16 リュミエール王国王宮 王太子私室にて
王都シリエットに夜の帳が降り、騎士叙任を祝う喧騒がようやく鳴りを潜めた頃、王宮の一角に設けられた私室では、二人の若者が静かに食事を共にしていた。
部屋の中央に置かれたテーブルには銀の食器とクリスタルのグラスが並び、腕利きの料理人が丹精込めて作り上げたであろう料理の数々が芸術品のように盛り付けられている。
しかし、その皿に付けられた手は少なく、冷め始めていた。
「……以上が、東部国境における帝国軍の動向と、それに伴う防衛費の増額に関する報告だ。詳細は後ほど、正式な書類で目を通してもらうことになる」
「うむ、承知した。財政については内務官に早急に見積もりを算出させよう。帝国の動きが活発化している以上、こちらも守りを固めねばならん」
会話を交わしているのは、このリュミエール王国の次代を担う二人の傑物。
一人は、国王オーギュスタンの長子にして王太子、セドリック・ド・リュミエール。
そしてもう一人は、王家直轄領を治め、若くして軍事と内政の両面で辣腕を振るう俊秀、アリステッド・ド・ローブ公爵。
二人の会話は、まるで熟練の職人が織りなすタペストリーのように、隙なく、そして冷徹に進んでいく。
財政、軍備、貴族間の力関係を考慮した人員配置、そして近隣諸国との外交。
それらはこの国の未来を左右する極めて重要な議題であり、彼らの顔には重責を担う者ならではの厳格さと威厳が刻まれていた。
その姿はまさしく次期国王と、それを支える若き公爵として、誰もが納得するに足るものであった。
一通りの報告が終わり、テーブルの上にしばしの沈黙が落ちる。
セドリックは手つかずのまま冷めてしまった鶏肉のローストを一瞥し、ふう、と小さく息をついた。
「アリステッド」
「はっ」
「これより先は内密の話となる。人払いをせよ」
「御意」
アリステッドが短く応じると、控えていた護衛の騎士や給仕を務める使用人たちに、目線だけで退室を促した。
彼らは物音一つ立てず、恭しく一礼すると静かに部屋から退出していく。
異論も異議も述べることはない。
国家の大事を左右する会談。
自分たちが聞いてはならぬ事は決して聞かず、見てはならぬものは断じて見ない。
そう心得ているからである。
重厚な扉が閉まる音が響き、広大な私室にはセドリックとアリステッドの二人だけが残された。
完全に人目がなくなったことを確認すると、それまで張り詰めていた部屋の空気が、まるで風船から空気が抜けるように緩む。
セドリックはそれまで保っていた王太子としての威厳に満ちた姿勢を崩し、椅子の背もたれにどかりと身を預けた。
首をひねり肩を動かすと、関節が音を立てる。
アリステッドもまた優雅だが堅苦しい貴族の作法を脱ぎ捨て、テーブルに肘をつきながら、やれやれといった顔で肩をすくめた。
「……まったく息が詰まる。親友と飯を食うというだけなのに、こうも体裁を繕わねばならんとは。お陰でチキン冷めちゃったぞ」
セドリックはそう愚痴をこぼしながら、どっこいしょー、と掛け声を上げて立ち上がり、メイドが引いてきた配膳台からデキャンタを手に取り、なみなみとワインをグラスに注いだ。
アリステッドも、遠慮なく自分のグラスを差し出す。
「とりあえず、乾杯」
「お疲れさん、乾杯」
クリスタルのグラスが触れ合う硬く軽やかな音が、ようやくこの部屋に人間らしい温もりをもたらした。
まるでエールのようにワインを飲み干し始めるセドリックに、アリステッドは声をかける。
「仕方ないだろうセドリック。俺たちはもう、ただの
「分かってはいる、分かってはいるんだが……いやもう、うんざりだ。何で食い方どころか食うモノすら指定されなければならん」
「貴族からの
アリステッドはフォークをチキンに撫でつけて偽装工作を施した後に、ナイフをローストチキンに突き立てて齧り始める。
家令が見れば数刻は説教をしそうな食事作法だが、この場に咎めるものは居ない。
「いい鶏だ。旨いじゃないか。さすがは王子様、良いもの食ってるな」
「変わってやろうか?王位継承権はお前も持ってるんだ、お前を次期国王に推薦してやっても良いが?」
「陛下。下賤かつ矮小なこの身では、そのような大役務まりませぬ」
「そういう言い方はやめろ、鳥肌が立つ」
ようやく笑顔が戻ってきたセドリックは、手酌でワインを注ぎ、そちらもまた一息で飲み干すと、ふぅ、と溜息を吐く。
「たまには昔のように、くだらん話で笑い転げたいものだな」
二人は幼き頃より王宮で共に育ち、学び、時には悪戯を仕掛けては共に罰を受けた、かけがえのない親友。
それが彼らの真の姿だった。
しかし、それぞれの立場が重くなるにつれて、こうして二人きりで気兼ねなく話せる時間は日に日に貴重なものとなっていた。
特に、帝国との休戦期間が終わろうとしている今では。
「くだらん話、か。そういえば今日の騎士叙任式は、なかなかの見世物だった」
アリステッドがワイングラスを揺らしながら、からかうような口調で言った。
彼の脳裏には、今日の式典で起こった一連の騒動が浮かんでいる。
「ああ。まさか、あの場で異議を唱える馬鹿が出るとはな。おかげで退屈な儀式が面白い模擬試合に変わったので、むしろ感謝しているが。感状を出したっていい」
セドリックも口の端に笑みを浮かべて同意する。
「しかし驚いたのはその後だ。アニエス・ジルベールなる女が、まさか、あの騎士を赤子のごとく一撃で屠るとは。あそこまで一方的な勝負になるとは思わなかった。お前の目には、どう映った?」
アリステッドは、純粋な興味から友に問いかけた。
アニエス・ジルベール。
彼女の武勇は疑いようもなく本物である。
それは、あの場にいた誰しもが認めることであろう。
むしろ、斯様な威容を前にしてまだ、アニエスの実力を疑うような者は、本当に目が見えているのか疑わしい。
アリステッドは、セドリックの返答を待たずに持論を話す。
「単純な力の差というだけではない。むしろ、恐るべきは彼女の戦術眼だ。ガニャールは、己の膂力を過信して、真正面からの力押しに固執した。だが、彼女はそれを真正面から受け止めるのではなく、相手の力を利用し、最小限の動きで体勢を崩し、カウンターの一撃で勝負を決めた。言うなれば子供を諭すような戦いぶり。あの体躯に隠れがちだが、彼女の本質は、むしろ技巧派と見るべきだろう……まるで熟達した歴戦の騎士だ。いったいどのような鍛錬を積んだのやら」
アリステッドは軍事の専門家として、冷静かつ的確にアニエスの戦いを分析する。
アニエスの父、ダミアン卿が狂って自身の令嬢を騎士にした、という話は無論知っている。
しかし、それも結局は他人から聞いた話に過ぎぬ。
実物を見て、アリステッドはアニエスへの評価を大きく変える。
その瞳には、有能な人材を見出したことへの隠せない賞賛と興奮の色が浮かんでいた。
だが、そんな彼の熱弁とは裏腹に、話の口火を切ったはずのセドリックの反応は、どこか上の空だった。
「……ふうん」
気の抜けたような相槌を一つ打つだけで、彼はただ黙って、手の中のグラスを見つめている。
その目は、ワインの深い赤色を見ているようで、その奥にある何か別のものを追っているようにも見えた。
その不自然な様子に、アリステッドは小首を傾げる。
普段のセドリックならば、有能な駒となりうる人材の話には、もっと身を乗り出してくるはずだ。
ましてや、帝国との休戦期間が終わりつつあり、それに合わせるように帝国に動きが見えている今ならば、尚更。
「……どうした、セドリック? 何か気に食わなかったか? それとも、女が騎士になること自体に抵抗があるのか?」
「いや、そういうわけではない」
「では何だ?どうも気が別のところに行っているようだが」
セドリックは曖昧に言葉を濁すが、アリステッドの追求は止まらぬ。
アリステッドの探るような視線から逃れるように、彼はグラスに残っていたワインを一気に呷った。
「なあアリステッド。今から私はとんでもない事を言うと思うが、これはお前だから言えるのであって、決して他言無用に頼む。もし周囲に露見した場合、私はお前を断頭台に架けねばならん」
「いきなりなんだよ……まあ絶対秘密の話ってわけだな。言ってみろよ。あ、もし俺に対して性的魅力を感じているから尻を出せとか言うなら抵抗するぞ、拳で」
「言うかバカタレ」
セドリックは再度ワインを呷る。
まるで何か大きな決心でもしたかのように、ふう、と長い息を吐き出した。
素面では話せない内容なのかと察したアリステッドもまた、ワインを口に含む。
「なあ、アリステッド。あのアニエス・ジルベールという女だがな」
「おう」
「私の妃にできないか?」
「……ぶふぉっ?!うぉほっ!げほっ!!かはっ!がっ!! ヴォエッ!!」
アリステッドは口に含んだワインを、盛大に噴き出した。
幸いにもセドリックにはかからなかったが、純白のテーブルクロスの上に無残な深紅の染みが広がる。
机に齧りつくようにして手をつき、気管に入ったワインを出そうと咳をして嘔吐く喉をなだめすかし、必死に苦痛に耐える羽目になった。
「汚いなぁ、このワインいくらすると思ってるんだよ」
「1バレルで5リーヴル15ソルだよ!!何を言い出すんだお前は急に! 妃だと?! 馬鹿か! 立場を考えろ、立場を!」
「やっぱダメか?」
「ダメに決まっとるだろうが!!」
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど狼狽し、アリステッドは素っ頓狂な声で叫んだ。
無理もない。
次期国王たる王太子が、叙任されたばかりの、しかも曰く付きの女騎士を、いきなり妃にしたいと言い出したのだ。
正気の沙汰ではない。
ダミアン卿が娘を騎士にしようとした一件と、いい勝負の狂気である。
「お前は、この国の王太子なんだぞ! そのお前の妃となれば、未来の王妃なんだ。ただでさえ、女なのに騎士叙任っていう横紙破りで貴族どもから反感を買っているというのに、そんなことをすれば、どれほどの政治的混乱を招くか、分からんわけではあるまい!」
「……そうか。やはり、難しいか」
「難しい、じゃないわ!無理!駄目!!」
「……じゃあ妾という方法は」
「立場云々はさておき、彼女は領地を持つ騎士だろ?正妻でもないのに領地を手放せとか、他の領主騎士もキレるだろうし本人が認めん。それに、教会にはなんて申し開きするんだ」
「何とかならんか?」
「ならんわ!」
アリステッドの剣幕に、セドリックはあっさりとそう口にした。
しかし、その表情は少しも諦めてなどいない。
むしろその瞳の奥には「どうすれば可能になるか」という算段を巡らせている光が爛々と輝いているのが、親友であるアリステッドには手に取るように分かった……コイツ、下手すりゃ王位継承と同時に娶る気じゃ無かろうな。
アリステッドは、大きく、そして深いため息をつくと、観念したように椅子に座り直した。
どうやらこの親友は本気らしい。
であるならば、まずその熱に浮かされた頭を一旦冷やさせるのが先決だ。
そのためには理由を知らねばならん。
「……おいセドリック。一体、あの女の何が、お前をそこまで狂わせた? 正直に言え」
アリステッドは、呆れ果てた声で尋ねた。
セドリックは、その問いに、待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
その表情は、もはや王太子の威厳など微塵もなく、欲しい玩具を見つけた子供のように無邪気ですらあった。
「決まっているだろう。まずは、あの顔だ。傾国の美女とは、まさに彼女のためにある言葉だろう。そして……なんと言うかな……」
セドリックは言葉を切り、うっとりとした表情で宙を見つめる。
「あの、筋骨隆々たる姿……鎧の上からでも分かる、あの分厚い胸板、丸太のように逞しい腕、大地に根を張るがごとき頑健な下半身……」
「…………」
熱っぽく早口で語る親友の姿に、アリステッドは気を失いそうになる。
アニエス・ジルベール
確かに、その顔は美しい。
赤く長い髪に端正な顔立ちは、まさしく傾国の美であるという評価には異論がない。
美の女神といっても過言にならぬ。
だが、しかし。
その首から下だ。
アリステッドが産まれてから今まで見てきたあらゆる力自慢の男より、さらに何回りも膨れ上がる巨躯の筋肉塊。
もはや人間と思えぬ。
胸は確かに大きく、その点だけは男を魅了してやまないかもしれん、と擁護する自分の本能を、あれも全部筋肉だろ、と理性が完膚なきまでに打ちのめす。
「……そうか。まあ、人には、それぞれ趣味というものがあるからな……」
人の好みは千差万別。
頭では理解していても、まさか親友たる王太子自らが、特殊な性癖を生き生きと語る姿を目の当たりにすると、さすがのアリステッドも言葉を失わざるを得なかった。
彼の知る限り……そしてアリステッド自身もまた男の一人として断言するが、世の男性が女性に求める魅力とは、か弱さであったり、しおらしさであったり、あるいは豊満な乳房や引き締まったくびれといったものであるはずだ。
だが、この親友は筋肉に興奮を覚えたらしい。
アリステッドには到底理解できない領域であったが、セドリックの瞳は真剣そのものだった。
人の趣味をとやかく言うまい、とアリステッドは深くため息を吐く。
アリステッドとて、今の婚約者を紹介されたとき、本人ではなく婚約者の母君に一目惚れをしてしまったことがある。
流石に諦めが付いてはいるが、もし何かの間違いで母君が手中に入るならば全力を尽くす自覚がある。
人の趣味や性癖を揶揄するなかれ。
そこに突っ込んだら戦争である。
「…………悪くないな」
「ん? 何か言ったか?」
「あ、いや、んんっ!何でもない」
セドリックが漏らした声にアリステッドが怪訝な顔で問い返す。セドリックは、はっと我に返ると咳払いをして誤魔化した。
セドリックがアリステッドに語った、彼の思うアニエスへの魅力については全く嘘偽りない。
しかし、もう一つ、アニエスでしか満たせぬであろう欲望を、セドリックは抱えていた。
さすがにこの妄想を親友に語るほどの破廉恥さは、彼にもまだ残っていた。
己の性癖が、常人のそれから著しく逸脱しているという自覚は、彼自身にもあったのだ。
故に、語らぬ。
「……それはそれとしてだ、アリステッド」
セドリックは、内心の歪んだ欲望をひとまず胸の内にしまい込み、再び真剣な表情で親友に向き直った。
「どうにか、彼女を妾にする手立てはないものか。何か、良い知恵はないか?」
「だから、無理だと言っているだろうが!」
アリステッドの、本日何度目かになる叫び声が、王宮の私室に虚しく響き渡る。
「まず、彼女はアルベール殿下の相談役になったのだぞ。弟の部下に手を出す気か、お前は」
「そこだ!」
セドリックが立ち上がった。
「アルベールのやつ、いつの間に彼女とお近づきになったのだ!許せぬ!私の相談役に欲しかったのに!!……だから私にもちょっと融通して貸してもらっても問題ないな」
「大丈夫じゃない、問題だ」
どうすんだよ、これ。
親友であり王太子であり、次代の王国を担う男の姿を、アリステッドは何処か遠い世界に心を浮かべながら眺めた。
【通貨】
リュミエール王国において用いられているのは銀貨が主であり、それぞれ呼称が異なる。もっとも価値が低いのはデニエであり、12デニエで1ソル、20ソルが1リーヴルに相当する。ただしリーヴルに該当する貨幣は存在せず、あくまで概念としての数え方である。
1デニエは農民の2日分の日給に、1リーヴルは牛一頭の価格に相当する。
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