18 ジルベール騎士爵 アニエス その2
ジルベール騎士爵領にある最も大きな建物。
それが私の住まいである館だ。
館と言っても、サーモ伯爵が住まうような、複数の使用人が廊下を磨き上げているような壮麗なものではない。
言ってしまえば少し立派で、石造りの壁で囲まれただけの、大きな農家の家といった趣である。
これでも領内では2番目に立派な建物なんだがね。
農民が住む家は基本的に泥や藁、木材で作った簡素な代物であり、石で作った家というのは多くない。
ちなみに一番立派なのは教会であり、村の中央に建っている。
さて、私はその一室、父ダミアンがかつて執務室として使っていた部屋で、山と積まれた
ガラスのような高価な代物などはめられていない窓からは、日光と同時に風が流れ込んでくる。
それは繊維紙ごと、そこに書かれた文字を揺らめかせ、私の目の前に広がる数字の迷宮を、さらに不可解なものにしている。
「ううむ……」
思わず、低い唸り声が漏れた。
目の前の繊維紙にはジルベール領に属する村々からの税収報告が記されている。
ジルベール騎士爵領は、私が住むこの館がある荘園と、それに連なる二つの集落……つまり三つの村で構成されている。
騎士爵領としては平均的な規模だ。
それぞれの村には私の代理として、あるいは見張り役として、村の監督者が置かれている。
これは父ダミアンが決めた人事であり、彼らは定期的に村の状況……人口の増減、畑の作柄、そして税の徴収状況などを報告する義務を負っている。
彼らは義務付けられている報告を繊維紙に記入した上で、パトンがそれらの受け取り、最後には私に提出する。
もっとも最後は殆ど形だけであり、ダミアンがまだ病床に伏せているとは言え動けている時は彼が受け取っていたし、代行の私は騎士爵領の運営まではとても手が回らず、任せっきりにしていた。
だが、これからは違う。
私がこの家の当主であり、正当にジルベール領の領主となったのだ。
いつまでもパトンに丸投げというわけにはいかない。
そうした決意を持って、私は領地の財政を根本から見直すべく、こうして資料の精査に乗り出したのだ。
そして、その資料というのは、今回初めて目にすることになったわけだが――。
「……読めん」
文字が読めないわけではない。
この世界の文字は、前世で言うところの英語とラテン文字を混ぜ合わせたようなものだ。
末端とはいえ騎士爵も貴族に連なるものとして、文字の読み書きは確りと修めている。
問題は、数字だ。
この世界で使われている数字は、前世で言うところのローマ数字に非常に近い体系だった。
I(1)、V(5)、X(10)、L(50)、C(100)、D(500)、M(1000)。
これらの記号を組み合わせて数を表現する。
一見すると単純だが、これが非常に厄介なのだ。
例えば「99」を表現するのに、「XCIX」と書く。
「1999」なら「MCMXCIX」だ。
しかもこれは略号のようなもので、正式に数字を表記するときには文字で表記する。
「114,514」なら
CXIVDXIV
centum quattuordecim milia quingenti quattuordecim
といった具合になるわけだが。
ぱっと見で桁数がわからん。
なにこれ。
暗号か?
しかもこれが1つや2つではなく、あらゆる項目でびっしりと並んでくるわけなのだ。
もう気が狂う。
四則演算……特に掛け算や割り算をやろうものならいったいどれだけ時間がかかるやら。
もう気が狂う。
何がいかんのかって、この数字表記には0に該当するものがないのだ。
そのせいでより一層、表記を読み解くときに頭を捻る事になる。
もう気が狂う。
前世の古代ローマ人たちは、こんな面倒なシステムで、よくあんな巨大な帝国を運営できたものだと、今更ながらに感心してしまう。
いや感心なんぞしている場合ではない。
目の前には、そんな暗号のような数字が延々と羅列されているのだ。
『当村ノ収穫、小麦CXCIV単位、大麦LXXXII単位……』
『皮革税トシテ銀貨IX枚、塩税トシテ銀貨XI枚……』
これを一々解読して、足し算し、引き算し……もう気が狂う。
この作業をさらに難解にするのが、報告書の記述がてんでバラバラなところである。
前世で役所に提出するような統一様式とか存在しないが故、各管理者が自分の好き勝手に報告を書いている。
どこに何が書いてあるのか、全部読み込まねば解らん上に、計上の仕方も異なるために、とにかく目が滑る。
「ふざけんな!やってられるか!」
私はついに堪忍袋の緒が切れ、持っていた羽根ペンを叩きつけるように置いた。
本当に叩きつけないのは、へし折れると出費が嵩むからだ。
鉛筆やボールペンが子供の小遣いでも買えた時代と違う。
「パトン!」
私が叫ぶと扉の外で待機していたのであろうパトンが、すぐに姿を現した。
呼び鈴とかあるとカッコいいのだが、あれも高いからな。
人間には声を出すという無料のデバイスがあるのだ、それを使わぬ手はない。
「お呼びでしょうか、アニエス様」
「新しい繊維紙とインクを持ってきてくれ。ありったけだ」
「かしこまりました。しかし……一体、何を?」
訝しげな顔をするパトンに、私は山積みの資料を指差した。
「見ての通りだ。このままでは計算に日が暮れて夜が明けてまた日が暮れる。一度、私が読みやすいように全て清書する」
「はあ……」
パトンは腑に落ちないといった顔をしているが、私の決意が固いことを見て取ったのか、何も言わずに一礼し、言われたものを調達しに出かける。
すまん……こんな大変な仕事を、これまで全部丸投げしててすまん。
私は深く息を吸い込むと、新しい繊維紙を広げ、インクにペン先を浸した。
そして忌々しいローマ数字もどきの羅列どもを、一つ一つ、見慣れたアラビア数字へと書き換えていく作業を開始した。
191、9、80、1、454、5……。
こうして書き出してみれば、なんと単純で、分かりやすいことか。
これなら計算も暗算でできる。
何とか各村の監督にアラビア数字を教え込んで、報告はそれで行うように指導できないか……?
……いや?
待てよ。
ひょっとしたら、これも内政チートのネタになるのではないか?
アラビア数字に、それを用いた簿記……複式簿記を導入すれば、我がジルベール領の財政管理は劇的に効率化されるだろう。
そして、それらを他の貴族らにも普及させればいい……教えるための家庭教師代をせしめて。
知識ならば材料費は不要だし、元手は無料でできる。
よし、まずはこの数字の有用性をパトンに示し、徐々に領内に広めていけば……。
そこまで考えたところで、私の手はぴたりと止まった。
……いや、待て。
そんなに簡単な話だろうか。
普及には色々と解決しなければならない問題があるが、一番の難敵が存在する。
教会だ。
この世界は、フェイス教という巨大な宗教組織……前世で言うアブラハム系の宗教……が、人々の精神だけでなく、文化や学問にも大きな影響力を持っている。
数字の体系を変えるなどという行為は、教会の教えに背く「異端」と見なされる危険性はないか?
「神が与え賜うた伝統的な数字を否定し、奇妙な記号を用いるとは何事か!」
などと、言い掛かりをつけられる可能性は十分にある。
数字に神聖さも何もないと思うのだが……いや、聖書で用いられている数字がこうなのだから数字はこれを使うべきだ、と言われる気がしてきた。
特に、私はリュミエール王国史で、事実上初の女の騎士である。
ただでさえ異例の存在なのに、そんな私が奇妙な行動を取れば、些細なことであっても、政敵……私ではなく、私の先導役を務めてくださったサーモ伯爵の……に格好の攻撃材料を与えることになるだろう。
無しだな。
内政チート、第一弾。沈没。
いや、領内で使う分だけならばギリギリセーフ……か?
「……はぁ」
ため息が漏れる。
機械的に文字を数字に置き換える作業を行いながら、私は自分の見通しの甘さを思い知らされている。
というのも、現代知識を活かした内政チートで無双し、領地を豊かにして左うちわで暮らす……そんな甘い夢は、早々に砕け散っていたからだ。
例えば、農業。
前世の歴史では、中世ヨーロッパの農業技術に革命をもたらした農法があった。
そう、現在我が領でも行われている伝統的な農法……三圃式からの脱却。
ノーフォーク農法だ。
三圃式農法は2つの作物を作った後、休耕期間を設けることで、痩せた土地を回復させる方法だ。当然休耕している畑からは何も生産できないため、食糧確保のために多くの土地を開墾する必要がある。
しかしノーフォーク農法は、カブ、大麦、クローバー、小麦、この四つの作物を輪作することで、土地を休ませることなく、一年中畑をフル活用できる。
これは家畜の飼料となるクローバーを栽培することで、家畜の数も増やせる上に、増えた家畜の糞は良質な肥料となり、さらに土地を豊かにする好循環を生み出すことができる……内政チートものではまず登場する鉄板だ。
私は勿論、迷わずにノーフォーク農法を導入しようと考えた。
考えたわけだが。
具体的に何を、どの順番で、どのくらいの広さの土地に植えればいい?
種をまく時期は?
収穫の時期は?
それぞれの作物が育つのに適した土壌の条件は?
軽い気持ちで農民にノーフォーク農法を伝授しようとしたところに、飛んできた質問である。
私は何一つ答えられなかった。
私は、「ノーフォーク農法」という言葉を知っているだけだった。
その中身の委細については、知らぬ。
調べようと思っても私はスマホと共に転生した訳ではないし、当たり前だが王宮の図書館でもノーフォーク農法なんて書いてあるはずもない。
内政チート、第二弾。頓挫。
もちろん、これ以外についても何かないか考察した。
次に考えたのは、
現代日本の豊かな食文化の知識を活かし、新しい料理を開発して、それを特産品として売り出す。
醤油、味噌、みりん――。
それらの調味料を再現できれば、リュミエール王国の食文化に革命を起こせるかもしれない。
国王陛下がTERIYAKIに舌鼓をうち、味噌スープは最高ネ!!とテレビ番組に出てくる海外旅行客のようになるに違いない。
だが、これもすぐに壁にぶつかった。
まず、材料がない。
醤油や味噌の主原料である大豆が見つからなかったのだ。
豆といえばえんどう豆、レンズ豆やそら豆であり、領内の人間に尋ねても大豆など見たことも聞いたこともないという者ばかり。
仮に見つかったとして、麹菌はどうするのか。
発酵・熟成させるための環境をどうやって整えるのか……そもそも熟成方法とか知らん。
そして、そもそもの話として……この時代の食文化は、現代とは根本的に異なる。
美食を追求することは、時に「暴食」という大罪と見なされる。
聖職者や敬虔な信徒は、質素な食事を美徳とする傾向が強い。
何せ、朝食をしっかり食うことすら「
高位の貴族や聖職者は自身の権力を見せつけるために、高価で旨い食事を伴う宴会を行うこともある……が、これも度が過ぎれば教会の厳しい非難の対象となる。
彼らとて普段の食事はそこまで豪華じゃないからな。
そんな中で私が奇抜な料理を広めようとすれば、またしても「異端」の烙印を押されかねない。
更に言えばジャガイモも、トウモロコシも、トマトもない。
前世の歴史における「大航海時代」以降にヨーロッパにもたらされた作物は、このオウシュア大陸にはまだ存在しないのだ。
これにはジャガイモ警察もニッコリである。
私の転生した異世界はもっと緩い感じでいて欲しかった。
そういうわけで、使える食材が限られているため、中々現代の美食というのは再現できない。
かつ、そもそも美食はそこまで求められていない文化であるわけだ。
内政チート、第三弾。破棄。
もはや打つ手なし。
私は清書する作業を止め、机に突っ伏した。
現代知識チートなど現実には何の役にも立たぬ、という事実を目の当たりにした今、領地を救うための画期的なアイデアなど、何一つ思い浮かばぬ。
騎士として敵をどのようにぶち転がすかならば、即座に数通りのパターンを提示できるが。
領主として、この静かで、しかし着実に迫り来る「破綻」という名の敵とどう戦えばいいのか、私には分からぬ。
私が正式に騎士に叙任されてから、一週間以上が過ぎた。
ジルベール騎士爵領の日常は、私が不在だった頃と何ら変わらない。
夜明けと共に領民は畑仕事に精を出し、日が暮れれば家路につく。
子供たちの屈託のない笑い声と、家畜の鳴き声が、のどかな風景に溶け込んでいく。
だが私の心は、その平穏さとは裏腹に焦燥感に苛まれていた。
【貴族の食事】
貴族といえども普段の食事はさほど豪華とは言えず、高価で希少な食材を用いるのは特別な日に限られていた。これは「食の快楽を過度に求めること」や「不必要な贅沢」が罪であると考え、「神の恵みを浪費する行為」だと考えられたためである。
一方、結婚式などのめでたい場や、宗教的な記念日、政治的に必要なイベントなどでは宴会が開かれ豪華な食事が振る舞われたが、それらは貴族の権力の誇示が主目的であり、宴会で提供された料理の一部を乞食に振る舞うなどの慈善行為も半ば義務として行われていた。
限られた食材や、まだ未発達の調理器具、そして宗教的な制約から、料理は基本的には決められたレシピの通りに作ることが求められていたため、料理人は味への追求よりも見た目の華やかさに注力していた。
鳥の丸焼きに羽をつけてまるで生きているように見せたり、あるいは動物の形に焼き上げたパイなど、「映える」料理が好まれていたのである。
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