の腹へと、深々と突き立てる。


兵士は鋭く短く、そして館を震わすほどの悲鳴を上げた。


アニエスが太矢を捩じるようにして突き刺し、そして兵士を蹴り飛ばして引き抜けば、血の泡を吹き崩れ落ち、失命による痙攣が始まる。


そして血肉に濡れた太矢を一切の躊躇なく、二階のクロスボウを放った兵に向かって投げつけた。

風を切り裂く音すらも置き去りにして飛んだ太矢は、寸分の狂いもなく、兵士の眉間に深々と突き刺さる。


脳を破壊され、命令する器官が即座に機能停止した兵は、もはや一言も発することも叶わぬ。

身体は生きることを放棄し、手すりを乗り越え、重い音を立てて一階の床へと落下した。



刹那の出来事。

一瞬の静けさ。



その場にいた誰もが言葉を失っていた。



あまりにも、一方的。

あまりにも、無慈悲。



「ふん、クロスボウか。大層なものを持ち出してきたな。騎士の戦いで用いることは教会が固く禁止している……そのことを知らぬとは言うまいに」



アニエスは特に憤怒するでもなく……むしろ呆れと諦めを多分に滲ませた言葉を漏らす。

ただそれだけで、残った兵たちはもはやアニエスに挑もうなどという気概を、全て失った。


クロスボウに撃たれて無傷。

それどころか無手より射手を射殺すという絶技を見せつけ、なんの感慨も見せぬ。


そのような相手と、どう戦えというのか。

まだ素手で魔猪に相対するほうが生きる目があろう。


怯えと竦みが支配するホールにいる全ての者たちを、アニエスは見回す。

そして、その場にいる全ての者の魂を震わせるような、低く、しかし、どこまでも通る声で宣言して見せる。



「これより、我が前は死地と知れ。死にたい者より出よ」



怯え竦みながら立ち並ぶ兵士も。

ただ逃げ惑っていた使用人も。


咄嗟に壁に背を預け、そのまま息を殺すことしか出来ぬ。

もはや、動くことすら叶わぬ。


動けば何かの過ちで彼女の行く先を塞いでしまうとも知れぬ。

呼吸で上下する胸さえも、可能な限り抑え込みたい状況。


ただただ、恐怖に凍りつく。

荒い呼吸こそ繰り返せど、アニエスに声をかけるどころか、悲鳴や怒号を上げることすらしないよう、己を戒める。


アニエスの逆鱗に触れぬように。


それはさながら、捕食者が過ぎ去るのをただ静かに待つ小動物の心境であった。

自分という存在を自ら否定し、世界からすらも隠れ、ただただ圧倒的強者の目に留まらぬことを祈る敬虔な信徒が如き姿勢であった。


きっと竜を前にすれば、人はこのような姿勢になるのだろう。



アニエスは、螺旋階段へと歩みを進める。

一歩、また一歩と、その重々しい足音が、静まり返ったホールに響き渡る。



「ギヨーム・テネブルシュール!どこにいる!さっさと出てこい、この臆病者が!」



もはや隠しもせぬ。

真正面からの侮蔑に満ちた声が、館全体に木霊する。

それを咎めるものは誰一人としていない。


彼女は、大股で螺旋階段を1段飛ばしに駆け上がる。

二階へ姿を消そうとも、動こうとするものは誰一人として、いない。



館の二階は、一階の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

長い廊下の両脇には、高価な絵画や、主の武勇を示すタペストリーが飾られている。


だが、絢爛な通路も今はどこか色褪せて見える。


アニエスはスレッジハンマーを肩に担いだまま、ゆっくりと廊下を進んでいた。


虚妄の勲章を自らに贈る独裁者のように、児戯の産物をいくら誇ろうと、何の意味もない。

飾られた芸術的な品々の数々は、アニエスの心に感動も驚愕も、侮蔑も怒りすらも呼び起こさない。


その黄金の双眸は調度品など見ていない。

路端の石くれに払う程度の注意しか持ち合わせない。


ただ獲物を探し、鋭く左右の扉を見据えている。


その時、廊下の突き当たりにある扉が、勢いよく開かれた。

そこに立っていたのは、アニエスが探し求めていた男。



ギヨーム・テネブルシュール卿であった。



着ているのは、上質な絹の寝巻き。

手には長剣こそ握られている。

鎧は身に着けておらず、その顔は恐怖で真っ青になっている。


騎士としての威厳など微塵も感じさせぬ。

吟遊詩人たちは評するだろう、今の彼を語るのであれば「寝起きを襲われた間抜け」であろうと。


それはいっそ、あまりにも哀れな姿だった。

憐憫さえ抱こう。


アニエス以外の者であれば。



「き、貴様……!よくも、よくも我が館を……!」



ギヨームはアニエスを罵る。


だがその言葉は怒りよりも恐怖の成分が色濃く滲む。

裏返っている声が震えていることが、何よりの証拠であった。


アニエスは、そんな彼の虚勢など意にも介さぬ。


名乗りなど不要。

口上など不用。


ただ無言。

一歩、また一歩と距離を詰めていく。


スレッジハンマーがアニエスの肩で揺れる。


これで、お前を殴る。


圧力。


ギヨームの最後の虚勢をもに打ち砕くには十分足りえた。



「ま、待て!これは不公平だ!貴様は万全の武装をしているというのに、私はこの通り、剣一本だ!こんなもので、戦いになるはずがない!」



ギヨームは叫ぶ。


それは本当に不公平を正したいわけではない。

それは本当に不平等を訴えたいわけではない。


ただ「剣で斬りかかる」以外の方法でアニエスを止める手段を模索した結果、ただ難癖をつけるという結論に至っただけである。


もはや命乞いに等しい。

しかも、許しを請い慈悲に縋る潔さを入念に取り除き、傲慢な態度を加えた醜悪な命乞い。



「ふむ」



だがアニエスは、その言葉にぴたりと足を止めた。


ギヨームは、ただ困惑するだけである。


まさか命乞いが通じたとは流石に思っておらぬ。

では、何故か?


答えは直ぐに分かった。


アニエスは無造作に、身に着けていた武具を脱ぎ捨て始めたのだ。


重い音を立てて、鋼鉄の手甲が床に落ちる。

続いて脚甲。


そして埃に汚れた布鎧までをも脱ぎ捨てる。


ついには、下着代わりの簡素な白い布服一枚の姿になった。


贅肉の一切ない鍛え上げられた筋肉の塊。

それは鎧を纏っていた時よりも、遥かに雄弁に、彼女の圧倒的な力を物語る。


露わになった白い肌と、そこに浮かび上がる隆々とした筋肉のコントラスト。

左右の豊かな女性の象徴さえ、その筋肉の前には添え物にしかならん。

倒錯的なまでの威圧感を放っている。


ギヨームすら思わず、己の状況を忘れて見惚れるほどに。



「……これで、文句はあるまい」



アニエスはスレッジハンマーを置く。

腰に提げていた剣を抜き、再びギヨームへと歩み寄る。


第三者が見れば、ギヨームの言葉を受け、対等な立場での戦いを臨んだように思える。

応じる必要も義務さえもない、言いがかりに近い訴えであっても応じる寛容さがあると。


騎士の誉れだと讃えられるだろう。

騎士も、聖職者も、農民も、貴族たちすらもその姿勢を称賛しよう。


だが。


ギヨームは、もはや言葉を発することもできぬ。


彼女の心理を正しく理解したのだ。


目の前の女は、自ら制約を負ったのではない。

騎士の名誉に則り、対等な条件で戦おうと思っている訳ではない。


ギヨームは見抜いていた。



目の前の化け物は、自分を嬲り殺すための舞台を、より完璧に整えただけなのだ。

つまりは、自分を殺した後に少しでも「ああ、こうしておけばよかった」と思わないようにするため。



目の前の悪魔は、できる限り気持ちよく、自分を殺そうとしている。



「ひぃ……!」



ギヨームは悲鳴を上げる。

剣を構えようとしたが、その手は恐怖で震え、切っ先が定まらぬ。


ギヨームは自分の剣を見る。


美しさすら感じるそれは、刀身も磨かれ綺麗なものである。

試し斬りや罪人の処刑のために数度、人を殺傷したことさえあれど、戦場で振るわれたことはなく、歪みもなく、傷一つない。


対して、アニエスの持つ剣。


金のないアニエスが、半ば既成事実的にその所有権を手に入れた、父ダミアンの剣である。

手入れこそされているが、細かな刃毀れや傷、蛮用によって僅かに歪んだ柄は、見窄らしさすら感じよう。


数多の戦場で振るわれ、幾多の人間を斬り殺してきた結果だと知らなければ。


ギヨームは、己の剣を途端に信じられなくなった。

あれほど侮辱し侮蔑したアニエスの剣に、嫉妬すら抱いていた。


敵わぬ。


もはや戦うことなど不可能だった。


彼は背を向け、一番近くにあった部屋へと、転がるように逃げ込む。

アニエスはその哀れな背中を、冷たく見つめながら、静かに後を追う。


部屋に飛び込んだギヨームは、必死で鍵を閉めようとした。


だが手が震え錠がかけられぬ。


そのうちにアニエスの足音が聞こえ、彼は錠をかけることを諦め部屋の奥へと逃げ込む。


それが功を奏し、アニエスが扉を粉砕する蹴りに巻き込まれずに済んだ。


木っ端に床に広がる扉の残骸を目に、ギヨームは必死に逃げる術を考える。


しかし、もはや逃げ場はない。


追い詰められたギヨームの目に、部屋の隅で頭を抱えて縮こまり震えている一つの影が映った。

先ほど彼が「愚図」と罵った、若い侍女だった……ギヨームの着替えを取りに行こうとしていた矢先のこの騒動で、彼女もまた逃げ場を絶たれこの部屋に隠れていたのだ。


その瞬間、ギヨームの脳裏に、最後の、そして最も卑劣な活路が閃いた。

彼は、侍女の細い腕を乱暴に掴むと、その体を無理やり自分の前に引き寄せ、盾にした。


なんの役にも立たぬ愚図な女を利用して何が悪い!

むしろ、騎士である自分の役に立つのだ、光栄であろう!



「いやああああ!放して!放して!!」



悲鳴を上げる侍女を、しかしギヨームは無理矢理に前面に立たせる。

女を盾にすること。

それが、騎士ギヨーム・テネブルシュールが選び取った、最後の武器だった。



その卑劣極まりない光景を目の当たりにして、それまで氷のように冷徹だったアニエスの表情が、初めて変わった。


彼女の黄金の瞳の奥で、何かが、音を立てて燃え上がった。

それは純粋な、そして底なしの憤怒の炎だった。



「……貴様」



地獄の底から響くような、低い声が漏れる。



「もはやお前は、騎士ではない」



次の瞬間。

アニエスは、もはや人間とは思えぬ速度で突進していた。


盾にされた侍女が、恐怖に引きつった金切り声を上げる。

ギヨームはその悲鳴を背に、震える腕で、必死に剣を振り抜いた。


だが、アニエスの動きは、それを遥かに凌駕する。


彼女は、振り下ろされる剣の刀身の腹を、鎧もまとわぬ剥き出しの左手で、まるで蝿でも払うかのように、いともたやすく殴りつけた。


ギヨームの剣は明後日の方向へと弾き飛ばされ、甲高い音を立て天井に突き刺さる。


アニエスはその勢いのまま、左手で震える侍女の体をギヨームから優しく、しかし力強く引き剥がした。

そしてがら空きになったギヨームの顔面を、その巨大な右手で、鷲掴みにする。



「ふおぉっ!?」



ギヨームの顔が、アニエスの掌の中で、熟した果実のように歪む。


アニエスは一言も発さず、ただその顔を掴んだまま、彼の背後の壁へと力任せに叩きつけた。


凄まじい衝撃音。


壁に亀裂が走り、円形に陥没する。



「ぐうっ……くっ……うっ……がっ……あ……あぁっ……」



ギヨームは白目を剥き呻き声を漏らすと、糸が切れた操り人形のように、ずるずるとその場に崩れ落ちた。





【使用人】

貴族の館には、本人やその家族に代わり日常の家事や雑務をこなす人間が勤めていることが基本であった。

もっとも初期には奴隷が用いられてきたが、封建制度の確立と共に使用人の立場も代わり、雇用という形が取られるようになる。


使用人は出自によって格があり、男爵位や子爵位のような低位貴族であれば庶民の使用人を、伯爵位以上の高位の貴族であれば、貴族出身の使用人を雇うことが一般的であった。

高位の貴族に雇用されることは名誉であり、使用人として勤めたその後の結婚や再就職において有利に働いたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る