第6話 ルイエルド辺境伯領の革命について

 夜。野良猫さえも寝静まる宵闇。

 見張りの私兵しか動かないこの時間に、静かに窓が開いた。するりと給仕服の人影が窓から抜け出すと、身体を振り子のように揺らし勢いのまま屋根の上に上がる。驚異的な身体能力の成せる業を、物音一つ無くこなす。それは彼女が音にも気を配る余裕があるという証明だ。

 三日月を背景に、女の手に赤紫の気泡が湧き上がる。

 それは、結晶。結晶が湧き上がるようにして、手から泡立つようにして膨張し徐々に仮面の形を成していく。レッド・アメジストのヴェネツィアンマスクを着けた女は、王国の影で最も恐れられる猛禽その人。赤百合。又は梟。


「さて……」


 外耳道に生じた紫水晶が小刻みに震えると同時に、空気を切り裂きながら飛来する鳩を察知し、リリーは谷間から取り出したハンカチを腕に巻き掲げる。器用にハンカチの上に留まる鳩。魔物の伝書鳩だ。脚に括り付けられた手紙を解くと、鳩は役目は終えたと言わんばかりにすぐに飛び去った。

 手紙に目を通し、それを谷間にしまい込む。

 雨樋を、窓の桟を、壁の出っ張りを伝いながらスルスルとリリーは中庭に降り立つ。手燭を片手に廊下を見回る私兵を窓越しにやり過ごし、彼女は再び室内に侵入する。目指すは、最上階のとある部屋だ。

 暗殺、と一口に言ってもその手順が毎回同じな訳ではない。暗殺対象の地位、状況によって手段や脚本も変わるのだ。数日前のロウル侯爵とルイエルド辺境伯を比較すると分かりやすい。

 ロウル伯爵は王都に屋敷を構え、大きな力を持つ貴族の一人。ルイエルド辺境伯は無論の事ルイエルド辺境伯領に居を構え、同じく大きな力を持つ貴族。多少の差異はあれど身分は変わらない。ならば違うのは、二人を取り巻く状況。

 ロウル侯爵の屋敷は王都内に存在する。普段から社交会により出入りが容易い上、容疑者が特定されにくく、屋敷内の構造も把握しやすい。社交会であればリリーもリリーとして出入りすることも出来、わざわざ違う人生を用意する必要が無い。

 ルイエルド辺境伯の屋敷は都市ロンデイルから離れた場所にある上、出入りが少なく潜入に不向き。リリーがリリーとして接触しルイエルドの死が発覚すれば、まず疑われるのはリリーだ。王侯貴族の中には、梟の正体を知りながらスカーレット家の睨みにより口を固く閉ざしている者もいる。リリーが一度でも殺人を疑われてしまえば、彼らの蠢動を許す事となるだろう。

 材料が違うならば、調理法も違う。

 谷間から取り出した金属の糸を折り曲げ、窓に差し込む。

 数秒も経たぬ内に小さな金属音が鳴る。娘たちの調べた情報にあった、この屋敷でたった一つだけ魔法的警備が施されていない窓。

 開錠された窓をゆっくりと開き、猫のように音も無く屋敷内に侵入する。どうやら物置小屋のような場所らしい。埃が立たないように注意深く歩き、ドアを開いた。

 廊下の遥か向こうに小さな蝋燭の灯りがあるのを確認しつつ、リリーは炎の灯り目掛けて歩み始める。

 娘たちによる事前の調査の結果、屋敷は計五階建て。各階の行き来には階段を用いる必要があり、昼間は屋敷内の使用人が行き来しているので不審な人物がつけ入る隙は無く、夜間は階段と各階層に見回りの私兵が配置されている。

 一階、階段は屋敷中央に吹き抜けの大階段が一つ。挟むように両脇に私兵が配置されており、発見されず階を上がることは困難だ。二階から三階、四階五階と高さが上がる度に警備が増え警戒が厳重になっていく。まるで何かを隠すように。地下もあるが、あまり使われてはいない様子だ。

 王国では見ることは信じることと言われるように、どれだけ娘たちにより情報の提供を受けても見ることには敵わない。実際に暗殺の為に行動するのはリリーであり、娘たちではないのだ。故に、その為の下見。

 まるで影が動くように音も無くリリーは廊下を進む。

 月光を避ける彼女の歩法は、傍から見れば月光が避けているようにも見える。否、事実そうなのかも知れない。幾ら冷たき月光とは言え、夜の女王を照らすは不遜だというものだ。


 ✱✱✱


 小さな炎が揺らめく。溶けた蝋が雫となって蝋燭を伝い、手燭の中に蝋溜まりを作った。退屈な仕事に欠伸を漏らしつつ、相方が待つ定位置まであと少し。

 ルイエルド雇われの傭兵は楽だ

 報酬は莫大、仕事内容は果実をもぎ取るより簡単。そして退屈。

 ロンデイルは確かに王国の中でも大都市の部類。だが、街の人間の殆どは旅人や商人だ。潜在的な都市人口は少ない上旅人の中には冒険者も含まれており、この近辺は冒険者の活躍により魔物や賊が少ない。

 更に、へイエス・ゼン・ルイエルドは元軍人の武闘派貴族。私兵の練度も高く、傭兵も雇い入れる事で個が持つ軍事力としては王国でも最高峰だ。そのルイエルドの大豪邸に忍び込む賊は、呆れるほどの愚か者か。もしくは。

 階段の脇に辿り着くと、相方の兵士が眠そうな目で立っていた。この階段の脇に立ちつつ、定期的に交代で同フロアを警戒するのが元傭兵の彼の仕事である。やっていることは衛兵のようなものだが、実際はそれよりも数倍楽だ。

 まず先述の理由で、ルイエルド辺境伯の屋敷に近付く者は例外を除きいない。そして例外とは大きく二つ。とんでもない愚か者か、周到な準備を重ねた者か。

 前者であれば対処は容易い。戦力差を理解できない愚者相手、どうとでも処理できる。後者であればそもそも、この傭兵の男一人程度の力では無理だ。当然、ルイエルドの持つ全兵力が動くこととなる。

 と言う事で、傭兵の男一人が活躍する場は無いという事である。


「なぁ、知ってるか?」


 眠気を紛らわせるために声を発する。

 相方がこちらを見て気付いたが、話しかけた理由までは考えていなかった。眠気が誤魔化せれば何でも良かったのだ。

 仕方なく、数秒記憶を弄り取り出したのは最も最近の出来事。


「ロウル侯爵の暗殺」


 相方は呆れを露わにする。


「知ってるよ。メイドが腹を何度も刺してたってやつだろ?」

「そうそれ。いい気味だよ。気に食わねぇ奴が死ぬのは」

「それ、ルイエルドの前では絶対言うなよ」

「わぁってるよ」


 自尊心の高いルイエルドの事だ。そのような事を口走ろうものなら、一瞬で打首である。

 とは言えこの屋敷に仕える者は、ルイエルドが人間的に問題があると知っている。本人さえいなければ、例え執事でも聞かなかったものとして見逃されるだろう。

 血みどろの話はやめだ。男はそう言えばと、屋敷の中で目をつけているメイドの話を繰り出す。


「そういやリュシューちゃんがさぁ!」

「またその話かお前。いい加減話しかけろよ」

「馬鹿、俺なんかが話しかけたら怖がらせちまうだろ? 俺はあの子を遠くから愛でれりゃそれでいいんだよ」

「気持ちわりい」

「それより聞けよ。この前リュシューちゃんが歩いてるの見かけて――」


 ふと、月光が照り付ける廊下に目線を送る。何か生物の気配がしたのだ。だが、当然ながら何もいない。鼠一匹すらそこには。

 気のせいだったかと視線を戻し、再び階段の雑談に戻る。

 男は、男達は気付いていない。その背後の階段を、悠々と上る一人の女がいる事を。

 白と黒の給仕服。夜闇の中では目立つその恰好で、まるで当たり前かのように階段を上っている。ワインレッドのマスクの下で彼女は見張りを一瞥すると、その姿は水に浮かべた墨が溶けるように掻き消えた。

 この世界には明明として魔法が存在する。

 人の身で起こし得る小さな神秘。神の奇跡の、その断片。だが魔法とて一種の力に過ぎない。英雄が使えばそれは神聖なる力だが、梟が扱えば野蛮な殺戮道具に早変わりする。そうなると、人間は魔法には魔法的な防御手段を構築するように。結果、現代において魔法による犯罪の特定は、肉体を用いた犯罪と同程度の捜査が可能になった。

 当然だが、ルイエルド辺境伯邸の魔法的防御は厚い。

 透明化、無音、無臭、破壊活動。どのような魔法を扱っても捜査が可能だ。透明化の魔法で侵入すれば、警備の傭兵たちは当然のように看破できる。無音の魔法を扱っても、重量や熱源を感知して侵入者を探知できる。一度壁や床を壊せば、屋敷中に警鐘が鳴り響く事となる。


 ならば何故、彼女は屋敷を闊歩できる。


 フクロウの翼は、無数の細やかな毛によって構成された羽根が集まって形作られている。その他大勢の鳥とは異なるその細やかさは、羽ばたきにより発生する乱流を抑え、羽同士が擦れて音を立てる事を防ぐ役割を担う。

 リリーはフクロウではない。音の立たない翼は無いし、獲物を空へ連れ去る鉤爪も無い。

 が、リリーにしか無い物もある。

 体重をシームレスに地面に浸透させる脚運びを、振動に共振するように身体に流す重心移動を、衝撃無く地面に脚を付ける技術を。

 何も無いなら筋力で、緻密さが足りないなら技術で、理論で不可能ならば感覚で。人生の全てを暗殺に擲つ覚悟と、影に潜む天稟。それが彼女を、梟たらしめるのだ。

 呆気無く通り抜けた見張りを一瞥し、リリーは自然な足取りで階段を上っていく。

 用心はした。だが魔法的防御も物理的防御も厚いルイエルド邸も、彼女にとってはドアノブを捻る程度の障害でしかなかった。ただそれは客観的に見れば、針の穴に毛羽立った糸を通す様な技。

 三流は暴れ回るだろう。この厳重な警備を抜けるために何も考えず騒ぎを起こし、正面突破で切り抜ける。

 二流は意味を持って暴れるだろう。例えば、誰かが暴れている間に他の者が忍び込むようにして。一流は、無事に忍び込めるかもしれない。ただ、この屋敷内に施された数々の罠を全て避け切れるとは限らない。

 では、その上は。

 踊るようなステップで、リリーは廊下を音も無く進んでいく。

 気味が悪いことが二つ。

 一つは、時折跳ねるような動作も交えているのにも関わらず、少し踵の上がったキトゥンヒールから一切の音が出ない事だ。靴も、給仕服も、彼女が踏みしめる床も。まるで音と言う概念を忘れてしまったかのように、一切の音を発さない。

 そしてもう一つは、屋敷の管理者の立場でないと分からない。

 彼女はそのステップで、全ての警報装置を回避しているのだ。温度を感知するもの、存在を感知するもの、音を感知するもの、重さを感知するもの。ありとあらゆる物理的、魔法的警報装置をすり抜けて、彼女は悠然と屋敷内を闊歩しているのだ。

 彼女はそのまま何度か階段を抜け、最上階に辿り着く。

 確かにリリーに宛がわれた部屋は最上階に位置してたが、出入り口に見張りが配置されていた。窓から入ろうにも、窓は内側から開ける分には問題は一切無いが外側から開けるには魔法的警備をすり抜ける必要があり難しい。

 さしものリリーも、ドアの前に配置された見張りの目を欺いてドアを潜るなんて芸当は難しい。だからこそリリーのルート取りは、最上階から一度降りた上で再び最上階を目指す事になる。

 今日はその、ルートの確保が目的だ。

 当然だが、歩き慣れた道と初めて歩く道では、歩きやすさが全く違う。トラップの位置、警備の配置、床の劣化、平均的な室温。これら全ての要素を考慮し初めて、リリーによる芸術は為される。

 既にこの時間帯、ルイエルドが執務室に消えることは掴んでいる。ずっと執務室にいるならばいい。問題は、彼らしか知らぬ空間がある可能性。


〈人影無し〉


 外耳道が震える。娘たちによる合図だ。

 さも自室に入るかのように自然な動作で扉を開く。無論その最中、息遣い一つすら音は立たない。

 書斎、兼執務室といったところか

 左側の壁は全てが本棚で、大きさの違うまばらな本が収められている。背表紙には何も記されておらず、装丁も雑だ。推察するに私的な書物なのだろう。無闇に触ることはせず、本を舐めるように見てから部屋全体を見回す。

 屋敷正面の門を、ロンデイルの街を一望できる巨大な硝子窓。それを背にするように茶色い革張りの巨大な椅子と、黒檀の一枚岩の執務机。机上には積み上げられた書類と、インク瓶とペン。

 右側には暖炉と転落防止の鉄柵。部屋の右奥は不自然に窪んでおり、その隙間にすっぽりと天蓋付きの白いベッドが置かれている。当然だが、ベッド上に人の気配はなかった。何もいない。ただ一つ気になる点があるとすれば、微かに漂い甘ったるい残り香。


 ――ニフライル――


 答えの単語を、口の中で噛み殺す。

 麻薬、もしくは媚薬の一種。

 香にして焚くことにより漂う特徴的な甘い香りは。男女問う事無く、ゼロから十へと劣情を引き摺り出す。その需要は主に王国の貴族の中で多く、レッド・リーフに続き王国の裏で広く蔓延している麻薬の一種だ。

 不妊や勃起不全の治療として、少量ならば薬としても使われているのが厄介な点だ。レッド・リーフもそうだが、流通を完全に絞るわけにもいかないために王国も未だ撲滅出来ていない。

 香として焚くのが一般的だが、執務机、棚、窓、ベッド脇。香が焚かれていた様子は無い。

 ともすればこの香りは、何者かがその香りを纏ってここを通った証拠。リリーは何度か強めに耳を叩く。その振動は空気を伝わり、外耳道に根を張るアメジストを微かに揺らす。


〈不明〉


 返答は短い。

 太陽の明るい時間帯から、この時間に至るまで。娘たちが突き止めたルイエルドの行先はここが最後だ。この場所からどこに向かったのかは不明らしい。

 窓の外を眺めると、寝静まった街がある。昼間なら燃え上がるかのように広がる赤レンガの屋根も、ケーキのような白い漆喰も、青々とした大自然も、今や深い蒼のヴェールが優しく覆い被さっている。

 だが、そのヴェールの下から覗く影が一つ。

 街の、少し高い煙突の家。その煙突の影に紛れるように、朧げな人影がこちらの様子を窺っている。

 普通の人間であれば、違和感を抱く事すら出来ないだろう。リリーでさえ凝視せねば見抜くことは難しい。それ程に遠く、それ程に自然。ただリリーが見抜くことが出来たのは、その存在を知っていたからに過ぎない。

 見られてると気付いたのか、人影は軽く頭を下げた。

 よく見れば、視線は煙突の裏だけではない。まだ明るい酒場の店内から、夜風を浴びる通行人から、路地裏の隙間、空き家の窓、森林、厩舎、その他数々。娘たちの監視は厚い。ただ、この屋敷内に潜入している娘たちは、プラム、グレイプ、あと一人の三人のみ。

 外の監視が発見できておらず、屋敷内の三人にも見つけられていない。となると、答えはこの執務室にある。


 ――謎解きね。上等だわ――


 執務室のインテリアをよく観察する。流石に相手は大貴族。ちゃちな仕掛けではないだろう。

 魔法の中には、行使した対象の状態を直感的に理解することの出来る「鑑定」や、物体や生物の熱を感知する「熱感知」。人の行動を辿る事の出来る「辿視」等があるが、魔法的防御を怠るルイエルドでもない筈だ。

 故に、彼女は仕事において滅多に魔法を扱わない。突きより蹴りが強いように、人間と言う生物は肉体的よりも魔法的な能力の方が高い。つまり、警備となると必然的に魔法的防御の方が厚くなる。

 だからこそ、リリーが信じるのは己が身一つ。


「お嬢。勇者に関わってる貴族の動きが少し不穏だよ」


 少し前。このルイエルド辺境伯領に入る前だ。信頼に値する部下の言葉が蘇る。

 冒険者と言う存在がいる。依頼を受け、魔物を狩る者達だ。

 そんな中、冒険者という枠から飛び出し、魔王討伐を志す特筆すべき力を持つ個人が稀に表れる。それらを時折国は拾い上げ、国家予算を注ぎ込んで抱き込む。それが勇者と呼ばれる存在だ。

 表向きは、神の祝福を授かりし国の至宝。が、大昔にファインスト王国で始まり、瞬く間に各国に広まることになった勇者の裏向きの存在価値は、一騎当千の戦略兵器だ。

 この国や帝国における勇者は、王命によって一般の兵や冒険者では対処できない凶悪な魔物の討伐に赴く。緊急時には戦争に赴くことで武力を示し、国家間の取引で威圧することも少なくない。無論、当人に知らされることは無いが。

 簡潔に言うと、他国に対しては人の形をした戦略兵器。自国の民に対しては王国の権威の象徴。これが、勇者と言う存在の大まかな概要だ。そして最近、娘たちによって勇者にコンタクトを取った貴族の様子が少しおかしいのだと言う。


 ――あら。


 粘土のようなあやふやな情報を捏ねる思考を止める。引き出しに手を掛け、だがリリーはすぐに離した。魔法的エネルギーをリリーの柔肌は察知したのだ。魔法は実際に存在するエネルギー。つまりは熱や、風のような自然的エネルギーと同じ。慣れれば肌で感じることが出来る。

 罠の可能性も考えたが、それにしては少し弱い。エネルギーの残滓、と判別するのが妥当。

 一切の音無く引き出しが開く。リリーの推測通り何も入っていない。ただ埃が積もっていないことを考えるに、使われていないという事は無いだろう。ぺたぺたと触ることはせず、じっくりと観察する。そして何かを確信した表情で、彼女は引き出しを半分しまう。

 リリーの推測は正しい。

 この黒檀の引き出しの奥には、三種の魔法陣が施されている。

 一つ一つは何の意味も無い魔法陣。ただそれらが関わり合う事により、一つの魔法的仕掛けを生み出す。この魔法陣は、屋敷内の者が触れて魔力を流す事によって、遠くの仕掛けが動く。そんな魔法陣だ。

 大事なのは、特定の者の魔力以外は受け付けないという事。

 つまり、この場でリリーが魔力を通しても仕掛けは発動しない。それどころか、警備設備と連携して警報が鳴らされる可能性もある。

 個人により異なる魔力の波長を変える事は至難の業で、意図的に変えることの出来る者は一握り。他でもないリリーも、その少数から零れた存在である。


 ――成程――


 続けて仰ぎ見た天井に、僅かな隙間がある事に気付く。

 寸分の狂いも無い長方形の隙間だ。それを確認しリリーは耳を何度か叩く。それは、特定の個人への呼びかけだ。


「ハァーイ、お呼びかい? お嬢」


 リリーが声のした方向へ振り向くと、奇妙な光景がそこにはあった。

 影が、蠢いている。

 幾つもの細長い触手のような揺らぎがまるで蛇の頭のように立ち上がり、徐々に何かを形作っていく。何度か動物の形状を経て、最終的に形を成すのは人型だ。そして、影には徐々に色が差す。

 鱗のような、薄い金属が幾つも取り付けられることにより、光を並べたような独特な光を放つ黒いブーツが膝下までを秘匿する。太腿を覆う黒いストッキングの下には、太腿の白い肌が微かに透けていた。

 蛇のように曲がりくねった、奇怪なナイフがぶら下がった黒い革のホットパンツは、十分に皮鎧の役目を果たすだろう。身体に沿い、臍にもぴったりと張り付く黒い肌着。膨らんだ胸部により隙間が出来た丈の短い黒革のジャケットが見えるのは、黒い金属の糸で編まれた長いマントの隙間からだ。

 全身を黒で包んだその女は、顔にも漆黒の仮面を嵌めている。黒曜石から切り出したような無骨なそれは、波紋のような小さな凹凸は月光が乱反射し無機質な輝きを放っている。目の部分にも、口の部分にも一切の穴が無いその仮面でどのようにして状況を確認しているのか。リリーには皆目見当も付かなかった。

 飛び出した耳は細く、尖っている。森人とも呼ばれる少数民族、エルフの証だ。

 膝裏にまで届く黒髪は、さも夜空を撚ったかのような漆黒。それをマントのようにたなびかせ、女は返答の無い主に小さく首を傾げた。


「えぇ勿論。貴女の力を借りるわよ」

「喜んで。お嬢のご命令とあらば」


 隠密行動の最中だと言うのに、一切声を潜めようともしない。靴音も大きく、まるでカーペットを闊歩する王妃のようである。

 だと言うのに彼女を黙認するのは、彼女への圧倒的な信頼があるからだ。

 十二の隊により構成される娘たち。その次女隊である旋風は、間諜を専門とする部隊。普段はリリーに仕えており、ジェーン・ドゥを隊長に据え副隊長にプラムが配属されている。ただ普段、実質的な指揮官はプラムだ。隊長であるジェーン・ドゥはふらりと現れて、情報をリリーに残しふらりと消えるのだ。

 まともに仕事をせぬ自由人のようにも思える。

 だが、彼女がそのような自由な仕事を許されている事には理由がある。

 子供を率いて戦争が出来るか、雛鳥を連れて渡りが出来るか、それと同じ。影より夜が暗いように、雲より雪が白いように。彼女の前では、どのような見事な隠密であって児戯のように見えてしまう。

 彼女は組織的行動が出来ないのではない。リリーにより、組織的行動を禁止されているのだ。故に、付いた渾名は行方不明者ジェーン・ドゥ。煙の如き女。リリーが配下、次女隊が隊長。


「でも、わざわざあたしを呼び戻し、やらせることはただの魔法仕掛けの操作? 随分余裕があるんだねぇ」

「そう言わないでジェーン。この分野において、貴女に勝る人間はいないのよ」

「ふふっ、お嬢もおべっかが上手になったね」


 微笑みかけたのだろうが、黒曜石の仮面は表情を変えない。嗤うような靴音がただ響くのみだ。

 ジェーンは容易く魔力の波長を変え、仕掛けを動かす。

 ガコン、という一際大きな駆動音が響いたと思えば、天井から折り畳まれた階段が姿を表した。


 ✱✱✱


 無言でリリーを見送り、ジェーン・ドゥは再び消える。

 彼女は練達した魔術師であり、自身の魔法と隠密能力を組み合わせることによりさも影が動くかのように人の認識から外れる事が出来る。

 故に彼女がこうも堂々と廊下を闊歩しても、その事実を正しく認識出来る人間はいないだろう。

 ジェーン・ドゥは最上階から滑るように去っていき、見張りが置かれている地下室への入り口も素通りする。

 娘たちの潜伏により、既に屋敷の構造は把握済み。

 パーティーの空間として用いられるの地下第一階はともかく、第二階は屋敷の地表一階層分よりも広い。とは言え大部分は地下牢と倉庫。そして、ワインセラーがある程度。屋敷部分より重要度は限り無く低く、勿論その分見張りに人数が割かれていない。

 もしこの場所に入り込んだ鼠が大声で会議をしていても、気付く者はいないだろう。夜であれば、尚更。

 地下室。倉庫の一区画に灯る光を見掛け、ジェーン・ドゥはようやく気配を消すのを止める。ぴんと、遠くからでも犬の耳が立ち上がる景色が見えた。


「まさか隊長まで出るなんて……!!」


 カツカツと靴音を鳴らすジェーンに、プラムはすぐに一礼し感服を露わにする。

 黒曜石の仮面のグラマラスな女は、小さな副隊長の礼に片手を振って応えるとすぐに彼女の側に寄る。アイビー、グレイプ、そしてプラムがいる古い木の丸テーブルに。


「あはーご無沙汰だねプラムちゃん。最後に会ったのはいつだっけ?」


 彼女はさも久々に友人に会ったかのように軽い口調で語り掛ける。いや、実際に彼女にとってはそうなのだろう。


「恐らく、ブルメリンでの作戦以来かと」

「あぁーあれか。懐かしいねぇ」


 耳がピクピクと揺れる。感情がこのように顕わになる彼女は、このような大規模作戦になるとよく耳が動くようになる。リリーの役目に立てる事が余程嬉しいのだろう。ジェーンはリリーが可愛がる忠犬を微笑ましく思う。


「それだけの作戦、という事ですか……!」


 ジェーン・ドゥは娘たちの中で唯一、自由行動が認められている隊員の一人。彼女は常に王国内外問わず、至る所に蜚蠊のように忍び込み、得た全ての情報をスカーレット家に流し込む侯爵家の目の役割を担っている。

 そんな彼女が、ここにいる。

 その事実の重要性が分からぬ者は今のこの場にいない。ただ、やり取りを見ていたグレイプの顔は苦い。


「隊ちょー昔話するとながいんスから、さっさと本題行きましょうよ」

「俺はいつまでも話してもらっても構わんがな」

「あはーごめんね仔犬ちゃんたち。お姉さんいつも言われるんだぁ、悪い癖だネ」


 ジェーンのおどけたような口調は、少しだけ不慣れそうだった。

 アイビーが本題を切り出す。

 夜な夜な行われる作戦会議は、情報共有の意味を持っている。リリーはルイエルドの監視対象の為、隙を見て必要な情報だけ伝える。

 まずプラムから告げられるのは各使用人の行動パターン。どの使用人がどの様なペースで廊下を歩き、何処を見張るのか。各人の性格も含めて。

 彼女は見た目、性格、共に人の精神に潜り込みやすい。その為、人に関する情報は常にリリーの右腕たる忠犬の役割である。グレイプにより街と建物の情報が告げられ、ジェーンによりルイエルドの繋がりが暴露された次。アイビーから告げられるのは他でもない、脚本の進行度。


「脚本は極めて順調だ」


 ジェーン・ドゥが不敵に哂う。無論、その表情を窺う事は出来ないが。


「へぇ……流石は蔦の……なんだっけ。ま、君とは末永く、いいビジネスパートナーで居続けたいものだね」

「それは、あの女次第だな」


 嫌味っぽく告げるアイビーに、おどけたようにジェーンは両手を広げた。

 アイビーは作戦に用いる脚本に名前を付け、それを作戦名とする。今回の作戦名は「神託の乙女」、ある女性を中心に据えたものである。

 リリー・オウル・スカーレットは神の手厚い寵愛を受けている。すれ違った人間誰もが振り返る優れた美貌。派閥に所属せずとも貴族社会を渡り歩く優れた頭脳、近接格闘において比肩する者のいない優れた肉体能力。

 だが一つ欠点があるとするならば、彼女は愛されている。愛され過ぎている。どれだけ闇に溶けようと影に身を沈めようと、光が彼女を逃さない。底の無い深みに嵌ろうと、必ず光がその手を取る。暗殺者として目立ち過ぎるのだ。

 ロウル侯爵の一件のように、スカーレット侯爵家として不自然ではない行動範囲ならばまだいい。何とでも言い訳が出来るし、アリバイは作れる。だが、ルイエルド辺境伯領ともなると話は別だ。

 ここは完全な敵地。娘たちの力が及ぶのにも限度がある。故に今回の仕事で、リリーは手を下さない。神託の乙女を指す言葉は、リリーではない。彼女は、後片付けを担うのみ。


「計画通り、ってことは」

「実行日は明後日ですね」


 グレイプとプラムの言葉にアイビーは深く頷く。


「あぁ、ラ・レザンだ。段取りは?」


 少しの間の後、アイビーは身体全体をくの字に折り曲げ、腰に手を当てているジェーンに目線を向ける。何かを訊ねるような視線だ。それも、少しだけ威圧的な。

 降参とばかりにジェーンが諸手を挙げた。


「あー人事はプラムちゃんに任せてるんだ。ねっ」

「はい、例の神託の乙女にはフェンを付けます。リリー様のお傍にはグレイプを、アイビー様のお傍には戦闘力を考慮して隊長を。その他、既に準備も万全です」

「……お前、隊長ではないのか?」

「あははーお姉さんも不思議」


 おどけたような口ぶりに、アイビーは不満げな溜息を洩らした。

 背景も含め、確実に面倒な依頼となる。だがそこにある感情は失敗への不安ではなく、己とビジネスパートナーとの差だった。

 アイビーはリリーの協力者で、所詮は利害が一致しただけの存在。眼前の面々のように、自ら忠誠を誓いたくなる程心酔している訳ではない。ましてや、惚れている等以ての外だ。ただ、惚れているという表現は案外遠くない。

 生ける芸術。彼はリリーの事をそう考えている。

 却って恐怖すら抱く暴力的な美貌や、媚薬等を軽く凌ぎ情欲を誘う仕草もそう。闇という湖面に身体を沈めつつ、それでいて水面下の水掻きすらも優雅にこなす彼女の仕事は、最早芸術の域に達している。

 繊細な色使いと、暴力的なタッチで描かれた最上級の絵画。その芸術性に、アイビーは惚れこんでいた。


「さて」


 ポケットから一枚の似顔絵を取り出し、アイビーはプラムに告げる。

 肩まで描かれている。顔立ちは綺麗で、カテゴライズするならばその美貌は、可愛いよりは美しいに分類されるタイプだろう。金色にも見える瞳は、鋭さと丸さを両立した切れ長のアーモンド形。高く小さな鼻と、結んだ唇は筆で引いたようで小さくも瑞々しい印象を抱かせる。

 少し明るい山吹色の髪は丁寧に整えられており、弱めの螺旋を描きながら腰にまで届く長さだ。身を包むのは慎ましやかなドレス。リリーが普段着るような王国最高峰の物、とは数段劣る品だ。然しその分、素材の味を生かしているとも言える。


「英雄たる少女の道を、切り拓くとしよう」


 動く。神託の乙女を、作り出す為に。

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