25 テネブルシュール騎士 ギヨーム
朝の光が重いカーテンの隙間から細い筋となって差し込み、部屋の埃をきらきらと金色に照らし出している。
高価なガラスの嵌められた窓の外を見れば、日は昇りきっていた。
農民はすでに田畑の世話をし、狩人は今日の獲物を探しに森へ立ち入り、パン職人が朝食用のパンを配り終え、夕食の用意に向けて一息ついている頃。
ギヨーム・テネブルシュールは上質なリネンのシーツに包まれたまま、ゆっくりと身じろぎした。
昨夜の、ジルベール領への襲撃行軍は存外に骨が折れた。
疲労がまだ、鉛のように四肢にまとわりついている。
とはいえ何時までもこうして微睡みの中に揺蕩うわけにもいくまい。
貴族には貴族としての仕事も義務もあるのだ。
特に今日は、既に用件も入っている。
ギヨームは大きく伸びをすると、寝台の横に置かれた銀の呼び鈴に手を伸ばし、それを軽く振った。
澄んだ音色が静かな寝室に響き渡る。
この音を聞きつけた使用人が、即座に扉の外で控えるはず。
本来であれば。
しかし数秒待っても、扉が開かれる気配はない。
ギヨームの形の良い眉が、不快にきつく寄せられた。
「……おい!誰かおらぬのか!」
彼が怒声をあげると、ようやく重い扉を動かした。
慌てふためいた様子で飛び込んできたのは、まだ年若い侍女だった。
息を切らし、乱れた髪を手で押さえながら、彼女は恐怖に引きつった顔で深々と頭を下げる。
「も、申し訳ございません、ギヨーム様!ただいま参りました……!」
「ただいま、ではない!私がいつまで待ったと思っている!さっさと朝の支度をしろ、愚図が!」
「も、申し訳ございません!」
ギヨームは寝台から起き上がると、怒りを隠そうともせずに侍女を怒鳴りつける。
彼女は何度も謝罪を繰り返しながら、着替えの衣装を持ってくるために慌ただしく部屋を退出していく。
一人残された部屋で、ギヨームは深いため息をついた。
まったく、これだから庶民というものは。
貴族がどれほどの重責をその両肩に背負っているか、理解しようともしない。
自らに課せられた
あの侍女にしてもそうだ。
彼女の村は、今年納めるべき税を支払うことができなかった。
本来であれば、村長をはじめとする村の男たちを鞭打ちにでもして無理やりにでも払わせるところだ。
しかし、それでは何の解決にもならん。
故に、ギヨームは温情をかけた。
税の代わりに村の娘を一人、館での奉公に出させることで、その責めを免じてやったのだ。
それだというのに、この体たらく。
与えられた栄誉ある奉仕の機会を、ただの雑用としか考えておらぬ。
嘆かわしいことだ。
それもこれも元を辿れば、あの痩せこけた土地と、無能な農民どものせいだ。
騎士たる自分が、その身分にふさわしい武具を整え、威厳を保つためにどれほどの金がかかると思っているのか。
自らの背丈や体格にあわせ造らせた輝く鎧も、叙任式がために手に入れたばかりの血統の良い軍馬も、天から降ってきたわけではない。
決められた税を収められぬ、応えられぬほどの領民の不甲斐なさ。
それこそが、全ての元凶なのだ。
だからこそ自分は、このような面倒事に手を染めねばならなくなったではないか。
塩の密輸。
それは確かに王国の法に触れる行いではある。
だが騎士としての体面を保ち、きたるべき戦に備えるためには、必要悪なのだ。
領民がその責務を果たせぬ以上、領主である自分が別の方法で資金を調達するのは、当然の権利であり、義務でさえある。
そもそも、塩の流通を締め上げて喜ぶのは、税にて潤う国王陛下だけであり、領主にも庶民にも何ら旨味がない。
国王陛下に翻意を抱くつもりはないが、こと塩に関する施策についてはギヨームは猜疑的であった。
軍事的に重要な物資であることは承知している。
騎士であるギヨームは、その事を国王陛下以上に理解していると自負している。
しかし規制を強め、騎士が鎧も馬も揃えられない状況に陥るのは本末転倒であろうに。
陛下がそのように貴族を締め付けるのであれば、こちらとて自力救済をする権利がある。
此度はその手法が戦ではなく、資金調達であったに過ぎぬ。
そう、国王陛下はあまりに強欲が過ぎると言わざるを得ないのだ。
……強欲といえば、ジルベール領の徴税官、ジャン・ドニという男もまた、欲に塗れた俗物であろう。
奴がただ己の懐を肥やすためだけに密輸に手を出し、そして間抜けにもジルベール家の小娘にその尻尾を掴まれた。
そのせいで奴とは直接関係など無かったこの自分が、わざわざ敵地まで赴き、奴の身柄を確保し、証拠を隠滅するという尻拭いをさせられる羽目になったのだ。
そもそも貴族である自分が、なぜ庶民どもの不始末の片付けをせねばならんのだ。
言語道断である。
考えれば考えるほど、腹立たしい。
だがあの抜け目のない商人……ギヨームに潤沢な資金を提供し、今回の密輸ルートを差配してくれた男の頼みとあっては、さすがに無碍にはできぬ。
事実、彼からの資金援助がなければ、新しい鎧も軍馬も手に入れることはできなかった。
商人が差し出す忠義に、相応の配慮で応える。
それもまた貴族の務め。
ギヨームは、そう結論づける。
まあ良い。
頼まれごととは言え、私を侮辱したあの忌々しいアニエス・ジルベールに、一泡吹かせることができたのだ。
奴の面子に泥を塗れたのだから、今回の骨折りも無駄ではなかっただろう。
「さてジャン・ドニの引き渡しは、何時だったか……」
商人が手配した人足に、あの肥え太った徴税官と、証拠の塩、帳簿をまとめて引き渡す手筈になっている。
それで、この件は全て闇の中だ。
商人は早く事を隠したい様子であったし、こちらとて何時までもジャン・ドニや多量の塩を留めておきたくもない。
本日の昼過ぎには送り出す手筈となっている。
ギヨームが、今後の段取りに思考を巡らせていた、まさにその時だった。
館の外から、まるで教会の鐘を力任せに打ち鳴らすかのように大きく。
そして鈴を鳴らすような、しかし鋼のように鋭い声が響き渡る。
「ギヨーム・テネブルシュール卿!いるのは分かっている!騎士アニエス・ジルベール、貴殿に一騎打ちを申し込む!!」
一瞬、ギヨームは何のことか理解ができなかった。
何故なら、ここに居るはずもない人間の声が聞こえたからである。
ただ、自分の名前が呼ばれたから反応してしまっただけに過ぎぬ。
だが、少し遅れて理解が及んだとき。
ギヨームの全身の血が凍りついた。
慌てて窓より門の方を見る。
この部屋からは門に隠れ姿は見えないが、居るのだろう。
アニエス・ジルベール。
なぜ、あの女がここにいる!?
先日、もはや夕刻といった頃に襲撃し、アニエスが留守の間に略奪を終えたところである。
ジャン・ドニらを連れて館へと戻ったときには、既に日が暮れていた。
それで何故、このテネブルシュール領の、我が館の前にアニエスが居るというのか。
自身がアニエス領の村から出ていったのと入れ違いで、直ぐにアニエスがやって来たとしてもだ。
傭兵を含めたテネブルシュールの兵を退け、その上でここまでやってくるとしたのなら、夜中の森や道を走ってきたと言うことになる。
馬鹿な。
あの時連れて行った傭兵は、商人より紹介された腕利きたちである。
彼らは出自こそ卑しかれ、その戦いの実力は騎士である自らを凌いでいたのだ。
現に、ギヨームがソーヌ村から自領に戻る前まで、傭兵らがジルベール領の兵を相手に無双していたではないか。
そのような連中と戦い、退けるのは、よしんば可能であったとして一瞬で終わるはずもない。
そうなれば時刻は夜半に至るはず。
夜に移動する?
それは自殺である。
森に迷い、野盗や
あり得ぬと切り捨てたいが、現にアニエスは、この声が幻聴でないならば館の前にいるのだ。
脳裏に、叙任式で見た光景が鮮やかに蘇る。
あの巨体。
あの馬鹿力。
ただの一撃で、ガニャールのような偉丈夫を、まるで藁人形のように吹き飛ばした膂力。
人外。
化け物。
いや、悪魔。
悪魔なれば、例え万人が万人死を迎える事であろうと、跳ね除けるのではないか?
戦上手の傭兵らを呼吸がするが如く制圧し、夜の道を走り抜けるなど容易いのではないか?
悪魔。
それと、一騎打ちだと?
冗談ではない。
それは自殺である。
心臓が警鐘のように激しく脈打つ。
額に冷たい汗がじっとりと滲み出した。
「……ふ、ふざけるな」
震える声で、誰に言うでもなく呟く。
「な、なぜ私が、貴様のような女風情と、神聖なる一騎打ちなどせねばならんのだ……。騎士道にもとる。そうだ、女と剣を交えるなど、騎士の名誉を汚す行為だ!受けてやる義理など、微塵もない……!!」
口に出せば、アニエスとの一騎打ちに応じる必要などない理由が次々と思い浮かぶ。
そもそも女が騎士をしていること自体があり得ぬのだ。
模擬試合の結果を持って武を示したといえども、女が騎士道精神など持ち合わせるはずもない。
騎士でもない、単なる力自慢の女と、神聖で名誉ある一騎打ちをする義務など、騎士たる自分には課せられておらぬ。
そうだ。
無視すればいい。
ここは私の館だ。
堅牢な石の壁と、忠実な兵士たちが私を守っている。
あの女一人に、何ができるというのだ。
兵を呼ぼう。
そう、兵を呼んで、あの化け物を追い払わせれば、それで済む話だ。
私がわざわざ手を下す必要などない。
そもそも門番は何をしている、さっさと不届き者を我が領から追い出すのだ。
ギヨームが、再び呼び鈴に手を伸ばそうとした、その時。
「……返答がないな。ならば、
アニエスの声が、まるで地の底からやって来たかのように響き渡る。
ギヨームの耳に届いたその言葉が終わるか終わらないかの刹那。
大地を揺るがすような、凄まじい轟音が響き渡った。
それは、落雷が直撃したかのような、あるいは、攻城兵器の巨岩が叩きつけられたかのような、耳をつんざく爆音だった。
館全体が激しく震え、壁に掛かっていたタペストリーが揺れ、テーブルの上の銀食器が甲高い音を立てて床に転がり落ちる。
その場で尻もちをついたギヨームは、またしても何が起きたのか理解できなかった。
漫然と、立ち上がり。
呆然と、音のした方角……門のあった方を見つめることしかできない。
粉塵が舞い上がる。
噎せ返るような土埃。
先ほどまで彼の権威と安全を象徴していたはずの、堅牢な樫の木で作られた巨大な門。
それは木っ端微塵に砕け散り。
その残骸が、まるで嵐に弄ばれた木の葉のように、宙を舞っていた。
【門】
一人で破壊するようなものではない。
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