15 リュミエール王国王宮 執務室にて

壮健なる王都シリエットに夜の帳が降りる頃。

騎士叙任を祝う喧騒もようやく鳴りを潜め、王宮は静寂を取り戻しつつあった。


オーギュスタン・ド・リュミエール国王は、一日の公務を終えた安堵と、心地よい疲労をその身に感じながら、執務室の重厚な扉を開く。


室内には古びた羊皮紙と蜜蝋の香りが満ちている。

窓の外では祝賀の篝火がまだ名残惜しげに揺らめき、その赤い光が室内に長い影を落としていた。


彼は深紅のビロードが張られた椅子に深く身を沈めると、大きく息を吐き出した。



「ふぅ、まったく、骨の折れる一日であったわ」



独り言のように呟かれたその言葉に応えるように、部屋の隅の影から一人の男が姿を現した。


年齢はオーギュスタンと同じ四十代半ば。しかし、王の、まるで歴戦の勇者と覚しき威厳とは対照的に、その男はどこか学者然とした、落ち着いた雰囲気を纏っている。

柔和な目元には深い知性が宿り、その手には常に書類の束が握られているのが常であった。



「お疲れ様でございます、陛下。しかし、見事な采配でございましたな。特に、あのアニエス・ジルベールの一件は」



男は、リュミエール王国の宰相、オーキツネン・シャンドミーユ。

国王の最も信頼する腹心であり、そして互いがまだ王子と小姓であった頃からの、唯一無二の親友でもあった。


公的な爵位こそ持たねど、その権限は公爵位にも匹敵する。

だがそれは単なる依怙贔屓ではなく、その辣腕が評価されての事。


若き公爵アストリッドを王家直轄領を担う左腕とするならば、オーキツネンは政務や財務など王の仕事の総括を行う右腕であろう。


彼は慣れた手つきでサイドボードからデキャンタを取り、少し濁りのある琥珀色の液体を二つのグラスに注ぐ。

晩餐会や公的な場所ではとても出すことのできない代物……兵の糧食用エール安酒なのだが、オーギュスタンはこれをいたく気に入っており、常飲していた。


最初はオーキツネンも「王が王宮で飲むもんじゃないだろワインでも飲んどけ」と取り上げようと躍起になっていたが、「そんなら戦争に参加して兵士に交じって飲むぞ俺はやるぞ」と啖呵を切った王がガチで前線に出やがって以後、オーキツネンが折れた形である。



「ふん、あれは余というより、ヴァロワの口車に乗せられただけよ。まあ、結果として面白い見世物になったのだから、良しとするがな」



オーギュスタンは差し出されたグラスを受け取り、芳醇な香り(注:王による評価)を鼻腔で楽しむ。

王と宰相という仮面を脱ぎ捨て、二人はただの旧友の顔に戻っていた。



「して、オーキツネンよ。改めてだ。今年の若人たちの出来はどうであった?お主の目から見て」


「そうですなぁ……総じて、例年以上に質の高い騎士が揃ったかと。期待株はロベール・ド・モンタンジュ卿でしょうかな。少し積極性には欠けますが、その突進力は目を見張るものがございます。他にも数名、将来が楽しみな者がおりましたな」


「ふむ、そうか」



宰相はよどみなく新人騎士たちの名を挙げ、その長所と短所を評価していく。

それは、ただ試合を観戦していただけの感想ではない。

彼らの家柄、領地の状況、背後にある政治的な力学までをも踏まえた、冷徹な分析だった。


宰相たるもの、リュミエール王国内の貴族全員の名前を諳んじるのは出来て当然であるし、彼らの家族構成や領地の特産品、係争中の事件、嘆願、納税額などは資料がなくても答えられる。


オーギュスタンは静かに耳を傾け、時折頷きながら、グラスを傾ける。



「ですが……」



宰相は言葉を区切り、面白そうに口元を綻ばせた。



「やはり、今年の最大の目玉は、アニエス・ジルベール卿、ただ一人に尽きましょうな。まさかガニャール・ド・ブルイユ卿を赤子のごとく捻り、一撃で沈めてしまうとは。陛下、正直にお答えください。あの娘の勝利を、どこまで予測しておいででしたか?」


「ふはは、馬鹿を申せ。余とて、あそこまで一方的な結果になるとは思うておらんかったわ。ま、ジルベール卿が勝つとは思っていたが」



オーギュスタンは愉快そうに笑った。脳裏に、試合の光景が鮮やかに蘇る。


漆黒の巨馬に跨る女騎士。


その姿は、市井にも広まり始めた騎士物語の登場人物か、あるいは……まるで古の叙事詩から抜け出してきた英雄そのものだった。



「あやつは、あのダミアンの娘なのだからな。腑抜けであるはずがない」



その言葉をきっかけに、オーギュスタンの瞳に、遠い昔を懐かしむ光が灯った。

彼はグラスの中の琥珀色を揺らしながら、ぽつり、ぽつりと語り始める。



「余がまだ王太子であった頃の話だ。お主も覚えておるだろう?余は堅苦しい宮廷を抜け出しては、市井に遊びに出るのが常であった」


「ええ、覚えておりますとも。その度に、どれほど肝を冷やしたことか。今思い出しても胃が痛くなります。陛下は怒られる度に私を恨めしそうに見ておられましたが、陛下が尻を1回叩かれる度に、私は謎の連帯責任で尻を10回叩かれましたぞ」


「すまん、ほんとすまん」



オーキツネンは心底うんざりしたという顔でこめかみを押さえた。

彼の苦労を知ってか知らずか、口だけの謝罪を述べるオーギュスタンは楽しげに話を続ける。



「さて、ある日のことよ。余は、とある名士の邸で開かれた宴に身分を偽って潜り込んだ。そこで一人の娘に出会ったのだ。月光の下で笑うその姿は、まるで花の精が人の形をとったかのようであった。余は生まれて初めて心を射抜かれた」



若き日の熱情が蘇ったのか、王の声は少しだけ上ずる。

目を瞑り、その時のことを懐かしみ、思いでなぞるように。



「余はいてもたってもいられなくなり、その娘を半ば強引に腕に抱き、連れ去ろうとした…………今思えばまあ、なんと愚かな行いであったことか」


「いや愚かどころの話ではございませんが」


「若気の至りというやつだ」



宰相の冷静なツッコミに、オーギュスタンは悪びれもせずに笑うだけだ。



「まあ、聞け。その時よ。どこからともなく現れた一人の騎士見習いが余の前に立ちはだかったのだ。『貴公!ご令嬢に何をするか!』と。それが若き日のダミアン・ジルベールであった」



王はそこで一度言葉を切り、喉の奥でくつくつと笑った。



「余は、騎士見習い如き身分を明かせば引くであろうと高を括っておった。だが、あの男は違ったな。王太子と知っても臆すことなく、『騎士とは貴婦人への敬意を持たねばなりませぬ。たとえ相手が王太子であろうと、道理に外れた行いは見過ごせぬ。お覚悟を』と言い放った後に、拳骨でぶん殴って来よってな。まさか、次期国王たるこの身がボコボコにされるとは思うておらんかった」


「ダミアン卿は、その後は……」


「無論、咎めなどない。当時の王……余の父は、あやつを誉めておったわ」



オーギュスタンが遠い目をして呟く。



「だが、あれがきっかけでのう。余はあの実直で、どこまでも愚直な男を気に入った。まあ身分が違う上に、余が一方的にあやつを気に入っただけだから、友にはなれなかったが……」



オーギュスタンは、グラスに残った酒を一口で呷った。そこには、若き日の恋の痛手と、友になりたかった男との思い出が、ほろ苦く溶け込んでいる。



「アニエスの母上は、その時ダミアンが助けた名士の娘よ」


「ダミアン卿と結ばれたのですか」


「そうだ。今日の叙任式で、アニエス嬢を見た時……一瞬、息が止まるかと思うたわ。身体こそ、神代の英雄かというほど筋骨隆々としておるが、あの顔立ちは……まさしく、母親の生き写しよ。特に、あの黄金の瞳。月光の下で笑っていた、かつての面影が、雰囲気が、そこにそのまま残っておった」



王の声には感傷的な響きが滲んでいた。それは一人の男としての、偽らざる述懐だった。



「正直に言えば……ほんの一瞬、考えてしまった。あの娘を、妾としてでも、この王宮に迎え入れることはできぬものかとな……」


「はて、陛下は亡くなられた王妃様を今でも愛しておいでと聞いたのですが」


「それはそれ、これはこれだ。別腹別腹」



一連の告白を聞いた宰相は、何考えてんだこの色ボケ爺年齢考えろ、と言う言葉は飲み込み、代わりに「なるほど」と合点がいったように頷いた。



「左様でございましたか。では、ノワールをアニエス卿に下賜されたのも、そのお気持ちの表れというわけですな。あの食費のかかる名馬を与えることで、経済的な支援を通じて王家へ縛りつけようという……」


「ん?」



オーキツネンの言葉を聞いたオーギュスタンの顔に浮かんだのは、得意げな笑みではなく、きょとんとした、純粋な疑問符だった。



「……支援?何の話だ、オーキツネン?」


「は?ですから、ノワールの……」


「ああ、あれか。いや、単にあのじゃじゃ馬がアニエスにだけ懐いたからな。これ幸いと厄介払いしただけよ。帝国の使者が来るたびに『友好の証の馬に乗ってくださらんのか?』と嫌味を言われるのも、もううんざりでのう。ははは、これで奴らの鼻を明かしてやれるわ!」



オーギュスタンは、心底愉快そうに、腹を抱えて笑った。その屈託のない笑顔を見て……宰相の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。

解りやすいほどに「え、こいつマジかよ」とその顔に書いてある。



「陛下……もしかして、ご存知、ないのですか……?」


「ん?何をだ?」


「ノワール一頭にかかる維持費が、どれほどのものか、を」



宰相は、ゆっくりと、そして言い聞かせるように言葉を続けた。彼の声は、まるで死刑宣告を読み上げる罪務官のように、淡々としていた。



「あの馬は……通常の軍馬の三倍は食らいます。それも、ただの牧草では満足せず、帝国から取り寄せた特殊な飼料と新鮮な果実、そして滋養強壮のための薬草を混ぜたものでなければ口にいたしませんでした。加えて、蹄鉄も特注品で……気に入ったものしか受け付けぬのです。それ故に手入れにも専門の職人が必要となります。それら全てを合算すると……ノワール一頭の年間の維持費は、小規模な騎士爵領の、一年分の歳入に匹敵いたします」


「…………」



オーギュスタンの笑い声が、ぴたりと止まった。

室内に、暖炉の薪がぱちり、と爆ぜる音だけが響く。



宰相は、冷徹な事実をさらに突きつける。



「装備を一揃い用意するのにも難儀していたアニエス・ジルベール卿にとって、それは褒美などでは断じてありませぬ。彼女は今頃、下賜された名馬を前に、己の領地の財政が音を立てて崩壊していく音を聞いているのではありませんかな」


「……なん、だと……?」


「それ故、アニエス卿に懸想した陛下が、彼女が泣きついてきたところに支援を申し入れ、王家への恩義を金で買いつつじっくりと篭絡していくのかと……」


「いやいや、そのような事!あのダミアン卿の娘だぞ!彼が彼女を騎士として育てたのだ、それを踏みにじるような行為をしようとは思わぬ!余は本当に褒美のつもりで卿にノワールを授けたのだ……!」


「……まあ厩舎全体の予算額はともかく、いかに名馬とはいえ馬一頭にかかる維持費まで陛下が知らなかったのも、無理もない話ではありますが……」



オーギュスタンの必死の説明に、ちょっと責めすぎたかとフォローを入れるオーキツネン。

しかしさっきまでの上機嫌はどこへやら、オーギュスタンの顔は急速に青ざめていた。額には、脂汗が玉のように浮かび上がっていた。


彼は持っていたグラスを飲み干し、ごとりとテーブルに置く。


その様子を見ながらオーキツネンは頭の中で考えていた。


予算を今からつけるか?いや間に合わないし名目が思いつかぬ。そもそも今予算計上などしたら例え王や宰相が相手だろうと財務担当に殺される。

王の歳費から出すか?しかしそれは完全にアニエス・ジルベール卿が王のお気に入りだと宣言するに等しい。それは今後の政治を考えると宜しくない。

いっそ妾として迎え入れるか?王がトチ狂って騎士をお嫁さんに迎えようした、と言い張るのが一番現実的な路線か?地獄かよ。



数秒の沈黙。



やがてオーギュスタンは、まるで溺れる者が藁を掴むかのような必死の形相で、長年の親友であり、王国の頭脳でもある宰相の肩をがっしりと掴む。


そして一国の王の威厳を湛えながら、宰相に問いかけた。


この問いに、王への謙遜や忖度は不要であると。

その答えに、王への遠慮や配慮は不要であると。


ただ、純粋に救いだけを求める、殉教者が如き覚悟をもって、訊ねる。



「どうしよう」


「どうしましょうなぁ……」



オーギュスタンの覚悟に反比例するように、その声色は震え、狼狽えた様子を見せていた。

オーキツネンは、彼との長年の付き合いで培われた諦観と、そして面倒な問題を持ち込んできた旧友への親愛が入り混じった、深いため息を口から漏らした。





【下賜】

高貴な身分の者が、身分の低い者へ品々を贈ること。

それは実用的なものを送る援助というよりは、好意や配慮を示す場合が多い。

特に公の場で行われる場合、恩寵を与えているという儀式的な側面も兼ねている。


それ故、下賜品の返却は想定されておらず、特に贈った側が「下賜品を返して欲しい」と頼むことはあまりに恥ずかしく情けのないことであり、双方の名誉を著しく傷つける行為である。

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