27 ジルベール騎士爵 アニエス その8
ギヨーム・テネブルシュール卿を彼の館にて打ち破ってから、一週間と少しの日が過ぎた頃。
私は再び、サーモ伯爵の館を訪れていた。
「——以上が、今回の調査で判明した全ての事実でございます」
私の報告を聞き終えたサーモ・バーゾク伯爵は、いつもならば陽気な笑みを絶やさぬその顔から一切の表情を消し去っている。
ただ厳しい沈黙のうちに私の言葉に耳を傾けていた。
ああ、前回もこんな感じだったなあ、などと私の思考は現実を直視したくないが故の、ぼんやりとした考えを浮かべていた。
私が斯様な阿呆な思考に囚われている間も、執務室の空気は鉛のように重く、一向に軽くなる気配は見せぬ。
窓から差し込む陽光が卓上の銀食器に反射して眩しく輝いているが、その光さえもこの重苦しい雰囲気を和らげることはできずにいた。
いや、だってさぁ……前回の報告の時点で最悪だって思ってたのに、さらに輪をかけて状況が悪化するなんてことある?
底を見たと思ったら、底が抜けて底が出てきた始末。
前世ではそんなことなかった……いや、前世ではよくあった気がする。
状況が違うので無視することにしよう、ノーカン。
ソーヌ村の徴税官ジャン・ドニの不正だけでは終わらずにクリール村でも同様の不正が発覚、ここまでは良い。
良くないがいい。
その背後に、あろうことか同じ騎士であるギヨーム・テネブルシュール卿が居たのだ。
塩の密輸という王国の根幹を揺るがしかねない大罪に、騎士という木っ端とはいえ貴族が関与していたのである。
「……アニエス卿」
長い沈黙を破り、サーモ伯爵が低い声で呟いた。
その声にはもはや普段の快活さの欠片もなく、深い憂慮の色が滲んでいた。
「確認するが、アニエス卿。ギヨーム・テネブルシュールが塩の密輸に関与していたこと、そしてその証拠を隠滅するために卿の領地を襲撃したこと、これに相違ないな?」
「はっ。ギヨーム本人の自白も得ております」
「そうか……。そして、ギヨームの身柄は確保したものの、肝心のジャン・ドニには逃げられた、と」
「……面目、次第もございません」
私は深く頭を垂れた。
ギヨームがソーヌ村から持ち出した物資のうち、塩そのものはギヨームが生活していた館の倉から発見された。
更に言えば、我が領のものだけでなく、ヤツ自身が密輸取引していた分もそこに保管されていた。
だが、最も重要な2つ……塩の帳面とジャン・ドニという商人は消え失せていたのだ。
ギヨームの館を制圧した後、奴の兵士や使用人たちを尋問したが、誰も知らぬ存ぜぬであった。
見せしめのため最も反抗的だった者を壁に埋め込む作業をした後、再度問い合わせても結果は変わらぬ。
いや土下座して赦しを請い始めたか。
やはり拷問は学ぶべきかもしれん。
仕方がないのでギヨームを気付けして起こし、お話をしてくれるまで壁と一体化してもらう作業を行おうとしたところ、直ぐに白状したのだ。
ジャン・ドニはギヨームが手配した商人によって、帳面ごと、既にどこかへ連れ去られた後だった。
……いや、ギヨームの説明では事態の主導権は自身が握っているような口ぶりであったが、状況や説明内容を鑑みるに、ギヨームはその商人に踊らされていただけに過ぎない様子。
完全に、後手に回ってしまった。
「いや、もうよい」
サーモ伯爵は、私の謝罪を遮るように、静かに手を挙げた。
「それから、テネブルシュール騎士爵領の村々の様子だが……報告の通り、重税によって疲弊しきっていたのだな?ギヨームの金遣いは、分不相応に派手であったと聞くが」
「はい。叙任式で身に着けていた鎧や軍馬も、全て領民から搾り取った税と、密輸で得た不正な金で賄っていたようです。奴の館を捜索しましたが、身代金に充てられるほどの蓄えは、どこにもございませんでした」
私がそう答えると、サーモ伯爵は再び、大きく、そして重いため息をついた。
まるで、この世の全ての心労を一人で背負い込んでいるかのような、深い深い息だった。
いやまあ、もうね。
溜息出るのも解るよ。
何が悪いって、騎士が身代金払えねえってさあ……アイツは本当にどうするつもりなのか。
自分の保身のための最低限の保険だぞ。
立派な鎧なんかより、よほど命を保障してくれるのに。
サーモ伯爵は卓上の小さな銀の鐘を鳴らした。澄んだ音色が響くと、すぐに重厚な扉が静かに開き、家令のカランが姿を現す。
「カラン、疲労に効く薬湯を二人分。それから、少し甘いものも頼む」
「かしこまりました」
カランが退出すると、執務室には再び沈黙が訪れた。
私はただ伯爵の次の言葉を待つことしかできない。
コミュ障とかではなく、この場での発言権が私にはないからだ。
私的で砕けた場であれば無礼も許されようが、今は二人きりとはいえ、伯爵と騎士爵として話をしているのである。
やがて薬湯の入った陶器の杯が運ばれてくる。
立ち上る湯気からは、シナモンとクローブ、そして蜂蜜の甘い香りがした。
……本当に飲んでいいのか?超高級品だろこれ。
「まあ飲みたまえよ。長旅と、立て続けの騒動で疲れているだろう」
「ありがとうございます」
勧められるままに杯を手に取り一口含む。
温かく、そして甘い液体が、緊張でこわばっていた喉をゆっくりと潤していく。
少しだけ強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。
サーモ伯爵もまた薬湯を一口飲むと、ふぅ、と息をついた。
そして厳しい眼差しで、私をまっすぐに見据えた。
私は内心で慌て、身を正す。
「アニエス卿。まず、今回の君の働き、実に見事であった。よくぞ、この不正を見つけ出し、そして元凶であるギヨームを捕らえてくれた。もし君が動かなければ、この腐敗はさらに根を深くし、やがては王国全体を揺るがす大問題に発展していたやもしれぬ。まずは、その功績を称えよう」
「もったいないお言葉にございます」
「だが同時に、叱責もせねばなるまい。証拠の要であるジャン・ドニを取り逃がしたこと、そして密輸品の裏帳簿をみすみす奪われたこと。これらは領主としての君の、紛れもない怠慢だ。違うかい?」
「……仰る通りです。全ては、私の未熟さが招いたこと。いかなる処分も、甘んじてお受けいたします」
私は杯を置き、再び深く頭を下げた。
言い訳ならばいくらでも出よう。
まさかギヨームが絡んでいるとは思わなかった、まさか私戦をふっかけてくるとは思わなかった。
だが、悲しいかな私は騎士爵を抱く貴族の端くれである。
失政や失敗には責任を取らねばならぬのだ。
それがたとえ、自分の失敗によるものでなくとも。
為政者の最も重要な仕事とは、飢饉や天災など人間ではどうしようもない出来事が起きた時に、それらの責を負わされ処刑される生贄である、とは誰の言葉だったか。
さて切腹三昧の覚悟を決めた私であったのだが、伯爵の口から出たのは予想だにしない言葉だった。
「そして、君に処分を下すというのなら、その前に、私自身が陛下に首を差し出さねばなるまいな」
顔を上げると、サーモ伯爵は、いつもの悪戯っぽい笑みを、ほんの少しだけ口元に浮かべていた。
「そもそも、テネブルシュール騎士爵領は、私の監督下にある土地だからねぇ。そこの騎士が起こした不始末は、詰まるところ、監督者である私の責任でもある。君一人に罪を被せるわけにはいかんだろう」
その言葉に私は思わず息を呑んだ。
サーモ伯爵は私を庇っているのではなく、ただ事実を述べているだけだ。
貴族社会とは、そういうものなのだ。
個人の功績や失態はその者が属する家、そしてその家を監督する、より上位の者の評価へと直結する。
「さて、感傷に浸っている暇はない。この件、思ったよりも早急に手を打たねばなるまい……ところで、アニエス卿」
サーモ伯爵はそう言うと、机の上に置かれていた一枚の丸まった羊皮紙を私の前に転がす。
拝借して中身を検めれば流麗な筆跡に、末尾には伯爵家の印章が赤々と押されている。
「これは?」
「まあ読んでみたまえ」
促されるままに羊皮紙を読み、その内容に目を通す。
そこに書かれていたのは、飾る言葉どころか時候の挨拶すらも省かれた、業務連絡をそのまま文章に起こしたかのような一文であった。
『テネブルシュール騎士爵領に属する三つの村のうち、二つの村の統治権を、本日付でジルベール騎士爵領へと移管する』
「……は?」
え?
うん?
ほう。
はい?
なにこれ?
思わず、間抜けな声が漏れた。
私は羊皮紙と、そして目の前の伯爵の顔を何度も見比べる。
私の動揺を見て、サーモ伯爵は愉快そうに喉を鳴らす。
ここにきてようやく笑顔をお見せになられた。
「何を驚くことがある。騎士爵ごときの領地の差配など、伯爵である私の権限でどうとでもなる。国王陛下への報告も事後で問題ないよ」
ふふん、とお茶目に笑うサーモ伯爵。
まあそりゃ、上位の貴族の管理する土地の大きさと比較すれば、ちっぽけだけどさあ。
「君を信用して話すけれどね……ギヨームは昨今、納税が滞っていてね。まあ、テネブルシュール騎士爵領を急遽引継ぐ立場であったし、叙任式のために何かと入用であったのは事実であったが」
え、マジかよ。
アイツ、馬とか鎧に税を全部突っ込んだのか?
身代金が払えぬほど素寒貧、とかいうレベルを通り越して借金まで抱えてたのかよ。
「事情を鑑みて、国王陛下に納税する分は私が建て替えて払っていたんだが……君の話を聞いてハッキリと分かった。そもそもギヨームには領地を治める能力がないのだ。ならその土地を、より有能な者に任せるのは、当然の采配であろう」
「し、しかし!」
「よいか、アニエス卿。これは、君への罰であり、そして褒美だ」
伯爵は、人差し指を立てて、私の言葉を遮った。
「疲弊しきった二つの村を立て直し、そこに住む民の生活を安定させること。それが、ジャン・ドニを取り逃がした君への『罰』だ。そして、君の領地が、これまでの倍以上に広がり、そこから得られる税収もまた増えるであろうこと。それが、不正を暴き、国の危機を未然に防いだ君への『褒美』だ。……これで、文句はあるまい?」
いや文句はありますとも。
悪魔のような論理であろう。
いやこれは、貴族の論理か。
罰と褒美を同時に与え、否応なく相手を動かす。
だが、悲しいかな私は貴族。
自分よりも偉い貴族が「やれ」と言ったら「はい……」と答える以外はできぬ。
「しかし、ギヨーム・テネブルシュール卿はどうするおつもりで?」
「奴には、ジャン・ドニの代わりに、塩の密輸ルートの全てを吐いてもらわねばならん。故に、テネブルシュール騎士爵領に残された最後の一村……ギヨームの父が保養と称して隠居している村に、奴を押し込めることにする」
ギヨームの父……前テネブルシュール騎士爵である。
スコットとかいう山賊を取り逃したばかりか、クロスボウまで奪われたので、家督をギヨームに譲り隠居したという流れか。
領主の座を失ったとはいえ実の父親だ。
息子を見殺しにはできんだろう。
多分。
「ギヨームの身代金は……領地については私からの差配であるからな、そこは勘定しなくてよい。奴の所有物から捻出したまえ」
公から略奪の許可が出たぞ。
いやまあ、身代金が払えん場合は家財や武具を接収するのは当然の権利なんだが。
その言葉に私はもはや、何も言うことができぬ。
ただ深く、深く頭を下げる。
だがその胸の内を満たしていたのは、感謝や喜びなどではない。
困惑。
焦燥。
そして圧倒的なまでの、不安。
ただでさえ自分の領地の財政すらままならないというのに。
これ以上、あの生気のない骸のような村を二つも押し付けるというのか?
私に一体何ができるというのか。
人間を過去形にする作業ならば得意だが、内政チートを発揮し劇的な
それに、仮に軌道に乗ったとしても最初の何年かは税を免除して食糧を融通し介護してやらねばならん。
これは褒美などではない。
私の両肩にさらに重く、そして逃れることのできない枷をはめられたに過ぎぬ。
右肩にはノワールの維持費。
左肩には新たな寒村の開発費。
沈んで溺れてしまう。
誰か助けてくれ。
サーモ伯爵は、満足げな顔で薬湯を啜っている。
いつもの通り飄々としたその姿が、今はどこか、底知れぬ深淵を湛えた恐ろしい何かに見えた。
【身代金】
騎士道精神において、敵対する騎士は殺すよりも捕虜として生け捕りにすることが一般的であり、捕虜となった騎士は丁重に扱われ、身代金を支払われれば解放することが名誉ある行為だと認識されていた。
捕虜となることは、騎士道文化において必ずしも恥とは見なされておらず、むしろ勇敢に戦った末に捕らえられた場合、名誉が保たれるとされていた。
この身代金の額は騎士の地位や財力に応じて異なり、莫大な金額になることもあれば、馬や武具、あるいは領地で支払われることもあった。
身代金を工面できない場合、教会や他の貴族から借金することもあった。
身代金が支払えない場合いかに騎士であろうとも厚遇は期待できず、身代金が支払えるようになるまで拘禁され、奴隷のような強制労働を強いられることや、服従を条件とされることもあった。
これは、封建社会において土地と財産が騎士の
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