第25話 視点3-7
ツバサの家に着替えを置いてきたことに気が付いた。なんとなくそのままにしておくのも落ち着かなく、帰る前に寄ることにした。雲一つない青空が眩しく、日常を彩る綺麗さが不気味に感ぜられた。
ポストの合鍵を取り、玄関へ足を踏み入れる。靴が多かった。女物の身長を高く魅せるために履く不自然なまでに厚底なブーツ。あたしも昔はよく履いていた。奥から、女の声が聞こえる、おかしい、引き返せ、なにか、非常によくない予感がする、けれど奥へと歩を進める。それってヤバくない? あはは。半ば予想していたことではあったが室内でも帽子をかぶったサブカルじみた若い女とツバサが奥の部屋で可愛らしくじゃれており、テレビやベッドやカーテンやローテーブルの周辺には子どもが無秩序に散らかした後のような衣服やお菓子の袋やプリントやバッグ。テレビは点けっぱなしだった。
ああ、そうか、お姉ちゃんいるって言ってたな。ずいぶん若く見えるけどこの女がお姉ちゃんか。
「誰? 親戚のひと?」
帽子女が怪訝そうにツバサへ訊ねる。女の疑問が既にあたしの思考を打ち崩していた。
「いや……」
「ああ、アプリの女か。めっちゃ年上じゃん、何あんた熟女趣味なの。ウケるんだけど」
サブカル女が眉と口の端を不自然に吊り上げて笑う。女が相手を合法的に見下していいことに気付いたときに浮かべる、粘り気のある笑いだった。ツバサは気まずそうに笑っている。
部屋の片隅にはあたしの着替え一式が丁寧に折りたたまれて積まれており、乱雑な部屋の中でそこだけが異質だった。視線を感じたのか女は下着の山の上からブラジャーを掴み取ると、
「わあっ、おばさん巨乳~。これは付けないと垂れますね。子どもとかいるんですか?」
オフショルダーのワンピース越しに自分の胸に当てる。冒涜的な光景だった。
「やめろよ、失礼だろ、てかお前、下品」
ツバサは女の手からブラを剥ぎ取りまた山の上に戻す。
女は急に真顔になり、「ゼミのレポートあるんで~」と言って出て行ってしまった。
二人、取り残される。無音。沈痛。誰もいなくなってしまえばいいのに。
「彼女では、ないから」
「まあうん、そうだろね」
興味なさげにあたしは返す、頭が働いておらず、視線は定まらない。輪郭をぼやかすように、部屋全体を見るようにする。自分という存在を折りたたみ、蹲るように時間をやり過ごす。そんなイメージ。学生時代もよく使っていた手だった。
「俺さ、白状すると人の気持ちとか全然分かんない人なんだよね」
ツバサは言う。
「だから、まりあさんが今どんなことを感じているかも全然分からない」
そうだろうね。
「俺さ、人の気持ちとか分からないんだよね。まりあさんもそうでしょ」
否定できない。
「国語の読解でさ、「○○の気持ちを答えなさい。」みたいな問題あるじゃん、あれ子どもながらに絶対嘘じゃんって思ってた。百歩ゆずって作者本人が作ってんのならわかるよ。作者が言うのならそうなんだろうから。でもあれ作ってるの教師とか塾講じゃん、赤の他人じゃん、じゃあわかるわけねえだろって何が句読点含めて40字以内で答えなさいだよバカ教師とか塾講の分際でとかずっと思ってた。なんか本当にどうでもよくて他人の気持ちとかが。今出てった女とかも正直ほんとどうでもよくて。すぐそこで交通事故で死んでもああそうなんだなレベル。まりあさんもそうでしょ、俺のことも職場の同僚のことも社会全体皆見下してんだろ、自分の事特別だ他人とは違うとか感じてんだろ、そういうのって、分かるんだよ割と。よく言われない? 「若く見える」、って。特に女に。それ褒められてねーからな。「言動が年齢不相応で洗練されてなくて幼稚ですね」、って意味。女特有の迂遠な悪口だよ。社会にも出てない年下に指摘されるくらいだし分かりやすいんだよ。まーでも年季が入ってるだけあるよ年増は。色々試せてほんと良かったわ、大学の女よりは肌荒れてるけど。ははは」
っざけんなよクソガキ、と怒鳴ろうとしてツバサが昔のあたしと同じ感じをしていることに気が付いた、視線に光がともっておらず空洞で、言葉には中身がなく、何処までもうつろで。なにもない。録音した自分の声を聴いているみたいだった。身体の奥の方からじわじわと蝕むような嫌な汗が出る。冬なのに。
「てか何? 俺? 俺が悪いの? アプリで会った男に期待なんてするなよ、賞味期限切れ寸前のおばさん試食してやったんだから感謝して欲しいくらいだわこっちが。勉強しろとか医学部に入れとかちゃんとしろとか親父や姉ちゃんに毎日繰り返し叩き込まれたけどそんなことよりも人との関わり方とか教えて欲しかったわ。マジどうでもいいんだもん他人のことが。適切な距離感とか話しちゃいけない事とか普通にそんな考えて生きるの無理だって。おかしな人間は何やっても無意味。無価値、つうか凡人の努力とか本当に意味ないからやめた方がいいマジで擬態して生きるのとか不可能だから……」
わかったわかった。わかったよ、もうきみには怒る気にもなれません。勝手にやっていてください。
「こんなときだけど、お風呂借りて良い?」
変な汗を流したくてしょうがなかった。
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