第7話 ルイエルド辺境伯領の革命について

 微酔月、七日。

 たわわに葡萄が実る時期、ロンデイルには多くの人が集まる。集まるのは人だけではない。上等な服、質の良い食材、古今東西の珍しい品々。それらを求めて各国の貴族や、豪商たちが集まるのだ。

 今日は、特別大きな祭典がある訳ではない。

 だが市民が不自然に思う事は無い。収穫の時期である事も考えれば、王都に勝るとも劣らない隆盛を誇るロンデイルならばこの程度普通だろうと考えるのだろう。

 だが実際には違う。裏社会に身を置く者にとって、今日は大きな祭典の日だ。


「……」


 纏わり付くような湿気のある闇に紛れ、黒い外套で身体を包んだ者達が路地を蠢いていた。

 背丈はまばら。高い者も居れば、低い者も居る。体格も、姿勢も、そして性別も。何もかもが統一されていない、ちぐはぐな一団。

 リーダーらしき人物が手で合図を出すと、一団は頷きを返し人目を避けて進んでいく。警備を避け、やがて見えるのは巨大な邸宅。

 このロンデイルにおいて、豪邸という言葉に相応しい場所はたった一つ。へイエス・ゼン・ルイエルド。その居城である。

 刺客、と呼べる集団ではあるが、娘たちと比べてしまえば児戯にも等しい。ぱたぱたと足音は鳴り響き、行動には迷いが現れている。武器も握り慣れていなさそうな手には包丁や汚らしいデッキブラシ、煤のこびり付いた火掻き棒といった日用品。防具もまともなものは無く、鎖帷子の一着すら無い。

 本当にやる気があるのかと、問いかけたくなるほどの武装である。

 だが、彼らの行動の迷いは、自分の行動とそれが引き起こす結果に対する不安が生んだもの。頭に叩き込んだ計画に狂いは無かった。リーダと思しき者の合図と共に三班に分かれ、徐々にルイエルドの屋敷を包囲していく。東、西、そして北に向いた正門と、それらを取り囲むように。

 ルイエルドの屋敷には三つの出入り口がある。正門である南の門。そして、東と西の勝手口。何故平民なら近付く事すらも許されぬ筈の、ルイエルド邸の勝手口を何故知っているのか。それは、彼らの仲間の一人の協力が関係していた。

 ラ・レザン。収穫祭と暗喩されることもある、巨大な裏オークション。それが、今日。

 出回る品は全てが非合法。没落した貴族令嬢や、焼き払われた村の娘。高品質の麻薬に密輸品、ファインスト王国では数十年前に法により禁止された筈の、奴隷でさえも。国境付近の警備の為、多くの私兵を抱える事の許されたルイエルドだからこそ可能な裏社会の祭典である。そしてこれは、彼の権威を高める重要な儀式でもあるのだ。

 槍のような細工が為された鉄柵を超え、中庭へ。

 普段より警備の厚いルイエルド邸の敷地内を、刺客たちはすり抜けるように抜けていく。彼らは知っているのだ。警備の配置や、安全な場所さえも。


「……トーシロじゃん」


 刺客の動きは傍目から見れば見事。答えを知っている迷路を進むようなものだ。だが、ルイエルド邸の高い屋根の上に腰掛け、嘲笑うようにぼそりと呟く影が一つ。

 白に僅かに黄金の糸を足したかのような、色素の薄いホワイトブロンドを右側頭部から垂らした黒いローブの少女。

 丸っぽい鼻と、狐のように吊り上がった丸目。九割の幼さの中に、目が覚めるような美貌と計算尽くの可憐さを一割としてブレンドしている。自分が美しい事を自覚している美しさだ、同性には嫌悪され、異性に好まれるような容姿だろう。

 脚を組み、むにりと太腿を歪ませた彼女の座高は、ざっと見積もって十歳前後の少女のもの。脚の長さから考えるに、立った状態でもその推測は変わらないだろう。ただ彼女が幼い訳ではない。身体の成長がぴたりと止まってしまっただけである。

 右手には柄に金属糸が結び付けられたフィレナイフ。ただ峰には、狙った獲物を決して逃がさぬような歪んだ返しが付いており、それがただ肉を切り分ける為のナイフではない事を証明していた。

 そんな彼女が太腿の上に頬杖を突き、ナイフを片手でくるくると弄び眼下に展開する刺客たちを見下ろしている。


「リーちゃん物好きー。マジ訳分かんない、ホントにうちがこんな奴等のお守り? 信じらんなーい」


 もしその声を聴いた者がいるのなら。彼女を生意気な小娘と評価しただろう。だが、実際に彼女を目にした者がいるのならそのような評価は下さない筈だ。

 降りた夜そのものが、人の形を成している。完璧に調律されたその音色は、夜風の音階と等しい。例え数歩先に居たとして、彼女の声を聴くことはできないだろう。

 漂う気配は夜そのもの。吹く風を不審と思うか。降り注ぐ月光に不安を感じるか。答えは否。それは、自然が故。この世界に在るべきものだからである。彼女の立ち振る舞いはまさに、自然そのもの。何故いるのか、そんな思考がまるで浮かばない程彼女はこの世界に溶け込んでいるのだ。

 出入り口を塞ぐように配備される刺客と、その少女との力量の差。剣術で比べれば、まるで幼子と免許皆伝の師範代のような差がある。

 彼女こそが旋風が一員、フェンベリー。この隊の中で隊長こそ除けば、最も隠密行動を得意とするメンバーである。


「まー仕事だし? あーしも従うけどね?」


 吐き捨てるようにぼやくと、彼女はフィレナイフを投げる。

 まるで少し遠くの屑箱に、ちり紙を投げ入れるような適当さ。だが引き起こされた結果はどうだろう。

 突如訪れた衝撃に身を捩り、ルイエルドの私兵が疑問を胸に首元を抑える。だがその行動は既に遅い。ぬらり、という触感が兵士の手に伝わる。同時に激しく湧き上がる激痛と、烈火の如き高熱。

 命の欠片が勢いよく噴き上がり、零れていくことをようやく悟った彼は、悲鳴を上げようと大きく息を吸う。糸を巧みに手繰り寄せたフェンベリーのナイフが喉を切り裂いていなければ、それも叶っただろう。


「ひゅ」


 異様な呼吸音だけを残し、ナイフが今度は心臓に突き刺さった。

 糸を手繰り寄せると、返しに持ち上げられて成人男性の肉体が浮かび上がり茂みに消える。こうして、ルイエルドの私兵の一人が消え失せた。私兵はもう少しで刺客の集団に遭遇するところであった。それを殺した彼女はつまり、刺客たち自身すら気付いていない、彼らの味方。


「あーもう足音出し過ぎ、気配駄々洩れ、キョロキョロしすぎ、足遅すぎ……。マジで監督係はちゃんと隠密行動の基本を叩き込んだんだよね? ジェーン姉がいたらぶん殴られるって。見てるこっちが怖いっての」


 刺客の正体を、娘たちはとうに掴んでいる。

 へイエス・ゼン・ルイエルドは街の民や商人の娘は勿論。売られた没落貴族の娘や、敢えて重税を課して担保として村一番の娘を連れ去る等して、欲望の限りを尽くし遊び回っている極悪人だ。

 当然ながら、彼を恨む人間は大勢いる。

 父親、母親、姉、兄、妹、弟、友人、恋人。彼らを繋ぎ留めているのは若さでも、老いでも一切関係無い。ましてや男でも女でもない。人種も、素性も、人間の社会的地位を決定付ける何もかも彼らには関係無い。

 この刺客たちは、それらの中で選りすぐりの、憎悪に身を焦がした者達だ。

 所謂、復讐者たち。


「あー不安。マジでこんなやつ等のお守すんの? サイアク、これで失敗したらホントにうちのせい?」


 稀代の脚本家が書き上げたシナリオは単純、明々にして朗々。

 快楽の為に他者を噛み潰す暴君と、それに抵抗する貧しい英雄たち。そんな小さな英雄叙事詩の、影で蠢く紅い小鳥。


 ✱✱✱


 ルイエルド邸地下二階は階は、巨大なホールになっている。

 主にパーティー等の際に用いられる場所だ。地下に降りてすぐに、大人が両手を広げた広さの廊下を挟み、メインのホールが出迎える。パーティーに用いるとは言うが、普段このホールはがらんどうだ。

 神殿を彷彿とさせる白亜の巨大な柱。無機質な光を放つ白とは対照的に、温かみのある黄土色の壁。

 手を伸ばしても決して届かない高い天井には、三角形が積み重なった鱗のような幾何学的模様が形作られており、ステンドグラスにはファインスト王国で信仰されている神の一人、欲望を司る神を描いている。巨大なシャンデリアは十層以上にもなり、巨大な空間の隅々に光を行き届かせていた。

 しかし今夜は違う。このホールには、溢れんばかりの人が犇めいていた。原因は今夜だということ。ラ・レザン、ルイエルドが催す収穫祭。

 ホール最奥の壇に向かうように、高貴な身なりの人間が必死に手に持った木札を挙げている。壇上には手枷足枷が嵌められ、鎖で繋がれた豊満な身体の亜人の女性がいた。

 纏う衣服は貧相そのもので、至る所が刃物に切り裂かれたように欠けている襤褸布。辛うじて局部を隠す事は出来ているが、これを服と呼ぶには無理があるというもの。

 まるで感情を感じない焦げ茶色の瞳は、眼と言うよりはガラス玉だ。顔面のパーツこそ美人と呼べるものだが、表情は虚ろでのっぺりとしており美しかったろう面影は一切感じない。垂れ下がった長い耳は兎に近かった。

 壇の脇にはこのオークションを取り仕切る執事が一人。シルバーブロンドのボブをカーテン・ヘアにしており、右目には縁がシルバーのモノクルを掛けている。喋る度に尖った八重歯の除く猫の様な口に、目は狐のように細い。顔は端正且つ知性的で、撫でる微風のような心地良い声はリュートの音色を彷彿とさせた。

 木札を掲げる列の最前には、引き締まった肉体を晒すルイエルド。そして、その脇に侍る執事が一人。

 競落人を満開の拍手が包み込んだ。同時に、壇上の女が舞台袖に消えていく。

 悔しそうに手に持った木札を下げる貴人たちは、揃って華やかな色のマスクを付け顔を隠していた。すぐに隣の者と軽い談義をしながら、逃がした魚の大きさを語り合う。落札されたのは、亜人の女だ。

 大陸北部に集落がある、長い耳を持つ種族。現在その集落はファインスト王国北部のセタナ神聖皇国との戦争状態。事の発端は、餓えた亜人が皇国の村を襲ったとされている。彼女はその過程で捕縛された捕虜だろう。

 が、実際には亜人の集落が食べ物に困っているという情報は無く、神聖皇国は以前より国境付近で生活している亜人たちを毛嫌いしていた。

 そして神聖皇国は、イルカディア大陸でファインスト王国、ルシナル帝国と並び三大国に数えられる強国。強者の行いを、表立って追及出来るような者はいない。つまりこの戦争自体が、皇国の侵略行為である可能性は高い。

 壇上からの光景を眺めながら、ティア・アコナイトは奥歯を軋ませる。ただ、すぐ傍でふんぞり返るルイエルドに悟られることは無い。


「次の商品は――」


 次に貴人等の前に躍り出るのは手紙だ。曰く、リリー・オウル・スカーレットが何処かの貴族に出したという招待状らしい。これさえあれば、かの赤百合と茶会を開くことが出来る。

 会場の盛り上がりが、より一層激しくなるのを肌で感じた。

 反吐が出る。

 へイエス・ゼン・ルイエルドも、驕り高ぶった豚と呼ぶに相応しい貴族たちも、可視化できる程に醜い欲望も。

 だから今夜、何もかも終わらせる。

 盗むように壇上の執事に目を向ける。

 今この瞬間まで、ラ・レザンは一切の滞り無く進行している。それはつまり、何の異常も発生していないと言う事だ。否、実際には異常は現在進行形で発生しており、それに彼らは気付いていないというべきだろう。

 ティアは執事だ。この屋敷内でもそれなりの地位を持ち、ある程度の情報ならば苦も無く集めることが出来る。その為に、十何年もこの屋敷に仕えているのだから。警備の数と配置、屋敷の構造、標的の位置。全て教えた。刺客は全てを知っている。梟など、待つ必要は無い。

 ただ一つ不安要素があるとすれば、自分以外の執事。

 ルイエルドの執事は、忠実な召使であると同時に屈強な護衛でもある。魔術、剣術、弓術など、ありとあらゆる武芸に精通した達人たちだ。かく言うティアも、魔術の才を認められここに居る。自分が攫った女の妹であるということまでは、見抜くことは出来なかったようだが。

 この場に執事はティアを含め三人。さしものティアでも手に余る。その為、この作戦において最も重要なのは、執事の排除。

 強者を相手するならば、緊張と弛緩の合間。困惑の最中が相応しい。詰まる所、不意打ちにより一瞬で片を付ける必要がある。

 故にティアは待つ。

 リリー・オウル・スカーレットの招待状が落札された。待つ。魔法の施された短剣が落札された。待つ。没落した貴族の姫君が落札された。待っていた事態が、ようやく訪れる。


「え」


 最初に会場に浮かび上がったのは疑問だ。

 まるで大海に一滴の血を垂らしたように。興奮の中に小さな戸惑いが産み落とされる。会場内に集まる貴族たちのある一点を中心とし、困惑が湧き上がったのだ。

 徐々に人波が捌け始める。戸惑いは恐怖へと変容し、徐々に伝播していく。その恐怖が、尊き血族に後退りをさせたのだ。

 ルイエルドの顔が曇る。人が退いたことでようやく後ろで起きた異変に気付いたのだろう。

 ぬらぬらと、シャンデリアの光を反射して深紅が光っている。鮮烈なまでに生命の色をしたその下には、硬質な鋼の輝きが隠れていた。


「う、うあ」


 呻き声が上がり、深紅の切っ先が引っ込む。

 輝きを纏っていた正体は、貴族の一人の腹部を通り背部まで貫通したパン切り包丁。それが引き抜かれ、貴族がようやく自分の身に起こった出来事を悟ったのだろう。

 悲鳴が上がる。刺された貴族ではない。その周りに居た女性貴族の金切り声だ。


昏睡コーマ


 ティアは素早くすぐルイエルドに魔法を掛ける。派手な魔法ではない。余程近くで見ない限り、傍目にはルイエルドがそのまま立っているように見えるだろう。


「警備兵!」


 素早く異変を察知した狐目の執事が警備にあたっている私兵を呼びつける。が、直ぐに状況に気付いたようだ。

 ティアは鉄面皮の下で嗤う。警備は、来ない。

 ルイエルドの使用人は、主により階級が定められている。頂点に立つのは家令。ルイエルドに代わるこの屋敷の主とも言える存在だ。その下に配属されるのが七人の執事。それは、執事によりそれぞれが統括する部門が異なる為である。

 ティアの統括する部門は人に関すること。警報装置の配置、警備の配属、巡回ルート。どれもティアが決める事だ。

 そして、警報装置が一切鳴らずに、刺客がここまで侵入している。導かれる結論は、一つだけ。

 

「ティア・アコナイト!!」


 狐目の執事が叫ぶ。それは憤慨であると同時に、裏切り者の正体を周囲に知らせる警鐘であった。

 刹那、膨れ上がるように執事の周りの空気が白む。一秒も経たぬ内にその空間からボコボコと沸騰するように氷が湧き上がったと思えば、投槍の形状を成し即座に刺客へと飛んだ。

 ホール中の注目が、串刺しにされ凍り付く刺客に集まる中。壇上の二人の眼に、互いに決意が宿る。

 向けた指先の周囲に蜃気楼が纏わり付き、大気に僅かな渦が生じる。

 理外の力にして、常なる理。

 人はこの力を巧みに道具とし、強き種族から人類を護り抜いた。その名も、魔法。


凍て槍アイス・パルチザン

屈折リフレクト


 執事の表情が微かに歪む。一瞬、ほんの一瞬彼女の姿がぼやけたのだ。

 だがその理由を究明する時間は無い。目の前に裏切者は居る。となれば、最速で穿ち全力で屠る以外に選択肢は無いのだから。

 生み出され、即時に射出させる氷の槍。

 魔力により押し出される槍は、通常では有り得ない程の速度で切っ先はトップスピードに達し、ティアの下へと飛来していく。

 だが、当たらない。

 ティアのすぐ横を通り抜け、氷の槍が舞台袖に消えた。奥で壁に激突したのか、凄まじい衝撃音が着弾を執事に報せた。

 彼女が用いたのは簡単な、光を曲げる魔法。

 それは執事の視界を歪ませ、本来存在しない場所にティアの虚像を作り出す。


偽光フォール・フラッシュ


 次に攻勢に出るのはティア。

 不意打ちには失敗した。なら、自分の土俵に持っていくのみ。

 掌から生じた魔法を浴びせると、狐目の執事は思わず顔を背けた。同時にティアは深く踏み込み、腰に佩いていた剣を抜き放つ。

 魔法には系統が存在する。それは、剣における流派のようなものだ。

 複数の系統を極める事の出来る者も居るが、それらはほんの一握り。基本的には一人一つ、運が良ければ二つまで。

 リリーは炎を、グレイプは結晶を、眼前の執事は氷を。そしてティアは、幻術を。彼女の魔法に攻撃能力は無い。だからこそ、執事を無力化するには接近戦を仕掛ける他無い。

 執事はすぐに体勢を立て直し、同じように剣を抜こうとしていた。

 ティアが用いたのは幻の閃光を見せる魔法。

 故に、光が及ぼす身体的な影響も、執事には一切無い。

 魔法戦が白兵戦に移ろうとしている中、会場には既に混乱が満ち切っていた。

 ティアが手引きした刺客が会場に乱入している。ある者はピッチフォーク喉を貫き、包丁は肩口に深々と突き刺さり、投石が眼窩に虚ろな空洞を空ける。各々が各々の武器で、貴族たちを出来る限り無惨に殺している。

 逃げ惑う貴族らと、逃げる者から殺していく刺客たち。

 憎き貴族たちに恨みをぶつけられる絶好の機会。そして、血を浴びる事による興奮。それだけで、刺客が殺戮に走る理由には十分過ぎた。

 全てティアの計画通り。

 ティアが考案したルイエルドの暗殺計画は以下の通りだ。

 警備の配置とルートを熟知したティアが、外部の協力者に情報を流す。協力者は全て、ルイエルドに大切な者を奪われた被害者たち。そしてその中でも、己が全てを棄ててでも報いを受けさせたいと願う者たち。

 三カ所の出口に配置した刺客により逃げ道を封じ、一部は地上への出口を塞ぎつつ侵入する。

 屋敷で働く人間の一部も彼女の作戦に賛同している。何人かは廊下にて、漏れ出た貴族を殺す役目を担っている。

 目的は封じ込める事だ。貴族が逃げる事により屋敷全体の警備レベルが上がることを遅らせる。侵入者だけに対応されれば、ティアたちにまで警備が届くことは無い。だが、もし貴族が逃げてしまい刺客の目的がルイエルドだと分かれば、警備がこの場所に殺到することになる。

 最終的な目的はルイエルドの殺害、可能であれば拘束だ。拘束が目的なのは、最大限甚振って殺す為。それを望む程の恨みを抱かねば、そもそもこの計画に参加しないだろう。

 だがこの計画には二つ程大きな問題があった。


「っ……!」

「くっ……」


 幾度も刃と刃が打ち鳴らされ、しかし互いに命まで届かない。

 問題の一つ目。この執事を、この場の少ない刺客だけで無力化しないとならないと言う事。

 ティアは優れた魔術師であるが、その魔法に攻撃能力は皆無だ。幻術でルイエルドを欺くことに特化している為、剣の腕が優れているという訳ではない。対して眼前の執事は剣と魔法両方を高い技量で使いこなす、執事の中でも指折りの実力者。おまけに彼の魔法は致死性が高く、剣と魔法どちらも侮れない。

 脚を狙った剣閃を執事が掬い取るように弾き上げる。狐のような細い眼が、見極めるように少し開かれた。

 そして感じる、あり得ない魔力の高まり。


 ――――〈伝播する降霜フロスト・リプルス


 詠唱の直後、大きく薙いだ一撃を受けた執事の剣身が徐々に白く染まる。と思えば、痛々しい棘の如き霜が剣身にへばり付く。

 驚きに一歩遠退くティア。

 通常、白兵戦の最中に魔法は行使できない。

 剣を振ると肉体的に疲労するように、魔法を行使すると精神的な疲労に陥る。言うなれば、人体において使う箇所が全く異なる技術なのだ。歌いながら本を読むような行為。そう易々と出来るようなものではなく、出来たとしても片方の集中が著しく低下するだろう。


「クソ……」


 つまりこの執事とティアの剣の練度は、それが可能な程にかけ離れている。

 剣を大きく押し付け、間合いを回復させる。

 不幸中の幸いか、唱えられた魔法は直接的な攻撃魔法ではない。剣戟により剣身から剣身に冷気を伝わせることで、相手の身体に冷気を浸食させる魔法だ。

 長期戦はよろしくない。決めるならば、短期決戦。


「ふむ、騒がしいと思えば」


 背後でゆっくりと、椅子から立ち上がる気配がした。

 有り得ない。有り得る筈が無い。

 昏睡の魔法はティアが扱える中で最も、効果時間の長い魔法だ。魔法により深い眠りにつかせ、余程の事が無ければ意識が戻ることは無い。ティアと同程度の術師であれば話は別。同程度の魔力を高めれば簡単に抵抗できる。だが、ルイエルドは剣で名声を轟かせた元軍人だ。ティアの魔法を抵抗する術は無い筈。

 きっとこれは幻聴。そんな希望的観測で振り返る。

 残念ながらそれは、夢幻では無かった。

 厚い筋肉に覆われた屈強な肉体は、ティアよりも頭二つ以上高い長躯だ。肉体を晒したその姿は、貴族礼服を気崩したと言っていい程ではない。そんな彼が、首を回しながら面倒臭そうに剣の柄に手を掛ける。

 鯉口を切る。鋼の輝きに混じり、極彩色の光が漏れ出ている。魔法の付与された剣だ。


「やはり貴様か、ティア・アコナイト」


 この計画において、ルイエルドの拘束を絶対の目的にしないのには理由がある。問題の二つ目にして、最大の障壁。

 ファインスト王国きっての剣士であるルイエルド。彼が、昏睡に対処出来た場合。

 じりと後退する。右手側には剣に冷気を宿した執事と、左手側には目覚めたルイエルド。

 想定外に執事の実力が上だったこと。そしてルイエルドがまさかティアの魔法をレジストしたこと。想定外の事態が二つ重なり、ティアは絶体絶命の危機に直面していた。

 最後の手段だが、策はある。

 ティアは懐に手を忍ばせ、入っていた紫水晶の小さな棒を握り締め、手折った。


「はーほんとトーシロ。計画グダグダじゃん」


 絶叫に紛れて声が聞こえた気がしたが、それは違和感なくすっと消え失せた。

 視界の端で二人を捉えたまま、今も尚混沌の支配する会場に目線を移す。

 入り込んだ刺客たちはごく少数。それも今は、予め配置されていたルイエルドの警備兵を相手取っている最中だ。その上、ティアが配置したよりも多くの警備兵が配置されており、刺客一人を相手に数人の警備兵が交戦している。

 逃げ惑う貴族らを盾にしているからこそ何とか戦えてはいるものの、とても救援を呼べるような状況ではない。

 ハッキリ言って、計画は殆ど失敗と言ってもいい。

 だからこそこの二人を、ティアは一人で無力化する他無い。


「クソ……出来れば拘束で済ませたかったんだけど――〈蜃気楼ミラージュ〉」


 幻惑を身に纏う。自分の姿を常に不確かにすることで被弾を防ぐ魔法。至近距離で見られれば簡単に看破されるが、無いよりはいいだろう。

 言葉も無く、最初に仕掛けるのは執事だ。


「シッ!」


 左から右の方向に。腹を開かんと横に薙がれた剣を、一歩下がることで避ける。また後手に回ってしまった。時間が経てば経つ程不利になるのはこちらだと言うのに。

 切り返されるだろう刃を見越し、左に大きく振りかぶりながら大きく踏み込み急接近。

 剣の軌跡に残っていた冷気が肌を蝕む中、ティアは剣を振らずに肘で執事を大きく突き飛ばす。

 間合いを回復すると同時に、執事を再び剣の間合いに釣り出したのだ。


不可視アンシーン


 剣を振るいながら魔法を掛ける。

 執事やルイエルドとは異なり、ティアの剣に技術は無い。ならば、そこに魔力を足すだけだ。執事が体勢が崩れよろめく中、彼に振るわれた刃が煙のように消え去る。並の剣士なら防ぐ術は無い。

 ただ、執事は並の剣士では無かった。


「フッ!」


 よろめきながらも上段に構えた剣を勢いよく振り下ろす。同時に、ティアの手元に強い衝撃が迸る。姿勢、目線、空気のゆらぎ。それらだけで、執事は剣身の位置を読み切ったのだ。

 撃ち落とされた剣が床に触れる前に引き戻す。

 今度攻め立てるのは執事の方。

 まるで旋風のような連撃が、ティアの急所を狙って放たれる。

 頸を狙った横振りを下がって躱し、切り替えした袈裟斬りを剣を上段に構え弾き上げる。ティアの表情が罅が入るかの如く歪んでいく。辛うじて躱せる、防げる。だが、反撃には至れない。

 執事の全ての攻撃は素早く、それでいて全てに死が纏わり付く剛剣だ。その上、打ち鳴らされる毎にティアの身体に伝わる冷気によって、既にティアの手には耐え難い痛みが激しく警鐘を鳴らしており、満足に剣を振るえるのも両手で足りる程だろう。


 それでも、まだ。


 薄雪の上に打ち捨てられた、肉の塊を見た日を思い出す。

 一糸も纏わぬ女の身体。そこに艶やかさを一切感じないのは、身体中に深く刻み込まれた生傷のせいだろう。

 身体の外側から中心に掛けて、深く広い傷が目立つ。

 剥離した表皮の下には赤黒い筋繊維と、膿のような黄色が見え隠れしており、留まった蝿が忙しなく触覚を動かしていた。

 手の甲や胸部、腹部に顔はまるでペンキを塗りたくったような昏い青紫色に変色しており、一番変色が酷いのは顔、取り分け頬の部分。

 身体は細く、貧しい村の生まれであってもこれ程貧相な身体にはならないだろう。そんな少女に付いた傷が打撲痕ばかり。それも、少女を少女たらしめる、女性特有の部位を中心に。この絶対王政下のファインスト王国において、その意味が分からないティアではなかった。

 憐憫が誘われ、せめてもの思いで土を被せようとした時だった。

 姉妹喧嘩の時に付けてしまった、妹にしか無い筈の耳の切り傷に気付いたのは。


「まだ、まだだ!」


 か弱い女が吼えた。

 ティア・アコナイトは背負っている。

 貴族に娘を弄ばれた父親の恨みを、恋人を奪われたいたいけな青年の憤怒を。身体中に生傷を負い、性病を含む複数の感染症に身を蝕まれ、襤褸雑巾の如く棄てられた亡き妹の想いを。

 執事の大きな踏み込み。喉元を狙う彼の突きを防ぐ術は、今のティアには無かった。

 死ねない。悪を、摘み取らない限りは――。


「!?」


 それはまるで、天使が鳴らす鐘のような音色だった。

 凄まじい勢いでフィレナイフがティアの視界に飛び込むと同時に、切っ先が執事の剣の腹に命中したのだ。

 運命、因果,、定め事、巡り会わせ。

 恐らくは刺客の誰かの手から抜け落ちた物だろう。集めた刺客は素人も同然。狙って当てられるような人間がいる筈が無い。だからこれは完全な偶然。運が良かった、それだけだ。

 とは言え一秒にも満たない刹那の逡巡の中、脳内に様々な言葉がよぎる。

 そして、命中したナイフにより逸れた剣先がティアの耳朶を斬り裂いた時、彼女が確かに幻聴を捉えたのだ。

 悪を、滅せよと。


「あぁぁぁ!!」


 咆哮と同時に剣を引き、踏み込みに合わせて思い切り剣を突き出す。

 切っ先は執事の腹部を貫き、確かな感触が剣身から手指へ。耳元で苦痛と吃驚の入り混じった声が漏れた。

 そのまま腕を横に思い切り薙ぎ、燕尾服を切り裂きながら剣を抜き放つ。

 ピタリと、空中で剣を止める。てらてらと光を受けて真紅が刃を伝い、彼女の指をなぞっていった。流派も何も無い、切っ先で敵を捉えた構えだ。

 まだ敵は、残っている。


「……剣の腕はそこまでと聞いていたが」


 ツヴァイヘンダー。一般的にそう呼ばれるルイエルド卿の愛剣は、ティアが持つそれよりも遥かに剣身が長い。

 赤、青、緑の輝きが宿る剣身には、様々な魔法が込められている。戦場において敵の騎兵を馬ごと斬るという荒業を為した、彼の異名の由来となった剣。剛剣のルイエルド。ギルフェル戦役の英雄、ファインスト王国の名将だ。


「滾るなァ……えぇ? ティアよ」

「ふぅ……」


 両手剣を片手で構え、ルイエルドが構えを取る。

 上がった息を無理矢理いつも通りの呼吸で整え、恐怖を抑える。死への恐怖はある。だが、眼前の敵に対する恐怖は無い。あるのは復讐を成し遂げる強い恨みと、悪を滅するという使命感。


多重幻影マルチプル・ファントム


 空気が揺らぎ、ティアの虚像が生まれる。

 自分の幻影を複数生じさせる魔法だ。強力な魔法だが、魔力の消費も精神力の消耗も大きい。そう何度も使える魔法ではない。ルイエルドは王国南方剣術の達人。悔しい事に、受けに回って無事で済むような相手ではないだろう。ならばひたすら攻めあるのみ。


偽光フォール・フラッシュ


 まだ彼にこの魔法は見せていない。

 ルイエルドが仰け反り、偽物の閃光と同時に走駆する。

 副なる目的としてルイエルドの拘束を掲げていたが、それは全てがティアの目的通りに事が進んだ場合の話だ。こうして正面から対峙してしまった以上、殺さず捕える等という生温い事を言ってはいられない。

 喉元を狙って突き上げる。

 剣術において突きは、最も危険な攻撃の一種だ。

 躱しにくく、受けにくく、威力が高い上予備動作が少ない。最早拘束を棄て、確実に殺す為の攻撃。

 甲高い金属音が鳴り響いた。


「ふむ」


 ティアは知らない。

 ミュリーア流、通称王国南方剣術。

 遥か昔の剣士ミュリーアが発祥とされる、大陸でも名高い剣術流派の一つ。

 清流の如しとも言われるその剣。澱みの無い受けを基本とし、敵の勢いを利用した剛力を得意とする攻防一体の剣だ。

 つまり、強い攻撃を繰り出せば、その分手痛い反撃を受けることになる。


「つっ!」


 高速の突きがティアに迫る。瞬きの間に三回、彼女の眼では捉えられない程の速度、威力。突きを受けた幾つかの虚像が消え去り、同時に三色の光を消え失せる。

 多重の虚像の影響で、ルイエルドはどれが本当のティアかを見破れてはいない。だが彼はこう嘯くだろう。ならばその全てを、切り伏せてしまえばいい。

 集中していたからか、ティアの眼でも今度は予備動作が視えた。そして魔法で生み出した偽物の自分が、三度斬り刻まれる瞬間も。


 ――来るッ!――


 剣に宿った三色の光が戻り、再び閃く三度の剣閃。壇の木材も、壁の大理石も、悉く切り刻む神速の斬撃。


「ぷはっ」


 高速の斬撃を凌ぎ、息継ぎのような時間が一瞬で過ぎたと思えば、再び斬撃が三つ閃く。

 三枚卸ドレス・フィレット。高い魔力の籠った斬撃を三度連続で放つ、魔法の込められた魔法剣だ。魔力を流し威力を上げる武器はありふれているが、これ程特異な剣は無い。

 この剣は魔力を均一に流すのではなく、敢えて波を付けることにより威力を跳ね上げさせている。つまり数秒ごとにこの剣は、鈍と業物に切り替わる。

 好機は見えている。

 この剣は魔力を殆ど流さない一瞬、銀程度の硬度しか持たなくなる。ティアの鉄のロングソードであれば、打ち合って圧し折るのは容易。猛禽の翼さえ奪ってしまえば、ルイエルドは家禽にも等しくなる。

 息吐く暇も無い三連撃を、後退しながら弾く。

 分かってはいるものの、その翼を捥ぐのがどれ程難しい事か。

 三連撃で体勢を崩され、体勢を回復する間に剣の魔力が快復する。こちらの攻撃準備が整った時には、再び魔力の斬撃が三度飛ぶ。

 剣を折る暇なんて無い。息をするだけでも精一杯だ。

 最後の幻影に肩口から刃が入り、靄のように消え失せる。やはりと言ったところか、ルイエルドレベルの相手にただの幻影は効果が薄いか。ティアは歯軋りする。

 輝きが消え失せると同時に、一往復半の銀色の軌跡。辛うじて剣で受けるが、馬ごと断つとも言うその剛剣相手では、受けたというよりかは崩されたという方が正しい。

 やはり後手に回っていても勝ち目はない。


「……!」


 剣を振ることを諦め、動体視力に意識を集中させる。

 来る。そう確信した瞬間には少し遅い。刃の向き、ルイエルドの視線から割り出す狙われた箇所はどれも致命傷ばかり。

 痛み対する不安。死に対する恐怖。

 だが、革命を遂げるティア・アコナイトの使命感が、それらを悉く取り除く。


「なっ」


 半身を捩り、最小限の犠牲で致命傷を避ける。

 虹色の軌跡が腹を、顔を切り裂いていく。芯を捉えれば致命傷。だが、芯を逸らせば即座に死ぬような箇所ではない。

 灼熱が迸り、深紅が舞う。灼けるような痛みが襲うが問題無い。否、問題があってもティア・アコナイトは止まらない。


「はぁぁぁ!!!」


 弓のように引き絞った突きが放たれる。

 ティアは一人の村娘だった。

 なんてことの無い、ルイエルド辺境伯領の僻地に存在する小さな農村。一切好きでもない硬く黒いパンを食べ、時折混じる獣肉を悦びとする。

 人に向けて剣を振るったことは愚か、鍬すらも振り下ろしたことの無い守られるだけのか弱い少女。母親を失った家庭で、母でもあり良き友でもあった姉を愛していた少女。

 瞬きの暇も無い。

 只の一撃、されどこの突きは至上。

 彼女の覚悟が、決意が、使命が。剣の柄に手を添えて、彼女の殺意を一つ上の段階に押し上げたのだ。

 だからこそこれはティア・アコナイト史上、最も速く最も強い一撃。


 ✱✱✱


 勝った。

 集中状態により極限まで引き延ばされた時間の中で、へイエス・ゼン・ルイエルドは嗤う。

 眼前に迫る鋭い切っ先。深紅を纏いつつ鈍い輝きを放つそれは喉を見据え、直撃すれば落命は例外なく免れない。

 しかし、それでもルイエルドは嗤う。そこにあるのは確信。勝利への確信だ。

 確かにティアが防御を棄てた時は驚いた。このか弱き少女に、これ程の事をさせる決意があるとは。

 だが甘い。三枚卸はまだ一回分の魔力を残している。

 恐れを棄てた一段階上の攻撃。とは言え、半人前がようやく一人前になっただけだ。軽く弾き上げ、反撃を見舞うだけで済む。

 欲望の神の微笑みを、幻視するような感覚に陥る。


「――――!!!!」


 氷の刃が、ルイエルドの幻想を貫いた。

 瞬時に汗が吹き出し、柄を握る指が震える。鳥肌が茨のように立ち、思考が真っ白に染め上げられていく。

 余裕、驕り、高まる自尊心。

 先程まであった筈の感情が全て消え去った。代わりにある感情は、たった一つだけ。

 走馬灯のように記憶が過り、その感情の名を思い出そうとする。

 それは、外を歩いていて初めて怒り狂った野良犬を見つけた時の。それは、訓練で初めて真剣を受けた時の。それは、戦場で初めて猛将と謳われる他国の将と一騎討を挑んだ時のもの。

 理性を獲得した人間でさえ、逃れる事の叶わない根源的感情。

 その名は、恐怖。


「――はぁ……っ!」


 纏わりつくように重苦しい空気を短く吸い、逃げ出したくなる身体を必死に縛り付ける。

 眼球がギョロリと忙しなく動き回り、恐怖の原因を探す。それを見つけるのに、大して時間を要さなかった。視界の端に彼はその発生源を見つける。見つけたと言うよりかは、消去方でその発生源だと決め付けた、と言う方が正しいだろう。それ程までに、それは異彩を放っていたのだから。

 言い表すならそれは、黒い点だった。

 毎朝毎晩歩く廊下に不可解なものが落ちていた時のような、白パンを噛んで突如酸味を感じた時ような。いつも通りの日常に紛れ込んだ、異質過ぎる違和感。

 それは、幼い少女の形をしている。

 絹のように光沢すら放つ夜空を織ったような漆黒のローブで顔を隠し、色素の薄い金髪のサイドテールに、片手にはフィレナイフ。

 今まで何故気づかなかったのか。何故今この瞬間になって、気付くことが出来たのか。

 答えは簡単。気付かされたのだ。

 これ程いとも容易く気配の操作を行い、このような場所にあの服装で潜入することの出来る実力だ。こうして特定の人間にだけ強く感じさせる等造作も無いだろう。

 このようなことが出来る人間を、彼は一人しか知らない。


 ――もし上手く誘い込む事が出来れば、私達はこの王国の裏で動く上で最も邪魔な存在を消せる――


 走馬灯が、よく知る男の言葉を一つ拾った。

 市場に流したヴィエルジェ・ルージュは餌だ。たった一人の女を、王国の影なる牙を誘き出す為だけの。

 その結果を確認する前に革命が起こってしまったが成し遂げた。遂に、ルイエルドは捉えたのだ。

 そうだ、きっと彼女こそ。


「ふくろ……!!!」


 ティアの突きが胸の中心を貫いた。

 心臓に熔鉄を流し込まれたかの如く、心臓を中心として灼けるような熱が全身を駆け巡り、痛みという形で身体中に足跡を振り巻く。黒い少女に気を取られ、本来集中すべき眼前の敵が意識から抜けていたのだ。一瞬、気配を表すだけで、彼女はルイエルドを殺した。

 成程。王国の影なる刃、梟とはこれ程までに。

 視界から色素が失せていく。

 熱が身体を巡ったかと思えば、次の瞬間訪れたのは凍て付くような極寒。悴んだ時のように、四肢の感覚が消えていく。喉を駆け上った血液が、どろりと口から漏れ出る。まるで血液自体が脈動を続けているかのように、弱々しい鼓動が五月蠅いほどに脳を揺らした。

 最早痛みは無い。

 目に映る光景が瞬く間に白飛びしていく中、彼は未だ存在感を放つ黒い少女に視線を向けていた。

 ファインスト王家の懐刀。その剣身の形を、頭に叩き込むように。

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