第8話 ルイエルド辺境伯領の革命について

 レイピアを手繰り、使用人の一人を刺し殺す。

 葡萄の粒を、歯で食い破るような何かが破れた感覚が腕を伝う。それが、切っ先が心臓を刺し割った感覚だと気付いた頃には、眼前の使用人は死んでいた。

 蹴り飛ばす事により死体を除け、アイビーは今も尚勢いの衰えてきた奔流を見据える。

 ルイエルド邸を出てすぐ、正門を抜けロンデイルまでの道。逃げ惑うのは貴族と、刺客を追う使用人の何名か。

 使用人の内何人かは刺客に扮した娘たちと現在も交戦しているが、ある程度はそのまま刺客を追わせねばならない為加減はしているようだ。無論使用人は、アイビーの周囲にも取り囲むようにして陣取っている。

 眼前で同僚を刺し殺したアイビーに恐れを抱いているのか、一気に間合いを詰めようとはしない。それでも、じりと少しずつ彼ににじり寄り包囲を縮めていた。

 ルイエルド殺害事件。それを劇とするならば題名はそう、神託の乙女。

 リリーと共にロンデイルに訪れたアイビーは、既に潜伏していた蔦の劇団より情報を共有。そして、ルイエルド辺境伯に極端な殺意を抱く人間が大勢存在する事を知る。

 それによりアイビーが書いた脚本だ。概要は至極簡単。

 ルイエルド辺境伯に対して殺意を抱く人間に、様々な物を提供するだけ。

 まずは交流をする場所を。

 スカーレット家は各都市に様々な物件を所有している。無論表向きは別の個人の物、にはなっているがその持ち主はスカーレット家の手の者である。

 そして計画を。

 ティア・アコナイトが抜擢されたのは、単にルイエルドの情報を握っているからというだけではない。彼女は幻術にかけては一流の類。それに、人を先導する能力に秀でている。

 大事なのは実行に至るまでゆっくりと、逆鱗をなぞるように殺意を逆撫でして煽り限界まで高める事。最後に情報と、武器を提供すればダムは勝手に決壊する。

 そして、時を。

 ラ・レザンにより貴族が大勢ルイエルド邸に訪れ、その警護の為に使用人の警備は手薄になる。襲撃に際して、これ以上のタイミングは無いだろう。

 起こしたのは小さな革命。だからこそ、神託の乙女。


「お姉さん手貸そうか?」

「……いらん」


 話し掛けてくる自分の影をあしらい、アイビーはレイピアを構える。

 影に潜むような隠密は、彼以外の誰にも認知されていないようだ。流石はジェーン・ドゥ、と感心する暇は無いが。

 娘たちとは違い、蔦の劇団は戦闘能力を持ち合わせた集団ではない。変装、隠密、諜報を専門としており、アイビーもどちらかと言えば戦闘は苦手の部類である。

 だからこそ、ある程度使用人を逃がしつつティア・アコナイトを追跡する使用人を撃退するという役目はアイビーでは少し力不足が否めない。

 その保険がジェーン・ドゥではあるのだが。


「だがお前、そもそも戦えるのか?」


 ジェーン・ドゥと会うのはこれで二度目。

 隊長とは言うもののまともに任務をこなしている様は見たことが無く、一度会った際の役目も、計画がいくつか失敗した際の保険としての役目だった。故に、彼女が実際に戦闘している様は見たことがない。

 それに起因しての不安だったが、ジェーンは微笑みと共に返す。


「あらあら、お姉さんはこれでも隊長任されてるんだよ? あんまり舐めないで欲しいな」

「言葉だけでは信じられんな」

「おっと、その手には乗らないよぉ? お嬢から緊急時以外手を貸さないように言われてるんだ。澄ました表情が崩れるのが見たいんだって」


 振るわれる剣を、レイピアの剣身で滑らせていなす。同時に、剣先は敵の腕をすり抜けて頸動脈を突き刺した。

 レイピアを血が伝う前に抜き放つ。

 一人が倒れた隙に、もう一人の剣が迫っていた。

 アイビーは剣の腹にレイピアの剣身を強引に打ち付けて、軌道から自分を外す。鉄が軋む異音が強く響き、レイピアがしなる。


「雑だねぇ」

「手を貸さないなら黙っていろ……っ!」


 剣を弾いた相手を思い切り前に蹴り飛ばし、間合いを回復させる。

 その間に近付いて来ていた相手にレイピアを横薙ぎに振るう事で距離を保ち、更にもう一人が振るう剣を半身で躱して避けた。

 前髪の束の幾つかが銀色の軌跡に触れ、彼の頭から落ちる。

 一連の動作で、誰ひとりとして殺していない。依然、劣勢。

 とは言えアイビーが自身に与えた役目は時間稼ぎ。勝利自体が目的な訳ではなく、生存に重きを置けば問題なく事を進められるだろう。

 ティア・アコナイトはルイエルドを殺した容疑者であり、犯人になってもらわねばならない。故に娘たちの多くはティア・アコナイトの護衛。そして、リリー・スカーレットの補佐に出ておりこの乱戦に加わっているのは少数だ。

 その事は織り込み済み。だが一つ目算が外れたのは、予想以上にルイエルド邸の使用人は練度が高い。

 ルイエルドは大貴族という性質上私兵の戦闘の記録が少ない。だからこそ、一般使用人の戦闘力は目算で算出するしかなかった。

 フェルメル、ティアと卓越した技術を持つ相手がいることを加味し、少し低めに設定してしまったのが外れた。敵は予想以上に実力がある。


「くっ!」


 向かってくる相手に突きを繰り出すが、難なく弾きあげられる。

 相手が剣を戻すよりも前に横蹴りで剣の腹を打つ。体勢を立て直し、背後から斬り付ける剣を歯を食いしばりながら半身になり躱す。

 刃が肩口に軽く食い込み、表面の肉を軽く抉り取った。


「予想外って言ってくれればお姉さん手を貸すのに」

「いや……脚本通りだ」


 リリーが暗殺に成功し、離脱するまでまだ少し掛かるだろう。

 この陽動はティア・アコナイトの身を守るものであると同時に、リリーに目を向けさせないものでもある。

 だからこそ、彼の役目はもう少し続く。

 刹那、高まる魔力を感じ取り、アイビーはなりふり構わず横に跳ぶ。直後アイビーのいた場所を抉り取る様に、巨大な結晶の塊が通り抜けた。

 魔法による襲撃。

 事前に仕入れた情報を加味すると、当て嵌まる敵は一人しかいない。


「へぇ」


 重厚な、大地の底から唸るようなバリトン。

 ルイエルド邸には七人の執事と、それを取りまとめる家令が一人がいる。七人はそれぞれがルイエルド邸の業務を統括しており、強力な護衛でもある。

 その内の二人は、幻術を専門とするティア・アコナイト。そして、水を専門としていたリエール。今はアイビーに置き換わっている。

 残る五人は百発百中の弓術士であるウィス・スモーキー。氷の魔法を専門とするジン・グレース。ヴォルカは補助魔術の使い手で、精神魔法を得意とするラム。家令のフェルメルは剣術において並ぶ者はいない。

 そして彼はグレイプと同じように、結晶魔法を主とする執事。


「テキール」


 すらりとした長躯の男が、ゆっくりとこちらに歩み寄る。

 彼は周囲で今も尚戦闘を繰り広げる使用人と、刺客に扮した娘たちを一瞥しつつ、少し離れた場所で魔力を高めながら止まった。


「裏切者を追ってたと思ったら、まさかもう一人いたとはね」


 おどけたように手を広げるが、決して近付こうとはしない。

 その判断は正しい。レイピアを手に持つアイビーは一見剣士であり、テキールは魔術師。テキールも潜入中のアイビーの事は認知している事を考えるに、彼は魔法での戦闘が始まると思っているのだろう。

 だが実際の所アイビーは一般的な攻撃魔法程度しか扱えない。こうして距離を取られると、アイビーには手も足も出ない。

 それを悟らせぬように、アイビーは必至に思考を巡らせる。


「意外か?」

「そうでもない。そもそも、本当に忠誠を誓ってる人間がいるかも怪しい人だ。僕だって、裏切るかさっきまで悩んでたよ」

「今は違うのか」

「まぁね。お給金、多いしさ」


 これ以上話すことは無いとでも言うように。テキールは静かに手を掲げ、手の平をアイビーに向ける。

 魔力の高まりを確かに感じる。

 どれだけ早く駆けても、この距離では魔法が達する方が早い。

 選択肢は、無い。

 アイビーは、最も使いたくなかった保険を切る事を決める。


「悪いが」


 くすりと、背後に忍ぶ影が嗤う。


「アドリブで頼む」

「はぁーい」


 刹那、黒い液体が足元に満ちた。

 アイビーの背後から零れ落ちたそれはアイビーの、尚も交戦している娘たちの、そして眼前のテキールの足下へも。

 液体のように薄く伸び広がるそれは影だ。

 さも、月の明かりを雲が覆い隠すように。大地に光すら呑み込むような漆黒の影が走り、薄く包み込んでいく。

 だがその事に他の者らが気付いた様子はない。

 黒い影がテキールの眼前で、蕾のように膨れ上がる。ゆっくりと、蕾は徐々に花開いていくように形を変え、やがて完全に人の形を取った。

 言葉で形容するのならば、黒い女だ。


「誰だ……お前」


 現れた影にテキールが困惑を露わにしたのも無理はない。

 彼女はスカーレット家の影である娘たちが、「旋風」の長。彼女のことを知っている者はいない。否、いる筈がないのだから。

 すらりと延びた四肢に、ふわりと揺れる鴉の濡羽の長髪。黒いロングブーツには、薄く伸ばされた金属が鱗のように貼り付けられている。太ももを包み隠すのは黒いストッキングだが、薄手の生地はその下にある彼女の白い柔肌を透けさせている。

 黒革のホットパンツにも同じように、鱗のような鎧が。腰に佩くのは例えるのなら小さいフランベルジュであり、炎のように揺らめく独特な形状の剣身を持つナイフが提げられていた。

 身を包むのは黒い肌着。ぴっちりと浮かび上がるそれは彼女の引き締まりつつも豊満な身体のラインをくっきりと浮かび上がらせて入るものの、黒革の艶のないジャケットがそれを僅かにぼかしている。全てを覆い隠す黒いマントはひらりと風に靡き、彼女の美しい黒髪が伸びたかのような錯覚を抱かせる。

 顔には、黒曜石の無骨な仮面。一つの巨大な岩石から切り出されたのだろうそれは、細かな凹凸が月明かりを乱反射し一秒前とは異なる表情を見せていた。


「な、消え!?」


 ジェーンがふらりと身体を揺らしたかと思えば、今度は真っ直ぐテキールに向かい歩き始める。

 まるで、白昼街道を歩くような何気なさ。敵の前だと言うのに、彼女には焦りも恐れも何一つない。

 本来ならば牽制の魔法でも放つ場面。そうでなくても、敵がまっすぐにこちらに歩いて来ているのだ。何かしらの対応を取るべきだろう。

 だが、テキールはそうしなかった。正確には、出来なかった。

 彼にはジェーン・ドゥが、見えなかったのだから。

 彼女はブーツを鳴らしながら闊歩し、その最中でナイフを抜き放つ。月光を受け眩しい程に剣身が輝くも、その冷たい光でさえ彼の視界には映っていない。

 いとも容易く間合いを詰め、彼女はナイフをテキールの胸に沈めた。

 ぬらりと、命の欠片が刃を伝う前に彼女は手早く抜き取ると、血を懐から取り出したハンカチで拭い取り、音も無くシースへ収める。


「は?」


 困惑を露わにテキールが胸の孔を押さえるのも束の間、歯を赤黒く染めながら膝を突き、血に倒れ臥す。

 残ったのは佇むジェーンただ一人。

 彼女にとって戦闘という概念は無い。

 彼女にとって人の意識等街道を歩く度に見かける日向に過ぎず、容易く避けられるものなのだから。

 彼女がテキールを殺した事に気付いた周囲の娘たちがそれぞれ、一瞬にして決着を付ける。

 アイビーの目からでは推測でしかなかったが、やはり彼女たちは意識的に手加減をしていたらしい。その速さたるや、手加減と呼べるものでもなかったのだろう。


「さて、あたしたちの仕事は終わりかな?」

「ふぅ……助かった。感謝する」


 溜息と共にレイピアを収め、周囲を確認する。

 見るに、娘たちが見逃した使用人は数名程度だろう。それならば、彼女にとってはさしたる問題ではないだろう。

 それに例え執事クラスがいたとしても、彼女には何名か娘たちによる護衛が付いている。例え名の無い隊員でも、ティアを逃がす程度ならば容易い。


「それ程でもないかなー」


 ふらりと彼女の身体が揺れたかと思えば、再び気配がアイビーの背後に戻る。振り返っても彼女を視界に捉えることが出来ないのは、アイビーに認識から外れるように動いているからなのだろう。

 彼は先程までの浅い理解が深まると共に、スカーレット家への畏怖が強まったことをひしと感じた。

 月光を見上げ、アイビーは屋敷の方向に目線を向ける。

 脚本の失敗を疑ってはいない。今日も彼女は、優雅に闇を舞っているのだろうと、お得意様に想いを馳せたのだ。


 ***


 ティア・アコナイト率いる刺客たちは、捕縛することを恐れて即座に撤退。

 駆け付けた執事や使用人たちが地下一階に集う頃には、既に裏切者の執事の姿は無く、現場に遺されていたのは徐々に呼吸が小さくなっていくルイエルドの肉体だけだった。

 使用人たちは即座にルイエルドを最上層、執務室まで彼の肉体を運ぶ。家令は医療に長けた執事と侍女の二人を伴い執務室に消えた後、その後使用人たち全てに執務室の入室を禁じると同時に、何人たりとも執務室に通すな、という命令を下した。


「……」


 ルイエルド邸五階。そこには、現在殆どの使用人が集まっていた。執事、侍女、従者、家政婦、料理人、庭師に至るまで。まるで執務室に立ち塞がる壁のように、ルイエルドに仕える過半数の使用人がそこには。

 何故そこにいるかも分かっていない者ばかりだ。実際に知っているのは家令のみであり、察しているのが家令に追従した執事と侍女の二人。その他は、本当に何も知らずに執務室のドアを塞いでいる。

 彼らが守る部屋には、誰もいない。

 使用人等は執務室を守るべき最後の砦と解釈しているが、実際には少し異なる。何故ならそこは、道だからだ。

 三種の魔法陣を起動し、初めて現れる階段。その先の刻印された転送を経れば、薄暗い通路がある。

 湿り気のある石煉瓦の壁に、黒いマーブル模様の大理石の上に敷かれた深紅のカーペット。煤と、血の足跡で汚れたそれが続く先。廊下の先には何がある。当然、壁だ。

 ただ、何の変哲も無い壁とは行かない。それは、カーペットの下に刻まれた「偽物イミテーション」の魔法陣による壁だ。

 その奥こそ、家令と主であるルイエルドのみが知る部屋。今となっては家令と主、執事一人と侍女一人の計四人のみが知っている場所となったが、その場所でへイエス・ゼン・ルイエルドは現在進行形で治療を受けていた。

 そう、彼はまだ生きている。


「ん?」


 そんな中、剣を携えた侍従の一人が違和感に首を傾げる。

 現在屋敷は厳重警戒。既に屋敷中に襲撃者の報は知れ渡っている。この場所にも、撤退した刺客が引き返して突入してくるかもしれない。

 そう気を張っていたからこそ、彼は気付けたのかもしれない。


「誰……だ」


 警戒の為、構えていた剣先が揺らぐ。

 雨が降るように、風が吹くように、さも当たり前のように最上階への階段を上る影が一つあったのだ。

 吹き出た鮮血のような深紅のドレス。まるで海月が海に漂うように揺れるその下から、浮き上がる身体の線は暴力的なまでに蠱惑的だ。この昏い屋敷内、手燭の灯りだけが頼りの深夜で太陽のように燦然と輝く黄金の髪。

 編み込みが後頭部を横に走り、それを留めるのは黒いリボンだ。編んだ髪の下に螺旋を描くロングヘアが垂れ下がり、風も無いのに彼女の美しさを演出するように揺れている。まるで、肉食獣を誘うかのような髪型は、俗世ではハーフアップと言う。

 ドレスが揺れる度に、視覚的かつ直感的な女性性が目に飛び込んでくる。

 男を誘い逃がさぬ蟻地獄のような、顔を覗く深淵を思わせる窪地。霊峰の如くせり上がり、つんと上を向いて張った二つの肉丘。

 美と言う言葉を初めて思い付いたのは、きっと彼女を見たからだろう。

 全ての美を集め、束ね、それでも尚彼女の顔には至らない。わざわざ秋波を送らずともそう確信出来る程の美貌が、赤水晶のヴェネツィアンマスクの下からでも容易く感じ取れる。

 滑らかな曲線を描く腰も、スリットから覗く氷の彫刻のような脚も、柔らかさとしなやかさを同居させる細腕も、じゅくじゅくに熟れた唇も何もかも。

 幻痛すら生じさせるような、上品で、凶暴で、瀟洒で、過激で、優雅で、野蛮な。全身の毛が逆立ち、肉欲が身を貫き、脳が打ち震える程の圧倒的な美の極致。


「あ……」


 剣が手から零れ落ちる。

 眼前に立つは明確な侵入者にして、具現化した美。だと言うのに、侍従の男は敵意をすっかり失くしていた。

 見惚れているのはこの侍従の男だけではない。

 この階層の、彼女の姿が見える全ての者が、彼女の本能に訴えかける美を目の当たりにして動けない。


「あ?」


 刹那、男の視界が反転する。

 それでも眼前の美女は揺るがない。男は敵である女を食い入るように見続けて、緩やかな浮遊感に身を包まれて、床と衝突してようやく気付く。

 あぁ、自分は、首を刎ねられたのだと。


「て、てき――」


 刃がハイヒールに引っ込んだ音がカシャと鳴ると同時に、倒れるようにして女が踏み込む。

 肉薄。叫ぼうと声を発そうとした別の男に、息も掛かる程の距離に顔が迫った。

 彼は今、このファインスト王国の民がどれ程渇望しても、どれ程大枚をはたこうとも手に入れることの出来ない体験をしている。リリー・オウル・スカーレットの顔面をこれ程近くに拝み、吐息を浴びるという体験を。


「サービスは楽しんでくれたかしら」


 腹部に当たる氷の如き硬く、冷たい感触を感じたと思えばもう遅い。

 踏み込みと同時に拾い上げた先刻の男の剣の刃が腹を切り裂き、リリーは極上の体験の料金を徴収する。

 呆気無く倒れる男。リリーはそのまま剣を投げると、軌道上に居た侍女の喉を切っ先が貫いた。

 何人たりとも言葉を発することは叶わない。

 彼女が現れそして今まで、五秒さえ経っていないのだから。

 リリーは瞬時に集団の中に躍り出、両手を軸のようにして独楽のように両足を回転させる。

 幾らリリーとは言え、女性の蹴り程度に殺傷能力を持たせることはできない。人間の急所を蹴り抜くことで一生まともに生きる事の出来ない身体には出来るものの、言葉を発する間もなく殺す等という事は不可能だ。

 ただ、案ずることは無い。

 ハイヒールの爪先に力を入れると、踵と爪先より刃が飛び出した。満月のような円を描く軌跡が、四人の頸動脈を切り裂く。


「あ、あぁ……」

「いやっ」


 十秒だ。

 僅か十秒。両手の指を折って数える間に、七人もの人間がこの世を去った。

 使用人たちの脳より第一に優先すべき命令が剥離し、代わりに恐怖が満ち満ちる。最早彼らの間に、敵に対処するという考えは、残されていなかった。


「てきしゅ――」


 僅か数人の、執事だけを除いて。

 一人の執事の口腔をナイフが刺す。夜の王たる梟の前で、声を出すこと等叶う筈もない。


「いいわよ、相手してあげるわ。光栄に思いなさい」


 退屈だから。とでも言いたげに侵入者の女は呟いた。

 執事の一瞬だけの叫び――声を発し切ることは出来なかったが――が効いたのか、使用人達の顔より僅かに恐怖が消え去り、使用人たちが各々の武器を抜き放つ。剣、包丁、槍にナイフに枝切り鋏。

 女はヒールで足元に落ちていた剣の柄を力強く踏み付け、弾き上がった剣を掴んだ。


「――……ただ、簡単に私の相手が務まると思わない事ね」


 刃が手燭の光を反射する。同時に、二人の首が跳んだ。

 女により素早く振るわれた刃に反応できず、頸を失くした身体が斃れる。ただそれが床に激突するよりも疾く、彼女は走駆していた。

 崩れ落ちる最中の侍女から手燭を奪い取ると、リリーは迫った料理人の眼に蝋燭を強く押し付ける。熱で柔くなった蝋燭が潰れ、蝋燭を差し込む為の真鍮の針が眼球を、その奥の脳を貫いた。

 鮮血が夜を彩る薔薇のように噴き上がる中、手から零れ落ちた包丁はリリーの手に渡り、傍らに居た執事に振るわれる。

 甲高い金属音が鳴り響く。鉄が削れる臭いと、剣身に籠る熱。

 振るわれた包丁を弾き上げた執事の吃驚が表情に現れ、舞い散る火花により冷徹な表情で梟の瞳孔が収縮した。

 リリー・オウル・スカーレットの、最も恐ろしい点は何か。

 スカーレット家に仕える娘たちの間で、度々雑談の種として議論されることがある。

 隠密という点において確かに彼女は超一級品の技術を持つが、娘たちの練度も高い。ジェーン・ドゥ等と並ぶ隊長格ともなれば、リリーに勝るとも劣らない実力を有している。

 戦闘力に関してもだ。

 例えば娘たちの長女隊である「夕立プリュヴィオーズ」は、暗殺を専門とした部隊である。

 それもリリーのように事故や事件に見せかけることで人一人を消し去るようなものではなく、圧倒的な武力を武器に蹂躙する、ただ殺す事に重きを置いた隊。対人での戦闘に限るが、彼女等の武力は並の冒険者を軽く凌ぐ精鋭中の精鋭だ。末端の隊員一人であっても、正面から戦闘すればリリーでさえ叶わないだろう。

 隠密能力に関しては、旋風に勝る相手はいない。特に隊長のジェーン・ドゥは、その気になればリリーでさえも彼女の存在を知覚出来ない。

 ならば彼女の最も秀でた能力とは。

 執事の吃驚は当然だ。その包丁の一振りには、女性の膂力とは思えない程の威力が込められていたのだから。

 反動で執事の腕が弾き上げられる。

 剣の戦闘において相手に大きな隙を見せた彼の状態は、敗北の予兆。


迸るソーリング――


 慌てて唱えられる魔法よりも、リリーは素早く手を返し刃を腹部に深々と突き刺す方が早い。力が抜け落ち、零れ落ちる剣の柄は吸い込まれるようにリリーの手へ。


「十三」


 振りかぶる事無く投擲された剣を、庭師は顔の前で構えた剪定鋏で辛うじて凌いだ。

 巨木が倒れたと紛う程の衝撃に手を振るわせながら、鋏の刃の隙間に美から転じて死の化身となった女の様子を窺う。

 だが、居ない。彼女は既に、庭師の足下に居るのだから。

 リリーの掌底が柄が交差した部分を撃ち抜く。重ね合わされた刃と刃が頸に当てられ、頸動脈が引き裂かれる。


「十四」


 落とされた鋏で首を断ち切り、折れた眼鏡のフレームが脳を突き刺す。懐中時計で首を締め上げ、裁縫針が心臓を刺した。

 この話題は娘たちの間で何度も起こるが、その度結局は一つの結論に行き着く。

 人間は存外に脆い。

 それも、人間の手に掛かれば尚更脆く儚いものだ。

 例えばペン。本来は溜め込んだインクを一定の量で少しずつ吐き出す事で、文字を書くことを目的とした道具だ。だが尖った金属のペン先は突き立てれば人間の皮膚を容易く突き破る上、突き立てた場所によっては命に関わる重傷を負わせられる。

 例えばハンカチ。濡れた手を吹き、詰まった鼻をかむ小さな布だが、喉に巻き付けて締め上げればれっきとした凶器へと変貌する。

 手燭も、眼鏡も、懐中時計も、裁縫針も、靴も布もボタンも木の枝も道端に転がる石ころでさえも、見方を変えれば人を傷つけることの出来る道具になるのだ。ただ人々は、そんなこと思い至らないだけで。

 リリーは違う。

 身の回りの物を瞬時に武器と認識し、扱うことの出来る判断力と冷静さ。一切の情も無い冷徹な仕事ぶりに、ありとあらゆる武芸も少し習うだけで本質を理解できる肉体能力に聡明さ。

 彼女の恐ろしさとは、常にありとあらゆる選択肢を有する、彼女という人間自体。

 優秀だからこそ梟なのではない。

 その強さが、賢しさが、美しさが。彼女を生まれながらにして梟に仕立て上げたのだ。だからこそ誇るべきだろう。この五階に集まった面々の中で唯一、リリーの二撃目以降を防いだ執事は。


「なんなんだよお前はッ!!」


 リリーの一文字斬りを、軌道上に剣身を置くことで防ぐ。

 彼女の剣は基本的に二の太刀入らず。良く言えば圧倒的な威力を誇り、悪く言えば後先を考えない攻撃的な剣だ。振るわれる剣に全ての重心を加える事で、柔な剣なら砕く事も出来る。

 対する執事は剣術も何も無い、防御のみを目的とした構え。

 当然ながら衝撃を受け流す事は出来ず、剛剣をまともに喰らい執事がよろめく。


「何、ね」


 弾かれた剣を引きながら、ヴェネツィアンマスクから声が零れる。

 騎士同士の一騎打ちであれば名乗りも当然だが、彼女は正体を隠す暗殺者。その質問の答えを、リリーは持ち合わせていない。

 常に守っていては勝ち目がないと判断したのか、執事が一歩踏み込んで太腿を狙う突きを放つ。

 完全に防御を棄てた一撃。命のやり取り、という面で考えれば悪手だ。が、侵入者の対処としては妙手と言えるだろう。

 確かに、彼女が振るう剣は攻め一点に重きを置いた型。守りに欠けると言うより、彼女が現在振るう剣は二度振るう事を前提としない。リリーの攻めを受ける事無く攻め続ければ、リリーのペースがいずれ乱れる。

 だが、振るう型を変えればいい事。

 瀑布の如き剛剣は、清流を思わせる柔剣へ。

 剣先が横から、執事の剣を掬い上げた。

 ゆっくりと、彼女は剣を持ち上げる。剣の腹が彼女の頬にピタリと付く。

 首を傾げた彼女の首元に彼女の剣が。それを挟み、執事の剣がリリーの剣に刃を削り取られている。

 奇しくも今、彼の剣は今夜最もリリーの命に近付いた。


「斬るなら、ここよ」


 下を向いた半月を描き、流麗な銀色の軌跡が執事の腋から侵入し、右腕を断った。顔が苦痛に歪み、縊られた鶏のような声が漏れ出る。

 彼にとって最も不幸であったのは、相手がリリーだったと言う事だ。

 彼女の強みは手数の多さ。古今東西の武芸を学び、彼女はそれを独自の物に仕立て上げた。攻めに長けると思えば、守りに長けた型にもなる。彼女に勝つ方法があるとすれば、彼女が対処できぬ程の技を最初に見せるしかない。

 だが彼にとって最も幸福であったのも、相手がリリーであると言う事だろう。

 彼女は無惨な殺戮者ではない。冷徹な暗殺者だ。

 切っ先が再び執事の頭上で半円を描き、袈裟斬りが頸へと落ちた。彼が苦しんだのは、精々十分の二秒と言った所か。


「二十三……」


 真紅の絨毯の上で、艶やかな美女は一つだけ息を漏らした。

 付いた砂埃をぽんと叩いて落とし、手に持つ剣をその場に落とし棄てる。鋼の塊は床と打ち鳴らされることは無く、肉と激突し鈍い音が響く。

 本来この階層に絨毯は無い。ならば彼女の足下を埋め尽くすのは何か。それは、広がる血溜まりと数刻前まで人だった肉の塊。

 鏖殺だ。警備兵に一切叫ばせること無く、彼女は一瞬にして使用人らを殺し尽くした。

 これ程殺しても、決して疑われる事は無いだろう。大勢の刺客が忍び込み、ルイエルドを含めた貴族と使用人を殺したのだ。この程度の死体が転がっていたとして、不思議な事ではない。

 そして実際、この事件を調査することになる後の者らはそう判断する。


「遠ざけて」


 暗闇が解け、人の形を成していく。グレイプがコロコロと口の中で硬い物を転がし、リリーの隣へと歩み寄った。

 彼女の命令に従い、グレイプが手拍子をするように両手を合わせる。

 そしてゆっくりと手を広げると、今まで何も無かった手の中に、紫色の光が姿を見せた。


伝播す紫石英アメテュストス


 グレイプの足下から光の粒子が迸り、廊下の至る所に小さな紫色の結晶が生える。

 彼女がぱんと手を叩き、手の中に生じた光を叩いて潰す。直後水晶が瞬く間に成長していき、壁を形成しリリーとグレイプ。そして、執務室へのドアを覆い隠した。

 グレイプの固有魔法オリジナル伝播す紫石英アメテュストス

 自身の周囲。もしくは事前に魔力でマーキングした場所に水晶を生やし、好きなように操る。ただ魔術的には同じ物として扱われる為、一つの水晶に何らかの形で干渉をすればその他全ての水晶に影響を及ぼす。

 例えば、彼女が絶えず口の中で転がす水晶の球を噛み砕けば、その全ては初めから無かったかのように消え失せる。

 

「さて」


 魔法を行使し始めるグレイプを傍目に、リリーは発せられる音に構う事無く執務室の扉を開ける。

 当然ながらそこには誰もいない。がらんと静かな広い部屋が広がり、天井に上がった階段。

 ジェーン・ドゥは別の作戦行動中だ。その上、魔力の偽装はリリーの不得手。だが考えるべきだろう。この屋敷に押し掛けた侵入者が、わざわざ偽装までして先へと進むか。


〈――〉


 リリーが両手を掲げる。

 それは、魔法ですらない魔力の高まり。だが、彼女の目的にはそれだけで事足りる。

 偵察の際、魔力を偽装して階段を起動させたのは、魔法的な警報装置を発動させない為である。警報の発動如何を問わぬのならば、装置を起動させるのは造作も無い。

 要は、誤作動を引き起こせばいい。

 すうと下がっていく天井の一部を前に、リリーは一切の表情を変えない。

 まだ標的を殺せてはいない。彼女の目的はまだ、達せられていないのだ。


 ***


 広い部屋の中に、小さな暖炉と木の丸テーブルと椅子。

 火は消えてから久しく、炉室内には燃え切った炭も灰も無い。椅子は埃こそ被ってはいないもの、席に付いている者は誰もいない。

 部屋全体に地下特有の冷たさと湿気が重たい布団のようにのしかかっており、温かさが灯っているのは、部屋の奥に設置された天蓋付きのベッドのみ。

 暗く、重い,まるで牢獄のような雰囲気が立ち込める部屋。が、家具や調度品の見た目が違和感を演出させていた。

 椅子の背もたれには、まるで翼を広げた天使の如き黄金の意匠が施されている。細やか装飾は作り手が一流の職人であることを容易に知らしめ、純金により作られたそれは圧倒的な値打ちを示す。

 炉室に「残火エンバー」が刻み込まれた魔法陣のある、大きな暖炉。丸い机は一枚板から削り出されており、部屋の各所に飾られた調度品は王族が有していてもおかしくない品だ。

 ベッドの大きさに関しては、そこらの貴族の邸宅に設置されている物を優に凌ぐだろう。

 まさに、財をふんだんに扱った豪奢な部屋。

 奇妙なことはもう一つ。

 この部屋には、ドアという物が存在しないのだ。

 天蓋付きベッドの向かいに、ドアがあれば自然だろう窪みが壁にあるだけ。上部には小さな銀色の鈴が取り付けられており、魔法的な繋がりが壁の中に続いている。だが、ドアらしいドアは存在しない。まるで閉じ込められているかのようだ。

 確かにドアとはそもそも、部屋とその外部を遮断するもの。であれば、この窪みもドアの役割を果たしていると言えなくもない。偽物の魔法により宙に描かれたそれは、どれ程近くで見ようとも壁そのものだが触れても実体が無い。暖簾を潜るよりも容易く、その先に行くことが出来るのだ。

 唯一人の気配があるのはベッドの近く。

 一人の男が、荒い寝息を立てながらベッドの上に横たわる。上半身は胸を締め付ける包帯以外は裸で、下半身はベルト付きのパンツ。包帯にはぐっしょりと血が滲んでいる。下に敷かれた白い絹のシーツも、彼の血によってぬらぬらと真紅に染め上げられていた。

 尋常ではない出血量だ。当然ながら、彼は無事と言える状況ではない。

 そんな彼を必死に癒そうと試みるのが、ベッドに周りに侍る三人の使用人たちである。


「容体は?」


 家令が冷たい声を放つ。

 さらさらとして肌触りの良さそうな、金属の糸のような鈍い銀色の髪を後頭部で一つに束ねた麗しい男だ。切れ長の眼に、小さくも高い鼻。少し先の尖った耳は、彼が只の人間ではない事を示している。

 唇は色素も厚さも薄く、全体的な顔立ちは端正でありながらも顔のパーツはすっきりとしており、巨大なキャンパスに水絵の具で描いた風景画のような印象を抱かせる。そんな、美しい男だった。

 ただ表情は明るくない。

 人差し指の第一関節を唇に沿わせるように、顔に手を当てて深い思案に暮れている。

 その様は何かを憂慮している。よりかは、何かに対しての苛立ちを隠しているような表情だ。腰に佩いた剣に手を置いているのは、警戒の糸を未だぴんと張っているからか。

 家令、フェルメル・ブランチェスの冷たい声に、男の様子を確認していた女中が首を横に振った。

 男の治療を執事と侍女に任せつつ、家令は二人に聞こえぬように舌打ちする。家令の権限で二人をこの場所に連れて来てはいるが、彼に医療の知識は毛ほどしかない。ならば、二人の邪魔をするのは良くない。聞こえる場所で舌打ちをしても、彼らのやる気を削いでしまう。

 ルイエルドの状況は良くは無いが、悪くは無い。

 確かに、ティア・アコナイトに胸を刺されたのは致命傷だった。大きな血管を見事に貫いており、出血は多量で少しでも対処が遅ければ死んでいただろう。皮肉にもティア率いる刺客の撤退が素早かったこと。そして、使用人らの迅速な処置によって何とか一命を取り留めている。

 命に別状が無いとは言い切れない。が、このまま何も無ければ殆どの場合無事に意識は回復するだろう。というのが、医者の経験もある執事の言である。


「ルイエルドめ」


 家令とは思えないような発言を、聴いた者はいない。

 フェルメルは二十年以上ルイエルドに仕えるこの屋敷の古株だ。言い換えれば、最も彼に忠義厚い召使、とも言える。

 だと言うのに、彼の言葉には忠誠心の一欠片も無かった。


「――殿下は何を……!?」


 家令が真の主の名を口にした時、劈くような鐘の音が鳴り響いた。

 偽物の壁に上に設置された銀色の鈴が、魔法的機構により激しく打ち鳴らされているのだ。

 屋敷中に張り巡らされた魔法的警戒装置と、物理的な警戒装置。それらの仕掛けは何者かが引っ掛かると、この屋敷の主要な部屋で警報が鳴り響く。家令と執事の部屋、ルイエルドの執務室、そしてこの秘匿された地下にも。

 それが表す事の意味を、知らないフェルメルではない。


「侵入者、こんな時に」


 刺客が去ったかと思えば、立て続けに再び侵入者。それも、このタイミングで。

 微かに、違和感が浮かぶ。

 ティア・アコナイトが率いた刺客は既に去った後。何名か裏切者もいたが、その者らも同じく去った。

 この警報装置は侵入した時に反応するもの。脱出した際に警報装置が作動する事は無く、ティア・アコナイトが去った事により反応している訳ではないだろう。つまり、何者かがこの混乱に乗じて侵入した。

 一体何故。そして、何の為に。

 警鐘がフェルメルの思考を現実に引き戻す。考えている暇は無い。


「私が行きます」


 突如鳴り響いた警報装置に困惑する使用人等に声を掛け、フェルメルは静かに剣を抜く。

 この警報装置が鳴り響いたことは少ない。歴の長いフェルメルでも、鈴の音を聞いたのはこれが三度目である。

 ルイエルドはファインスト王国の中でも最も力を持つ貴族の一人だ。武力という面で見れば、王国随一とも言えるだろう。そのような男の屋敷に侵入しようなど、手の込んだ自殺でしか無いのだ。

 彼が携えるのは、傍目から見ても不思議な剣だった。

 片刃の剣身には冷徹な鉄の輝き。真鍮のような輝きを放つ鍔は小指のように細く長い為、手を守る部品としては少し頼りない。

 切っ先は、不思議な事に存在しない。まるで潰されたように切っ先は丸まっているのだ。

 知る者は少ないが、これは処刑剣と呼ばれるもの。その剣の形状は本来戦闘に扱う物ではなく、主に斬首に用いるものだ。切っ先が無いのは、戦闘に用いない処刑剣では突く機能が必要無い為である。

 だがそれをフェルメルが戦闘用の剣として佩くのは、魔法が刻み込まれているからである。

 魔法剣、省略して魔剣とも称されるそれは、魔法陣と同じように魔法を刻み込んだ武器だ。

 魔剣を作るには、二種類の方法がある。

 一つは、自然に剣が魔法を帯びる形。

 自然環境で放置された、その土地特有の地脈という大地に流れるエネルギーに馴染み魔力を帯びる事がある。他にも、使い込まれた剣は持ち主の魔力を宿すようになるし、精神的な存在が剣を依代とする事もある。

 鉄を切り裂く精霊剣カレドヴォルフと言えば、物語でも有名だろう。

 二つ目、人間が意図して魔法を宿すもの。

 剣の鍛造の過程で、剣に魔法陣と同じように魔法による刻印を施す。それにより、付与された様々な効果を発揮するようになるのだ。

 単に剣の状態を維持する「維持メンティ」の魔法を刻印した量産型の魔剣から、魔力の消費を増やすと共に魔法の効果を高める「加速ブースト」の魔法が刻印された、三度のみ許された神速の斬撃を放つ三枚卸ドレス・フィレット

 そしてフェルメルのそれも、その一つ。

 鍛冶と共に魔法の刻印が出来る職人は数少なく、それ故に魔剣は効果の大小問わず目を見張る程の金額で取引される。

 だが辺境伯へイエス・ゼン・ルイエルド程の大貴族ともなると、魔法の付与した武具を揃える事も難しい事ではない。

 とは言えこの剣は、フェルメルが元々持っていた物ではあるのだが。


「貴方達は続けて下さい」


 幻影の壁に触れると、靄のように壁が揺らいで消え去る。そして眼前に広がるのは、嫌になる程静まり返った、石煉瓦と真紅のカーペットが伸びる長く暗い廊下だ。

 カツカツと革靴を踏み鳴らし通り抜ける。偽装の魔法が再起動し、フェルメルの背後の部屋が消え失せた。

 剣を抜くのは少し早かったか。

 警報が未だ鳴り響く中でありながらも、人の気配がしない廊下を歩きフェルメルは軽く思う。

 この通路に行き着く為の執務室。その前には、大勢の使用人を護衛として配置してある。

 ただ、この秘密の通路の存在を知ると忠誠心が無くなる者――主に女性の使用人たち――も居るだろうと想定し配置を執務室の前としたが、それでもこの場に侵入するには彼らを全員対処する必要がある。

 ティア・アコナイトは確かに優れた魔術師だったが、幻術を得意とする彼女ではあの数の敵を潜り抜けるのはどだい無理な話だろう。現に、執事一人でも苦戦を強いられていたのだから。


「ん」


 フェルメルが足を止める。

 暗闇に目を凝らす。そして、剣を握る手を強めた。

 眼前に延びる暗闇に、彼は何か違和感を感じたのだ。フェルメルは歴戦の剣士。だからこそ、彼は自分の直感を疑う事はしない。

 その勘が、戦場においていつ何時も自分の身を救ってくれた。


「なんだ?」


 彼が信じるその勘が、徐々に警鐘を大きくしていく。

 勝手知ったる秘密の遊び場。家令であるフェルメルであれば、幾度も通った事のある道だ。最早目を瞑っても、望んだ場所に辿り着くことが出来る。

 だが、今この瞬間。まるでこの場所が、全く違う場所のように思えたのだ。


「――」


 勘が最大限の警鐘を鳴らす。

 先程までは直感だったが、今では明確に視認できた。

 ぞわりと、脚の爪先から頭頂部まで電流のような怖気が走った。鳥肌が全身に立ち、ひとりでに指が震え始める。

 深い闇の水底より、何かがこちらへ迫ってきているらしい。それが何かまではまだ分からない。ただ、辛うじてそれが人の姿である事は分かった。同時に、先程まで警報に掻き消されて聞こえなかった音も聞こえる。それはまるで、骨を打ち鳴らす様な乾いた音。

 コツ、コツと規則的に響くそれは、まるで死神が鎌の石突を突く音のようにも聞こえた。そう感じたのは、やはりその身に迸る恐怖の所為だろう。


「――成程」


 ようやく闇より出でし侵入者を視界に収め、フェルメルはその恐怖に納得する。

 血のような深紅のドレスに、精巧に削り出された赤水晶のヴェネツィアンマスク。その下には、仮面を以てしても隠し切れない美貌が滲み出ている。闇には似合わない陽光の如き明るいブロンドヘアは、それ自体が光を放っているよう。

 そんな女が、まるで自分の家を歩くかのようにヒールを鳴らし闊歩しているのだ。

 家令として使用人の顔は、体格含め全員把握している。無論このような女は使用人に存在せず、となれば彼女が侵入者である事は火を見るよりも明らかだ。

 固唾を呑み込む。

 強者にはそれ特有の雰囲気がある。

 それは分析してしまえば、命の奪い合いに対する余裕と精神の弛緩、そして立ち振る舞いより覗く技術によって相手に与えられる印象の事。明確に数値として出るものではない為、過信は良くない。

 だがそれは確かに歴戦の勇士にとって、確かに相手と自分の実力差を測る物差しであった。

 その物差しを基準に考えるのならば、眼前の女は自分では叶う筈もない圧倒的な強者。

 状況証拠は揃っている。

 フェルメルは使用人全員を管理する立場にある。その為、ティア・アコナイトの裏切りは事前に察知していたのだ。油断させるために数を変えはしなかったが、警備の配置を家令の権限で変えていた。にも関わらず、彼女は反逆を成功させた。それはそれは見事な程に。

 そして、数か月前に裏市場に流したヴィエルジェ・ルージュの問題もある。

 あれは元々、この王国に潜むある存在をおびき出す為の餌だった。眼前に彼女が現れたと言う事は、獲物は見事餌に食いついたのだろう。だがそれを、釣り人たるフェルメル等が今の今まで気付かなかっただけで。


「貴女が梟。違いありませんね?」


 返答の代わりか、女はゆっくりと微笑んだ。やはり間違いない。フェルメルはそう確信する。

 下級貴族の間では噂程度だが、ルイエルド程の上級貴族となるとそれが噂ではないと知る事が出来る。

 特に、裏社会と通じているような貴族――上級貴族の中で裏社会との繋がりが無い者はいないが、特に繋がりが強い者ら――ならば、嫌という程実感するが出来るだろう。裏社会で暴れ回っていた者が、気付けば消えているのだから。

 王国には、王家に反目する者を見逃さぬ暗部がいることは明らか。

 そしてその暗部を、貴族らは梟と呼ぶ。


「納得です。同時に驚きもありますね。まさか、王家より最も信頼される五大貴族の一人である貴女が、梟の正体だったなんて」

「……あら、どこかで会った事あるかしら。だとすると、貴方本当はルイエルドの従者ではないでしょう」


 正体を看破された今では隠す意味も無いと判断したのだろう。ピアノのような美しい音色が、声となって耳に届く。奏でられた言葉は最早演奏、フェルメルが今まで聴いたどの曲よりも美しく感じた。

 少し昔、噂として聞いたことがある。

 ファインスト建国にも関わった王国五大貴族が一つ、スカーレット侯爵家。その娘に、この世界で最も美しいとされる女がいるという。

 その美貌は彫刻家に彫刻刀を折らせ、彼女こそ至高の彫刻にして美の結晶であると叫んだ。画家は筆を投げ出しキャンパスを絵の具で滅茶苦茶に汚して、彼女よりも美しい絵画を掛ける筈がないと自ら命を絶った。

 その声はどの演奏者を持ってして唸らせ、宮廷楽長に頭を抱えさせた。現代の音楽では、彼女の足元にさえ至ることは出来ないと。

 今まではただの誇張された噂に過ぎないと笑い飛ばしていたこれらの話が、実物を前にして一気に現実味を帯びる。確かにこれでは、王家に仕える宮廷楽長もお手上げだろう。

 必死になって書き上げ、大陸でも有数の奏者に演奏させた曲が、一人の美女の声に劣るのだから。


「えぇ。ですので、ここで戦闘するのは御遠慮させて頂きたいですね」


 冷汗が垂れる。

 梟は、一切の証拠を残さず事故や第三者による事件に見せかける手口で有名だ。彼女の正体を悟ったフェルメルは、通常であれば生き残ることは不可能だろう。

 だが、フェルメルは本来ルイエルドに仕える従者ではない。

 その上彼が梟を知っていると言う事は、彼がそれなりの上級貴族に仕える存在だと言う事だ。その使用人を勝手に殺せば、梟も余計なリスクを抱える事になる。

 だからこそ、この命乞いは通る筈。

 そして、望んでいた返答は帰って来た。


「いいわよ……――でも」


 今までより少し低い音色が、フェルメルの身体をびくりと震わせた。


「今、私達の生殺与奪を握っているのはどっち?」


 それは無論、眼前の暗殺者だ。

 梟の言葉の意味を咀嚼し、反芻し、そう答えようとした時、彼女はそれを止めるように掌を見せる。


「ならば、私が命を奪わないだけの対価を示す必要があるんじゃないかしら。違う?」

「……いいえ。貴女様の言、まさに御尤もです」


 林檎を買うには銅貨を。竜の卵を得たいなら竜の巣へ。今にも零れそうな命を前に、それを上回る程の多大な代償を。

 等価交換は至極真っ当なこの世界の常識であり、理だ。だからこそフェルメルは、自分の命と釣り合う物を今この場で差し出さねばならない。


「何を差し出すの? 自分の命を買う為に、貴方は何を売るのかしら」


 彼女の問いかけに、フェルメルは永遠とも思える時間を感じた。

 何を差し出せばいい。何ならば捨てられる。いや、切り捨てられる。熟考の末、彼は結論を導き出す。


「へイエス・ゼン・ルイエルドの全てを」

「フッ。使った塵紙を渡されても困るわ」


 こうなってしまった、梟が来てしまった以上、へイエス・ゼン・ルイエルドが殺されることは確実だ。そうなれば、フェルメルにとってルイエルドの情報は彼女の言う通りゴミに成り下がる。ただ、それに思い至らない梟では無かった。


「……で、それだけ? 私としては、貴方を逃がす理由は無いの。それでも、何を売るかぐらいは訊いてあげているのよ。あまり、私の慈悲に甘えない事ね」


 フェルメル・ブランチェスは覚悟を決める。

 彼は忠実な従者だ。であれば、主を裏切ることは死を意味する。

 とは言え従者として、主に情報を持ち帰るのも彼の役目。ここでむざむざ死ぬ訳には行かない。梟の正体を知ってしまった、今では。

 ルイエルドの情報が駄目ならば、こうするより他は無いだろう。今切り分けるべきは、自分自身だ。


「私の腕を、持って行って頂いて構いません」

「……それならば十分ね。貴方の命の値段の代わりとしてあげるわ、感謝なさい」


 フェルメルの腕は何も、純金で出来ている訳ではない。つまり、腕自体に価値がある訳ではない。その腕から生まれる情報にこそ、破格の価値がある。それが分からない梟ではないと確信したからこそ、彼はこの提案を出した。そして、それは受諾された。

 再びヒールの音が鳴り響く。

 ゆっくりと、まるで迫り来る死の如く梟が歩み寄る。

 一歩、一歩確実に。そして次の一歩で――甲高い金属音が鳴り響く。


「何のつもり?」


 ギリと、鋼が削れるような異音が骨を伝わって耳にまで届く。

 梟の頸を目掛け振り抜かれた処刑剣が、彼女がいつの間にか持っていたダガーナイフにより防がれているのだ。

 苛立ちを隠しもしない梟の声が、嫌に澄んで聞こえる。


「ただで売った、となると余計な詮索も生まれましょう?」

「観客のいないこの場所で、私に劇を演じろと?」

「そうは言いません。この劇が、どのような影響を生むかを私は憂いているのです。そう、貴女にも」

「この私に、ね。私ではないわ」


 疑念が集まるのは梟だけであり、彼女の正体たる素性には何の影響も無い。

 それは確かにそうだろう。

 しかし、それでも。フェルメルは興味があった。梟と言うファム・ファタールに。その刃の切れ味に。


「今の私は、へイエス・ゼン・ルイエルドの家令ですので」

「はぁ……」


 溜息の余りの艶やかさに、剣に入れる力が緩む。

 その隙を突かれた。想像を絶する力強い反発を感じたかと思うと、剣が冗談のような勢いで弾かれる。

 女性の膂力では考えられない。強化の魔法を使った気配も無い。つまりそれは、彼女が純粋な技術でそれを為したという事。

 追撃の様子は無い。

 それどころか、彼女は数歩後ろに下がるとナイフを逆手に持ち構える。その姿はまるで、一騎討ちに望む騎士を彷彿させる。今にも名乗りを上げそうだ。

 呼応するようにフェルメルも構えを固める。

 抱いた印象が事実である事を知るのは、僅か一秒後の事だ。


「いいわ、遊んであげる」

「フェルメル・ブランチェスです」

「……梟。それ以上でも、以下でもないわ」


 剣を構える。

 濃密な殺意と恐怖が入り交じり、両名は同時に駆け出した。

 魔法剣には様々な魔法が付与されている。有名な物で言えば、ファインスト王国の王宮たるシャルバラン宮殿の地下に眠るとされる岩斬りの剣カレドボルグ。剣に選ばれし者しか引き抜けぬ代わりに、鋼鉄でさえもバターのように容易く切り裂くと言われる魔法の剣だ。

 ルイエルドの配下としてよく知るのはやはり三枚卸ドレス・フィレット。一度に振れる回数に制限がある代わりに、高速かつ強力な斬撃を放つ事の出来るものだ。そして、フェルメルの持つ魔法剣。頸狩人ムッシュ・ド・グレーヴには、少し特殊な魔法が付与されている。

 空気すらも切り裂く刃が迫りくる暗殺者の頸に迫る。

 ルイエルドの配下は、家令を頂点として次に執事。そしてその他の部下が続く。執事はルイエルドの護衛である以上、執事を取りまとめる家令の実力は当然、執事達を優に凌ぐ。

 王国帝国間にて起こったギルフェル戦争。そこで、ルイエルドが直々に取り立てた傭兵がいる。

 無類の剣の腕を誇り、戦場にて幾人もの将の頸を刎ね飛ばした。ルイエルドは彼を取り立て、護衛とすると同時に忠実な右腕とした。名を、フェルメルと言う。

 魔剣の切っ先は宿った魔法によりさらに速められている。だが、彼女の命には届かない。

 爆ぜるような衝撃音と、耳を塞ぎたくなる程高い金属の軋む異音。

 金切声のような金属音は、金属に強い負担が掛かっている事の証だ。

 負担が掛かっているのはどちらか。只の金属の梟のナイフか、もしくはこの頸狩人か。答えは。


「は?」


 困惑が思わず口に出る。出た元は勿論、フェルメルの口である。

 剣を引き、剣戟を幾度交わしても浮かんだ疑問が潰える事は無い。それどころか、さらに激しく募るばかりである。

 幾度も振るわれる剣が、続けて梟の頸を狙い続ける。

 踏み込み、時には足を引き、腕を振るい腰を捻る。相手は知る限り最も上位に君臨する強者。ただ相手は止まったままであり、動かない的に等しい。その為彼女に対する剣は、今振れる限りの全力だ。

 そして、この頸狩人に付与された特殊効果は、必ず相手の頸を振るわれるというもの。

 力を込め過ぎれば当然、狙った場所には振るえない。剣での戦闘は適当に振っていればいい訳ではない。顔、首、腕、胸、腹、腿、脚、腱等の人体の弱点を狙う必要がある。とは言え撫でるような剣では意味が無い。力を込めれば込める程、腱の威力は跳ね上がる。剣とは究極的には、人を殺すための道具なのだから。

 そこで活きるのが、頸狩人の効果。

 どれだけ力を込めて振るおうと、必ず人体の最大の弱点である頸部に吸い込まれるように命中する。その効果が、どれ程剣との戦闘において強力か。

 自分の体勢、敵の防御、集中、その他諸々。

 戦闘において重要な要素を、この剣を用いる事により自分のみ排除できる。重石を持つ者と持たぬ者。それが同じ近接戦闘において、どれ程のアドヴァンテージを持つかは推して知るべし。

 なのに、だと言うのに。


「――はァっ……!!」


 濁流の如き連撃を終え、フェルメルは大きく後退しながら息を吸う。

 散った火花の数は百を優に凌ぐ。何度も首に剣を振った。只人であれば一個中隊の壊滅すら可能だったろう。だのに相対する梟はダガーナイフ一本。背筋を弓のようにぴんと張り、少しも体勢を変えずナイフだけで全ての攻撃を弾いたのだ。

 そこにあるのは、圧倒的な技量の差。

 魔法を宿した剣でさえ至る事は出来ない、夜の女王の爪の鋭さ。


「独りよがりね。ベッドでもそうなのかしら?」

「戯言を……――!?」


 空間がぐっと引き寄せられ、二人の間合いが縮んだ。正確には、梟の速く大きな踏み込みにより、間合いが一瞬で潰れたのだ。

 慌ててフェルメルが後ろに下がるがもう遅い。剣とナイフでは圧倒的に間合いが違う。

 有効的な間合いを取らねば、頸狩人でさえ十割の効果を発揮できない。そしてこの互いの虹彩の色さえ窺えるこの距離は、梟の間合いだ。


「チッ!」


 突如目の前に刃が浮かぶ。

 いきなり現れたように見えたのは、単にフェルメルが梟の速度を補足できていない為だ。踏み込みの勢いを利用した一撃。逆手で振るわれた首を狙うナイフを、首を傾ける事で辛うじて回避する。

 そこに技術は何も無い。練達した戦士の、純然な反射神経である。

 風を切る音、鉄の香り、刃の閃き。

 濃密な死が音色となってフェルメルの耳に届く。同時に嗤う。甘美な声の、蠱惑的な死神が。

 回避された瞬間の反転。ナイフの軌道が蛇のようにうねる。切っ先が狙うのは致命。


「さっきから頸ばかり。随分好きなようね。だから、私も」


 順手で突き出されたナイフが瞬時に引かれる。下を向いていた刃は横向きに。沿うようにしてそれは、フェルメルの頸へと向かう。


「くっ」


 辛うじて滑りこませた刃が、異音と共に白い火花を散らす。

 返したナイフは川が流れるように再び彼の頸へ。防ぐ術は無い。ならばいっそ、道連れを。迫る刃を無視し、フェルメルは力任せに剣を振り下ろす。

 フェルメルの剣と、梟のナイフは同時に襲い掛かった。梟の得物が頸動脈を喰い破り、フェルメルの剣が襲撃者の頸の、薄皮一枚を切り取る。筈だった。


「チッ」


 舌打ちと同時にナイフの軌道が直角に曲がり、剣の刃に沿わせられた。体勢を瞬時に下げる事で剣の勢いを殺し切り、沿った刃は徐々に力を込められ剣を弾き上げると、梟から流血を遠ざけた。

 浮かんだ疑問に、思考が急速に回転する。

 梟の存在は、ルイエルドが梟に自身の殺害を依頼した処女の血ヴィエルジェ・ルージュが起因している。つまり、彼女の目的は間違いなくルイエルドの暗殺。となれば、次に気が向くのはその手段。

 ティア・アコナイトは確かに反乱の動機を持った人間。ただそれは、雇い入れた時点でその意思を挫かれていた上それが再燃する理由も周囲には無かった。だから危険性は無いと判断し、見逃した。

 理由は単純だ。仲間がいない。

 ティアは確かに優秀な魔術師。だが、戦闘に向いている能力を持っている訳ではなかった。つまり彼女一人で反乱を起こしても、制圧は容易である。

 だが、それは覆されたのだ。

 彼女は手勢を得ていた。同じ復讐心を抱く者達を。絶望に打ちひしがれ、塞ぎ込むしかなかった者達を。何が彼女と復讐者を繋げたのか。この状態に陥ってしまった以上、手引きした者は一人しかいない。

 梟は、目的の為ならばどのような犠牲も厭わない冷徹な仕事人。フェルメルは梟の事をこう分析している。ティアを利用した以上、梟は筋書きにさえ沿っていれば余計な犠牲も厭わないだろう。その犠牲が善人か悪人かに関わらずだ。

 彼はそう判断していた。

 ならば何故。彼女はフェルメルを殺す好機をみすみす逃したのか。

 そのたった一つのやりとりだけで、フェルメル・ブランチェスは気付く。

 この世界には魔法が存在するが、魔法が万能と言う訳ではない。人の傷を一瞬で治す様な魔法は、いくつかの例外を除きこの世界には存在しないのだ。梟はファインスト王国の影に潜む刃。とは言え、彼女とて人の子。受けた傷が即座に塞がる訳も無い。

 梟に傷を負わせれば、梟と言う仮面を被った王国の何者かも傷を負う。

 そうすることによりようやく、気高き猛禽は白日の下に晒される。


 ――否、晒す事が出来る!!――


 梟を狩った者はいない。

 それは、彼の眼前で今も尚命の灯火を狙って羽ばたく彼女を見れば、疑いの余地は無い。

 ただ、もし梟と対峙して勝つ方法があるのだとすれば方法はたった一つ。その答えに今、フェルメルは思い至った。弾かれた剣を膂力で戻す。その最中にも梟の刃は迫り来るが、それよりも早くフェルメルが突きを放った。

 バネのように引き、矢のように放つ。

 リリーは眼前に捉えた突きにやはり舌打ちを隠さない。完全に悟られた。こちらが傷一つ負う事も許されぬと言う事が。

 大きく後退する事で間合いを回復し、頸椎目掛けて放たれた乱暴な突きを弾き上げる。

 鉄が削れ、削りカスが火花となって燃え尽きた。リリーは引き戻される剣を追わず、次撃を警戒し間合いを維持。彼女の予想が的中すれば、恐らくはもう。


「チッ」


 三度目の舌打ちが響く。彼女の予想は的中した。もうこの執事は、突き以外放ってこない。

 尋常ならざる動体視力で剣の腹を捉え、指の関節で弾いて逸らす。間を空けずドレスのスリットを勢いよくはだけさせ、白い雪のような太腿と黒革のナイフシースを露出させた。

 再び剣を引くフェルメルの思考に迷いが生まれる。もう一つのナイフを手に持つのか。はたまた、投擲武器として扱うのか。

 答えはそれ以外。

 剣の戻りと同時にリリーは大きく踏み込む。フェルメルは引いていた刃で撫で切ろうと中途半端に振るが、もうそこに彼女はいない。太く、長い真紅の線が二の腕に走る。


「……成程」


 何故なら、再び間合いを回復しているから。

 ナイフに付いた血糊を払い落とす梟は、肩で息をしながら納得の表情をするフェルメルに何の反応も示さない。

 ジンジンと、打ち鳴らす様な痛みが二の腕を刺している。

 フェルメルは眼前の敵に九割九分の神経を向けつつも、僅かに傷の様子を気に掛ける。

 腕に血が伝う感覚は無いが、恐らくそれは斬れれた直後だから。数秒も経たずに血が流れ始め、意識に死の気配を割り込ませてくるだろう。

 戦場の基準で言えば軽傷の類だ。だが、それが幾度も積み重なればどうだろうか。


「時間を掛けるのは貴女の好みで?」

「いいえ。でも私、勝てるもの以外興味ないの。勝負も、男も」


 弛緩した空気が一瞬にして張られた。梟が大きく振りかぶる。

 投擲を警戒したフェルメルは、大きく下がりながら剣を盾のように構えた。梟はその様子を最後までその様子を眺め、そして消えた。


「なっ」


 困惑が脳内に噴き上がる。暗殺者の中には、戦いの最中に一瞬気配を消す事により敵を錯乱させる技術があるという。その頂点とも言える梟が扱うと、こうも効果的なのか。と。

 完全に知覚外からの攻撃。だからこそ、彼女のダガーナイフを避けることが出来たのは偶然に過ぎない。

 頸を狙ったダガーの斬撃を、鋼を盾にすることで凌ぐ。

 理性が揮発していく。代わりに満ちていく、死への恐怖。力任せに盾にした剣を横薙ぎにするも、既に梟はそこにはいない。ブォンと、何も無い空間に風切り音だけが響く。

 引き延ばされた時間の中、音も無く白指が鋼を撫でる。

 目を疑う暇も無い。だが実際にその光景を目にしていたら、彼は自分の目に映る光景が真実か否か判別できなかったかもしれない。

 梟は、飛んでいた。

 まるで重力が反転したかのように、軽々と飛び上がり彼の刃に手を添えていたのだ。


「約束通り――」


 違和感が肩を中心に走る。

 何が起こったのかを分析する前に、彼は眼前の光景をすぐさま情報に変換する。空中で逆さの姿勢のまま、梟が刃を振り抜いたのだ。それが意味することを、フェルメルは一つしか知らない。

 一拍遅れて熱と、痛みが身を貫いた


「――腕は頂くわ」


 梟の着地。同時に、再び走る違和感。その真実は梟の攻撃のあまりの鋭さ、速さにより、フェルメルの本能が痛みを感じる事が遅れただけに過ぎない。

 二度目の激痛を感じるよりも先に、首の後ろを衝撃が貫いた。

 ケーキを切り分けるように肩口を切り裂き、腕を切り取ったその勢いよりも更に速く、ダガーナイフの柄で意識を刈り取ったのだ。

 視界から色が失せ、急激に黒ずんでいく。世界の音の全てが遠退くと同時に耳鳴りに置き換わり、急ブレーキをかけたように思考が遅くなっていく。

 脚に力が入らなくなり、フェルメルは膝から崩れ落ちる。深紅のカーペットの上に落ちた処刑剣が、鈍い音を響かせながら転がった。

 遠退く意識の中で、梟が手袋を外し蒸れた手を振って乾かす。


「約束は守る。命は奪わないわ」


 その言葉の裏を考えられる程、フェルメルに思考のリソースは残されていなかった。


「命は、ね」

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