第2章 桜狩りの花嫁行列

 喧噪が続く都のあちこちで、豊穣を寿ぐ大祭の声がさらに大きくなっていく。そのさなか、もうひとつの行事が近づいているという話が人々の間で囁かれはじめた。呼び名は桜狩りの花嫁行列。もともとは里ごとに細々と続いていた古風な儀式らしいが、この都では祭典の華やかさに合わせて大がかりな形で執り行われる。千華はその存在を以前からなんとなく耳にしていたものの、詳しい内容についてはほとんど知らない。誰に問うても「白無垢を纏った花嫁が桜を背景にして練り歩く行事」くらいの答えしか返ってこず、その由来や目的、あるいは意味深な伝承はぼんやりと煙に巻かれてしまう。ところが、今年の花嫁行列については、妙に不穏な噂が絡んでいるようだった。


 大祭が始まって二日目の朝、屋敷の中庭で行き交う使用人の話し声を聞いていると、どうやら桜狩りの花嫁行列は今夜にも行われるらしいという情報が入ってくる。桜はまだ満開とは言えないが、都の外れのほうでは早咲きの桜がちらほらと花をつけはじめているらしい。その花を摘み取り、花嫁とともに都の中心部まで運ぶ——そういう儀式らしく、古い風習ゆえに不可解な手順が多いらしい。花嫁役は、ある家柄の娘が務めるという話もあれば、逆にくじ引きで選ばれると聞く者もいて、情報が錯綜している。何が正しくて何が間違いなのかも分からないが、いずれにせよ古風な儀式であり、いつの頃からか「花嫁が桜を狩るとき、その魂は一度死者の国を往く」などという、半ば怪談めいた言い伝えもあるようだ。


 千華は昨夜の恐ろしい出来事の後遺症でまだ頭が重く、寝不足の体に鞭打ちながら朝の身支度を進める。自分の胸を締めつけるような不安はどこから来るのか、それすらはっきりしない。あの血塗られた巫女の面の少女は今どこにいるのか。あるいは、本当にこの世界に存在したのか。夢とも現実とも区別がつかないまま、濃密な悪夢の記憶と現実の不安が混ざり合い、気力が湧かない。とはいえ、朔家の令嬢として祭りの来訪客をもてなす立場にいる限り、気弱な顔を見せるわけにもいかない。どうにか笑みを取り繕い、客人と会話を交わしながら午前をやり過ごすが、内心では押し寄せる不穏さを拭えずにいる。


 そんな中、昼過ぎに屋敷を訪れたある商人から、奇妙な話を聞かされた。桜狩りの花嫁行列の一環として、大きな“棺”を運ぶというのだ。しかもそれは供物の一部として用意されるらしい。「棺の中身は花嫁が摘んだ桜の枝を収めるためのものだとか聞いたが、さすがに不気味だよなあ。死人でも入れるのかと思っちまう」と、その商人は呆れ顔で笑っていた。千華は思わず眉をひそめる。桜を運ぶのに棺を使うなど、聞いたことがない。しかも供物と称してわざわざ運び出すのは、あまり良い前兆とは思えない。何か別の目的があるのではないかと、胸騒ぎが募る。


 夕方になると、街角に出てみても、その花嫁行列の噂が方々で飛び交っているのが分かった。日の落ちる頃合いに都の北側から出発し、花嫁が連れてくる従者や神職、音楽役が都の中央を通って、やがて王宮近くにある古い神域で式を挙げるという。桜の枝とともに棺を運び、白無垢を纏った花嫁が神域で“ある祈り”を捧げる。祈りの後、行列に参加した者たちは夜が明ける前に解散するらしい。行列は限られたもののため、一般人は自由に見物できるのかどうかも定かでない。千華が人々の会話に耳を澄ませる限り、「神聖な儀式だから下手に干渉はできぬ」「それでも花嫁姿は見物だ」「現代でそんなものが行われるなんて古臭い」などと、興味本位で見物したがる者や、逆に怖がって避ける者など、反応はさまざまだった。


 夜が近づくにつれ、千華の心は落ち着かなくなる。結局、昨夜から続く行方不明者の話題も絶えず、一方では桜狩りの花嫁行列が行われる。どこかで不吉な予感が膨らみ、同時に何か大きな出来事が起こるのではないかという虫の知らせもある。誰もが祭りの最中で浮き立っているはずなのに、どこかにぴりぴりとした不安の影があるのを感じるのは千華だけではないかもしれない。こういう時こそ、朔家の役割として冷静であらねばならないが、自分の方が一番冷静さを欠いている気がしてならない。池の悪夢、巫女の面が焼き付いた瞼の裏、そして古い伝承。すべてが頭の中を渦巻いていて整理がつかない。


 その日の宵、街はまたしても夜祭に彩られ、拍子木や太鼓の響きがどこからともなく聞こえてくる。千華は屋敷の門前で客を見送り、ようやく一息ついたところだった。すると、見慣れぬ女中が小走りで近づいてくる。「お嬢様、今夜の花嫁行列のご案内が届いております。朔家にも正式なお誘いがあるとのことですが、いかがいたしましょう?」と問いかける。聞けば、朔家として儀式の一端を見守り、祝詞を捧げる立場の者が必要という話らしい。古くは大商家や貴族がこぞって参加したらしいが、今では形式的に招かれる程度のことなので、断るわけにもいかない。千華は父や兄が不在であるため、代わりに自分が顔を出すのかどうか躊躇するが、屋敷の都合から見ても参加は避けられないようだ。「分かりました。行列が始まる前に、私が向かいます」と答えると、女中は安堵の表情を浮かべ、そそくさと下がっていった。


 そうしていると、やがて夜気をともなう風が吹き抜け、どこからかふわりと桜の香りが運ばれてきた。都の北の外れからせり出す山沿いに、早咲きの桜があるという話は先ほども耳にしたが、ここまで香りが漂ってくるものだろうか。千華はほんの少しだけ意外に思う。だが、祭りの夜に桜の香りが混じるというのは、何やら神秘的な気配も帯びていて、同時に言いようのない不安をかき立てる。もし今宵、あの花嫁行列の場で何かが起こるとしたら、自分はその渦中に巻き込まれるのではないか——そんな予感がよぎる。


 花嫁行列は深夜近くに始まると聞いていたが、都の外れに先回りして準備を整えるらしく、関係者はすでに出発しているという。千華はやや遅れてしまわぬよう、簡素な外出着に着替え、護衛役を一人伴って都の北区へ向かった。街道は昼間とは違い、屋台の閉まった道や人気の少ない場所が混在しており、ところどころに提灯の灯りが頼りない光を投げかけている。行列が実施される場所としては、都の賑わいの中心部からだいぶ外れた寂しい地域。古くからこのあたりには農地や雑木林が多く、今の時期は夜に足を踏み入れるだけでも不気味だ。


 現場に近づくと、桜の木が闇の中に立ち並び、風に揺れる小枝から花びらがひらひらと舞い落ちる光景が目に入る。月明かりが薄い今夜、地面にはぼんやりとした桜色の屑が積もり、その上を踏むと柔らかい感触がした。じっと目を凝らせば、白や淡紅色の花が闇に浮かび上がるようにも見える。しんと静まり返った木立の合間に、一部の人々が行列の準備をしている姿が照明の下で映し出されていた。花嫁役なのだろうか、一人の娘が白無垢をまとって椅子に座っている。その周囲では神職風の装束を着た人物や、音曲を担当するであろう芸人らしき集団が打ち合わせをしている。夜の闇と桜の淡い色彩が入り混じった光景は、一見すると幻想的にも映るが、千華の胸には一抹の暗い予感が広がるばかりだった。


 近づいて挨拶を交わすと、行列の取り仕切り役をしているらしき老人が一礼し、「ようこそ。今宵は朔家の方にもご参列いただけるとは、光栄の至りです」と言葉をかける。顔は穏やかだが、その声には奇妙な湿り気があった。老人は簡単に式の流れを説明した後、「どうぞ遠慮なく、行列を見守っていただきたい。花嫁が桜を狩り、その供物を神域へ運ぶ。それこそが春の訪れを象徴する大切な行いゆえ」と続ける。千華は違和感を覚えながらも笑みを返す。老人の黒々とした眼差しはどこか底知れない洞察力を湛えており、まるで千華の心の奥まで見透かされているようだ。


 ふと花嫁の姿に目をやる。まだ若い娘のようで、うつむきがちに微動だにせず座っている。顔には軽く白粉が施され、唇には控えめな紅を引いているが、その表情はまるで生気が感じられないほどに沈んでいた。白無垢の袖には桜の模様が刺繍されており、夜の暗がりに溶け込むような薄白い生地が印象的だ。その裾のあたりには、すでに何本かの桜の小枝が置かれていた。誰が摘んだのだろうか。それともこれから花嫁が自ら狩るのだろうか。周囲の空気は厳粛といえば聞こえはいいが、どこか張り詰めた不吉さをはらんでいる。


 準備が進み、しばし待っていると、もう一台の大きな荷車が奥からやってきた。見れば、その荷車には大きな棺のような箱が積まれている。二人がかりで持ち上げてもかなり重そうに見える。表面には神聖な文様を刻んだ飾りが施されており、金具がきらりと鈍く光っていた。老齢の男が慣れた手つきでそれを点検しているのが分かるが、横から見てもどう見ても葬儀で使う棺にしか思えない。あまりに禍々しい光景で、千華は息を呑む。行列でこれを運ぶのだという。聞きかじった噂にあった「桜の枝を納める棺」というのは、まったく冗談ではなかったらしい。


 程なくして、花嫁役の娘が静かに立ち上がる。周囲の者たちが合図し、音曲係の男たちが笛や太鼓の準備を始める。行列の先頭に、神職の衣をまとった人物が立ち、その後ろに花嫁が続く。棺は荷車に乗せたまま数名で押しながら行列に加わるようだ。千華はそうした動きを見ながら、「これが本当に桜を狩るだけの儀式なのか?」と疑問が膨らんで仕方ない。花嫁の表情は憔悴しきっており、このまま一晩中行列を進めて本当に大丈夫なのかすら危惧してしまう。


 さらに不気味なことに、花嫁の傍らに控える侍女のような女性が小声で何か囁いているのが見えたが、その言葉が苦しげに聞こえ、時折花嫁の肩が小さく震えている。もしかして、これはただの古式ゆかしい行列などではなく、もっと陰惨な意味があるのではないか。人身御供の伝承など、まさか関係していないだろうか——千華の脳裏には、血に染まる池の光景がちらつく。あの光景と今ここで目にしている花嫁行列が、どこかで繋がっているなら……。いつか祖母が言っていた「この都には古くから人を捧げる儀式があった」という言葉を思い出し、背中に寒気が走った。


 やがて、笛の甲高い音が静寂を破る。行列が進み出す合図だ。神職の男が先頭を務め、その後ろに花嫁、侍女、そして棺を押す者たちが続く。さらに音曲係や、何人かの護衛が周囲に散っている。千華も朔家の立場上、後方から行列を見守る形で参加することになった。夜風が桜の花びらをさらい、白無垢をまとう花嫁の肩にかかった花がはらりと落ちる。夜空には月が霞んでおり、提灯や松明の灯りが頼りない光を周囲に投げかけている。歩みはゆっくりと重く、まるで儀式そのものが死者の道をたどるかのように感じられた。


 しばらく薄暗い桜並木を進むと、先頭の神職が立ち止まる。「さあ、ここで桜を狩りましょう」と低い声で宣言し、花嫁に小さな鎌のようなものを手渡す。花嫁はふらふらとした足取りで近くの桜の枝へ向かい、そっと鎌をあてがって花のついた枝を一房切り取った。その切り口から、暗い闇にまぎれた樹液がぽたりと落ちる。まるで血のように見えて、千華は思わず目を逸らした。花嫁は切り取った桜の枝を両手で抱えると、それを待ち構えていた侍女が手際よく布に包む。その一連の動作がとても無機質で、悲しみや喜びといった感情がまったく感じられないのが逆に不安を誘う。


 桜を狩る動作を数回繰り返し、包みがいくつかできあがると、それらは厳重に棺の中へ納められた。金具がカチリと音を立てて締まり、棺の蓋がふたたび固定される。すると、行列の人々が一斉にかすかな嘆息ともつかない呼吸を漏らした。続いて笛が再び鳴り、次の地点へと歩みを進める。どうやら、この夜のうちにいくつかの場所で桜の枝を切り取り、全てを棺に収めた後、最終的に都の中心へ向かうという段取りのようだ。桜狩り……そう呼ぶにはあまりにも陰鬱な空気がまとわりついている。


 さらに気味が悪いのは、ときおり棺から小さく軋むような音が聞こえる気がすることだった。夜の闇のせいで聞き違いかもしれないが、あの重々しい蓋の内側で、何かが動いているのではないか。千華は耳をすませるが、笛や足音にかき消され、はっきりとは捉えられない。だが、不安をかき立てられるには十分だった。花嫁はあいかわらず青白い表情で、鎌を持つ手がかすかに震えている。侍女がそっと肩を支え、歩みを進めさせる。彼女は断ることなく、いや、断ることすら頭にない様子で、ただ言われるままに足を進めているようだ。ちょうど地を這うように吹き抜ける夜風が、桜吹雪とともにその白無垢の裾をなびかせ、まるで幽鬼が漂うように見えた。


 そして、次の桜が生い茂る小さな空き地で二度目の枝を狩ったときだった。不意に花嫁の体がぐらりと揺れ、支えきれなくなった侍女が声を上げる。「だ、大丈夫ですか?」。見ると花嫁は顔面蒼白で、その場にしゃがみ込んでしまった。神職が慌てて駆け寄り、侍女とともに支え起こすが、どうも意識が混濁している様子だ。周囲がざわつきはじめ、数人があわてて水を持ってこようとする。しかし、花嫁が鎌を握ったままの手は強張り、まるで何かに抗っているかのようだ。笛の音は中断され、行列が異様な静寂に包まれる。


 ところが、その瞬間だった。棺を押していた男たちから悲鳴が上がる。「おい、何だこの音……!」。見ると、棺が小刻みに震えているように見えた。まるで内部から誰かが叩いているような、そんな振動が伝わってくるというのだ。金具がギリギリときしみ、まさか蓋が外れるのではないかと慌てた男たちが手で抑える。千華も思わず息を呑む。まるで亡者でも納められているかのような、この異様な光景。花嫁が倒れたのと同時に棺が揺れたという事実が、不吉すぎて言葉も出ない。周囲の人々が目を見合わせ、ただ怯えに似た表情を浮かべるだけ。


 かと思えば、程なく棺の揺れは止まった。行列の面々は全身に冷や汗をかきつつ、押し黙っている。神職はやや動揺しながらも、「花嫁が、少し過労のようだ。しばし休ませねばならぬ」と声を張り上げる。侍女たちが花嫁を木陰へ運び、息を落ち着かせようとしている。一方、棺を押していた男たちは震える手で棺を改め、金具が緩んでいないか確かめている。千華はその光景を見つめながら、胸の鼓動を抑えきれない。どうして棺が動いた? ただの空箱ではないのか? まさか桜の枝だけでそんな衝撃を生むわけもない。では、中に本当に何か、あるいは“誰か”が入っているのか。理不尽なほどの恐怖感が込み上げてくる。


 ひとまず花嫁が少し休んだ後、儀式を続けるかどうかを取り仕切り役が検討するという。千華は危険を覚悟の上で神職に近づき、「花嫁は大丈夫なのでしょうか。無理をさせない方がいいのでは」と問いかけてみた。すると神職は険しい表情で、「この儀式は今宵を逃せば意味がありません。花嫁には気の毒ですが、彼女は選ばれた身。仕方のないことです」と言い放つ。その言い分に理不尽さを覚えながらも、古来の儀式というなら否定もできず、言葉を失う。だが、その横顔には何か追い詰められたような焦燥すら感じられ、千華はただならぬ事情があるのかもしれないと察する。


 やがて、侍女の介抱を受けた花嫁は再び意識を取り戻し、自ら歩くと宣言した。彼女の瞳は先ほどよりもなお一層暗く、深い闇を宿しているように見える。鎌を持つ手は微かに震えていたが、意地のようにそれを放さない。それを見て、神職は笛を再度鳴らす合図をし、行列が再出発した。さきほどまでのざわめきが嘘のように、皆が無言で歩を進め、桜を狩る動作だけを淡々とこなす。棺の揺れが再び起きるのではと身構えていたが、その後しばらくは何事も起きない。むしろ、行列全体が萎縮したような空気に包まれ、笛の音すらしんと冷たく響くばかりだった。


 月夜は深まり、ようやく都の中心部に近づいてきた頃、遠くから太鼓や歓声が聞こえてくる。祭りの真っ只中で、夜の賑わいを楽しむ人々の声が風に乗って運ばれてくるのだ。だが、この行列の一団はその喧騒からあたかも隔絶されているかのように、音もなく街角を曲がり、人気のない裏道を通り抜けている。人目を避けるような経路に疑問を抱きつつも、千華はついて行くしかない。白い花嫁の背中を見つめながら、この儀式がいったい何を目的にしているのかを考えてみるが、はっきりとした答えは出ない。ただ、途中すれ違う者がいれば、その奇妙な行列に目を丸くして道を開けてくれる。中には「あれが花嫁行列か」と口にする者もいるが、すぐにおそるおそる視線を逸らす。その光景は、まるで死の行軍に遭遇したかのような不穏さを漂わせているのだろう。


 やがて行列は都のほぼ中央に位置する、古い門の前で立ち止まる。ここから先は王宮に繋がる区域というよりも、むしろ昔から神域と呼ばれてきた場所だ。今はだいぶ荒れ果て、普段はほとんど人が立ち入らない。大きな石造りの鳥居が半ば倒れかけ、雑草が生い茂る参道が奥へと続いている。そこで神職が振り返り、儀式の最終段階であることを宣言する。「今宵、花嫁はここで最後の桜狩りを行い、その枝を棺に納める。そうしてすべてが完了すれば、夜明け前に神前に桜を供え、行列は解散となる。」あくまで淡々とした口調に、周囲の者たちは深くうなずく。花嫁は足取りもままならぬように見えるが、その手に鎌を握りしめたまま、決然と前を見る。その先には朽ちかけた桜の巨木が見えた。枝ぶりは勢いを失っているが、ところどころに咲く花は闇夜でも目立つほど白く、あるいは淡い紅を帯びている。


 花嫁が一歩踏み出す。と、その瞬間、さきほどから静まり返っていた棺がまた小さく音を立てた。そこに気づいたのは千華と、棺を押す数名だけかもしれない。弱々しいが確かな衝撃が手に伝わるのか、押している男たちの顔が再び強張る。あるいは中に何かの意思が残っているのだろうか。ぞっとする思いで千華は棺を見つめる。金具に触れる人々の手が震え、思わず声を漏らす者も。そんな中、花嫁の姿はまるで操り人形のように進み、巨木の幹に手をついて小枝を探る。引き裂かれそうな静寂のなか、夜風が花びらを揺らし、白無垢の袖を撫でていく。


 鎌の刃が木に触れると、ひどく鋭い金属音がした。ガリッという不快な音だ。普通の桜の枝を切るには、不相応なほどの力を込めているようにも見える。やがてポキリと枝が折れ、花嫁はそれを抱きかかえるように胸元へ引き寄せる。仄かな桜の匂いが漂い、あたりには淡い花弁が散る。長い沈黙が流れた後、花嫁は振り返って棺のほうを見つめた。侍女が手早く布を広げ、桜の枝を包むが、その際にほんのわずかな血のような液体が花嫁の手の甲に滲んでいるのが見えた。桜の樹液かもしれないが、闇夜では生々しく赤黒く見える。


 次の瞬間、花嫁の体が激しく震え、さきほどより大きな衝撃で崩れ落ちそうになった。侍女や周囲の者が慌てて支えようと駆け寄るが、彼女の口から苦しげなうめき声が漏れている。どうやら鎌で手を傷つけたかもしれない。だが、それだけではない。見ると、花嫁の瞳に焦点が合わず、まるで何かに取り憑かれたような苦悶の表情を浮かべている。そのあたりに漂う空気が、ぐっと冷え込んだように感じられた。花嫁はうわ言のように何かを呟き、それは言葉にならない音として空気を震わせる。


 すると、棺から明確な打撃音が響いた。ドン! まるで蓋を内側から叩いているような大きな音。思わず千華は目を見開く。強い衝撃に、荷車の車輪がきしんで一瞬浮き上がるほどだ。男たちが必死に抑えようとしても、棺は内部から何かの力で揺さぶられているかのようにガタガタと震え続ける。「開けろ! 中に誰かいるのではないか!」と声を上げる者もいるが、神職は必死にそれを制止する。「駄目だ、これは儀式の最中……開くなど、許されない……!」。だが、あまりに強い揺れにどうしたらいいか分からず、現場は混乱する。


 その一方で、花嫁は荒い呼吸を繰り返しながら地面に膝をつき、鎌を取り落とす。侍女が慌てて声をかけるも、まともな返事が返ってこない。棺の激しい振動、花嫁の様子、周囲には得体の知れない寒気が満ちてきた。誰かが「助けを呼んでこい!」と叫ぶのとほぼ同時に、カタリと棺の金具が外れる音がした。男たちが押さえていたはずなのに、蓋の一部がわずかに浮いている。そこから染み出すようにして濃い桜の香りが立ち上り、混じるようにして何か鉄臭いような嫌な気配が広がる。気づいた神職が必死に手を伸ばし、蓋を押し戻そうとするが、今度は中から何かに掴まれたかのように腕を引かれているのか、思わず悲鳴を上げて尻餅をついた。


 千華は半ば朦朧としながらも、その光景を目撃する。棺の隙間から覗く暗闇の奥に、白い指のようなものが一瞬見えた気がした。人間のものなのか、それとも別の存在か。理解が追いつかない。鳥肌が立ち、心臓が喉元まで競り上がるような感覚に襲われる。周囲の人々も恐怖と混乱で声にならない悲鳴を上げ始め、誰かは後ずさりし、誰かは神職を助けようとする。しかし棺が発する不気味な衝撃が激しく、近づくことすらままならない。


 そのとき、花嫁が突然、大きく目を見開いた。まるで呼吸が途切れたかのように止まり、唇だけがかすかに動いている。侍女たちが必死に彼女を支えようとするも、花嫁の顔は薄暗い月明かりの下で死人のように見えた。次の瞬間、彼女の口からしわがれた声が響く。「死者は……連れ去られる……桜を狩るは……己を狩ること……」などと、意味不明な断片をつぶやき、頭をぐらりと傾けると同時に何かを吐き出した。それは血のようにも見えたが、同時に花びらのようなものが混じっているようにも見えた。周囲の侍女が悲鳴を上げ、それを受け止めようとするが、耐えきれず手が震える。


 一方、棺の揺れはいよいよ最高潮に達し、金具が完全に外れそうな勢いだ。神職は声を張り上げて制止の言葉を何度も繰り返すが、それを聞いている余裕のある者はほとんどいない。千華自身、目の前で繰り広げられる怪異に足がすくみ、意識が遠のきそうなほどだ。棺のすき間からは再び白い手のようなものが伸び、かと思えばすぐに引っ込む。その動きが何を意味しているのか、ここに何が封じ込められているのか、一切分からない。ただ、そこには人ならざる執念のようなものが渦巻いているのは確かだった。


 やがて、あまりの動揺に誰も止められなくなり、棺の蓋が半ば弾けるように浮き上がった。その一瞬、宵闇の中に白と赤が入り混じる不気味な姿が見えた気がする。花嫁が挙げた叫びとも悲鳴ともつかない声が、木立を揺らした。同時にふわりと散った桜の花びらが、棺の周囲を渦巻くように踊り、地面へ落ちる。まるでこの空間だけが異界の入り口にでも繋がっているかのように、時間がねじれているような感覚に捕らわれる。千華は恐怖で体が硬直し、何かに突き動かされるまま後ずさった。


 しかし、蓋が完全に吹き飛ぶことはなかった。不意に棺の動きが弱まり、内部で何かがうめき声を上げるような気配が消えていく。まるで急に力を失ったかのように、棺の揺れもぴたりと止んだ。周囲の者たちが恐る恐る様子を確かめると、金具こそ外れかけているが、かろうじて蓋は閉じたままでとどまっていた。しかし、その瞬間をもって行列は完全に崩壊した。神職や侍女たちは花嫁を抱え、荷車を押していた男たちは腰を抜かさんばかりに震えながら、混乱のまま立ち尽くすしかない。ここから先、儀式を続けるどころではない雰囲気だ。どこかで誰かが「救護を呼べ!」と叫ぶ声が聞こえるが、皆が半ば恐慌状態に陥っている。


 千華は咄嗟に駆け寄り、血を吐いてぐったりとした花嫁の顔を覗き込んだ。どうにも意識が朦朧としており、まともに返事は返ってこない。汗の混じった白粉が頬を伝い、唇の端にはまだ赤黒いものがこびりついている。まるで何かを吐き出すときに、花嫁の内側から“桜”が引きずり出されたような異様な光景に、千華は言葉を失う。傍らの侍女が震え声でつぶやく。「……死者が……死者が混ざっているんです……」その言葉の意味を問いただそうにも、周囲は混沌としていて聞き返す余裕がない。


 やがて夜が明けないうちに、行列の参加者たちは四散するように退散した。誰もが棺を触ることを嫌い、最終的には神職と数名の男がやむなく棺を再び荷車に固定する形で撤退していく。花嫁は侍女たちに支えられて一刻も早く介抱しなければならず、儀式どころではない。結局、最後の桜狩りは中途半端な形で終わり、棺の中に何があるかを確かめることすらできなかった。あの異常な揺れと、まるで内側から叩くような衝撃は一体何だったのか。誰もが口を閉ざし、神職ですら答えを持っていないようだった。


 千華は朔家へ戻る途中、あの瞬間を思い返しながら震えが止まらなかった。花嫁行列に死者が混ざっている、あるいは棺の中に死者が入っているのではないかという疑惑が、都にまた新たな怪談をもたらすのは時間の問題だろう。そして、実際にこの目で見た光景からすれば、怪談どころか現実に怨霊のようなものが動いているようにしか思えない。なぜこんな儀式が平然と行われているのか、そして朔家としても無視できないほど深い歴史があるのか。千華はとにかく、この奇妙な儀式が何を意味するのかを探らずにはいられなくなった。


 翌朝、夜通し眠れなかったまま、まだ薄暗い時刻に屋敷の書庫へ向かった。そこには朔家が昔から保管している古文書が山ほどあり、ふだんはほとんど誰も開かない書物の数々が眠っている。千華は祠や巫女の伝承を調べるために数度ここを訪れたことがあるが、花嫁行列についての資料を探すのは初めてだった。埃をかぶった棚を片端から探り、古めかしい巻物や記録を引っ張り出しては、一心不乱にページをめくる。眠気は二の次だ。とにかく昨夜の光景が脳裏を離れない。棺が揺れたときの衝撃、花嫁が倒れた瞬間の苦しそうな顔、それらが目をつぶるたびにフラッシュバックする。


 しばらく経って、ようやく花嫁行列に関係がありそうな古い書物を見つけた。表紙に「桜狩祭儀考」と記されており、明らかにそれらしき内容を含んでいる。ページをめくると、崩し字でびっしりと書き綴られていて読みづらいが、ところどころに血染めの桜を描いた挿絵が挟まれている。どうにも不穏な気配を感じ、千華はごくりと唾を飲み込んだ。ざっと読み進めると、古くは「桜狩り」は豊作祈願の一環として行われていたが、ある時期を境に祭儀の意味が変質したらしい。どこからともなく「桜を狩るとき、同時に死者を狩り集める」という伝承が混ざり、花嫁行列として体裁が変わっていった——そんな記述が垣間見える。


 さらに興味深い一文が目を引いた。「桜狩りは死者の名を記した札を枝に結び、封じるための儀式に転じ、最終的には花嫁を生贄として捧げる人身御供へ変質したとも伝わる。白無垢は単なる婚礼衣装ではなく、黄泉へ下る装束を示す……」といった内容。読んでいて血の気が引く。まさに昨夜目にした光景にリンクするようで、背筋に冷たいものが走る。あの血塗れの巫女の面が見せた悪夢と、この桜狩りの伝承は繋がっているのかもしれない。人身御供とはまさに都で囁かれる“不吉な儀式”の代名詞だ。そもそも巫女を生贄に捧げる話は、昔々に廃れたはずではなかったのか。それがなぜ、現代に形を変えて続いているのか。


 さらに読み進めると、こんな記述もあった。「桜は血と結ばれるとき、黄泉の境を超える。そのとき花嫁は生けるまま死者の世界を覗き見、また死者を連れ戻すという。時に、その花嫁自体が黄泉へ連れ去られることもある」。まるで花嫁が死者を呼び寄せ、あるいは死者の側に引きずり込まれるようなイメージだ。棺に死者を封じ込めているのだろうか。それならば昨夜のように、棺が内側から叩かれたのも合点がいく。すべては“花嫁が死者を狩り、それを棺に納める”という一連の儀式の一部だとすれば、その死者たちは安らかに眠るわけではなく、むしろ生けるものに取り憑こうとしているのかもしれない。そんな想像に行き当たると、震えが増すばかりだ。


 続けて探しているうちに、別の古文書の端に「桜狩りは、都が血の呪いを沈めるための裏儀式である。生贄を捧げることで都の繁栄を確保し、怨霊を封印する。桜はその象徴として……」と書かれた断片を見つけた。まさに人身御供そのものを匂わせる。千華は息を詰めてページをめくるが、そこから先は紙が破れ、真実には辿り着けない。あまりに都合よく切り取られたように思え、誰かが意図的に隠したのだろうかと疑いすら抱く。いずれにせよ、花嫁行列がただの行事ではなく、都の底に潜む呪いや怨霊の封印に関わる重大な儀式である可能性が高まった。昨夜の棺の異常といい、花嫁が倒れた理由といい、それらが死者を巡る何かによって引き起こされたのなら納得がいく。


 書庫の薄暗い明かりの中、千華は荒い呼吸を抑えつつ、立ち上がって深く息を吐いた。自分が巻き込まれつつある出来事は、想像以上に根深い。表向きは華やかな祭りの都で、裏ではこうした不穏な儀式がいまだ行われている。しかも、その真の目的は都のための生贄……。だが、それがなぜ今になってこれほど色濃く蘇ってきたのか。しかも、千華自身も最近、血塗れの巫女と邂逅している。もしかすると、都のどこかで封印が緩み始めているのではないかという恐ろしい推測が頭に浮かぶ。一度疑念を抱くと、すべてが繋がってしまうかのような、陰惨な糸が見えてくるのだ。


 疲労と恐怖で立っているのも辛くなり、千華は書物をそっと閉じて書庫を出た。廊下を歩くと、朝の光が薄く差し込んでおり、朔家の使用人たちが掃除や準備で忙しく立ち働いている。見慣れた日常の風景が、なぜか遠い世界のように思える。あまりに深い闇を目の当たりにしたとき、日常とはこれほど無力なのか。花嫁行列で棺が揺れ、あの瞬間に確かに感じた死者の気配は紛れもない事実であり、血と桜に絡む儀式の本質を暴かなければ、いずれもっと大きな惨事を招くのではないか。そんな焦りばかりが胸を焦がし、どうしたらよいのか分からない。頼れるはずの家族や周囲に相談しても、信じてもらえるかどうかすら疑わしい。下手をすれば昔ながらのしきたりを守る重鎮たちから、余計な詮索を戒められるかもしれない。


 思考が先走りして足がもつれそうになりながらも、千華は自分にできることを考える。まずは花嫁の安否を確かめたい。昨夜倒れていたあの娘は無事だったのか、あるいは大きな怪我や取り返しのつかない障りを受けてはいないか。次に、棺の中身だ。何が本当に入っているのか、それが明らかになれば少しは解決に近づくかもしれない。さらには、桜狩り自体が「死者を集める儀式」という記述を裏付ける話がないか、さらに詳しく調べる必要がある。巫女の面が示す血の契約という言葉と、この桜の儀式にどういう繋がりがあるのかは、まだ分からない。どこかに手がかりが必ずあるはずだ。


 それにしても、古文書に記されていた言葉がどうにも忘れられない。「黄泉へ下る花嫁」「狩り集められる死者」「人身御供としての巫女」——すべてを結ぶ線は、都の歴史そのものに隠されていそうだ。誰が、いつ、なぜこの儀式をはじめ、今に至るまで途絶えず密かに受け継いでいるのか。そんなことを考えていると、自分の存在が小さく思えて、背筋に冷たい汗が流れる。だが、恐れてばかりはいられない。昨夜目にした光景を、そのままなかったことにするのは到底無理だ。勇気を出して一歩踏み出し、都の闇を暴く覚悟を決めなくてはならないのかもしれない。


 午後になっても、花嫁行列で起きた出来事は早くも都の噂となり、あちこちで取り沙汰されていた。「行列の真っ最中に棺が揺れ、内部から音がした」「花嫁が血を吐いた」「死者が交じっている」という噂が怪談じみた形で広がり、人々の恐怖と好奇心を煽っている。一方で、表向きは「花嫁の体調が優れなかっただけで、棺の揺れは単なる運搬時の不具合」と説明しようとする声もある。しかし、現場にいた千華からすれば、そんな言い訳では到底納得できない惨状だった。都は今、華やかな大祭の真っ最中にもかかわらず、深い不安の影を引きずっているように見える。昨日までは熱狂していた人々の一部が、どこか怯えた表情で街を歩いているのを見かけると、その予感はますます強まる。


 朔家に戻った千華は、居ても立ってもいられず、もう一度書庫に足を運ぼうかと考えた。だが、その前に別の可能性を思いつく。もしかすると王宮に仕える者や王家の古い記録の中に、桜狩りの行列について詳しい資料が残っているかもしれない。朔家の書庫だけでは情報が不十分だ。だが、王宮関係の書類は簡単に閲覧できるものではない。許可を得るには手続きが必要だし、今は祭りの最中で役人も忙しい。どう動くのが得策か頭を巡らせていると、門外で来客を告げる声が聞こえた。何事かと応対に出たところ、相手は朝方にも話題になった行方不明者の捜索にあたる役人だった。昨夜の花嫁行列に関わることで、話を聞きたいというのだ。千華は思わず顔を引きつらせる。もし神職や関係者が何かを隠蔽しようとしているなら、利用されるかもしれない。ここは慎重に言葉を選ばねばならないだろう。


 そうして足早に向かった客間で待っていたのは、中年の役人と若い従者の二名だった。中年のほうは苦い顔をしながら、「正直に言いますと、昨夜の行列について噂があまりに飛び交っていて、上からの命令で事実確認をしろと言われているのです。都内で相次ぐ失踪事件と何か関係があるのでは、と半ば強引に勘繰る者もいて……」と切り出した。千華は観たままを話すべきか迷ったが、あまりに真実をそのまま伝えれば「戯言」と笑われるか、あるいは騒ぎを大きくした張本人扱いされる可能性すらある。恐る恐る、棺が揺れたことや花嫁が倒れたことについてできる限り曖昧に話したが、中年の役人は額に深いしわを寄せて唸るばかり。最後には「王宮としては、問題を大きくしたくない。あくまで伝統行事の一環という説明で通すつもりだ」とだけ言い残して、早々に退散してしまった。


 その姿を見送った後、千華は思わずため息をつく。王家側が問題を隠蔽する気なら、公にはどうしようもなくなる。花嫁行列の真実や、その背後にある呪いが闇に葬られる可能性が高い。そうなれば、いつか本当に大きな惨事が起きたとき手遅れになるかもしれない。人々が失踪し、神殿が荒らされ、桜や棺が不気味に揺れているのに、誰も本気で向き合おうとしない。現実から目を逸らしているうちに、血の呪いがこの都を覆い尽くしてしまうのではないか——そんな恐怖に駆られながら、千華は夕方から夜へ移り変わる景色をぼんやりと眺めていた。


 ふと、脳裏にある考えが浮かぶ。桜狩りの花嫁行列が「死者を狩る儀式」だとすれば、あの血塗れの巫女の面をつけた少女も、もしかすると死者の側に属する存在ではないのか。あのとき池から現れた姿が、実は黄泉へ繋がる門を超えてきたのなら……。自分は“血を契りし巫女の末裔”などと囁かれたが、それがどうして花嫁や棺に関わってくるのか。何かしらの鍵となるのが自分の血だという暗示めいた言葉が、頭から離れない。下手をすれば、次に狩られるのは自分なのではないかとさえ思ってしまうほど、理不尽な運命の気配が迫っている。


 それでも、ここでただ怯えているわけにはいかない。千華は決意を固める。まずは行方不明になった人たちについて調べ、桜狩りの行列と関連しているかを探ろう。そして、もし可能ならば棺の所在や中身についてもう一度確かめる機会を持ちたい。あれほどの怪異を起こした棺なら、王家や神職の者たちが注意深く保管するはずだ。そこに近づくのは容易ではないが、朔家の名を使えば何かしらの手段はあるかもしれない。自分の身を守るためにも、都のためにも、真実を掴む必要がある。


 夜の帳が落ち、遠くから宵祭の太鼓や笛の音が聞こえる。人々の大半は依然として祭りを満喫しているに違いない。だがその裏側で、怪談めいた噂が濃密になり、怯える声を潜める人も増えているだろう。桜狩りの花嫁が倒れ、棺が亡者のごとく揺れ動いたことは間違いなく都の闇を呼び覚ます引き金だった。これまで隠されていた古い血塗られた伝承が、いままさに表に顔を出そうとしている——そんな気がしてならない。あの巫女の面と桜、そして血の契約が結びついたとき、いったい何が起こるのか。


 瞼を閉じれば、昨夜の恐怖がまざまざと蘇る。白無垢を纏う花嫁が桜を狩るさま、そして棺の蓋を内側から叩く衝撃。その延長線上に、必ず自分が見るはずの光景がある。あの血染めの池が暗示した未来か、あるいは救済か。どちらともつかないが、確実に言えるのは、何一つ解決していないということ。むしろ、さらなる暗雲が広がりはじめている。千華は高ぶる鼓動を抑えつつ、部屋の障子を閉め、冷えた夜気を遮断した。内側には熱と恐怖が混じり合っているが、少しでも落ち着いて次の手を考えなければならない。桜狩りが意味する死と生の境界。その先に、都が抱える秘められた闇があるのだろう。


 朝を迎えれば、また新たな日が始まり、祭りは変わらぬ喧騒を続ける。その陽気さに紛れて、多くの人が花嫁行列の怪異を噂話として消費し、そのまま日常へ帰っていくかもしれない。けれど、千華の心には深く突き刺さった棺の衝撃と花嫁の絶叫が簡単に消えるはずもない。これはほんの始まりなのだと感じる。血塗られた池の記憶が呼び水となり、桜狩りの花嫁行列が死者を連れ戻す扉を開けた。もし本当に都が長年隠してきた怨霊や呪いの封印が緩み始めているのなら、近い将来、もっと大きな悲劇が訪れるだろう。曖昧に目を背ける余地はない。そう、千華の胸ははっきりと警鐘を打ち鳴らしている。


 薄明かりの中で、ふと机の上に置き去りにしていた古文書に視線が行く。桜の挿絵がこちらを見つめているかのように歪んだ筆遣いで描かれ、その花びらが血を吸って赤黒く染まる様が怖ろしい。それはまるで「真実を知れ」と迫るかのようだ。千華は小さく唇を引き結び、そっとページを閉じる。昨夜の行列が作った波紋は、間違いなく都の深部へと広がっていく。それはもう誰にも止められないほど大きな渦となるかもしれない。——死者の棺が再び音を立てるとき、花嫁は再び倒れ、血と桜の狭間でこの都の運命が揺れ動く。自分は、その流れに巻き込まれながらも、きっと抗い続けるしかない。血の契約が明らかになるとき、朔家の令嬢としての責務も、逃れられない宿命も、すべてを引き受ける覚悟が求められるだろう。そう、ここで終わる話ではないのだと、強く自分に言い聞かせるしかなかった。

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