第24話 視点3-6

 

 激しい動悸がする。足元がふらつく。初めて失恋した時みたいに、胸の奥の方がきつく絞った雑巾みたいにぎゅっと締め付けられ戻らない。ざらついた唇の端の方を歯で何度も噛んでしまい出血する。うまくいかないことばかりだ、ここ十何年かくらいずっと。こうなったのは誰のせいだっけあたしのせい? そもそもどうしてこんな事態になっているのだっけ少し前は元に戻る道も可能性もまだあった気がする。どこからならやり直せそうだったのだっけ。もう何もかも分からない。子どもの頃から何をやるにしてもママに否定されパパに口出しされた。そそっかしい子どもの頃から何かにつけ怒られることが多く、ママはあたしを叱る前は必ず「なんで怒られるかわかる?」と訊いた。それが分からないから怒られるのだろうと思うけれど、怒られる理由が自動的に+1されるのだと思うと憂鬱で仕方なかった。何をしても否定するのならそんなに気に食わないのならどうして生んだんだよ。あたしは考え方そのものがひねくれてるらしい。何をやっても駄目だ。昔からずっとそう生まれてきたことが失敗。



 あいつらが悪い。そうだ、全ての元凶はあいつらだあいつらが全てワルイ。子どもの頃からずっと苦しかった今の苦しみも子どもの頃の延長線にある気がする。だからあの親たちが悪い悪い悪い悪い。 



「金! 金出せ、お前らのカスみたいな教育方針のせいで人生失敗した! 全部お前らが悪い! あたしの時間を返せ、人生を返せ、金出せ!」


 狭くなった昔の実家に虚しく響き渡る声は、酷く幼稚で、滑稽で、凡そ自分の咽喉から発せられたものと思えなかった。幼稚園児のお遊戯や小学生の学芸会ですらもう少しまともな演技をするだろう。



「ついに我が家にも闇バイトがやって来たぞ! お嬢ちゃんどこの子? ああ、結構年いってるねえ、ダメよちゃんと真面目に働かないと」


 リビングでママは笑い転げた。


「うるっせぇ! 台無しになったあたしの人生を返せ、ふざけるなぁ」


 テーブルの上に置かれていた花瓶を壁へ投げつけると砕けその部分だけ壁紙が黒くなった。


「あんたね、いい加減にしなさいよ。あんたみたいな痛い子ども精神おばさん養うだけの余裕なんてもううちにはないのよ。大体ね、失敗失敗言ってるけど人生失敗したのあんただけだと思ってんの」


 ママは溜息をつき、卓上のPCに向き直ったかと思えば、


「あんたみたいなさ、学歴とプライドだけは無駄にある無能が実社会で一番使えないんだよね。まず契約取れよ契約」 


 と急に言い放った。脈絡のない言葉に面食らってると母親は机を書類でどんどん叩きながら、

 

「言っとくけどあんた本当使えないから。大学は英会話サークルで留学経験もあって英検は何級で……とかマジでどうでもいいからさ。契約取れないならここにいる意味ないし存在意義皆無の無価値人間だから。会社全体に迷惑かけてるのわかってる? 口だけ? なあ口だけか。行動で示してほしいよね。取り敢えず本日中に業務報告書作ってわたしに提出、営業の進捗状況も帰る前に毎日わたしにメール送って。言っとくけどこれでもまだ甘い方だからわたし、あなたの将来のためを思って言ってるのよ。来月もノルマ未達だったら本格的に追い込むから。そうなったらもう会社辞めて地元の学習塾で中学生にbe動詞でも教えてた方がいいよ。そうだよ、そっちのがよっぽど有意義だよあんたの人生……」


 キャリアウーマン時代のことを思い出しているのだろうか。ママの前にはあたしではなく、心療内科通いになったり退職に追い込まれたりしたのであろうかつての部下の女性がいるはずだ。この人もある意味では、想い出のむかしばなしの中に生きているんだ。そう思ったらなんだかとても悲しくなってきてしまった。


「お母さんもう少し声を小さく……。なんだ、いよな……。帰ってたのか」


 もう就寝していたらしいパパがひどくゆっくりとスライド式の扉を空けのろのろとリビングに入ってくる。父親というか、もう老人だった。昔の祖父ですらこんなにやつれてはいなかったかもしれない。


「また痩せたか? ちゃんと食べてるのか。結婚はしないのか」


 あたしは俯き、「そんな風に見える?」と言った。ママはまだ幻の部下に小言をぶつけていた。


 数年前に定年を迎え、マンションの管理人の仕事をしながら細々と暮らしているという。オラオラ系の営業マンの面影はなく、若者に優しい老人と言った風だ。すっかり弱った親に金の無心をする気もうせて帰ろうとすると、「せっかくだから泊っていきなさい」と言われ、子供部屋に入った……。


 全ての時間が止まっていた。家を出た時から。


 読みかけの下らない青春小説の文庫本には誰かと撮ったプリクラが栞代わりに挟まっており、CDケースの中には当時熱中していたアニメのサントラがめちゃくちゃに突っ込まれており、受験の参考書や資格試験のテキストは色褪せて積み重なった山になって固まっている。片付けるのが苦手なくせに物が捨てられないのだ。プリントの束やアルバムを掻き分けながら手書きの日記を探り当て、乾燥したページを繰り始めると胸が苦しくなり、「誰々とカラオケに行った、楽しかった」みたいな、十年以上も前の自分のなんてことない言葉と向き合うのが辛くなり声も出さずに蹲って泣いた。眠れない。



 翌朝、朝食を食べていたらママに封筒を差し出され、中を見ると半年分の家賃を払っても余るだけの額とスーパーの割引のクーポンが奥の方にぎゅうぎゅうづめになっていた。顔を上げて何かを言おうとする前に、


「もう来ないで。静かに暮らしたいの」


 と言われ、あたしは頭を下げた。パパはまだ寝ていたがその方がいいなと思った。玄関へ向かう前にもう一度深く頭を下げた。


 それが感謝だったのか、謝罪だったのかは、よくわからない。



 

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