10 ジルベール騎士爵令嬢 アニエス その2

一体いつだったのだろう。

私と第二王子であるアルベール・ド・リュミエール殿下との間に、婚約の話が持ち上がっていたのは。


いやまあ正式なものではなく、あくまで「そういう話もある」程度の、貴族間の社交辞令に毛が生えたようなものだったのだろう、とは思うのだけれどな。


私が6歳、アルベール殿下が7歳……それより以前の私はまだ「騎士爵姫」などと呼ばれ、その可憐な容姿で周囲を魅了していた頃だ。


父ダミアンは騎士として健在であり、2人の兄は父を尊敬して騎士を目指す。

ジルベール家は貧しい……とまではいかないが、まあ裕福ではないながらも、穏やかで幸福な日々を送っていたのだ。


アルベール殿下は時折お忍びで我が家を訪れていた。


王宮の堅苦しい空気が息苦しいのか、あるいは田舎の騎士爵家の素朴な暮らしに興味があったのか。

理由は定かではないが、頻繁にとまでは言わぬとも、顔を見せていた。


彼は私の兄たちと木剣で打ち合ったりもしていたが、私とママゴトを……彼が王で私が妃というごっご遊び、今考えると中々に凄いことをしていたな……する方が好きだったように思える。

年の近い兄のような、それでいてどこか違う、変わった存在だった。


ああ、そうだな。

幼い頃の、まだ前世の記憶を思い出す前の、名実ともに無垢な少女であった私は、彼を兄のように思っていたのだが。


アルベール殿下は私を好いてくださっていたのだろう。


そうでなければ第二王子とは言え仮にも王家の人間と騎士爵令嬢の婚約話など貴族の噂になるはずもないし、わざわざ騎士爵領まで来るはずも無い。

如何せん誰からも好意を向けられていた当時の私は、それを半ば当然と感じ、細かな機微は見抜けなかったと見える。



しかし、そんな穏やかな日々も、兄たちの死によって唐突に終わりを告げる。


狂気に囚われた父によって……そして前世を思い出してしまった私の意志によって、生活は大きく変わった。






その日も私は、父ダミアンによる訓練を受けていた……いや、アレは訓練だったのか?

虐待や拷問との違いが分からず未だに疑問だが、実際に今の私の役にはたっているので訓練と言えるか。


私は泥と汗にまみれ、ダミアンに木剣で打ち据えられたら、歯を食いしばって立ち上がる。

それを何度も繰り返す。


そんな光景を、ジルベール家を訪れたアルベール殿下は目撃してしまったのだ。



「——な、何をしているんだ……?」



殿下の声は驚愕と、そして理解できないものに対する恐怖に震えていた。


絹のように滑らかだった髪は埃にまみれ、白魚のようだった手には無数の擦り傷とマメができている。

かつて「可憐」と賞された顔は、まるで小僧のように涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃだった。


それはもはや、彼が知っているアニエス・ジルベールではなかっただろう。

それは外見的な話のみならず、前世の記憶が優勢だったから、意識自体も変わってしまった故。



「これは訓練です。アニエスは騎士となりなすので」



私の代わりに答えたのはダミアンだった。


その目には狂気の光が宿り、私を睨みつける視線は、まるで敵でも見るかのようだ。


アルベール殿下は絶句していた。

言葉を失い、ただ目の前の信じられない光景を呆然と見つめるばかりの様子。


無理もない。

高貴な生まれの彼にとって、6歳の幼女が、それも貴族の令嬢がまるで罪人のように打ち据えられている光景など、想像の埒外だっただろう。


いや産まれも年齢も関係ないか。

常軌を逸したダミアンと、勝手な思い込みをしていた幼稚な私以外の人間にとっては……この世界の常識においては、これは異常でしかない。


路傍の乞食ですら、ダミアンと私に対して眉を顰め、咎めるだろう。


アルベールは王宮からの使者を伴ってやってきていた。


父の奇行を耳にした王家が、その真偽を確かめるために遣わしたのだろう。

あるいは近隣の貴族が「ダミアン卿がおかしくなった」と報告したのかもしれない。


ダミアンは忌々しげに舌打ちをすると、使者の応対のために屋敷の中へと消えていく。


残されたのは私とアルベール殿下、そして数人の従者だけだった。

重苦しい沈黙が、訓練場に満ちた泥と汗の匂いに混じって漂う。


私も酔いそうな程の居心地の悪さにどうしたものかと考え、何か話そうとしては口を開き、しかし何も思い浮かばずに口を閉ざすを繰り返していた。


そんな様子を見かねたのか、あるいは決心がついたのか……先に口を開いたのは、アルベール殿下だった。



「アニエス……」



彼は私のそばに駆け寄ると、ためらいがちに私の腕を取った。


その手は私の泥だらけの酷く汚れた手とは対照的に驚くほど白く、そして温かかった。



「どうして……どうしてこんなことを……。君は、ジルベール家の姫君じゃないか。こんな……こんなのは、おかしいよ」



殿下の声は悲痛に歪んでいた。

その金色の瞳には、ありありと心配の色が浮かんでいる。


ああ、この子は本当に心の優しい子なのだな、と、どこか冷静な頭で思う。


前世の記憶がなければ、助けを請うて泣きじゃくっていたかもしれない。


しかし残念ながら私の中身は、酸いも甘いも噛み分けたの成人男性である。


王子の純粋な善意は、心に響きはするものの、私の決意を揺るがすには至らない。


何ならこの時は王子のことを幼いからと侮ってすらいた。

幼いから、ダミアンの苛烈な訓練を見て怖気づいているのだと。



「殿下。私は騎士になるのです。これは、そのための訓練です」



私は泥を拭うこともせず、ただ淡々と告げる。

6歳の少女の口から出るにはあまりに不釣り合いな、乾いた声だっただろう。



「騎士に?!何を言っているんだ!君は女性だ!騎士になんてなれるはずがない!誰も君を騎士とは認めないぞ?!」



アルベール殿下は必死の形相で私を説得しようとする。


さて、この時の殿下を見て私は何を考えていただろうか。


あまり思い出したくはないが、間違いなく王子のことを内心で馬鹿にしていたに違いない。


そんなこと、やってみなければ分からぬ。女だからと舐め過ぎだろうと。

大方そのような事を考えていたに違いない。


まったく、当時の自分を捻り殺したくなる。



「それに、そんなことを続けていたら……君は……」



殿下は言葉を詰まらせた。その先の言葉が、何を意味するのかは私にも分かった。

美しいドレスも華やかな夜会も、そして縁談も、すべてが水泡に帰す。


貴族社会から爪弾きにされ、孤独な道を歩むことになるだろう、と。

彼の瞳が、そう雄弁に物語っていた。


その通りだ。

その通りになった。


殿下の言う懸念は当に現実となった。


しかし、だが、その時の阿呆な私はこう思うたのだ。


それがどうした、と。



「殿下。私は、誰かに認められるために騎士になるのではありません。私が、私であるために、騎士になるのです」



前世が男であった私にとって、女性として誰かの妻となり、家のために子を産むだけの人生など、到底受け入れられるものではない。


騎士という肩書きは、そのための最も有効な手段だ。

なんなら気狂いと思われても良いと考えていた、そちらの方が下手な人付き合いもしなくて済むだろうと。



「そんな……それでは、僕と……」



アルベール殿下の声が、か細く震えた。


ああ、彼は本気で私のことを想ってくれていたのか。

その純粋な好意に私は応えることができない。


私は彼の顔を見つめた。

陽光を浴びて輝く金色の髪、まだ幼さの残る整った顔立ち。


優しさと気品に満ちた、まさに王子様といった風情だ。

だがその瞳の奥に、私は彼自身の諦観の光を見た。



「殿下。申し訳ありませんが、これから私は、泥と血にまみれて生きていきます。殿下の隣に立つべきは、私のような女ではありません」



きっぱりと言い放つと、アルベール殿下は唇を噛み締め俯いてしまった。

その白い頬を、一筋の涙が伝うのが見えた。


子供の純情を無碍に踏みにじってしまった罪悪感が胸を刺す。


だが私の頭は、騎士になって婚約回避以外のことをまるで思考していなかった。

騎士になれたのならば、一生を独身のまま過ごせると、この時は何故か本気で思うていた。


きっと前世の記憶のせいで脳みそが壊死をしていたに違いない。


しばらくの間、沈黙が続いた。

聞こえるのは、遠くで父が使者とやり合っているらしい怒声と、風が木々の葉を揺らす音だけ。


やがて、アルベール殿下は顔を上げた。

涙はもう拭われていたが、その瞳はひどく悲しげな色を映す。


そして彼は、思いもよらないことを口にしたのだ。



「……分かった。君が騎士になるというのなら、僕はもう止めない。でも、一つだけ、約束してほしい」


「約束、ですか?」


「もし……もし君が、本当に騎士になれたなら……その時は、僕の騎士になってくれないか」



彼の言葉は、あまりにも突拍子がなかった。私は思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。



「殿下の、騎士に?」



彼は頷いた。

その表情は先ほどまでの悲痛さとは打って変わり、どこか自嘲的な、寂しげな笑みを浮かべていた。



「知っているだろう?僕は第二王子だ。王位を継ぐのは、優秀な兄上だ。父上も、家臣たちも、皆がそう望んでいるし……他ならぬ、僕もそれが正しいと思っている。僕はただの『予備』でしかないし、そうでなければならない」



アルベール殿下は淡々と、しかし確かな痛みを伴ってそう言った。

7歳の子供が口にするには、あまりにも達観した言葉だと思った。


それもそうだろう、彼は王子なのだ。

その背や肩には、生まれながらに義務を背負っている。


歳だけ取った幼稚な子供大人である私とは、あまりに対照的な覚悟。



「兄上は父上によく似て強く、厳格で、いかにも王に相応しい方だ。多くの騎士たちが、喜んで兄上に忠誠を誓うだろう。でも僕のような、何の取り柄もない、王になる見込みすらない王子に仕えたいと思う騎士なんて……きっと一人もいない」



彼の声は自信のなさで揺れていた。


王族という華やかな世界の裏側で、彼が抱える孤独と劣等感が伝わってくる。

兄が優秀すぎる故の、次男坊の悲哀。



「だからアニエス。君がもし、その……常識外れの騎士になるというのなら。行き場のない僕のために、その剣を捧げてはくれないだろうか。君のような、変わった騎士なら、僕のような変わった主君に仕えるのも、お似合いかもしれない」



彼はそう言って、はにかむように笑った。それは、王子の威厳など微塵も感じさせない、ただの心細い一人の少年の笑顔だった。


私は、その提案を吟味した。



第二王子付きの騎士。


実質的な王位継承権は低いとはいえ、王族であることに変わりはない。

つまりは将来、王宮での地位が約束されるということだ。


これは望外の好条件である。栄達とさえ言って良い。

単なる騎士がいきなり王族直属になれるなど、普通に考えればあり得ない話だ。


しかも相手は「何の取り柄もない」と自称する王子様だ。

仕事もそれほど多くはないに違いない。


これは、いわゆる「窓際族」的な、楽なポストなのではないか?



「承知いたしました」



私は深く、深く頭を下げた。



「このアニエス・ジルベール、いずれ騎士となり、アルベール殿下、あなたの剣となることを、ここに誓います」



私の返事を聞いてアルベール殿下は息を呑んだようだった。そして、安心したかのように、ふっと息を吐いた。



「ありがとう、アニエス」



彼はそう言って私の泥だらけの肩に、そっと手を置いた。その手は、やはり温かかった。



ああ本当に、本当に。


私は彼がどのような思いで。

どのような覚悟を持って内心を打ち明け。そしてこのような提案をしてくれたのか。


全く理解しないままに、理解するつもりすらないままに、二つ返事で了承したのだ。





【忠誠】

騎士にとって主君への忠誠は何よりも大事にせねばならぬものの一つであり、それは時に、命の価値を凌駕する。


忠誠のために命を懸けられるからこそ、人は騎士たりえるのだ。

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