第30話 騎士匠さんと黒猫

 私はその日、模擬戦を眺めていた。いや、主に音を聞いていた。模擬騎士は関節があるので、それが動くときに特徴的な音を立てる。

 視界の隅で続々と同級生たちが倒れていくので、それで私は、ミヤモト嬢がやってくるのを悟った。今日はまた荒ぶっているな。倒れるガルガンチュアが嬉しそうな顔をしているのが気になったが、まあいい。

 ミヤモト嬢は緑髪が膨らむほど怒っている演技をしていた。右手の紋章が輝いて、髪の毛を揺り動かす圧を発生させている。知らない人は紋章が暴走しているように見えるだろうが、ここ最近の詳細な観察と実験の結果、驚くべきことに暴走はしていないという結論に至った。

 紋章はどうやら、主人というかミヤモト嬢を助けているらしい。今のこれも、おそらくミヤモト嬢の邪魔になる敵を露払いして本懐を遂げさせようというのだろう。残念ながらどんな本懐かは、さっぱりわからない。

 なにせ、猫だ。猫が何を考えているかなど、人間がわかるわけがない。

 ミヤモト嬢の足が止まった。私の思う距離より一歩半近い。

 ん。今一瞬怒るのやめたな。演技を忘れたか。しかし演技? なぜ演技。

「授業はいいのかい?」

「それについては一旦忘れました」

「なるほど」

 猫は自由だった。ミヤモト嬢を見ていると、無性に猫を飼いたくなるものだ。ただ、この国にも他国にも猫はいないらしく、その姿を見たことはない。犬と猫の間の子みたいなものとか、腹に袋を持つネコモドキみたいなのはたまにいるのだが。

 猫というのはあれで善性の生き物で、”このあの世”には来ずに全部がどこかに転生てんしょうしているのかもしれない。すると、”このあの世”はやり残したことがあるものだけが残された、居残り組の世なのかもしれぬ。

 考えていたら、ミヤモト嬢の視線に気付いた。私を心配しているように見える。

「先輩は命を大事にするべきです」

 そうだそうだと王女殿下がミヤモト嬢の後ろで言っている。剣聖紋の攻撃をうまくかわしたのか、いや、隠れてやり過ごしたのか。それはそれですごいな。

 ミヤモト嬢を見る。

 返答はいかに? という顔。

 本気で怒っているのよと顔に書いてあるような気がして、うっかり可愛らしさに表情を崩してしまうところだった。いかんいかん、さらに居残り組になってしまう。俗世の全部から解き放たれたいが、それが難しいのは前世でも経験済みだった。

 目元を隠す手を握られ、引っ張られる。目を見て話してくださいと、猫の主張。まったく可愛らしくていけない。

 まあでも、猫にはかなわないよな。

「大事にしているつもりなんだが」

 そう答えたら、怒り出した。

「軽く自分を実験台にしていたじゃないですか。昨日!」

「勝率は高かった」

「確率なんてものに頼らないでください!」

 猫は細い足を踏み鳴らしている。不意に抱き上げたくなったのを耐え、表情が崩れぬよう顔を隠した。高僧、女の太ももで高転びとはよく言ったもので、女というのはどうにも悟りを開くのを邪魔してくれる。しかも猫だ。私の好きなものと好きなものが合体しているではないか、どうする。いっそ妻にでも迎えてしまおうか。身分差やら政治やらがあるんで無理なんだが。さらには私の真の願いからも外れてしまっているのだが。それでも。

 またも手を引かれる。いちいち可愛らしくていけない。なんなら今生の一つくらい、彼女が機嫌よく暮らすために捨ててやろうかとも思ってしまうのがいかんな。私の修行不足だ。

 あー。

「もとより頼ってないが、そうだな。確かに、飢饉などは確率を無視しているのに、身の危険については確率に依拠していると言われても信用できないな」

「よくわかりませんけど、命を大切にすべきです。命を大切にすべきです」

 さらに寄ってくるのでうっかり頭を撫でそうになる。仏門で修行を邪魔するものを悪魔というが、まさにこれが悪魔がだな。なんと可愛らしく、罪のない悪魔か。

「返答をください」

「大事にする」

 うっかりそう言ったら、心蕩かすような笑顔を浮かべられてしまった。

「その約束、覚えましたから」

 ミヤモト嬢は去っていった。まったく。他人からどう見えるかとか考えないのか。

 そう思ったら王女殿下がミヤモト嬢を追いかけていった。隠れていないところを見るに、暗殺ではあるまい。さすがに目に余って注意をしに行くのだろう。良い話だ。

 しばらく、壊れた模擬騎士から乗り手を助けたり、応急修理をするなどしていたら、王女殿下が上機嫌でやってきた。私の隣にしゃがみ込む。珍しくも王女殿下はスカートを着ている。開けぬように手で抑えるさまはなかなかにして艶めかしく、故に違和感があった。

「僕がなんの話をしてきたか、知りたくはないかい?」

「特にはないな」

「アリマの悪口を言ってたのかもよ?」

「そうか」

 すると、王女殿下は不機嫌になった。めずらしくも暗殺しようとはしなかったが。

「人の心とかないんか」

「人の心というのは外部という光が私という自分を照らしたときに起きる影だ。普通人間は地に落ちた影まで自分のものだとは主張しないのではないか。それはあまりに、欲深いように思える」

「難しいこと言って誤魔化そうとしているだろ」

「友達に嘘は付きたくないから説明したまでだ。もう義理は果たした。それで話を戻すと、興味はないな」

「興味もとうよ!」

「そうは言っても、ミヤモト嬢に警告したのだろう」

「お、おう。そうだけど……」

「内容はそうだな。アリマに近づかないほうがいいとか、そういうのではないか」

 そう言ったら、見る間に王女殿下の顔が赤くなっていった。今や耳の先まで真っ赤だ。目線を旅立たせている。

「そ、そうだけど……悪い? 怒った?」

「いや、当然の警告とは思う。騎士とは名ばかりのドワーフの養子である私から見ても、変な噂が立ちかねない動きだ」

「う、うん。そうだけど。え、そういうことでいいの? 友達が一番とか」

「友に一も二もないだろう」

 短剣が飛んできた。王女殿下は調子を戻してきたようだ。

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