19 ジルベール騎士爵 アニエス その3
前世の記憶を持っているなどと大層なことを言ったところで、結局のところ私の立場はただの一介の騎士に過ぎぬのだ。
剣を振るって敵を討つことについてはそれなりにできるという自負はあるものの、
領主としての仕事については、私の筋肉ではどうにもならぬ。
マジでどうしよう……ノワールの維持費を何とか捻出せねばならん。
維持費が払えないので馬を返しますとか国王陛下に言えるはずもなし。
最悪の場合税を上げるしかないのだが、生産状況が変わらんのに増税なんぞしたら未来の資産の先食いにしかならん。
それは最終手段だ。
……いったん考えるのをやめよう。
何をするにしても、とりあえずこの報告書を清書して、計算していかないと何が不足しているのかも見えてこない。
予想だけでネガティブなことを考えても始まらん。
私は溜息を吐きつつ、繊維紙の束を次々とめくっていく。
五年前、六年前、七年前……このジルベール家には、幸か不幸か、父ダミアンの代からの記録が十年分以上も蓄積されているのだ。
几帳面なパトンが、きちんと保管してくれていたのだろう。
その勤勉さが、今はただ私の作業量を増やしているだけなのが皮肉だが。
小麦の収穫量、大麦の収穫量、家畜の頭数、皮革税……。
ただ無心に報告書に書かれた内容を、新しい繊維紙の表へと転記していく。
そうして、八年前、九年前と作業を進めていった……のだが。
「……ん?」
ふと、私の手と思考が同時に止まった。
私は書き写したばかりの表に視線を戻す。
そこには過去十年分の各村からの税収が、整然と並んでいる。
そしてその数字を、ゆっくりと目で追っていった。
小麦、CXCIV単位。
大麦、LXXXII単位。
皮革税、銀貨IX枚。
・・・
この数字は、昨年のものだ。
では、一昨年は?
小麦、CXCIV単位。
大麦、LXXXII単位。
皮革税、銀貨IX枚。
・・・
三年前は?
小麦、CXCIV単位。
大麦、LXXXII単位。
皮革税、銀貨IX枚。
・・・
五年分、十年分……。
どれだけ遡っても、結果は同じだった。
「…………」
いや待て待て待て待て。
絶対おかしいだろ。
天候は年によって必ず変動する。
雨が多い年もあれば日照りが続く年もある。
冷夏もあれば、暖冬もある。
それは、自然の摂理だ。
それに伴い作物の収穫量も、当然、毎年変動するはずだろう。
前世の、ノーフォーク農法とか無関係な、化学肥料とハウス栽培で一年中野菜が提供されるようになった時代ですら天候の影響を受けて、キャベツが一玉1000円を超えることだってあったのだぞ。
豊作の年もあれば凶作の年もある。それが当たり前のはずだ。
だのに、このジルベール領では少なくとも過去十年の間、毎年、全く同じ量の作物が収穫され、全く同じ額の税が納められていることになっている。
皮革税みたいな、実質的に人頭税に近いものが変わらないのは、人口に大きな変動がないのならまだ理解できる。
だが農作物の収穫量が、十年もの間、完全に一定?
そんな馬鹿な話があるか。
神がこの土地だけを特別に祝福し、毎年完璧な天候を与えているとでもいうのか。
そんな奇跡が起こるなら、そもそもこんな貧乏領地であるはずがない。
「……パトン!」
扉がすぐに開き、パトンが姿を現す。私のただならぬ気配を察したのか、その顔には緊張の色が浮かんでいた。
「お呼びでしょうか、アニエス様」
「この報告書について、お前に確認したいことがある」
私は、書きかけの表と、過去十年分の資料の束を、指で叩いた。
「これらの報告によれば、過去十年間、各村からの税収は、毎年全く同じだとされている。作物も、税額も、一単位、一枚たりとも違わずにだ。これは、一体どういうことだ?」
「はい。その通りでございますが……何か、問題でも?」
「毎年天候は変わる。それに伴って収穫量も当然変わるはずだ。それなのに、なぜ報告の数字は十年もの間、全く同じなのだ?異常ではないか?」
「異常、と仰られましても……。村の監督者から提出された報告書がそのようになっておりましたし、実際に、報告された通りの税が、毎年きちんと納められておりました」
私は愕然とした。
パトンは忠実で勤勉で、決して不正を働くような男ではない。それは私が誰よりもよく知っている。
だが、彼はあまりにも実直すぎるのだ。
提出された書類と、実際に納められた税の量が一致していることだけを確認し、それで「問題なし」と判断していた。
その数字の裏にある、あり得ないほどの不自然さには、全く思い至らなかったのだ。
父ダミアンも、おそらくそうだったのだろう。
彼は領地経営に興味がなく、面倒な数字の計算は全てパトンに任せきりだったに違いない。
パトンから「問題ございません」と報告を受ければ、それで満足していた。
つまりこの異常事態は十年もの間、誰にも気づかれることなく、続いてきたということになる。
「パトン。お前に聞きたい。お前は本当に報告通りの税が納められていたと断言できるか?例えば、豊作の年に報告以上の収穫があった可能性はないのか?」
「それは……。私には分かりかねます。私はあくまで、監督者からの報告を元に、納められた税を確認するのみでございますので……畑に赴き、実際の収穫量を調査する権限は与えられておりませんでした」
パトンの言葉に、私は天を仰いだ。
そうだ、それがこの時代の荘園制度だ。
領主は土地の所有者ではあるが、その土地の全てを直接管理しているわけではない。
村の運営は、そこに住む農民たち自身に、そして彼らをまとめる村の長や、領主が任命した
パトンはあくまで領主の代理人たる家令であり、村の内部事情にまで踏み込むことはできない。
もし、村の監督者たちが結託し実際の収穫量を偽って報告していたとしたら?
豊作の年には余剰分を自分たちの懐に入れ、凶作の年には前年までの貯えで不足分を補填して、帳尻を合わせていたとしたら?
いや、そもそも凶作の時でもマイナスにはならない程度にしか報告してないんじゃないか?
それはつまり、横領だ。
騎士領主に対する、重大な裏切り行為に他ならない。
処すか?
待て待て、落ち着け。
いくら筋肉が自慢だからと言って、脳みそまで筋肉にしてしまってはいけない。
証拠がない。
これはまだ私の推測に過ぎないのだ。
これが本当に異常な事であると、確認しなければ。
「パトン、私は少し出かけてくる。館のことは頼んだぞ」
「はっ?アニエス様、どちらへ……?」
「教会だ。少し確認したいことがある」
私は、パトンの問いには答えず、執務室を飛び出した。
向かう先は、このジルベール領で最も神聖で、そして何よりも人々の信用を集めている場所、教会である。
教会は、領主の館とはまた違う静謐な空気に満たされていた。
私が足を踏み入れると、奥から一人の女性が静かに出てくる。
白いヴェールで髪を覆い、簡素な灰色の修道服に身を包んだ、まだ30代ほどの女性。
聖女だ。
この世界において「奇跡」……神の御業を行使できる特別な力を持つ者は、教会によって保護され、聖者あるいは聖女として神に仕えることになる。
彼女もまた、怪我人や病人を癒す力を持っていると、パトンから聞いたことがあった。
そう、この世界には魔法のような超常的な現象を行使できる人間が実在するのである。
とはいえ、それは前世のファンタジーなゲームや小説作品でよく見たような火の玉を出したり雷を出したりするようなものではないが。
「ジルベール騎士様。当教会にようこそお越しくださいました」
「突然の訪問、大変申し訳ない」
聖女は私の姿を認めると、恭しく一礼する。
その声は澄んでいて、どこか浮世離れした響きを持っていた。
私もまた頭を下げる。
領主という肩書を持つ私はこの領内では最も偉い立場にはなるのだが、教会は貴族の枠外にいる存在だ。
特に聖女は、正式な位階こそ持たないもののその権限は司祭にも比肩するものがある。礼を尽くすべき相手というわけだ。
本当はアポなしで訪問してよい場所や相手ではない。
これがもっと高位の爵位の貴族領だと、約束を取り付けていないと会ってくれないことだってある。
騎士爵領という田舎だからまあ、許されていることだ……良い意味でお互いの距離感が近いからな。
「本日はどのようなご用向きでしたか?」
「お願いがあって参った。この教会では治療に用いるための薬草を、教会の保有する畑で栽培しておりますな。その収穫に関する記録があれば、見せてはいただけまいか」
「承知いたしました。こちらへどうぞ」
彼女に案内され、私は教会の奥にある小さな書庫へと足を踏み入れる。
そこには私の執務室にあるような乱雑な繊維紙の束ではなく、丁寧に装丁された何冊もの革張りの書物が整然と棚に並べられていた。
聖女はその中から一冊を取り出すと、書見台の上に静かに広げる。
「こちらが、過去二十年分の薬草園の記録でございます」
革の表紙をめくると、そこには美しい筆跡で、几帳面に記録がつけられていた。
日付、薬草の種類、そして、収穫量。
私は、息を詰めてその数字を追った。
『カモミール、籠に五杯分を収穫。今年は春の雨が多く、例年より育ちが良い』
『ラベンダー、籠に三杯分。夏の日照りが続いたためか、収量は少なし』
『セージ、籠に七杯分。近年にない豊作なり。神の御恵みに感謝を』
一目瞭然だった。
薬草の収穫量は年によって、あるいは季節によって、大きく変動している。
雨が多ければ育ちが良く、日照りが続けば収量は減る。
当たり前のことだ。
それが、自然の姿なのだ。
この記録こそ、ジルベール領の村々の収穫報告が「異常」であることの、何よりの証拠だった。
同じ領内で同じ太陽の光を浴び、同じ雨に濡れているのだ。
薬草の収穫量だけに変動があって小麦や大麦の収穫量だけが常に一定であるなどということが、あり得るはずがない。
「……感謝いたします、聖女殿。この記録は、私にとって大きな助けとなりました」
「騎士様のお役に立てたのならば、望外の幸せになります。騎士様の正義がなされますよう」
私は聖女に深く一礼すると、足早に教会を後にした。
よし、処すか。
いやまて。
証拠はまだ、あくまでも状況証拠に過ぎない。
彼らが「我々は毎年、懸命に働き、神の御恵みによって安定した収穫を得ております」と開き直れば、それまでだ。
……おかしいよな、って思うことでも通っちゃうのがこの時代であるからな。
つまりだ。
直接村に乗り込み、彼らが隠しているであろう余剰分の穀物を見つけ出すしかない。
館に戻った私は、すぐにパトンを呼ぶ。
「パトン。すぐに兵を集めろ。明日の夜明けと共に、二つの村へ調査に向かう」
「調査、と仰いますと……?一体、何が……」
「不正だ」
やってくれたよなあ、ほんと。
「このジルベール領には、長年にわたって富を不正に蓄え、領主を欺いてきた鼠どもが巣食っている。その鼠を……狩る」
もう数字と格闘する必要はない。
これより先は、私の専門分野である。
騎士とは、結局のところ、暴力を振るうものだからな。
暴力はすべてを解決する。
「10名を選抜せよ。武器と、それから……家宅捜索に必要ないくつかの道具も用意させろ。目的は、村の監督者たちの家屋、そして村が管理する倉庫の徹底的な調査だ」
「家宅捜索でございますか……承知いたしました」
パトンは、覚悟を決めたように深く頭を下げた。
その声には、もはや戸惑いの色はなかった。
主君の命令に従う、忠実な家令としての響きだけがあった。
「直ちに人選に取り掛かります。明朝には出立できるよう、準備を整えさせます」
「うむ。頼んだぞ」
パトンが部屋を退出していく。
一人残された執務室に、再び静寂が戻った。
私は窓辺に立ち、ゆっくりと夕闇に沈んでいく自らの領地を眺めた。
【聖女】
教会に属する「奇跡」と呼ばれる特別な能力を保有する女性。
魔除けの儀式、傷病の治療、霊薬の調合、占いによる限定的な未来の予知など多岐にわたり、かつては「魔女」と呼ばれ弾圧の対象となっていた。
しかし、人々を救う「白魔女」は「神の許しを得て力を行使するもの」であると考えた時の教皇により一転して保護の対象とし、教会に取り込むようになった。
神の奇跡を行使する彼女らは、女性の身でありながらその実務的な能力により司祭に並ぶ権限を有する。
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